どん底へ
ふと思い出すのは、いつも同じ光景だった。
それは失意に沈む人々の顔。そこにいるのは家族を、あるいは友を、あるいは恋人を、そして帰る場所を失った者達だった。
彼らはある日、突如として日常を奪われたのだ。
エリックはそんな人達の中にいた。
奇妙な事に、彼には記憶がなかった。
故郷でどの様に暮らしていたのかも、自分の好物も、親の顔すらも憶えていない。
残っている記憶は自分の名前と、何処かの施設にいたという事だけだ。
それがどのような施設だったのかは分からないし、今となっては知りようもない。
彼には失う思い出が何もなかった。
だからなのだろう、同じ被害者の立場であるにも関わらず、どこか他人事のような感覚を抱いている。
立場としては彼らと同じだが、その心までは理解できないのだ。
だがこれが悲惨な出来事である事は分かっていた。見過ごす事ができないものである事は分かっていた。
だからエリックはこう思ったのだ。この悲劇を起こした元凶を排除したいと。
しかし小さな子どもである彼にそんな力はない。
何かを変えるには、エリックはあまりにもちっぽけな存在だ。
彼には無力感に苛まれたまま、その場に座り込む事しかできなかった。
「そんな所で、一人で何をしてるんだ?」
そんな時だった。憤るエリックに、1人の少年が声をかけてきたのだ。
歳はエリックと同じくらいだろう。紺色の髪、青い瞳、整った顔立ちをした理知的な少年だ。
エリックにはその少年がとても奇妙に思えた。
異質な空気を纏っていると言うべきか、雑多な人々が行き交うこの場所でも、一際目を惹く存在感を放っている。
その正体が闘気である事は、この時のエリックには知る由もなかった。
無意識の内に彼の発する闘気を感じ取っていたのだ。
「俺と同じくらいの子どもを預かる事になったって、父さんが言ってたんだが、もしかしてお前がそうか? 名前はエリックというらしいんだが……」
自分を引き受けてくれる家庭が見つかったと、そんな話を聞かされていたのをエリックは思い出した。
おそらく彼はその家の子どもだろう。
「うん、確かにそれは俺の名前だ」
「そうか。なんというか……災難だったな。これから一緒に暮らす事になるんだ、困った事があれば言えよ」
言葉をつまらせながらも、彼はそう言った。
そこらの子どもと比べても理知的で大人びた少年だが、この状況でどう言葉をかけるべきか、それが上手く見つけ出せなかったのだ。
「……ありがとう、でも俺は大丈夫。強がりじゃないよ」
エリックは無理に笑顔を作ってそう言った。
そしてまたすぐに、他の避難民達の方へ顔を向けた。
「――ただ、悲しむ人達の顔を見るのは、ちょっと辛いかな」
少年は呆気に取られた顔でエリックを見つめていた。
故郷を失ったのは自分も同じ筈なのに、他人の事ばかり心配している。
心優しい少年だと思った。だがそれ以上に、とても不気味な少年だと思った。
「悲しくないのか? ほら……家族とかもいたんだろう?」
子ども一人で別の家庭に引き取られるという状況を考えれば、その時点でエリックの両親がどうなったのかは想像できる。
聞くべきか少し躊躇したが、彼はその疑問をエリックに投げかける事にした。
「両親の事はあまり憶えてないんだ。というより、そこでの暮らしも憶えてない。気がつけば、いつのまにか避難所にいた。
分かっている事は、俺の住んでいた町が黒の結晶のせいで滅んだ事と、エリック・アルデライトという、自分の名前くらいかな」
「は? なんだそれ?」
奇妙という他ない状況だ。そんな事がありえるのか?こいつは自分を騙そうとしているんじゃないか?当然、そんな疑問が頭をよぎる。
しかしわざわざそんな嘘をつく理由も見当たらない。ひとまず彼は、その話が本当の事だと仮定して飲み込んだ。
「……これからの生活が不安だとか、そんな事は思わないのか?」
「それはもちろん、思うよ。この街の人達は、俺達を受け入れてくれるだろうか?」
「それは正直言って、難しいだろうな」
彼はピシャリとそう答えた。
エリックは思わず少年の顔を見た。そこには奸悪や侮蔑の感情は見られない。ただありのままに事実を述べたという様子だった。
「ここにだって、ここの人達の暮らしがあるんだ。そこに余所者が大量に雪崩れ込んできたら、よく思わない人は多いだろう」
「それじゃあ……君も、俺が来て迷惑、だったかな?」
エリックが恐る恐るそう尋ねた。
少年は困ったような顔になりながら、指で頬をかいてこう答えた。
「思う事がない訳じゃない。けど、俺の両親はこう教えてくれた。俺達は人と人との繋がりの中で生きてる。繋がりの中で生かされてるんだ。だから助け合わなくちゃならない、それが義務なんだ……ってな」
立派な親だろう?そう言わんばかりの自慢げな顔で、少年はエリックに微笑みかけた。
「俺も、それが正しい考えだと思う。だから文句なんてないさ。それにうちは裕福だし、俺は強いからな。助ける側に回るのは当たり前だ。しってるか? こういうのをノブレスオブリージュっていうんだ」
自分でも知らぬうちに、エリックはその場から立ち上がっていた。
この少年がとても眩しく見えたのだ。彼はエリックが持っていないものを多く持っている。
他者を思いやり、他者を助けようとする高潔な精神……
いや、正確にはエリックもそれを持っている。だが思っているだけだ。それを実行する為の力を身につける術や、確固たる自信は備わっていない。それが彼との大きな違いだ。
自分と変わらない年頃の子どもの筈なのに。
エリックには、彼が堪らなく羨ましく思えた。
「……俺も、強くなりたいな」
「なら気導師になれよ。強くなるには、それを目指すのが一番だ」
「気導師か……」
エリックは手を前に突き出し、グッと拳を握った。
しかし何も起こらない。当然だ、一朝一夕で身につけられるものではない。
「俺になれるかな?」
エリックは握りしめた拳を見つめたまま、そう呟いた。
「さあな、それはお前の頑張り次第だ」
少年はさらりとそう答えた。
励ましの言葉ではない。しかし「お前にはなれない」と、そう否定されなかった事が、エリックには嬉しかった。
「……俺は勇者リヒトの子孫だ。だから先祖の意思を継ぐためにも、俺は必ず黒の結晶を根絶させる!」
「お前は?気導師になって何がしたいんだ?」と、少年はエリックにそう問うた。
悩むまでもない、エリックの答えは既に決まっている。
「俺も同じだ!もう二度と、こんな悲劇は起こらないようにしたい!」
「そうか……なら気導師になったら、俺の事を手伝ってくれよ。助け合い、だろ?」
少年がエリックに手を差し出した。
エリックは笑顔でその手を取ろうとした。しかし手と手が触れる寸前に停止し、何かを考え込むように眉根を寄せた。
「……そういえば、名前を聞いてなかったな」
「そうだったっけ?」
少年は腰に手を当て、改めてエリックの正面に向き直してこう言った。
「アラン・フルーガーだ。よろしくな」
彼の顔と共に、景色が霞となって消えた。
――目を覚ましたのだ。
(夢か……それとも、これが走馬灯ってやつなのか)
何も見えない。一切の光もない暗闇の中で、エリックは冷たい地面に這いつくばっていた。
肉体が徐々に骸へと変わりつつあるのだろう。大量の血が流れ抜け、体から熱を失っていくのを感じる。
(俺は死ぬのか……こんなところで……)
この仕事を続けている以上、危険な場所に赴く事もあれば、悪質な気導師や凶暴な怪物と戦う事だってある。それらに敗れれば、命を失う結果にもなるだろう。
それがエリックの選んだ道だ。こうなることは覚悟していたつもりだった。
だがこれは違う。この死に方は間違っている。エリックは心からそう思った。
仲間に裏切られて殺されるなど、そんな事は受け入れられない。
だが事実として、彼はこの場で死にかけている。
自力で脱出する力はもう残っていない。助けも期待できないだろう。
なにせ今この洞窟内にいる人間は、自分を殺そうとした者達だけなのだから。生還は絶望的だ。
(ミナ……アラン、二人はそこまで俺が許せなかったのか? 殺したい程憎かったのか?)
友達だと思っていた。互いに助け合う関係でありたかった。
だからこそ彼らと共に並び立つに相応しい実力を得ようと、その為に今まで努力してきたのだ。
そしてその成果は証明できたつもりだった。ミナの手助けはあれど、黒の結晶をこの手にしたのだから。
しかし結果はこの様だ。エリックの思いは、それそのものが的外れだったのかもしれない。一人で勝手に思い上がっていただけなのかもしれない。
なんにせよ、彼らの真意を知る術はもうないだろう。
(悔しいなぁ……)
迫り来る死に抵抗する事も叶わない。ただ終わりが来るのを待つのみだ。
絶望の中、エリックは静かに目を閉じた。
『――無様だなぁ、エリック』
エリックの閉じていた瞼が開く。誰もいる筈のないこの場所で、何者かの声が聞こえたからだ。
あの四人のものでもなければ、当然ながら自分のものでもない。聞いた事のない声だ。
しかし視界は相変わらず真っ暗である。誰かがいる気配もない。
幻聴か……?そう心の中で呟いた瞬間、その声は再び頭の中に響き渡った。
『そうやって地べたに這いつくばっている様など、まるで虫ケラだな。実にみっともない』
聞いているだけで不快になるような、嘲笑う声が頭の中でこだまする。
幻聴ではない。周囲には誰もいないが、そいつは確かに存在している。
死の淵に立たされているのを忘れる程に、気味の悪いものが腹の中から込み上げてくる。
エリックは理解した。そいつは外ではなく、エリックの中にいたのだ。
「誰……なんだ?」
『誰かだと? 今更それを口にするとは、やはりお前は阿呆だな』
弱々しく掠れた声で問うエリックに対し、その存在は小馬鹿にするような口調でそう答えた。
いったい何処で、いつ、何故こうなったのか……
エリックは自分の中にいる存在の正体、そしてこうなった原因についてを考えた。
しかしいくら考えても答えは出ない。
その口ぶりからして以前からエリックの中にいたようだが、エリック自身がそれに気付いたのはたった今だ。分かる筈もなかった。
何にせよ、そんな思考にもはや意味はないのかもしれない。エリックの命は今にも尽きようとしているのだから。
『どんな気分だ?仲間だと思っていた者に裏切られ、暗闇の中で一人惨めに死んでいくというのは』
意地の悪い声だ。苦しみ死に行く人間を見て、心の底から愉悦を抱いているのが分かる。
出会って間もないが、エリックは確信した。自分の中にいるこの存在は邪悪であると。
「偉そうに言ってるが、そっちはどうなんだ? 俺の中に居座っている以上、俺が死ねばお前も死ぬんじゃないのか?」
『確かにそうだな。今の俺は貴様の肉体に縛り付けられている状態だ。貴様が死ねば俺も道連れになるだろう。だが俺にとって今この場での死は大した問題にはならない。同じ立場だと思うな』
例え共倒れになったとしても、自分だけは助かる術を持っているという事だろうか。
存在そのものが未知である為、エリックにはその言葉の真偽は分からない。しかしその余裕からして、おそらく本当なのだろうという事は推測できる。
だとすれば、死ねない理由が増えた。
こいつを解き放つ訳にはいかない。それを許してしまえば、何か恐ろしい事が起こってしまう……
依然としてその正体は不明だが、こいつからはそう直感させられる何かがあった。
「リレイ……ジオ」
今にも消えてしまいそうな声で、エリックがそう唱えた。
治癒の気言だ。傷ついた身体を癒し、回復させる効果を持つ。
『随分と足掻くじゃないか。だがその傷の深さ、貴様程度の気言では到底治しきれまい』
事実その通りだった。エリックの未熟な気言では、どれだけ試そうが焼け石に水にしかならない。
しかしそれでもやるしかなかった。何もやらなければ終わるだけだ。
『無駄だと分かっていても、というやつか。健気なものだ。だがお前は運がいい、せいぜい俺の存在に感謝するんだな。おかげで最悪の結果は避けられる』
「どういう、事だ……?」
『助けてやると言っているんだ。多少は時間がかかるが、俺ならその傷も完全に治すことができる』
さっきまであれほど愚弄していたというのに。
突如として打って変わった態度に、エリックは目を丸くした。
「……断る。お前が何者なのかは分からない。だがお前が邪悪だということだけは分かる。今まで出会った中で誰よりも嫌な感じだ、お前の思い通りにはさせない」
『このままでは死ぬだけだと言うのにか? どこまでも愚かだな貴様は。それに一つ勘違いをしてるようだ』
「なに……ッ!?」
瞬間、様子が一変した。全身を冷たいものが這い回り、胸の奥が締め付けられる。まるで心臓を直接握られているかのようだ。
例えるなら、今までは鉄格子を隔てて会話しているようなものだった。語りかける事はできても、エリックに危害を加える事はできない。
だが今は違う。明らかに何らかの干渉を受けている。
『貴様の意思など関係ない。今の貴様に、俺を抑えられるだけの力があると思っているのか?』
洞窟の暗闇よりも更に暗い闇が、エリックの意志を蝕んでいく。
このままではまずい!こいつの好きにさせてはならない!そう訴えかけるように、頭の中で警報が鳴り響く。しかし抗う事はできない。
そしてついに、エリックの意識は完全に途切れた。




