第8話 いつもどおりコーヒーを出しただけなのに、裏社会の会議の予約が始まっていました
朝、店の扉を開けると、六人がそろって立っていた。
朝霧透は、思わず時計を見た。
午前八時二十分。
開店時間には、まだ十分ある。
「……皆さん、早いですね」
銀髪の男――《王冠》が静かにうなずいた。
「昨日は世話になった」
「いえいえ。休めたならよかったです」
透は笑って、店の鍵を開けた。
昨日は六人に休むよう勧めた。
そして今日、彼らは全員そろって店に来た。
それだけのことだ。
透にとっては、それだけのことだった。
しかし、六人にとっては違った。
《王冠》は、昨日の一日を思い返していた。
何の任務もない時間。
誰かを警戒する必要もなく、誰かを排除する必要もない時間。
ただ歩き、食べ、話した。
それが、どれほど得難いものだったのか。
彼は、昨日になって初めて理解した。
「マスター」
《黒百合》が口を開く。
「今日は何か指示がある?」
「指示?」
「ええ」
「特にないですよ。いつもどおりで」
透はエプロンを身につけながら答えた。
「好きな席で、好きなものを飲んでください」
六人は沈黙した。
いつもどおり。
つまり、昨日の休日を特別なものとして切り離すのではなく、今日もまた、ここにいていいということ。
休むことを許しただけではない。
戻ってくる場所まで、変わらず用意してくれている。
《葬送》は、わずかに目を伏せた。
「……ありがたい話だ」
「え? コーヒーのことですか?」
「いや」
「?」
透は首をかしげた。
まあ、いいか。
いつものことだった。
透は厨房へ向かった。
*
午前九時。
店には、いつもどおりの静かな時間が流れていた。
《王冠》は窓際の席で新聞を広げ、《黒百合》は紅茶を飲みながら店内を眺めている。
《葬送》は焼き菓子を一口ずつ丁寧に食べ、《道化師》はコーヒーに砂糖を何杯入れるべきかという、誰にも求められていない研究を続けていた。
《渡り烏》は窓の外を眺め、《零》はカップを両手で包んでいる。
平和だった。
少なくとも、店の中だけは。
そのころ、灰都の裏社会では、妙な噂が広がり始めていた。
――六人が、昨日一日、完全に姿を消した。
――その前日には、全員が同じ店に集まっていた。
――そして今日も、開店前から全員が店に戻っている。
偶然だと考える者もいた。
だが、六人の行動に偶然という言葉を当てはめる者は、あまりにも少なかった。
「何かが始まるんじゃないか?」
「いや、もう始まっているんだろう」
「問題は、誰が標的なのかだ」
根拠はなかった。
証拠もなかった。
ただ、恐ろしい六人が同じ場所に集まり続けている。
それだけで、十分すぎるほどの理由になっていた。
*
午前十時過ぎ。
店の扉が開いた。
カラン、とベルが鳴る。
入ってきたのは、黒いスーツを着た男だった。
年齢は三十代後半ほど。
整った身なりをしているが、顔色は悪い。
男は店内を見回した瞬間、足を止めた。
窓際に《王冠》。
その向かいに《黒百合》。
奥の席に《葬送》。
そして、残る三人。
全員がいる。
男の喉が、ごくりと鳴った。
彼は裏社会で、ある程度の地位を持つ組織の使者だった。
普段なら、どんな相手にも冷静に話ができる。
しかし、目の前の光景は想定外だった。
六人が一堂に会している。
しかも、全員がくつろいでいる。
これは何を意味するのか。
彼には分からなかった。
分からないからこそ、最悪の可能性を考えた。
「いらっしゃいませ」
厨房から透が顔を出した。
「お一人ですか?」
「……はい」
「どうぞ。空いている席へ」
男は一瞬、六人を見た。
それから、入り口に最も近い席へ向かった。
逃げ道を確保したかったわけではない。
決して、そうではない。
ただ、なんとなく、そこが一番安全そうに見えただけだった。
「ご注文は?」
「……コーヒーを」
「ホットでいいですか?」
「はい」
「かしこまりました」
透は何の疑問も持たず、厨房へ戻った。
男は背筋を伸ばしたまま、じっと座っていた。
六人は、男に話しかけない。
男も、六人に話しかけない。
店内には、カップを置く音だけが響いていた。
やがて、透がコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
「……ありがとうございます」
「ゆっくりしていってくださいね」
透は笑った。
その笑顔を見た男は、さらに緊張した。
この店の主人は、何も知らないような顔をしている。
だが、六人がここに集まっている以上、何も知らないはずがない。
――いや。
そう思いたいだけなのかもしれない。
男は自分の考えを打ち消した。
余計な推測は危険だ。
今日、自分がここへ来た目的は一つ。
所属する組織同士の衝突を避けるため、話し合いの場を求めること。
それだけだ。
男は懐から、一通の封筒を取り出した。
「あの……店主さん」
「はい?」
「実は、お願いがありまして」
「お願い?」
透は首をかしげた。
「こちらで、少し話し合いをさせていただくことは可能でしょうか」
「話し合いですか?」
「はい。できれば、穏便に」
透は少し考えた。
店の営業時間中に、大人数で騒がれるのは困る。
けれど、この男は一人だし、今のところ迷惑なこともしていない。
「まあ、ほかのお客様の迷惑にならない範囲なら、いいですよ」
男の目が見開かれた。
「……よろしいのですか?」
「もちろんです。ただ、物を壊したり、大声を出したりするのはやめてくださいね」
「承知しました!」
男は勢いよく頭を下げた。
透は少し驚いた。
「そ、そんなにかしこまらなくても……」
そのやり取りを、六人は黙って見ていた。
《道化師》が眼鏡を押し上げる。
「……なるほど」
小さくつぶやいた。
《黒百合》が視線だけで続きを促す。
「マスターは、相手の話を聞くことを拒まなかった」
「そうだな」と《王冠》。
「しかも、条件を明確にした。穏便に、他者に迷惑をかけずに、ということだ」
《渡り烏》が静かに言った。
「ここでは、力を振りかざすことは許されない。話し合いそのものに価値があるということだろう」
《葬送》は、コーヒーを飲みながら男を見た。
「……あの男、助かったな」
《零》が小さくうなずいた。
六人は、透が新たな客に対して示した態度を、店の理念として受け止めていた。
当の透は、そんなことなど一切考えていなかった。
ただ、店のルールを説明しただけである。
*
昼過ぎ。
黒いスーツの男は、コーヒーを飲み終えると、再び透のもとへやって来た。
「本日は、ありがとうございました」
「いえ。またどうぞ」
「……今後も、こちらを話し合いの場所としてお借りできればと思っております」
「え?」
透は少し困った。
常連になってくれるのはありがたい。
しかし、話し合いの場所として利用したいというのは、どういうことだろう。
「ええと、普通にコーヒーを飲みに来ていただく分には大歓迎ですよ」
「……承知しました」
男は深く頭を下げた。
その表情には、来店したときにはなかった安堵が浮かんでいた。
男が帰ったあと、《道化師》が口を開いた。
「マスター。今の人物は、何者だと思う?」
「さあ? ちょっと緊張している人でしたね」
「……そうか」
《道化師》は、それ以上何も言わなかった。
透はカップを片づけながら、ふと思った。
「でも、話し合いって大事ですよね」
六人の動きが止まった。
「相手の話を聞かないと、何が問題なのか分からないですし。最初から敵だって決めつけるのも、もったいないじゃないですか」
透は、洗い終えたカップを棚に戻した。
「まあ、うちは喫茶店ですから。お客さん同士が仲良くなってくれたら、それが一番ですけどね」
沈黙。
《王冠》が、ゆっくりとうなずいた。
「……肝に銘じよう」
「えっ、何をですか?」
「いや。こちらの話だ」
透は、ますます分からなくなった。
どうやら今日も、六人は何かを深く考えているらしい。
自分も少しは見習ったほうがいいのだろうか。
そんなことを考えながら、透は次のコーヒーを淹れ始めた。
*
その日の夕方。
黒いスーツの男は、所属する組織へ戻っていた。
報告を聞いた幹部たちは、誰もが険しい表情を浮かべていた。
「話し合いの場を認められたのか?」
「はい」
「条件は?」
「穏便に。他者に迷惑をかけないこと。それだけです」
幹部の一人が目を閉じた。
「……なるほど」
別の男が、低い声で言った。
「こちらが武力を持ち込めば、あの店の主人はそれを許さない。だが、話し合いならば受け入れる」
「つまり、争いを終わらせる機会を与えられたということか」
「そう考えるべきだろう」
誰もが真剣だった。
彼らはまだ知らない。
その店主が、裏社会の勢力図など知らず、ただ店の備品を壊されたくなかっただけだということを。
そして、同じころ。
CAFE 灯では、透が売上帳を眺めていた。
「うーん……今日はコーヒーがよく出たな」
六人は、それぞれの席で静かに過ごしている。
透は満足そうに笑った。
「やっぱり、平和が一番ですね」
その言葉を聞いた六人は、誰も否定しなかった。
ただ一つ違っていたのは。
透にとっての平和が、店内で誰も騒がず、コーヒーがおいしく飲めることだったのに対し。
裏社会にとっての平和は、六人が頭を下げる店の主人の意向に逆らわないことになりつつあった。
そして、朝霧透本人は。
その事実を、まだ何一つ知らなかった。




