第53話 祖父を知る男
人は、知らないことよりも、知っているつもりでいたことに裏切られたとき、深く傷つく。
私は、祖父のことを知っているつもりだった。
口数は少なく、料理の味には妥協しない。困っている人を見かければ、余計なことを言わずに手を差し伸べる。誰かが店で泣いていても、無理に理由を聞くことはなかった。
ただ、温かい食事を出す。
それが祖父だった。
けれど、祖父が亡くなってから、私は何度も思い知らされている。
私が知っていた祖父は、祖父のほんの一部分にすぎなかったのだと。
「店主」
カウンターの向こうから声がした。
顔を上げると、No.1《王冠》がこちらを見ていた。
銀色の髪。皺ひとつないスーツ。いつも冷静で、何事にも動じない男。
裏社会でその名を知らない者はいないとされる六人の伝説。その筆頭に立つ人物が、今では私の店でコーヒーを飲んでいる。
「どうしました?」
「少し、確認したいことがある」
「コーヒーのおかわりですか?」
「……それも頼む」
私は笑って、カップを手に取った。
この人たちは、何かを話そうとするとき、妙に深刻な顔をする。
もっとも、彼らにとって深刻なことと、私にとって深刻なことが同じとは限らない。
コーヒーを注ぎながら、私は尋ねた。
「祖父のことでしょうか」
《王冠》の指が、カップの取っ手に触れたところで止まった。
ほんの一瞬。
それだけで、答えは分かった。
「……ああ」
「やっぱり」
「なぜそう思う?」
「皆さんが祖父の話をするとき、いつも少しだけ顔が変わりますから」
彼は答えなかった。
私はカップを置いた。
「祖父は、皆さんにとってどんな人だったんですか?」
これまでにも何度か尋ねたことがある。
そのたびに、六人は言葉を濁した。
恩人。
忘れられない人。
人生を変えた人。
どれも間違いではないのだろう。
けれど、私が知りたいのは、もっと具体的なことだった。
祖父は、何をしたのか。
なぜ、この人たちは、これほどまでに祖父を敬っているのか。
そして、なぜ祖父は、そんな人たちに私の店を託したのか。
「店主」
《王冠》が静かに言った。
「君の祖父は、誰かを救うために、自分が悪人だと思われることを恐れない人だった」
「悪人だと思われる?」
「ああ」
「それは、誰かを助けるために嘘をついたということですか?」
「……それだけではない」
その声には、重いものが混じっていた。
「時には、真実を話さないこともあった。誰かを守るために、誰かから恨まれることもあった。君の祖父は、それを選べる人だった」
「それは、正しいことだったんでしょうか」
問いかけた瞬間、《王冠》の表情が変わった。
責められたような顔ではなかった。
むしろ、ずっと誰かに聞かれるのを待っていたような顔だった。
「分からない」
彼は答えた。
「少なくとも、我々には、その答えを決める資格がない」
そのときだった。
店の扉が開いた。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけた私は、入ってきた男を見て言葉を止めた。
黒いコート。
顔の半分を覆うように落ちた影。
年齢も、表情も、はっきりとは読み取れない。
男は店内を見回し、カウンターの《王冠》を見つけると、わずかに口元を動かした。
「相変わらず、ここに集まっているのか」
《王冠》が立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、静かな店内に響いた。
「……なぜ、お前がここにいる」
その声を聞いた瞬間、私は理解した。
この男は、ただの客ではない。
《王冠》が警戒している。
それだけで十分だった。
「お客様、コーヒーでよろしいですか?」
私は尋ねた。
男は私を見た。
その視線には、奇妙なものがあった。
私を観察しているようでいて、私の向こう側にいる誰かを見ているようでもあった。
「君が、朝霧透か」
「はい」
「……そうか」
男は、どこか疲れたように笑った。
「よく似ている」
「誰にですか?」
「君の祖父に」
その言葉を聞いた瞬間、《王冠》の目が鋭くなった。
「余計なことを言うな」
「余計なこと?」
男は笑った。
「二十年も黙ってきたお前たちが、今さら何を守るつもりだ?」
店内の空気が変わった。
そのとき、奥の扉が開いた。
黒髪の女性、《黒百合》が現れる。
彼女は男の姿を認めると、表情を消した。
続いて、傷だらけの大男、《葬送》。
眼鏡をかけた青年、《道化師》。
白髪の老人、《渡り烏》。
そして、小柄なフード姿の人物、《零》。
六人全員が、男を見ていた。
誰も動かない。
誰も口を開かない。
その沈黙こそが、男の正体を何よりも雄弁に語っていた。
「久しぶりだな」
男が言った。
「お前たちは、あの日から何も変わっていない」
「……何をしに来た」
《葬送》が低く尋ねた。
「決まっているだろう」
男は、私に視線を向けた。
「この店の主人に、教えに来たんだ」
「何をですか?」
「君の祖父が、何をしたのか」
私は思わず、カウンターの縁を握った。
祖父のことを知りたい。
そう願っていたはずなのに。
いざ、その扉が開かれようとすると、胸の奥が冷たくなった。
「君の祖父は、善人だったのかもしれない」
男は言った。
「だが、善人だからといって、誰も死なせなかったわけじゃない」
その言葉は、刃物のように静かだった。
「二十年前、一人の男が死んだ」
六人の顔が強張った。
「その男は、お前たちを信じていた。君の祖父も、あの男を知っていた」
男は一歩、カウンターへ近づいた。
「そして、あの男が死ぬことを、誰も止められなかった」
「やめろ」
《王冠》の声が響いた。
だが、男は止まらなかった。
「朝霧透。君は、自分の祖父が何を守ったのか、知っているか?」
「……知りません」
「そうだろうな」
男は薄く笑った。
「ならば、知るべきだ」
そして、最後にこう告げた。
「君の祖父が守ったもののために、死んだ男がいたということを」
私は、何も答えられなかった。
祖父の記憶が、頭の中を巡る。
厨房で鍋をかき混ぜる背中。
閉店後にコーヒーを飲む横顔。
私に店を任せたときの、少しだけ寂しそうな笑顔。
そのどこにも、誰かの死につながるものなど見えなかった。
けれど、目の前の男は、嘘をついているようには見えなかった。
「お名前を、伺ってもいいですか」
私は尋ねた。
男はしばらく黙っていた。
それから、首を横に振った。
「今は、まだ言えない」
「なぜですか?」
「名前を知れば、君は次に何を聞くべきか分かってしまう」
男は扉へ向かった。
「だが、一つだけ教えておこう」
ベルが鳴る直前、男は振り返った。
「六人の伝説には、七人目がいた」
扉が閉まった。
店内に、静寂が戻った。
私は六人を見た。
《王冠》は目を閉じていた。
《黒百合》は唇を噛み、《葬送》は拳を握りしめていた。
《道化師》の眼鏡の奥では、普段の冷静さが失われている。
《渡り烏》は、まるで長い年月を一度に思い出したかのように、深く俯いていた。
《零》だけは、男が去った扉を見つめていた。
「……七人目って、誰なんですか?」
誰も答えなかった。
私は、もう一度尋ねた。
「皆さんは、その人を知っているんですよね?」
長い沈黙のあと、《渡り烏》が口を開いた。
「知っているとも」
その声は、ひどく弱々しかった。
「忘れたことなど、一度もない」
私は、祖父の残した古い帳簿を思い出した。
そこに記された、いくつもの名前。
そして、まだ開くことのできていないページ。
もしかすると、あの帳簿には、七人目の名前も記されているのだろうか。
祖父は、何を残したのだろう。
何を隠し、何を伝えようとしたのだろう。
答えは、まだ見えない。
ただ一つ、確かなことがあった。
祖父の過去は、私が思っていたよりも、ずっと深い場所につながっていた。
そして、その中心には。
六人の伝説が、決して忘れることのできない一人の男がいた。




