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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第52話 七人目の男がクッキーを断れなかった結果、裏社会の均衡が崩れ始めました

 男が店を出たのは、午後三時を少し回った頃だった。


「ごちそうさまでした。また来ます」


「はい、ぜひいらしてください」


 俺は笑顔で見送った。


 男は最後まで礼儀正しかった。


 コーヒーを飲み、クッキーを食べ、代金を支払う。帰り際には丁寧に頭を下げていった。


 どこにでもいる、感じのよい客。


 俺にとっては、それ以上でも以下でもなかった。


「さて、そろそろ仕込みの続きをするか」


 俺が厨房へ戻ろうとした、そのときだった。


「店主」


 背後から声がした。


 振り返ると、六人のうちの一人が、いつになく真剣な顔をしていた。


「どうしました?」


「先ほどの男について、何かお気づきになったことはありませんか」


「え? あのお客さんですか?」


「はい」


「うーん……」


 俺は腕を組んで考えた。


 何か変わったところがあっただろうか。


 身なりはきちんとしていたし、言葉遣いも丁寧だった。


 ただ、一つだけ気になったことがある。


「ああ、そういえば」


 六人の背筋が、一斉に伸びた。


「クッキーを食べるとき、ちょっと緊張しているように見えましたね」


「……緊張、ですか」


「ええ。もしかしたら、甘いものが苦手だったのかもしれません」


 六人は沈黙した。


 彼らは知っている。


 あの男が、かつて数百人規模の組織を一人で動かし、敵対勢力の幹部たちを恐怖に陥れた人物であることを。


 どれほど危険な状況でも表情一つ変えず、死を前にしても笑っていられる男。


 その男が、店主の差し出したクッキーを前に緊張していた。


 つまり。


「……店主は、見抜かれていたのですね」


「何をです?」


「いえ。何でもありません」


 六人は深く頭を下げた。


 俺には、ますます意味が分からなかった。


     ◇


 その頃、街の中心部にある高層ビルでは、一つの緊急会議が開かれていた。


 会議室の壁には、厳重な警備システムが設置されている。


 出席者は十七人。


 全員が、表向きは企業の経営者や投資家として活動しているが、その実態は違った。


 彼らは、裏社会の勢力図を左右する者たちだった。


 その最上席に、一人の男が座っていた。


 先ほど喫茶店を訪れた男である。


「報告しろ」


 男が短く告げると、部下が立ち上がった。


「例の喫茶店に、六人全員が集まっていました」


「それは見れば分かる」


「はっ。問題は、その後です」


 部下は一枚の写真を差し出した。


 そこには、男がクッキーを食べている姿が写っていた。


 男は写真を見つめた。


「……これは?」


「店主から、手作りのクッキーを勧められた際のものです」


「それも分かる」


「はい。しかし、六人はその様子を見守っていました」


 男は黙った。


 部下は続けた。


「店主が勧めたものを、あなたが受け取った。その事実を、六人は確認していました」


「だから何だ」


「彼らにとって、あの店主が差し出すものは特別な意味を持つのではないかと」


 室内に沈黙が落ちた。


 男は写真を机に置いた。


 彼もまた、六人の過去を知っている。


 誰にも従わず、誰の命令も受けず、互いにさえ容易には心を開かなかった六人。


 そんな彼らが、一人の店主に頭を下げる。


 最初にその噂を聞いたとき、男は信じなかった。


 しかし、自分の目で見た今となっては、否定することもできない。


「……あの店主は、何者だ」


 誰も答えられなかった。


 男は窓の外へ目を向けた。


「調べろ。ただし、店主には絶対に接触するな」


「理由をお聞きしても?」


「私にも分からんからだ」


 男は静かに言った。


「分からないものに、軽々しく手を出すな。それが生き残るための基本だ」


 部下たちは一斉に頭を下げた。


 だが、男は知らなかった。


 その命令が、すでに一歩遅れていたことを。


     ◇


 翌朝。


 俺は店の前で、妙な光景を目にした。


 開店前だというのに、店の前に黒い車が三台並んでいたのである。


「……何だ、これ」


 車はすべて高級車だった。


 しかも、どの車も傷一つなく、窓には濃いスモークがかかっている。


 その横には、黒いスーツを着た男たちが立っていた。


 俺が近づくと、男たちは一斉にこちらを向いた。


「おはようございます!」


「お、おはようございます……?」


 なぜか、全員が深々と頭を下げた。


 俺は困惑した。


「あの、何か御用ですか?」


 先頭に立っていた男が、一歩前に出た。


「突然の訪問をお許しください。私どもは、こちらの店を大切に思う者たちでございます」


「はあ……」


「本日は、ご挨拶だけでもと思いまして」


「ご挨拶?」


「はい」


 男は、両手で丁寧に包んだ箱を差し出した。


「ささやかではございますが、お納めください」


 箱には、高級そうな包装紙が巻かれていた。


 俺は受け取るべきか迷った。


「あの、これって何ですか?」


「焼き菓子でございます」


「焼き菓子?」


「はい。店主のお口に合えば幸いです」


 俺は箱を見つめた。


 焼き菓子。


 確かに、喫茶店で扱うには悪くない。


 だが、知らない人からいきなり贈り物をもらうのは気が引ける。


「ありがとうございます。でも、こういうのは気を遣わなくても大丈夫ですよ」


 男の表情が強張った。


「……お気に召しませんでしたでしょうか」


「いやいや、そういう意味じゃないです!」


 俺は慌てて説明した。


「気持ちだけで十分ですよ、ということです。わざわざありがとうございます」


 男は数秒間、俺の顔を見つめていた。


 そして、深々と頭を下げた。


「……承知いたしました」


 彼は箱を持ち帰ろうとした。


 そのとき。


「待ってください」


 俺は男を呼び止めた。


 男が振り返る。


「せっかくですから、一つだけいただいてもいいですか? 皆さんで食べてください。うちの試作品のクッキーなんですけど」


 俺は店の中から、小さな紙袋を持ってきた。


 中には、昨日焼いたクッキーが入っていた。


 男は袋を受け取った。


 その手が、わずかに震えていた。


「……ありがたく、頂戴いたします」


「そんな大げさなものじゃないですよ」


 俺は笑った。


 男たちは、揃って頭を下げた。


 そして、黒い車に乗り込み、静かに去っていった。


「……最近、変わったお客さんが多いな」


 俺は首を傾げながら、店の鍵を開けた。


 このとき、俺はまだ知らなかった。


 その紙袋を受け取った男が、車の中で十数秒間、クッキーを見つめ続けたことを。


 そして、そのクッキーが後に、裏社会の会議で重要な意味を持つことになるのを。


     ◇


 午前十時。


 六人が店にやってきた。


 いつものように、礼儀正しく頭を下げる。


「おはようございます」


「おはようございます。今日は早いですね」


「はい。少々、気になることがありまして」


「気になること?」


「……店の前に、車が停まっていませんでしたか」


「ああ、さっき来てましたよ。何かのご挨拶だそうです」


 六人の表情が変わった。


「……ご挨拶、ですか」


「ええ。焼き菓子を持ってきてくれたんですけど、逆にうちのクッキーを渡しちゃいました」


 沈黙。


 六人のうち、一人がゆっくりと目を閉じた。


「……店主」


「はい?」


「その方々は、何とおっしゃっていましたか」


「この店を大切に思っている、と」


 六人は顔を見合わせた。


 その言葉には、重い意味があった。


 彼らが知る限り、あの男の周辺にいる者たちは、誰かを大切に思うという感情を表に出さない。


 ましてや、店主に贈り物を持ってくるなど、考えられないことだった。


 しかし、店主は何も気づいていない。


 ただ、もらったものに礼を言い、自分の作ったものをお返ししただけだ。


「……なるほど」


 最年長の男が呟いた。


「何がなるほどなんです?」


「いえ。店主のお考えが、少し分かった気がいたします」


「そうですか?」


 俺は首を傾げた。


 六人は、静かに席についた。


 彼らは理解し始めていた。


 店主にとって、人間は皆、同じなのだ。


 地位が高くても、金を持っていても、恐れられていても。


 店に来た客なら、客として接する。


 贈り物をもらえば礼を言い、相手が喜びそうなものを返す。


 そこには駆け引きも、恐怖も、打算もない。


 だからこそ、彼らはこの場所を失いたくなかった。


     ◇


 その日の午後。


 裏社会の主要組織に、一通の連絡が届いた。


 差出人は、あの七人目の男。


 内容は、短いものだった。


『あの店には手を出すな』


 たったそれだけ。


 しかし、その一文を見た者たちは、誰もが同じ疑問を抱いた。


 なぜ、あの男がそこまで言うのか。


 六人との関係は?


 店主の正体は?


 調査を進めるべきか、それとも手を引くべきか。


 意見は割れた。


 だが、一つだけ、全員が理解していた。


 あの喫茶店は、これまでの常識では測れない場所になりつつある。


 そして、その中心にいる店主は、そんなことを知りもしない。


     ◇


 夕方。


 店じまいの準備をしていた俺のもとへ、六人がやってきた。


「店主。本日も、ありがとうございました」


「いえいえ、こちらこそ。いつもありがとうございます」


 俺はカウンターを拭きながら答えた。


「そういえば、皆さん」


「はい」


「明日から、新しいケーキを出そうと思ってるんです」


 六人の目が、わずかに輝いた。


「新しいケーキ、ですか」


「ええ。まだ試作段階なんですけどね。もしよかったら、感想を聞かせてもらえませんか?」


 六人は立ち上がった。


 そして、深々と頭を下げた。


「「「「「「ぜひ、お願いいたします」」」」」」


「いや、そんなに頭を下げなくても!」


 俺は笑った。


 六人もまた、笑った。


 彼らにとって、明日が待ち遠しくなったのは久しぶりだった。


 裏社会の勢力争いも、敵対組織の動向も、今はどうでもいい。


 明日、この店で新しいケーキを食べる。


 それだけで、十分だった。


 ただし。


 彼らの知らないところで、七人目の男はすでに動き始めていた。


 店主の祖父が残した手紙。


 六人が頭を下げる理由。


 そして、店主自身も知らない、この喫茶店の過去。


 それらを調べるために。


 男は一つの古い記録を取り寄せていた。


 そこに記されていたのは、数十年前に起きた、ある事件の名前。


 その事件の最後のページには、祖父の名前とともに、こんな一文が残されていた。


『六人が再び集うとき、すべての因縁は店へ帰る』


 男は記録を閉じた。


「……まさか、本当に始まるのか」


 その声を聞いた者は、誰もいなかった。


 そして翌日。


 新作ケーキを楽しみにしていた六人の伝説は、店主の何気ない一言によって、これまで以上の窮地に立たされることになる。


 その一言とは。


『あれ? そういえば、じいちゃんも昔、こんなケーキを作ってた気がするな』


 ただ、それだけだった。

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