第56話 旧礼拝堂で待っていた男
夜の街は、昼間とは別の顔をしていた。
CAFE 灯の看板を裏返し、私は店の鍵を確かめた。
いつもなら、閉店後には明日の仕込みを考える。
コーヒー豆の残量。野菜の仕入れ。新しいケーキの試作。
そんな、ごく普通のことを考えながら一日を終えるはずだった。
けれど、今夜は違う。
私はこれから、二十年前の事件の真相を知るために、旧礼拝堂へ向かう。
祖父が何をしたのか。
久瀬真一という男が、なぜ死ななければならなかったのか。
そして、祖父が最後まで守ろうとしたものは何だったのか。
まだ何一つ分かっていない。
「準備はいいか、店主」
背後から《王冠》の声がした。
「はい」
振り返ると、六人が揃っていた。
彼らはいつものように、私に頭を下げた。
けれど、今夜のそれは、いつもの挨拶とは違っていた。
これから何が起きても、私を一人にはしない。
そんな決意が、言葉の代わりに伝わってきた。
「本当に、全員で来るんですね」
「当然だ」
《王冠》は迷いなく答えた。
「手紙には、私一人で来いと書いてありましたけど」
「読んだ」
「証拠を燃やすとも」
「それも読んだ」
「……皆さん、意外と人の話を聞かないんですね」
思わずそう言うと、《道化師》が眼鏡を押し上げた。
「店主。それは我々に対する評価として、正確ではありません」
「そうですか?」
「我々は、必要な情報を精査したうえで、独自の判断を下しています」
「つまり、言うことを聞かないんですね」
「……否定は難しいですね」
《道化師》が小さく息を吐いた。
《葬送》が低く笑い、《黒百合》も口元を緩めた。
ほんの一瞬だけ、いつもの店の空気が戻ってきた気がした。
けれど、《渡り烏》が静かに口を開いたことで、私は再び現実に引き戻された。
「店主。今夜、何を見せられても、すぐに結論を出してはいけない」
「どうしてですか?」
「人は、長いあいだ信じてきたものを否定されると、反対のものを信じることで心を守ろうとするからだ」
老人は、私をまっすぐに見つめた。
「君の祖父が善人だったと信じているなら、今度は、祖父が悪人だったという言葉に飛びついてしまうかもしれない」
「……なるほど」
「真実は、そのどちらか一方とは限らない」
私は頷いた。
祖父を信じることと、祖父の行いをすべて正しいと考えることは違う。
そのことは、もう分かっているつもりだった。
「分かりました。ちゃんと、自分の目で確かめます」
《渡り烏》は、わずかに目を細めた。
「そう言ってくれるなら、我々も安心できる」
*
旧礼拝堂は、街の外れにあった。
かつては人々が祈りを捧げる場所だったのだろう。
しかし、今は長いあいだ使われていないらしい。
建物の外壁はところどころ剥がれ、蔦が窓枠を覆っていた。
屋根の一部は崩れ、入口の扉には古い錆が浮いている。
それでも、建物全体には、奇妙な存在感があった。
誰もいないはずなのに、誰かに見られているような感覚。
私たちが近づくと、入口の扉がゆっくりと開いた。
「来たか」
中から声がした。
黒いコートの男だった。
第54話でCAFE 灯を訪れ、祖父について語った男。
私に、祖父が誰かを見殺しにしたと告げた男。
そして、第55話で六人が語った過去の中心にいる、久瀬真一の死について知っている男。
男は私を見ると、静かに頷いた。
「本当に来るとは思わなかった」
「私が来るように呼び出したのは、あなたですよね?」
「そうだ」
「それなら、来るのは当然です」
男は、ほんの少しだけ笑った。
「君の祖父も、そういう人間だった」
また、その言葉だった。
私は少しだけ眉をひそめた。
「祖父の話をする前に、あなたのお名前を教えてください」
「名前か」
男は、しばらく黙っていた。
「今は、まだ言えない」
「またですか」
「すまないな」
「謝るくらいなら、教えてくれてもいいと思いますけど」
男は、初めて困ったような顔をした。
その様子を見て、《道化師》が小さく呟いた。
「……店主は、相手が誰であろうと変わりませんね」
「そうでしょうか?」
「ええ。裏社会の大物にも、謎の人物にも、同じ調子で接する」
「お客様ですから」
「……その理屈は、今夜も健在なのですね」
《道化師》は諦めたように首を振った。
男は、そんなやり取りを黙って見ていた。
やがて、彼は扉の内側へ身を引いた。
「入れ。ここで話そう」
*
礼拝堂の中には、古い木製の長椅子が並んでいた。
祭壇には埃が積もり、壁に掛けられた装飾品も、ほとんど原形を留めていない。
ただ、一つだけ。
祭壇の前に、小さな机が置かれていた。
その上に、古びた箱が一つ。
男は箱の隣に立ち、私たちを見回した。
「六人も連れてくるとはな」
「店主を一人で来させるわけにはいかない」
《王冠》が答えた。
「手紙の条件を破ったことは理解しているのか?」
「もちろんだ」
「ならば、証拠を燃やすと言った意味も理解しているはずだ」
「それでも来た」
《王冠》は、男から目を逸らさなかった。
「二十年前、我々は仲間の言葉を信じなかった。その結果、取り返しのつかないことになった。今度は、同じ過ちを繰り返さない」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
その目が、六人を順番に見た。
「少しは変わったようだな」
「何を知っている?」
《黒百合》が尋ねた。
「久瀬真一のことか。それとも、君たちが二十年間、知らずにいたことか」
「両方だ」
《王冠》が答えた。
「ならば、見てもらおう」
男は箱を開けた。
中には、数枚の写真と、折り畳まれた書類が入っていた。
私は、最初の写真を手に取った。
若い頃の祖父が写っていた。
今より髪が黒く、表情も少しだけ若い。
その隣には、久瀬真一と思われる男性が立っていた。
写真の中の久瀬は、六人が語っていたような、強そうな人物には見えなかった。
どこにでもいそうな、穏やかな顔をした男だった。
けれど、その目には、何かを決意した人間だけが持つ強さがあった。
「この写真は……」
「久瀬が亡くなる少し前に撮られたものだ」
男が答えた。
「君の祖父と、久瀬は親しかった」
「それなら、なぜ祖父は、久瀬さんを助けなかったんですか?」
私の問いに、男はすぐには答えなかった。
代わりに、別の写真を差し出した。
そこには、今度は礼拝堂の外観が写っていた。
建物は、現在よりもずっときれいだった。
入口の前には、数人の人影がある。
六人のうち、何人かはすぐに気づいたらしい。
《葬送》が、写真を覗き込んだ。
「……これは」
「二十年前、あの事件が起きた日の写真だ」
男は言った。
「君たちが久瀬を追って、この場所へ来る前に撮られたものだ」
《王冠》の顔が険しくなった。
「誰が撮った?」
「それを知ることも、今夜の目的の一つだ」
「質問に答えろ」
「答えられることと、まだ答えられないことがある」
男は、箱から一枚の書類を取り出した。
「君たちが知っているのは、久瀬が一人で現場へ向かい、君たちがあとから追いかけ、到着したときには間に合わなかったということだ」
「そうだ」
《王冠》が答えた。
「だが、君たちは本当に、現場で何が起きたのかをすべて見たのか?」
誰も答えなかった。
「久瀬が亡くなる直前、君たちは何を見た?」
男は、六人に問いかけた。
「誰がそこにいた?」
《葬送》が、苦しそうに目を閉じた。
「……俺たちは、久瀬を見つけたとき、すでに周囲に敵がいた。戦闘になった。全員を追い払うことが先だった」
「そうだろうな」
「だから、現場のすべてを確認できたわけじゃない」
《道化師》が続けた。
「我々は、久瀬の死を確認した。その後、現場に残された情報を集めようとした。しかし、すでに重要なものが失われていた」
「何が失われた?」
「分からない。だからこそ、我々は調べ続けてきた」
男は、静かに頷いた。
「それが、君たちの知らないことだ」
私は、書類に目を落とした。
古い紙には、日付らしきものが記されている。
しかし、文字の一部は滲み、ところどころ破れていた。
その下には、誰かの署名があった。
読み取れる部分は、わずかだった。
私は、書類を持ち上げた。
「これは何の書類ですか?」
「君の祖父に関わる記録だ」
「祖父が、久瀬さんを見殺しにした証拠ですか?」
「違う」
男は、はっきりと答えた。
六人が、一斉に顔を上げた。
「では、何なんですか?」
「君の祖父が、あの日に何を選んだのか。その一端を示すものだ」
私は、書類を見つめた。
「一端……」
「すべてを示すものではない。これだけで君の祖父を責めることも、正しい人間だったと証明することもできない」
男は、箱の中の書類を指で押さえた。
「だが、これを見れば、君たちは一つのことを理解するはずだ」
「何をだ?」
《王冠》が尋ねた。
男は、しばらく六人を見つめた。
「久瀬真一は、君たちが考えていたような理由だけで、あの場所へ向かったのではない」
礼拝堂に、沈黙が落ちた。
「どういう意味だ」
《葬送》の声が震えた。
「久瀬は、何を知っていた?」
「それは、次に話すことだ」
「ふざけるな!」
《葬送》が一歩踏み出した。
だが、《王冠》が片手を上げて制した。
「……続けろ」
男は、静かに頷いた。
「君たちが知らなかったのは、久瀬の行動の理由だけではない。君たちが到着する前に、ここで何が起きたのか。そのすべてを知る者は、もうほとんど残っていない」
男の視線が、私に向いた。
「そして、君の祖父は、その一部を知っていた」
私は、思わず息を呑んだ。
「祖父は、ここに来ていたんですか?」
「そうだ」
「久瀬さんが亡くなる前に?」
「……それについては、まだ答えられない」
「どうしてですか?」
「君が、次に何を知るべきなのか。それを間違えたくないからだ」
私は、眉をひそめた。
「また、知らないほうがいいという話ですか?」
「違う」
男は首を横に振った。
「君は、知るべきだ。ただし、断片だけを渡せば、君はその断片を真実だと思い込むかもしれない」
その言葉に、私は黙った。
確かに、そうかもしれない。
祖父が誰かを見殺しにした。
その言葉だけを聞けば、祖父が冷酷な人間だったと思うかもしれない。
けれど、祖父が何を知り、何を選び、何を守ろうとしたのかを知らなければ、本当の意味は分からない。
男は、箱の中から最後の封筒を取り出した。
他の書類とは違い、封筒は新しかった。
表面には、何も書かれていない。
「これは、君に渡すものだ」
「私に?」
「ああ」
私は、封筒を受け取った。
中には、折り畳まれた一枚の紙が入っていた。
開こうとしたとき、男が言った。
「今は、ここで開かないほうがいい」
「どうしてですか?」
「そこには、君自身に関わる記録がある」
私の手が止まった。
「……私の?」
「君の出生についてだ」
その瞬間、礼拝堂の空気が凍りついた。
《王冠》が、男を睨みつけた。
「何を言っている」
「聞こえたはずだ」
「透の出生が、久瀬の死とどう関係する?」
「それを知るために、君たちはここへ来たのだろう」
男は、私に視線を戻した。
「君の祖父は、君に何も話さなかった。だが、話さなかったことと、何も残さなかったことは違う」
私は、封筒を握りしめた。
祖父は、私の祖父だ。
そのことに疑いを持ったことなど、一度もなかった。
けれど、今、この男は私の出生について何かを知っていると言っている。
祖父が守ろうとしたもの。
久瀬真一の死。
二十年前の事件。
そして、私自身の出生。
それらが、どこかでつながっているのだろうか。
「……あなたは、何者なんですか?」
私は、もう一度尋ねた。
「久瀬さんを殺した人間だと、以前、そう言いましたよね」
男は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
「なら、なぜ今になって、私に真実を教えようとするんですか?」
男の顔から、笑みが消えた。
「それは……」
彼は、初めて言葉に詰まった。
長い沈黙のあと、男は祭壇の方へ目を向けた。
「二十年前、私は一つの約束をした」
「誰とですか?」
「君の祖父とだ」
私は息を止めた。
「祖父と、どんな約束を?」
男は、私を見た。
「君が、自分の足でここへ来る日まで、何も話さないという約束だ」
六人が、同時に顔を上げた。
「……何だと?」
《王冠》の声が、低く響いた。
男は、答えなかった。
代わりに、祭壇の下にある小さな引き出しを開けた。
そこには、もう一つの封筒が入っていた。
古びた紙。
見覚えのある筆跡。
私は、すぐに気づいた。
祖父の字だった。
男は、その封筒を私に差し出した。
「これは、君の祖父が私に預けたものだ」
私は、震える手で受け取った。
封筒の表には、短い言葉が書かれていた。
――透へ。
たった二文字。
それだけで、胸の奥が締めつけられた。
祖父は、私に何を伝えようとしていたのだろう。
なぜ、この男に預けたのだろう。
私は封筒を見つめた。
開けるべきだ。
そう思うのに、指が動かなかった。
「店主」
《王冠》が、静かに呼びかけた。
「無理に今、開く必要はない」
私は顔を上げた。
「……でも」
「君が知るべきことは、まだある。だが、君がどう受け止めるかは、君自身が決めることだ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
祖父の手紙は、今ここで開く。
ただし、その前に、一つだけ確認したいことがあった。
「あなたは、本当に久瀬真一さんを殺したんですか?」
男は、私を見つめた。
そして、答えた。
「……ああ」
その声には、迷いがなかった。
「だが、君たちが考えているような形で、あの男を殺したわけではない」
「どういう意味ですか?」
「その答えは、君の祖父の手紙に書かれているかもしれない」
男は、ゆっくりと一歩下がった。
「今夜は、ここまでだ」
「待ってください!」
私が呼び止めると、男は立ち止まった。
「まだ、何も分かっていません」
「そうだな」
「それなのに、どうして……」
「だからこそ、君自身が読む必要がある」
男は、扉へ向かった。
「朝霧透。君の祖父は、君を守るために、長いあいだ真実を隠してきた」
男は振り返った。
「だが、守られることと、真実を知らされないことは、同じではない」
その言葉を残し、男は礼拝堂を出ていった。
扉が閉まる。
私たちは、しばらく動けなかった。
手の中には、祖父からの封筒がある。
その中には、私の知らない過去が記されているのだろう。
久瀬真一の死について。
祖父が守ろうとしたものについて。
そして、私自身について。
私は、封筒の端に指をかけた。
けれど、開ける直前に、ふと思った。
もし、この中に書かれていることが、私の知っている人生を変えてしまうものだったら。
それでも、私は読むべきなのだろうか。
答えは、もう決まっていた。
私は、封筒を開いた。
中には、一枚の便箋と、古い写真が入っていた。
便箋の最初には、祖父らしい、少し癖のある文字でこう書かれていた。
――透へ。
――お前がこの手紙を読む日が来るとは、思っていなかった。
私は、息を呑んだ。
その先を読もうとしたとき。
《零》が、低い声で告げた。
「……誰か、来ます」
礼拝堂の外から、複数の足音が聞こえてきた。
《王冠》が、すぐに私の前へ出た。
《黒百合》が入口へ向かい、《葬送》は拳を握り、《道化師》は周囲を見回した。
《渡り烏》だけが、私の手にある写真を見つめていた。
その顔から、血の気が引いていく。
「……そんなはずはない」
「どうしたんですか?」
私が尋ねても、老人は答えなかった。
写真の中には、若い頃の祖父が写っていた。
その隣に、見知らぬ女性。
そして、女性が抱いている、小さな赤ん坊。
写真の裏には、祖父の字で、短い一文が記されていた。
――この子だけは、必ず守る。
私は、写真を握りしめた。
その赤ん坊が誰なのか。
なぜ祖父が、そこまでして守ろうとしたのか。
まだ、何も分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
祖父の秘密は、久瀬真一の死だけでは終わらない。
そして今夜、私は初めて、自分自身の過去と向き合うことになったのだ。




