第55話 六人の伝説が、初めて自分たちの罪を語る日
七脚目の椅子に座った男は、六人を見回していた。
黒いコートの裾が、古びた床に触れている。
その顔には、怒りも憎しみもなかった。
あるのは、長い年月をかけて磨り減った人間だけが持つ、奇妙な静けさだった。
「さあ。誰が久瀬真一を殺したのか、話してもらおうか」
男の問いに、誰も答えなかった。
No.1《王冠》は、男の目を見つめていた。
No.2《黒百合》は唇を引き結び、No.3《葬送》は拳を握りしめている。No.4《道化師》は眼鏡の奥で視線を伏せ、No.5《渡り烏》は七脚目の椅子を見つめていた。
No.6《零》だけが、男の指先をじっと観察していた。
六人は、裏社会で伝説と呼ばれている。
敵の組織を壊滅させ、数々の抗争を終わらせ、時には国さえ動かすほどの影響力を持つ者たち。
彼らを前にして、平然としていられる人間は多くない。
だが、今の六人は、目の前の男に何かを命じることすらできなかった。
彼らは知っていたからだ。
この男が口にした名前が、自分たちの人生を二十年間縛り続けてきたことを。
「……お前が、久瀬を殺したのか」
ようやく《王冠》が尋ねた。
「さっき、そう言ったはずだ」
「ならば、なぜ今になって現れた」
「聞きたいのか?」
男は薄く笑った。
「二十年前には聞かなかったくせに」
その言葉が、部屋の空気を切り裂いた。
《葬送》が一歩前に出る。
「俺たちは、あのとき……」
「言い訳をするな」
男は静かに遮った。
「お前たちは、あの男を信じなかった。あの男の言葉を聞かなかった。そして、あの男が死んだあと、自分たちが生き残るために都合のいい説明を選んだ」
「違う!」
《黒百合》の声が震えた。
「私たちは、彼を見捨てたことを忘れたことなんてない!」
「忘れていない?」
男は彼女を見た。
「では、なぜ今まで黙っていた」
誰も答えられなかった。
「久瀬真一は、もう戻らない。お前たちが何度後悔しようと、何人救おうと、あの日は変わらない」
男は椅子から立ち上がった。
「私は、あの日の真実を知っている。お前たちが知らないことも、知っている」
《王冠》の目が細くなった。
「何が目的だ」
「真実を、正しい場所に戻すことだ」
「復讐ではないのか」
「復讐?」
男は、初めて心からおかしそうに笑った。
「そんなものに、二十年も人生を費やせるほど、私は若くない」
彼は扉へ向かった。
「明日、もう一度来る。今度は、朝霧透にも話してもらおう」
六人の表情が一変した。
「待て。店主を巻き込むな」
《王冠》が低い声で告げる。
「もう巻き込まれている」
男は振り返らなかった。
「お前たちが頭を下げ続けてきた相手の孫だ。何も知らずに生きていられると思っていたのか?」
扉が閉まった。
残された六人は、長いあいだ動けなかった。
やがて、《渡り烏》が口を開いた。
「……もう、隠し通せないのだろうな」
誰も否定しなかった。
七脚目の椅子だけが、そこに残されていた。
*
翌朝。
俺は、店の入口に「本日、臨時休業」と書いた札を掛けた。
店を閉めるのは久しぶりだった。
けれど、今日は仕方がない。
昨日の夜、六人から連絡があった。
祖父のことについて、話さなければならないことがある、と。
俺も、聞かなければならないと思っていた。
祖父が誰かを見殺しにした。
その言葉が、頭から離れなかった。
あの祖父が。
困っている人を見過ごせず、金のない学生に食事を出し、疲れた客には黙って甘いものを添えていた、あの祖父が。
俺は祖父を信じている。
だが、祖父のすべてを知っているわけではない。
信じていることと、何もかも許すことは違う。
そのことを、昨日の男は俺に突きつけたのだ。
午前十時。
扉を三度叩く音がした。
「どうぞ」
六人が入ってきた。
いつもなら、彼らは揃って俺に頭を下げる。
今日もそうだった。
けれど、その動きには、いつも以上の重さがあった。
「おはようございます。皆さん、座ってください」
俺は奥の席を勧めた。
《王冠》が口を開く。
「店主。昨日、我々が話したことを覚えているか」
「祖父と、久瀬真一さんのことですよね」
六人の表情がわずかに動いた。
「……そうだ」
「今日は、全部話してくれるんですか?」
「話せることは、すべて話す」
《王冠》は、はっきりと答えた。
「ただし、我々にも分からないことがある。知っていることと、推測していることは分けて話そう」
「分かりました」
俺は頷いた。
「俺も、ちゃんと聞きます」
六人は席に着いた。
俺はコーヒーを淹れ、全員の前にカップを置いた。
《葬送》が、カップを見つめた。
「……店主。こんなときでも、コーヒーを出してくれるんだな」
「こんなときだからですよ」
俺は答えた。
「話をするにも、落ち着いたほうがいいでしょう?」
《葬送》は、何かを言おうとして口を閉じた。
《渡り烏》が、ゆっくりと目を伏せる。
「……本当に、あの方によく似ている」
「祖父にですか?」
「ああ」
老人は小さく頷いた。
「だからこそ、我々は君に話さなければならない」
*
「二十年前、我々には、もう一人仲間がいた」
《王冠》が話し始めた。
「久瀬真一。六人目ではない。七人目として、我々と行動を共にしていた男だ」
俺は、その名前を心の中で繰り返した。
久瀬真一。
昨日、黒いコートの男が残していった紙に書かれていた名前。
祖父が一生をかけて忘れようとした男。
そして、六人が今も背負っている過去の中心にいる人物。
「当時の我々は、今ほどの地位を持っていなかった」
《道化師》が続けた。
「若く、経験も浅く、自分たちの判断が正しいと信じて疑わなかった。命令に従うことと、正しいことをすることを、同じだと思っていたのです」
「久瀬は違った」
《黒百合》が言った。
「彼は、誰かが傷ついているのを見過ごせなかった。敵か味方かを問わず、怪我人がいれば手を貸した。自分に不利益があっても、誰かを助けることを選んだ」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「私たちは、そんな彼を甘いと思っていた」
「俺もそうだった」
《葬送》が言った。
「力がなければ何も守れない。情けをかければ、いつか自分が殺される。そう思っていたんだ」
《渡り烏》が静かに口を開く。
「だが、久瀬は、我々が失いかけていたものを持っていた。誰かを信じること。自分が間違っている可能性を認めること。そして、目の前の人間を、敵味方という区別だけで判断しないこと」
「……祖父も、同じような人だったんですか?」
俺が尋ねると、老人は頷いた。
「そうだ。久瀬は、君の祖父と知り合いだった」
祖父の姿が頭に浮かぶ。
厨房で鍋をかき混ぜる背中。
閉店後、カウンターでコーヒーを飲む横顔。
何かを尋ねても、すぐには答えず、少し考えてから話し始める癖。
祖父は、誰かの過去を無理に聞き出す人ではなかった。
それでも、誰かが苦しんでいるときには、見て見ぬふりができなかった。
「久瀬さんは、この店に来ていたんですか?」
「何度もな」
《渡り烏》は、店内を見回した。
「君の祖父は、我々を特別扱いしなかった。金がなければ、働いて返せと言った。腹が減っていれば食べさせた。悪いことをしたなら、次に何をするかを考えろと言った」
《王冠》が目を閉じた。
「我々は、祖父君から多くのものを受け取った。食事だけではない。自分たちの過ちから逃げずに生きるということを、教えられた」
「それなのに、どうして……」
俺は、言葉を止めた。
聞きたいことは山ほどあった。
なぜ久瀬真一は死んだのか。
祖父は、何をしたのか。
六人は、何を選んだのか。
だが、急かしてはいけないと思った。
彼らは今、自分たちの過去を語ろうとしている。
それがどれほど難しいことなのか、俺には想像することしかできない。
「ある日、我々は任務を与えられた」
《王冠》が再び口を開いた。
「組織を裏切ったとされる人物を追う任務だった。ところが、その人物を逃がそうとしているのが久瀬だという情報が入った」
「その情報を、確かめたんですか?」
俺は尋ねた。
《道化師》は、苦しそうに首を横に振った。
「十分には、できていませんでした。情報の出所を疑うべきだった。別の可能性を調べるべきだった。それなのに、我々は自分たちに都合のいい結論を選んだのです」
「久瀬は、何と言ったんですか?」
《黒百合》が答えた。
「彼は、私たちにこう言った」
――信じてくれ。
その一言だけだったという。
俺は、目の前の六人を見た。
「皆さんは、信じなかったんですね」
「ああ」
《王冠》は、逃げずに答えた。
「我々は、彼を信じなかった」
その声には、言い訳がなかった。
「久瀬は、一人で現場へ向かった。我々はあとから追ったが、間に合わなかった」
「……亡くなったんですか」
「そうだ」
《葬送》が、かすれた声で答えた。
「俺たちが着いたときには、もう……」
彼は、それ以上話せなかった。
長い沈黙が落ちた。
俺は、コーヒーの湯気を見つめた。
人が一人、死んだ。
それだけの言葉では、あまりにも簡単すぎる。
久瀬真一には、家族がいたのだろうか。
好きな食べ物はあったのだろうか。
明日も生きているつもりで、その日を迎えていたのだろうか。
俺は、彼の顔さえ知らない。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥が、ひどく重かった。
「祖父は、そのことを知っていたんですか?」
「ああ」
《渡り烏》が答えた。
「我々は、久瀬を失ったあと、この店に来た。君の祖父に、すべてを話した」
「そして、言い訳をした」
《道化師》が続けた。
「情報が足りなかった。敵の罠だった。判断する時間がなかった。そうするしかなかったのだと」
彼は、自嘲するように笑った。
「我々は、自分たちが間違っていたと認めるのが怖かったのです」
《渡り烏》が、祖父の言葉を口にした。
――お前たちは、あの男を救えなかったことを悔やんでいるんじゃない。
――自分たちが間違っていたと認めることが、怖いんだろう。
俺は、息を止めた。
祖父らしい言葉だと思った。
優しいだけの人ではなかった。
必要なときには、相手が聞きたくないことも、きちんと伝える人だった。
「祖父は、皆さんを許したんですか?」
俺の問いに、六人は顔を上げた。
「いや」
《王冠》は、静かに首を横に振った。
「祖父君は、我々を許すとも、許さないとも言わなかった」
「では、何と?」
「こう言った」
――本当に悔いているなら、これから何をするかで示しなさい。
――自分を罰することばかり考えて、誰かを救うことを忘れるな。
六人は、何も言わなかった。
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
罪を償うことと、幸せになってはいけないことは同じではない。
祖父のレシピ帳に書かれていた言葉。
あれは、六人に向けられた言葉だったのだろう。
自分たちの罪を忘れずに生きること。
けれど、その罪だけを抱えて、人生のすべてを終わらせないこと。
祖父は、六人にそう伝えたかったのかもしれない。
「……でも」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「昨日の男は、祖父が誰かを見殺しにしたと言いました」
六人の顔から、わずかに残っていた安堵が消えた。
「久瀬さんが亡くなったことと、祖父が何をしたのか。それは、同じ話なんですか?」
誰も、すぐには答えなかった。
やがて、《王冠》が言った。
「そこが、我々にも分かっていない」
「分かっていない?」
「我々が見たものと、あの男が語ることには、食い違いがある。久瀬が亡くなる直前に何があったのか。誰が最後までその場にいたのか。そして、なぜ二十年も経った今になって、あの男が現れたのか」
《王冠》は、俺を見た。
「我々は、自分たちの罪から逃げてきたつもりはない。だが、罪を認めることと、知らないことまで認めることは違う」
「……そうですね」
俺は頷いた。
六人が久瀬を信じなかったこと。
その判断を悔いていること。
それは、彼ら自身が認めた事実だ。
だが、祖父が何をしたのかは、まだ分からない。
誰が久瀬を殺したのかも、まだ分からない。
ここで誰かを責めれば、真実から遠ざかってしまう気がした。
「俺は、祖父を信じています」
六人が顔を上げた。
「でも、祖父が何をしたのかを知りたいとも思っています。祖父が好きだからこそ、知らないままにしたくないんです」
《王冠》は、じっと俺を見つめていた。
「君は、祖父君を恨むかもしれない」
「その可能性はあります」
俺は正直に答えた。
「でも、真実を知らないまま、祖父を何でも正しい人だったことにするのも違うと思います」
誰も、反論しなかった。
俺はカップを持ち上げた。
「だから、続きを聞かせてください」
そのときだった。
コン、コン、コン。
扉が三度、叩かれた。
《零》が立ち上がり、入口へ向かう。
扉を開けると、足元に白い封筒が置かれていた。
差出人の名前はない。
封筒の中には、一枚の紙が入っていた。
《零》は内容を確認すると、無言で《王冠》に渡した。
紙には、短い文章が記されていた。
――七人目の死について、真実を知りたければ、今夜、旧礼拝堂へ来い。
――店主だけで来い。六人を連れてきた場合、残された証拠はすべて燃やす。
俺は、紙を見つめた。
「……旧礼拝堂?」
「知っている場所なのか?」
《王冠》が尋ねた。
「いいえ。聞いたこともありません」
俺は首を横に振った。
《黒百合》が、紙を覗き込む。
「これは、透を呼び出すための罠かもしれない」
「その可能性は高いでしょう」
《道化師》が頷いた。
「ですが、証拠という言葉が気になります。相手は、我々が知らない何かを持っているのかもしれません」
「行かせるわけにはいかない」
《葬送》が低く言った。
「店主を一人で行かせるなんて、二十年前と同じことを繰り返すようなものだ」
その言葉に、六人が黙った。
俺は、彼らを見た。
久瀬真一は、信じてもらえなかった。
六人は、そのことを二十年間悔いてきた。
そして今、俺を一人で行かせるかどうかで、同じような選択を迫られている。
「行きます」
俺は言った。
「透」
《王冠》の声が、わずかに強くなった。
「危険だ。相手の正体も、目的も分からない」
「分かっています」
「ならば、なぜだ」
「祖父が何を守ろうとしたのか、知りたいからです」
俺は、六人を見た。
「それに、久瀬真一さんの死について、まだ分からないことがあるんですよね。だったら、知る機会を逃したくありません」
「だが、手紙には君一人で来いとある」
「はい」
「我々を連れていけば、証拠が燃やされるかもしれない」
「それでも、俺を一人で行かせるつもりですか?」
その問いに、《王冠》は答えられなかった。
俺は、静かに続けた。
「皆さんは、二十年前に久瀬さんを信じられなかったことを悔いているんですよね」
六人の視線が、俺に集まった。
「だったら、今度は俺を信じてください。俺が自分で考えて決めたことを」
長い沈黙が続いた。
やがて、《王冠》は深く息を吐いた。
「……分かった」
だが、すぐに続けた。
「ただし、君を一人にはしない」
「手紙の内容と違いますよ」
「承知している」
《王冠》の目に、強い決意が浮かんでいた。
「我々は、君の判断を尊重する。だが、君が危険にさらされることを、ただ見ているつもりもない」
《黒百合》が頷いた。
《葬送》は拳を開き、《道化師》は眼鏡を押し上げた。
《渡り烏》は静かに目を閉じ、《零》は封筒を慎重にしまった。
六人は、決めたのだ。
今度こそ、誰かを一人にしないと。
「では、今夜に備えましょう」
俺は立ち上がった。
「その前に、皆さん」
「何だ?」
《王冠》が尋ねた。
「お昼ご飯を食べていきませんか?」
六人が、一斉に俺を見た。
「……今、その話をするのか?」
「今だからです」
俺は答えた。
「お腹が空いていると、冷静な判断ができませんから」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、《葬送》が小さく吹き出した。
《道化師》が眼鏡を押さえながら笑い、《黒百合》も口元を緩めた。
《渡り烏》は、懐かしいものを見るように目を細めた。
《零》は相変わらず表情を変えなかったが、ほんの少しだけ頷いた。
最後に、《王冠》が苦笑した。
「……君の祖父も、同じことを言っていた」
「そうなんですか?」
「ああ」
彼は、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「だからこそ、我々はこの店に通い続けているのかもしれない」
俺は厨房へ向かった。
今日の昼食は、いつもより少し多めに作ろう。
夜には、旧礼拝堂へ行く。
何が待っているのかは分からない。
祖父の罪が明らかになるのかもしれない。
久瀬真一の死の真相が分かるのかもしれない。
あるいは、今まで信じてきたものが、すべて覆されるのかもしれない。
それでも、俺は知りたい。
祖父が何を守ろうとしたのか。
六人が、なぜ今も頭を下げ続けているのか。
そして、七人目の死に、何が隠されているのか。
その夜、旧礼拝堂で俺たちを待っている人物は、祖父の秘密だけではなく、俺自身の出生に関わる真実も知っていた。
七人目の死。
祖父が守ったもの。
二十年間、誰も口にしなかった最後の約束。
そのすべてが、今夜、一つにつながろうとしていた。




