第50話 店主が「スープなんて、余った野菜を入れて煮ればいいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で食材の再配置を巡る大論争が勃発
鍋というものは、不思議な道具だ。
水を入れ、食材を入れ、火にかける。
それだけで、食べ物ができる。
もちろん、味付けや火加減によって仕上がりは変わるし、何を入れるかによっても違いが生まれる。
しかし、基本的には難しいものではない。
少なくとも、朝霧透はそう思っていた。
「スープなんて、余った野菜を入れて煮ればいいですよ」
その言葉を口にしたのは、翌朝の《CAFE 灯》だった。
カウンターの向こうでは、零が野菜を洗っている。
テーブルには、王冠が持ってきたコンソメ、黒百合が選んだ玉ねぎ、葬送が持参した大量のじゃがいも、道化師がなぜか三種類も用意した塩、渡り烏が調達した新鮮なにんじんが並んでいた。
鷹宮宗一郎に至っては、どこから手に入れたのか、立派な寸胴鍋を持ち込んでいる。
さらに、乾燥わかめがある。
大量にある。
「……皆さん、どうしてそんなに食材を持ってきたんですか?」
透が尋ねると、王冠は当然のように答えた。
「必要になる可能性を考慮した」
「スープを作るだけですよ?」
「だからこそ、選択肢を確保した」
「なるほど……?」
透は納得したような、していないような顔で頷いた。
そして、洗った野菜をまな板に並べる。
「まあ、使えるものを使いましょう。余ったら、明日でもいいですし」
その瞬間。
道化師が顔を上げた。
「……余ったら、明日でもいい?」
「はい」
「つまり、今日すべてを消費する必要はない、と」
「そうですね」
王冠の目が細くなった。
渡り烏は、静かに腕を組んだ。
黒百合は、透の手元を見つめている。
葬送は、じゃがいもの袋を抱え直した。
零だけが、いつもどおり野菜を洗っていた。
彼女はもう知っている。
透の言葉に、裏の意味などない。
余ったら明日使えばいい。
それだけだ。
それだけなのだが。
「……食材の価値は、購入した時点で固定されるわけではない」
王冠が呟いた。
「保管し、別の料理に転用することで、活用できる余地が残る」
「王冠さん、じゃがいもを見ながら何を考えているんですか?」
「資源管理だ」
「スープの話ですよ」
「理解している」
王冠は真顔で答えた。
理解している人間の顔ではなかった。
*
最初の問題は、野菜を切る段階で発生した。
「玉ねぎは、どの程度の大きさに切ればいい?」
王冠が尋ねた。
「食べやすいくらいで大丈夫ですよ」
「食べやすい、か」
王冠は包丁を持ち、玉ねぎを見つめた。
大きすぎれば火が通りにくい。
小さすぎれば存在感がなくなる。
均一であれば見栄えがよく、加熱時間も管理しやすい。
しかし、食べやすさは人によって違う。
彼は、ゆっくりと玉ねぎを切り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
すべてが、恐ろしいほど同じ大きさだった。
「……すごいですね」
零が思わず呟いた。
「均一に切るのは難しいですから」
「そうか」
王冠は少しだけ表情を緩めた。
「だが、すべて同じ大きさである必要はないのだろう?」
「え?」
「店主は、食べやすければいいと言った」
「はい。そうですね」
「ならば、多少の違いは許容できる」
王冠は、次の玉ねぎを切った。
今度は、少しだけ大きさが違った。
彼はそれを見て、眉をひそめた。
しかし、切り直さなかった。
「……これでいい」
その声は、誰に聞かせるでもなく、小さかった。
世界には、整えなければならないものがある。
守らなければならない規則もある。
けれど、すべてを同じ形にすることが、必ずしも正しいとは限らない。
王冠は、まな板の上に並ぶ玉ねぎを見つめた。
少し大きなもの。
小さなもの。
形が整ったもの。
不格好なもの。
それでも、すべて同じ鍋に入る。
「王冠さん、切り終わりました?」
「……ああ」
「じゃあ、次はじゃがいもをお願いします」
「わかった」
王冠は再び包丁を握った。
今度は、先ほどよりも少しだけ気楽に。
*
一方、葬送はじゃがいもと格闘していた。
「店主。これは、どれくらい入れればいい」
「お好きなだけ……と言いたいところですけど、鍋に入る分でお願いします」
「わかった」
葬送は、大きなボウルいっぱいのじゃがいもを見た。
そして、その半分を鍋に入れようとした。
「葬送さん、待ってください!」
零が慌てて止めた。
「それ、全部入れたら鍋がいっぱいになります!」
「……そうか」
葬送は手を止めた。
「多いほうが、皆が満足すると思ったのだが」
「多すぎると、今度は食べきれなくなりますから」
「……なるほど」
彼はじゃがいもをボウルに戻した。
かつての葬送は、何かを任されれば、すべて自分で片づけようとしていた。
足りなければ、自分が補う。
誰かが困っていれば、自分が引き受ける。
その結果、抱えきれないほどのものを背負い込んでも、手放すことができなかった。
だが、ここでは違う。
必要な分だけ使えばいい。
残りは、残りとして置いておけばいい。
今日できなかったことを、今日のうちにすべて終わらせる必要もない。
「……零」
「はい?」
「このじゃがいも、残りはどうすればいい」
「明日、別の料理に使いましょうか」
「明日……」
葬送は、少しだけ考えた。
「そうか。明日もあるのか」
「はい。明日もありますよ」
零は微笑んだ。
葬送は、残ったじゃがいもを丁寧に袋へ戻した。
その手つきは、戦場で武器を扱うときよりも、ずっと慎重だった。
*
問題は、スープの味付けに移った。
「コンソメを使うのが基本だろう」
王冠が言った。
「野菜の旨味を活かすなら、塩の量を調整する必要があります」
道化師が三種類の塩を並べる。
「こちらは粒子が細かく、こちらは粗い。溶ける速度に差が出る可能性があり――」
「普通の塩でいいでしょう」
黒百合が冷たく言った。
「わざわざ三種類も必要ないわ」
「しかし、比較しなければ最適な選択は――」
「最適である必要はない」
渡り烏が口を挟んだ。
「食べて、おいしければいいんだよ」
「……その判断基準では、再現性が」
「毎朝、同じ味である必要があるのかい?」
道化師は言葉に詰まった。
渡り烏は肩をすくめた。
「昨日と今日で気分が違うこともある。食材だって変わる。少し味が違ったからといって、困るとは限らないだろう」
「……確かに」
道化師は三種類の塩を見比べた。
そして、最も普通の塩を手に取った。
「今回は、これにします」
「いいんじゃないか」
渡り烏が笑った。
道化師は、少しだけ不満そうだった。
だが、鍋から立ち上る香りを嗅ぐと、その表情が和らいだ。
玉ねぎの甘い香り。
にんじんの優しい匂い。
煮えていくじゃがいもの、ほっとするような気配。
複雑な理論はなくても、料理は進んでいく。
「……悪くないですね」
「だろう?」
渡り烏は、満足そうに頷いた。
*
その頃、鷹宮宗一郎は乾燥わかめを見つめていた。
「店主」
「はい、鷹宮さん」
「このわかめは、スープに入れるべきか」
「ええと……コンソメのスープには、あまり入れないかもしれませんね」
「……そうか」
鷹宮は、わかめの袋を見下ろした。
「では、これは不要なのか」
「いえ、味噌汁なら使えますよ」
「味噌汁」
「はい。味噌と豆腐があれば、簡単にできます」
鷹宮は黙った。
味噌。
豆腐。
わかめ。
それだけで、一つの料理になる。
コンソメの鍋に無理に入れなくてもいい。
今あるものを、別の形で活かせばいい。
「……店主」
「はい?」
「味噌汁も、作ってみたい」
「いいですね。じゃあ、今度やりましょう」
鷹宮は、ゆっくりと頷いた。
その様子を見ていた渡り烏が、からかうように笑った。
「宗一郎、君は最近、ずいぶんと料理に熱心じゃないか」
「悪いか」
「いや。昔の君なら、味噌汁を作るために専用の部門を立ち上げていたかもしれないと思ってね」
「……そこまではしない」
「そうかな?」
「しない」
鷹宮は断言した。
しかし、その日の夕方。
鷹宮の秘書には、ひとつの指示が届いた。
味噌汁の作り方を調べておくこと。
秘書は三秒ほど画面を見つめた後、何も尋ねずに返信した。
承知いたしました。
長年仕えてきた秘書には、わかっていた。
理由を聞いても、きっと答えは「作ってみたいからだ」になる。
そして、それ以上の理由などないのだろう。
*
完成したスープは、素朴なものだった。
玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。
コンソメの優しい味。
少し大きい玉ねぎもあれば、小さなにんじんもある。
じゃがいもの形も、完全には揃っていない。
それでも、鍋の中では、それぞれの食材が一緒になっていた。
「では、いただきましょうか」
透の声に、全員がスプーンを手に取った。
最初に口をつけたのは王冠だった。
「……うまい」
短い感想だった。
しかし、彼にしては十分すぎるほどの評価だった。
黒百合も、静かに頷いた。
「野菜の甘みが出ているわね」
「じゃがいもも、ちゃんと柔らかい」
葬送は、満足そうにスープを飲んだ。
道化師は、口に運んでからしばらく考えていたが、結局、何も記録せずにもう一口飲んだ。
渡り烏は、湯気の向こうで微笑んだ。
「こういう朝食も、いいものだね」
鷹宮は、両手でカップを包み込むように持っていた。
温かかった。
ただ、それだけのことだった。
だが、その温かさを、彼はしばらく忘れていた気がした。
成果を求められる日々。
決断を迫られる日々。
誰かの期待を背負い、誰かの失敗を処理し、誰かの未来を決めなければならない日々。
その中では、温かいスープをゆっくり飲む時間さえ、後回しにされていた。
「……店主」
「はい?」
「このスープは、特別なものではないな」
「そうですね。普通の野菜スープです」
「だが、うまい」
「ありがとうございます」
透は、嬉しそうに笑った。
「また作りますね」
鷹宮は頷いた。
また作る。
同じ料理を、また作る。
それは、今日だけで終わらないということだ。
明日がある。
次がある。
そして、その次も。
鷹宮はスープを飲み干した。
*
食事が終わる頃、零が鍋の中を覗き込んだ。
「……少し、残りましたね」
「そうですね」
透は鍋を見た。
「お昼に食べてもいいですし、冷まして冷蔵庫に入れておけば、あとで温め直せますよ」
零は頷いた。
以前の彼女なら、残ったものを見て、自分の準備が足りなかったのではないかと考えていたかもしれない。
人数を間違えたのか。
量を読み違えたのか。
無駄を出してしまったのか。
何かを失敗したのではないか。
しかし、今は違った。
「……残っても、困らないんですね」
「もちろん。食べきれなかったら、次に食べればいいんですから」
「……はい」
零は、ほっとしたように笑った。
鍋の中に残ったスープは、失敗の証拠ではない。
次の食事に回せるものだ。
今日のうちに全部なくならなくても、価値がなくなるわけではない。
それは食べ物だけの話ではないのかもしれない。
今日、できなかったこと。
まだ覚えられないこと。
自分には難しいと思うこと。
そうしたものも、明日になれば、もう一度試すことができる。
「店長」
「はい?」
「……私、明日は味噌汁を作ってみたいです」
「いいですね。わかめもありますし」
「……はい」
「豆腐も買っておきましょうか」
零は、嬉しそうに頷いた。
明日は、味噌汁。
今日とは違うものを作る。
失敗するかもしれない。
でも、失敗したら、次にどうすればいいか考えればいい。
その考え方を、彼女は少しずつ、自分のものにしていた。
*
その日の夜。
灰都情報管理連絡会では、主任が新たな報告書を前にしていた。
表紙には、こう記されている。
「CAFE 灯における余剰食材の再活用と選択肢の柔軟性について」
主任は、ゆっくりと目を閉じた。
「……もういいだろう」
部下が緊張した声で答える。
「ですが、今回は複数の食材が投入され、余剰分についても再利用の方針が示されました」
「スープを作ったんだろう?」
「はい」
「それだけだ」
「しかし、そこには資源の再配置という観点が――」
「野菜を煮ただけだ!」
主任の声が、会議室に響いた。
部下たちは一斉に口を閉じた。
主任は報告書を閉じ、深く息を吐いた。
「……いいか。食材を余らせないことは、普通に大事だ。失敗したものを捨てずに使えるなら、それもいい。だが、すべてを組織論に変換するな」
「……承知しました」
「それから」
主任は、少しだけ視線を逸らした。
「味噌汁の作り方を、誰か知っているか」
部下たちが、一斉に顔を上げた。
「……主任?」
「いや。個人的な話だ」
主任は咳払いをした。
「味噌と、だしと、豆腐があればいいのか?」
「ええ、基本的には……」
「そうか」
主任は頷いた。
「……明日の朝、試してみるか」
会議室は静まり返った。
誰も報告書を取り出さなかった。
誰も記録しなかった。
それは、彼らにとって、ひとつの小さな進歩だった。
*
翌朝。
透は冷蔵庫を開け、食材を確認していた。
「よし。今日は味噌汁にしましょうか」
零が隣で頷いた。
「……はい」
「豆腐を切って、わかめを戻して……あとは、だしですね」
透は鍋を取り出した。
そこへ、店の扉が開いた。
「店主!」
王冠だった。
その後ろには黒百合、葬送、道化師、渡り烏、そして鷹宮が並んでいた。
全員、妙に真剣な顔をしている。
「……皆さん、どうしたんですか?」
王冠が一歩前に出た。
「確認したいことがある」
「はい?」
「味噌汁には、豆腐以外に何を入れてもいいのか」
透は、きょとんとした。
「ええ。油揚げでも、ねぎでも、大根でも。好きなものを入れればいいですよ」
沈黙。
六人の伝説は、互いの顔を見合わせた。
好きなものを入れればいい。
豆腐だけに限定されない。
わかめを入れてもいい。
大根を入れてもいい。
油揚げを入れてもいい。
つまり。
味噌汁にも、無数の可能性がある。
道化師が、ゆっくりとノートを取り出した。
黒百合が、その手を押さえた。
「……今日は、書かないでおきましょう」
「しかし――」
「味噌汁を飲んでから考えればいいわ」
道化師は、少しだけ考えた。
そして、ノートをしまった。
「……そうですね」
透は、そのやり取りを見て笑った。
「皆さん、本当に仲がいいですね」
六人は、同時に固まった。
彼らはまだ知らない。
この日の味噌汁に大根を入れるか、油揚げを入れるかという問題が、数時間後、灰都の裏社会で「具材の自由と伝統の尊重」を巡る議論に発展することを。
そして、最終的に鷹宮宗一郎が、誰にも相談せずに味噌汁へバターを入れてしまうことを。
ただ一人、朝霧透だけは、のんびりと考えていた。
明日は何を作ろう。
そろそろ、焼きおにぎりもいいかもしれない。
もちろん、味噌汁が余っていたら、それをつけてもいい。
彼にとっては、ただそれだけのことだった。




