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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第49話 店主が「卵は、目玉焼きでもスクランブルエッグでもいいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で朝食の主導権を巡る会議が始まる

 朝食というものは、不思議な食事だ。


 昼食ほど自由ではなく、夕食ほど華やかでもない。


 眠気の残る頭で、まだ完全には始まっていない一日を迎え入れるための食事。


 そこには、戦略も駆け引きも必要ない。


 少なくとも、朝霧透はそう思っていた。


「明日はトーストにしようかな」


 閉店後の《CAFE 灯》で、透は翌朝の仕込みを考えながら言った。


 カウンターの向こうでは、零が洗い終えたカップを拭いている。


 王冠は新聞を読み、黒百合は窓際の席で紅茶を飲んでいた。葬送は椅子に深く腰掛け、道化師は何やら小さなノートに書き込み、渡り烏は鷹宮宗一郎と世間話をしている。


 いつもの顔ぶれだった。


「卵もつけよう。目玉焼きでも、スクランブルエッグでもいいですよね」


 透は冷蔵庫の中身を思い浮かべながら、何気なく付け加えた。


「皆さん、好きなほうでどうぞ」


 その瞬間。


 王冠の新聞をめくる手が止まった。


 黒百合が紅茶のカップを置いた。


 葬送が、なぜか背筋を伸ばした。


 道化師のペン先が、ノートの上で静止した。


 渡り烏はゆっくりと鷹宮を見た。


 鷹宮は、眉間にしわを寄せた。


「……好きなほうで、いいのか」


「ええ。もちろん」


 透は笑った。


「朝から難しいことを考えなくてもいいですし」


 六人の伝説は、沈黙した。


 灰都の裏社会において、選択肢を与えられることは珍しくない。


 しかし、選択肢には必ず意図がある。


 どちらを選ぶかによって相手の考えを探る。選択肢そのものを利用して相手を誘導する。あるいは、選べるという事実によって、選んだ者に責任を負わせる。


 彼らは、そういう世界で生きてきた。


 だが、この店の店主は違う。


 本当に、どちらでもいいと思っている。


 その事実が、彼らには時として最も難解だった。


「店主」


 最初に口を開いたのは王冠だった。


「確認したいことがある」


「はい?」


「目玉焼きとスクランブルエッグ。その二つは、同等の選択肢なのか」


「えっ?」


 透は一瞬考えた。


「料理としては別物ですけど、どっちも卵料理ですよ」


「……なるほど」


 王冠は新聞を畳んだ。


「優劣ではなく、用途と好みの違いか」


「いや、そんな大層な話では……」


「用途」


 道化師が反応した。


「つまり、食べる状況によって適切な形態が変化する可能性があるということですね。目玉焼きは黄身を残せる。スクランブルエッグはパンに乗せやすい。食感、味の広がり、他の食材との相性……」


「道化師さん、明日の朝ごはんですよ」


「だからこそです」


 道化師は真顔で言った。


「朝の選択を誤れば、一日の開始条件が変わります」


「そんなに変わりませんよ」


 透は笑った。


 その言葉を聞いた王冠が、今度は真剣な顔で頷いた。


「重要だな」


「え?」


「一日の開始条件を過剰に固定する必要はない、ということだ」


「王冠さん?」


「状況に応じて選択する。あるいは、その日の気分で決める。どちらも許容される」


「はい。そうですけど……」


「わかった」


 王冠は立ち上がった。


「明朝、各自が望む卵料理を選ぶ」


「……朝ごはんを食べるだけですよ?」


 透の声は、誰にも届かなかった。


     *


 翌朝。


 《CAFE 灯》のテーブルには、トースト、バター、いちごジャム、そして卵が並んでいた。


 透はいつもどおりエプロンを着け、フライパンを温めている。


 零はその隣で、食器を準備していた。


「零さんは、目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいいですか?」


「……私が、選ぶんですか」


「もちろん」


 零は卵を見た。


 それから、透を見た。


「……どちらでも、作っていただけるんですか」


「ええ。何なら両方でもいいですよ」


 零は、少しだけ目を見開いた。


「……両方」


「食べられる量なら、ですけどね」


「……はい」


 彼女は小さく頷き、考え始めた。


 目玉焼き。


 スクランブルエッグ。


 どちらかを選ばなければならないと思っていた。


 だが、両方という選択肢もある。


 しかも、今日は片方を選んでも、明日はもう片方を選べる。


 昨日と違うものを選んでも、何も失わない。


 そんな当たり前のことが、零には少しずつ、当たり前ではなくなくなっていく。


「……今日は、目玉焼きがいいです」


「はい。焼き加減はどうします?」


「焼き加減……?」


「黄身を半熟にするか、しっかり火を通すかですね」


 零は再び卵を見た。


 選択肢が増えた。


 しかも、まだ増えるらしい。


「……半熟で」


「わかりました」


 透は卵を割り、熱したフライパンに落とした。


 じゅう、と小さな音がした。


 零は、その音を聞きながら微笑んだ。


 選ぶことは、少し怖い。


 でも、ここでは間違えてもいい。


 次に変えてもいい。


 そして、選んだものを誰かに笑われることもない。


「零さん、スクランブルエッグも少し作りましょうか。味見用に」


「……いいんですか?」


「もちろん。自分の好みを知るのも楽しいですから」


 零は頷いた。


「……食べてみたいです」


 その返事を聞いて、透は嬉しそうに笑った。


 その様子を、テーブルの向こう側から見つめる者たちがいた。


 王冠。


 黒百合。


 葬送。


 道化師。


 渡り烏。


 そして鷹宮宗一郎。


 全員が、妙に真剣だった。


     *


「まずは目玉焼きからだ」


 王冠が言った。


「黄身の硬さについて、好みを確認する必要がある」


「私は半熟がいい」


 黒百合が即答した。


「黄身が固まっているものは、パンにつけにくいでしょう」


「俺は、どちらでも構わん」


 葬送が腕を組んだ。


「腹に入れば同じだ」


「葬送さん、味わいましょうよ」


 渡り烏が苦笑した。


「食事は栄養補給だけではありませんからね」


「……そうなのか」


「そうですよ」


 透は目玉焼きを皿に移しながら答えた。


「好きな味を楽しむのも、ご飯の大事なところです」


 葬送はしばらく考えた。


 彼にとって食事は、長い間、身体を動かすための燃料だった。


 味を楽しむこともあったが、そこに時間をかける余裕は少なかった。


 腹が満たされればいい。


 食べられるものならいい。


 そう考えることに慣れていた。


「……なら、俺は黄身を固めてみる」


「えっ、半熟じゃなくていいんですか?」


「ああ。今日は固めを食べてみたい」


「いいですね」


 透は笑った。


「じゃあ、しっかり焼きますね」


 葬送は、その笑顔を見てわずかに視線を逸らした。


 何かを選ぶことに、理由を求められなかった。


 誰かの役に立つためでもない。


 効率がいいからでもない。


 ただ、自分が食べてみたいから。


 それだけでよかった。


「……悪くないな」


「まだ焼いてませんよ、葬送さん」


「いや。そういう意味ではない」


 葬送は咳払いをした。


 王冠が、すかさずノートを取り出した。


「個人の選好を決定する際、外部への説明責任を必須としない」


「王冠さん、ノートしまいましょうか」


「なぜだ?」


「朝ごはんを食べてください」


「……そうだな」


 王冠は素直にノートを閉じた。


 その様子を見て、黒百合が小さく笑った。


     *


 次の問題は、スクランブルエッグだった。


 道化師が皿を見つめている。


「卵を混ぜるという行為によって、黄身と白身の境界が失われる。これは、素材の統合と考えるべきか、それとも個性の消失と考えるべきか」


「食べ物にそこまで哲学を持ち込まなくても……」


 渡り烏が呆れたように言った。


「いや、重要です」


 道化師は真顔だった。


「目玉焼きは黄身と白身がそれぞれの形を保っている。スクランブルエッグは混ぜ合わせることで、別の食感になる。つまり、形を保つことと、混ざり合うこと。どちらも同じ卵から生まれる」


「……それで?」


 黒百合が尋ねた。


「人間関係にも応用できる可能性があります」


「ないわよ」


「まだ結論は出ていません」


「出さなくていいわ」


 道化師は不満そうにスクランブルエッグを口に運んだ。


 そして、数秒後。


「……おいしい」


 全員が彼を見た。


「何?」


「いや」


 渡り烏が肩をすくめる。


「ようやく研究が終わったと思いまして」


「終わっていません」


「まだあるのか」


「あります。半熟のスクランブルエッグと、しっかり火を通したスクランブルエッグの比較が……」


「道化師さん」


 透が優しく声をかけた。


「冷めないうちに食べたほうがいいですよ」


 道化師は口を閉じた。


 目の前には、まだ温かいスクランブルエッグがある。


 分析することはできる。


 違いを記録することもできる。


 しかし、温かいうちに食べるという楽しみは、記録している間にも少しずつ失われていく。


「……そうですね」


 道化師はノートを閉じた。


「今は、食べることにします」


「はい。どうぞ」


 透は嬉しそうに頷いた。


 道化師は一口食べた。


 もう一口。


 そして、最後には皿をきれいに空にした。


「……次は、チーズを入れたものも食べてみたいですね」


「いいですね。今度やりましょう」


 その返事に、道化師は満足そうに微笑んだ。


 研究の結論は出ていない。


 比較データも足りない。


 それでも、次に試す楽しみができた。


 それでよかった。


     *


「店主」


 鷹宮が、少し遠慮がちに手を挙げた。


「はい、鷹宮さん」


「目玉焼きとスクランブルエッグを、同じ皿に盛ることは可能か」


「できますよ」


「……両方とも食べていいのか」


「もちろんです」


 鷹宮は黙った。


 灰都の裏社会を長年見てきた男は、利益と損失、勝者と敗者、選択と代償を知り尽くしていた。


 何かを得るためには、何かを諦める。


 少なくとも、彼の世界ではそうだった。


 だからこそ、二つのものを同時に手に入れていいのかと、尋ねずにはいられなかった。


「……どちらかを選ばなくても、いいのか」


「食べられるなら、いいんじゃないですか?」


 透は首を傾げた。


「せっかく食べるんですから、好きなものを食べたほうがいいですよ」


 鷹宮は、静かに目を伏せた。


 好きなものを食べる。


 そんなことを、誰かに許可してもらう必要は本来ないのだろう。


 だが、長い間、許可を求めることすら忘れていた。


「……そうか」


 彼は、ゆっくりと顔を上げた。


「では、両方いただこう」


「はい。すぐ用意しますね」


 鷹宮は、目玉焼きとスクランブルエッグを一皿に盛ってもらった。


 最初に目玉焼きを食べた。


 次にスクランブルエッグを食べた。


 交互に口に運び、最後にはトーストをちぎって、半熟の黄身につけた。


「……うまいな」


 その声は、いつもの会議で聞くものとは違っていた。


 そこには、誰かを威圧する響きも、相手の出方を探る慎重さもなかった。


 ただ、食事を楽しむ人間の声があった。


「鷹宮さん、気に入ってくれました?」


「ああ」


 鷹宮は素直に答えた。


「とても気に入った」


「よかったです」


 透は、何でもないことのように笑った。


 鷹宮は、その笑顔を見ながら思った。


 この店では、何かを手に入れるために、何かを捨てる必要はないのかもしれない。


 少なくとも、朝食の皿の上では。


     *


 問題は、朝食の後に起きた。


 六人が帰った後、灰都情報管理連絡会の会議室では、緊急の報告が提出されていた。


 議題は、卵料理の選択に関する一連の動向。


 報告書には、以下の項目が並んでいた。


 第一項。個人の嗜好による選択の容認。


 第二項。複数選択肢の同時取得。


 第三項。選択結果に対する説明責任の軽減。


 第四項。試行を通じた自己理解の促進。


 第五項。異なる選択肢の共存。


 報告書を読んだ主任は、しばらく無言だった。


「……君たちは、朝食を食べる話を、どうしてここまで膨らませられるんだ」


 担当者たちは、一斉に姿勢を正した。


「申し訳ありません。しかし、王冠、黒百合、葬送、道化師、渡り烏、零、さらに鷹宮宗一郎までが同席しており――」


「それで?」


「全員が、それぞれ異なる選択を行いました」


「卵料理を?」


「はい」


「……卵料理を?」


「はい」


 主任は額に手を当てた。


「目玉焼きとスクランブルエッグを食べただけだろう」


「ですが、そこには重大な示唆が――」


「ない」


 主任は即答した。


「いや、あるかもしれませんが……」


「ない。少なくとも、現段階で我々が介入する理由はない」


 彼は報告書を閉じた。


「全員、仕事に戻れ。卵料理の選択に関する追加調査は禁止する」


「しかし主任、もし今後、卵料理を起点とした――」


「禁止だ」


「……承知しました」


 担当者たちは、渋々と会議室を出ていった。


 最後に残った若い職員が、ふと足を止めた。


「主任」


「今度は何だ」


「……目玉焼きとスクランブルエッグ、どちらがお好きですか」


 主任は、しばらく考えた。


「……目玉焼きだな」


「理由は?」


「黄身をトーストにつけられるからだ」


「なるほど」


 若い職員は、何かを記録しようとペンを取り出した。


「記録するな!」


「すみません!」


 会議室に、主任の声が響いた。


     *


 その日の昼過ぎ。


 透は、カウンターの向こうで食器を拭いていた。


 零は、隣で翌日の仕込みを確認している。


「零さん、今朝はどうでした?」


「……楽しかったです」


「それはよかった」


「目玉焼きも、スクランブルエッグも、おいしかったです」


「どっちが好きでした?」


 零は少し考えた。


「……今日は、目玉焼きです」


「今日は?」


「……はい。明日は、変わるかもしれません」


 透は笑った。


「それでいいと思いますよ」


 零は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 今日は、目玉焼き。


 明日は、スクランブルエッグかもしれない。


 その次の日には、卵を食べたくないと思うかもしれない。


 昨日の自分と違ってもいい。


 今日の自分が選んだものを、明日の自分が変えてもいい。


 誰かの期待に合わせて、ずっと同じ自分でいる必要はない。


「……店長」


「はい?」


「私、明日はスクランブルエッグを作ってみたいです」


「いいですね。一緒に作りましょう」


「……失敗しても?」


「卵なら、また割ればいいですから」


 透は、あっさりと言った。


 零は目を丸くし、それから小さく笑った。


「……はい」


 その返事は、以前よりも少しだけ、明るかった。


     *


 夕方。


 常連たちが帰り支度を始めた頃、透は冷蔵庫を開け、翌日の食材を確認していた。


「明日は何にしようかな……」


 零が顔を上げた。


「……明日も、朝ごはんですか?」


「そうですね。せっかくだから、卵だけじゃなくてスープもつけようかな」


「スープ……」


「コンソメでもいいし、野菜を入れたものでもいいですね。パンにも合いますし」


 その瞬間、帰りかけていた王冠が立ち止まった。


 黒百合が振り返った。


 葬送が、扉にかけた手を止めた。


 道化師は、いつの間にか取り出していたノートを閉じた。


 渡り烏は、ゆっくりと息を吐いた。


 鷹宮は、真剣な顔で透を見た。


「……店主」


「はい?」


「スープも、選べるのか」


「ええ。明日の気分で決めましょう」


 六人の伝説は、互いの顔を見合わせた。


 そして、灰都の裏社会において、また新たな難題が浮上した。


 コンソメか。


 野菜スープか。


 それとも、味噌汁か。


 パンとスープは、どちらが主役なのか。


 朝食における温かい汁物の位置づけとは何か。


 そして何より――。


 明日の朝、全員が違うスープを希望した場合、店主に迷惑をかけずに、全員の希望を叶えることは可能なのか。


「……皆さん」


 透は、困ったように笑った。


「そんなに難しく考えなくても、明日の朝に決めればいいですよ」


 六人の伝説は、静かに頷いた。


 明日の朝に決める。


 つまり、今夜のうちに決めなくてもいい。


 選択を先送りすることも、選択肢の一つなのだ。


 その単純な事実に、彼らはまたしても救われていた。


 ただし。


 翌朝、《CAFE 灯》の厨房に、コンソメ、味噌、野菜、玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、そしてなぜか大量の乾燥わかめが持ち込まれることになるとは。


 この時の透は、まだ知らなかった。


 彼はただ、明日の朝食を少しだけ豪華にしたいと思っていただけなのだから。

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