↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/57

第48話 店主が「ジャムがなければ、はちみつでもいいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で甘味料の選択を巡る派閥争いが勃発

 人は、選択肢が増えれば自由になれるのだろうか。


 選べるものが一つしかなければ、迷う必要はない。


 与えられたものを受け入れ、それを使って生きていけばいい。


 しかし、選べるものが二つになった途端、人は考え始める。


 どちらがよいのか。


 どちらが自分に合っているのか。


 そして、なぜ自分は、もう一方ではなくこちらを選んだのか。


 選択肢が三つになれば、比較が始まる。


 四つになれば、優劣をつけたくなる。


 五つにもなれば、選ぶことそのものに疲れてしまう者さえいる。


 朝霧透は、選択肢があること自体は悪くないと思っていた。


 好きなものを選べばいい。


 気分が変わったら、別のものを試してもいい。


 どれを選んでも間違いではないのなら、悩みすぎる必要はない。


 それだけの話だった。


 ところが、灰都の裏社会には、選択肢を与えられると、その背後に必ず何らかの意図があると考えてしまう人々がいた。


 そして今朝。


 CAFE 灯のテーブルには、昨日に引き続き、ホットケーキが並んでいた。


 その隣に置かれていたのは、いちごジャム、ブルーベリージャム、バター、はちみつ。


 たった四種類のトッピングだった。


 それが、灰都の歴史に残るほど無意味で、しかし当事者にとっては極めて重大な議論を引き起こすことになるとは。


 透は、まだ知らなかった。


     *


「皆さん、ホットケーキが焼けましたよ」


 透が皿を運んでくる。


 昨日からホットケーキ作りに熱中している六人の伝説と鷹宮宗一郎は、自然とテーブルに集まった。


 王冠は焼き色を確認し、葬送は厚みを確かめ、道化師は焼き時間を記録しようとしていた。


 零は、昨日より少し薄い焼き色のホットケーキを前に、満足そうに頷いた。


「……今日は、うまく焼けたと思う」


「いい焼き色ですね」


 透に褒められ、零は少しだけ笑った。


 その隣で、黒百合がジャムの瓶を手に取った。


「今日は、何をかけようかしら」


「好きなものを使ってください。ジャムもありますし、はちみつもありますよ」


 透は、テーブルに並んだ瓶を指さした。


「もしジャムがなければ、はちみつでもいいですし。バターだけでもおいしいと思います」


 その瞬間だった。


 王冠の手が止まった。


 道化師が顔を上げた。


 渡り烏が、ゆっくりと透を見た。


 鷹宮の目が細くなる。


 葬送だけが、何も気づかず、ホットケーキにバターを乗せていた。


「……店主」


 王冠が、低い声で呼んだ。


「はい?」


「今、何と言った?」


「えっ?」


「ジャムがなければ、はちみつでもいい、と」


「はい。どちらもおいしいですよ」


 王冠は黙り込んだ。


 ジャムがなければ、はちみつでもいい。


 一見すると、単なる代替案だ。


 だが、彼らは、つい考えてしまう。


 最初に予定していたものが使えなくなったとき、別の手段を選ぶ。


 それは、計画が崩れたということなのか。


 それとも、初めから複数の道を用意しておくということなのか。


「……つまり」


 道化師が、眼鏡を押し上げた。


「店主は、第一選択肢が利用できなくなった場合に備え、代替手段を確保しておくべきだと述べたわけだ」


「いや、ホットケーキの話だろう」


 渡り烏が即座に突っ込んだ。


「わかっている」


「わかっている人間の顔ではないぞ」


「……例えとして、非常に興味深い」


「だから、ホットケーキだ」


 黒百合は、二人の会話を聞きながら、いちごジャムを手に取った。


「私は、いちごジャムにするわ」


 そして、ホットケーキにたっぷり塗った。


「……黒百合」


 王冠が呼んだ。


「何?」


「なぜ、いちごジャムを選んだ?」


「好きだからよ」


「……それだけか?」


「それ以外に何があるの?」


 黒百合は、心底不思議そうに首を傾げた。


「あなたたち、ホットケーキを食べるだけなのに、どうしてそんなに難しい顔をしているの?」


 誰も答えられなかった。


 なぜなら、彼ら自身も、よくわからなくなっていたからだ。


     *


 最初に派閥を形成したのは、意外にも葬送だった。


「……俺は、はちみつがいい」


 彼は、ホットケーキにはちみつをかけた。


 黄金色の液体が、表面をゆっくりと流れていく。


「甘いものが好きだからな」


「……それは、ジャムではだめなのか?」


 王冠が尋ねた。


「ジャムも好きだ。だが、今日ははちみつが食べたい」


「なぜ今日なんだ?」


「……昨日はジャムを食べたからだ」


 王冠は、黙った。


 葬送は、はちみつのかかったホットケーキを一口食べた。


「……うまい」


 その一言は、何の含みもない、純粋な感想だった。


 しかし、道化師は聞き逃さなかった。


「昨日と今日で選択を変えたのか」


「ああ」


「昨日の選択が誤りだったと考えているのか?」


「いや。昨日はジャムがうまかった。今日は、はちみつがうまい。それだけだ」


 道化師は、しばらく葬送を見つめていた。


「……状況によって、最適な選択は変わるということか」


「知らん。俺は、食べたいものを食べているだけだ」


「その考え方は、非常に合理的だ」


「……そうか?」


「必要以上に過去の選択に固執せず、現在の好みを尊重している」


「……はちみつが冷めるぞ」


「それは問題だ」


 道化師は、慌てて自分のホットケーキに向き直った。


 その様子を見て、渡り烏は苦笑した。


「葬送のほうが、よほど本質を理解しているようだな」


「……どういう意味だ」


「難しく考えすぎている、という意味だ」


 道化師は反論しかけたが、ホットケーキを一口食べて口を閉じた。


 今は、確かにこちらのほうが重要だった。


     *


 一方、王冠は、まだ決められずにいた。


 目の前には、いちごジャム、ブルーベリージャム、バター、はちみつが並んでいる。


 選択肢は四つ。


 どれを選んでも、ホットケーキを食べることはできる。


 だが、選んだものによって味が変わる。


 いちごジャムなら、甘さと酸味。


 ブルーベリージャムなら、果実の風味。


 バターなら、塩気と香り。


 はちみつなら、まろやかな甘さ。


「……王冠」


 黒百合が声をかけた。


「何だ」


「冷めるわよ」


「わかっている」


「なら、早く選べばいいじゃない」


「……判断材料が不足している」


 黒百合は、目を細めた。


「ホットケーキのトッピングを決めるために、何の判断材料が必要なのよ」


「それぞれの味を比較したうえで、自分の好みに合うものを選びたい」


「全部かければ?」


「……それでは、個々の味がわからなくなる」


「じゃあ、少しずつ試せばいいでしょう」


 王冠は、黙った。


 少しずつ試す。


 最初から一つに決める必要はない。


 食べながら、自分の好みを確かめればいい。


 彼は、小さく息を吐いた。


「……なるほど」


 まず、いちごジャムを少しだけ乗せた。


 一口食べる。


 甘酸っぱい。


 悪くない。


 次に、ブルーベリージャムを少し乗せた。


 一口食べる。


 こちらも悪くない。


 最後に、はちみつを少しだけかけた。


 王冠は、しばらく黙っていた。


「……はちみつが、一番好きかもしれない」


 黒百合が笑った。


「よかったわね」


「……ああ」


「最初から、はちみつにすればよかったのに」


「それでは、わからなかった」


「そうね」


 黒百合は、優しく答えた。


「試したから、わかったのよね」


 王冠は、はちみつの瓶を見つめた。


 最初から正解を知っている必要はない。


 選んでみて、違うと思えば変えればいい。


 選択の結果が気に入らなかったとしても、その経験は無駄にはならない。


 王冠は、残りのホットケーキにはちみつをかけた。


 そして、今度は何も考えずに食べた。


     *


 ところが、ここで道化師が問題を発見した。


「……待ってくれ」


 彼は、テーブルに並ぶ四種類のトッピングを見渡した。


「今のままでは、公平な比較ができない」


「……また始まったわね」


 黒百合が呟いた。


「何が問題なんだ?」


 渡り烏が尋ねた。


「人によって、トッピングの量が違う。さらに、ホットケーキの焼き色や厚さも異なっている」


「それがどうした」


「同じ条件で比較しなければ、どのトッピングが優れているのか判断できない」


 道化師は、真剣だった。


「全員に同じ厚さのホットケーキを用意し、各トッピングを一定量ずつ乗せる必要がある」


「……誰が、優れていると決めるの?」


 零が尋ねた。


「それは……」


 道化師は、言葉に詰まった。


 零は、自分のホットケーキを見つめた。


「私は、はちみつも好きだけど、いちごジャムも好きだよ」


「……両方か?」


「うん。味が違うから」


「しかし、どちらかを選ぶ必要がある場合は?」


「そのときに、食べたいほうを選ぶよ」


「……」


 零は、少し考えてから続けた。


「でも、どっちが優れているかは、決めなくてもいいんじゃないかな」


 道化師は、黙った。


「はちみつが好きな人もいるし、ジャムが好きな人もいる。どっちも好きな人もいるよね」


「……そうだな」


「だったら、好きなものを選べるようにしておけばいいと思う」


 零は、はちみつを少しだけ追加した。


「私は、今日はこれにする」


 道化師は、しばらく彼女を見つめていた。


 彼は、比較することに慣れていた。


 何が優れているのか。


 何が効率的なのか。


 どちらが正しいのか。


 そうした問いには、答えがあることが多かった。


 しかし、好みまで同じ基準で比較する必要はないのかもしれない。


 いちごジャムには、いちごジャムのよさがある。


 はちみつには、はちみつのよさがある。


 どちらかが存在するために、もう一方が否定される必要はない。


「……比較を中止する」


 道化師は、ノートを閉じた。


 黒百合が目を丸くした。


「珍しいこともあるものね」


「今日は、優劣を決める必要がないと判断した」


「それで?」


「俺は、いちごジャムを食べる」


「……最初から、そう言えばよかったじゃない」


「そうだな」


 道化師は、笑った。


 そして、いちごジャムをたっぷり乗せたホットケーキを食べた。


     *


 その頃、鷹宮宗一郎は、意外な悩みを抱えていた。


「……店主」


「はい?」


「バターとはちみつを、両方使ってもいいのだろうか」


 透は、一瞬きょとんとした。


「もちろんですよ」


「……組み合わせても?」


「はい。バターとはちみつは、相性がいいですからね」


 鷹宮は、目の前のホットケーキを見た。


 バターだけで食べるのもいい。


 はちみつだけで食べるのもいい。


 だが、両方を組み合わせたらどうなるのだろう。


 彼は、ゆっくりとバターを乗せ、その上からはちみつをかけた。


 一口食べる。


 バターの香りと、はちみつの甘さが広がった。


「……これは」


「おいしいですか?」


「……ああ。非常においしい」


 鷹宮は、素直に答えた。


 その瞬間、渡り烏が吹き出した。


「宗一郎。ずいぶん真剣な顔をしているな」


「……何か問題があるか」


「いや。お前がホットケーキを食べながら、そんなに感動している姿を見るとは思わなかった」


「……俺も、思わなかった」


 鷹宮は、苦笑した。


 彼は長いあいだ、選択とは何かを諦めることだと思っていた。


 一つを選べば、もう一つは選ばない。


 限られた時間、限られた資源、限られた機会。


 何かを得るためには、何かを手放さなければならない。


 もちろん、それは現実の一面ではある。


 しかし、すべての場面がそうとは限らない。


 バターとはちみつは、両方使える。


 別々に味わうこともできる。


 混ぜて楽しむこともできる。


 選択肢は、必ずしも互いを排除するものではない。


「……渡り烏」


「何だ?」


「今度、食事に行くときは、お前の好きなものも頼むといい」


 渡り烏は、少し驚いた。


「……急にどうした?」


「いつも、俺の都合に合わせて店を選んでいるだろう」


「まあ、そういうこともあるな」


「次は、お前が食べたいものを選べばいい」


 渡り烏は、しばらく鷹宮を見つめた。


 長い付き合いだ。


 互いの好みも、苦手なものも、嫌というほど知っている。


 だが、相手の希望を聞くことと、自分の希望を伝えることは、また別の話だった。


「……そうだな」


 渡り烏は、穏やかに笑った。


「では、次は昔から気になっていた店に行こう」


「わかった」


「ただし、値段は気にするなよ」


「……それは、俺の台詞だろう」


 二人は笑った。


 ホットケーキの上では、バターがゆっくりと溶けていた。


     *


 昼食の終わり頃。


 零は、テーブルに残ったジャムの瓶を片づけていた。


 いちごジャムは、まだ半分ほど残っている。


 ブルーベリージャムも、ほとんど減っていない。


 はちみつは、葬送と鷹宮が多めに使ったため、少しだけ減っていた。


「……透さん」


「はい?」


「ジャムって、余ったらどうするの?」


「蓋を閉めて、冷蔵庫に入れておけば大丈夫ですよ」


「……また、次に使えるんだね」


「もちろんです」


 透は笑った。


「一度開けたからって、全部使い切らなくてもいいんですよ。保存方法に気をつければ、何度かに分けて使えますから」


 零は、ジャムの瓶を見つめた。


 彼女は、以前なら、与えられたものを残すことに抵抗を感じていた。


 使い切らなければ。


 役に立たなければ。


 無駄にしてはいけない。


 自分が何かを受け取ったなら、その価値をきちんと返さなければならない。


 そんな考えが、いつも心のどこかにあった。


 けれど、ジャムは残しておいていい。


 今日、使わなかった分を、明日使ってもいい。


 今、全部を決めなくてもいい。


「……私、今日は、いちごジャムを選んだけど」


「はい」


「明日は、ブルーベリーにしてもいいんだよね」


「もちろんです」


「……明後日は、はちみつでも?」


「もちろん」


 透は、少し笑った。


「毎日、同じものを選ばなくてもいいんですよ」


 零は、嬉しそうに頷いた。


 昨日好きだったものを、今日も好きでいなければならないわけではない。


 今日選んだものを、明日も選び続けなければならないわけでもない。


 気分が変わってもいい。


 新しいものを好きになってもいい。


 自分の好みを、少しずつ見つけていけばいい。


「……よかった」


 零は、そっと呟いた。


 透は、その言葉の意味を詳しく尋ねなかった。


 ただ、いつものように笑った。


「はい。好きなものを、好きなように楽しんでくださいね」


     *


 その日の午後。


 灰都情報管理連絡会には、またしても報告書が届いていた。


『CAFE 灯にて、ホットケーキ用の複数のトッピングを提供。各客が好みに応じて選択し、一部の客は複数のトッピングを組み合わせて使用した』


 責任者は、報告書を読んだ。


 そして、ペンを持った。


『問題なし』


 いつもどおりの一言だった。


 だが、調査員が補足資料を差し出した。


「責任者。今回は、鷹宮宗一郎がバターとはちみつを組み合わせたほか、王冠が複数のトッピングを試したうえで、最終的に一つを選んだとのことです」


「……そうか」


「道化師は、比較を試みたものの、途中で中止したそうです」


「……そうか」


「さらに、零は翌日以降も別のトッピングを選ぶことに前向きな様子を見せたとのことです」


 責任者は、ゆっくりとペンを置いた。


「君は、これをどう思う?」


 調査員は、緊張した面持ちで答えた。


「……選択肢が複数あっても、必ずしも一つに統一する必要はない、ということではないでしょうか」


「それで?」


「必要に応じて、組み合わせたり、あとから変更したりすることもできる……と」


 責任者は、しばらく黙っていた。


 そして、報告書を閉じた。


「……そうかもしれないな」


 調査員は、驚いた。


「責任者?」


「いや。最近、会議の議題を減らすべきかどうかで悩んでいた」


「議題を、ですか?」


「ああ。重要な案件が増えすぎて、職員の負担が大きくなっている。すべてを同じ日に決めようとする必要はないのかもしれない」


 責任者は、窓の外を見た。


「今日決めること。明日でもいいこと。そもそも、決めなくてもいいこと。それを分けるだけでも、少しは変わるだろう」


 調査員は、静かに頷いた。


「……では、会議の議題を整理してみます」


「頼む」


 調査員が退室したあと、責任者は一人で考えた。


 自分は、何でも早く決めようとしていたのかもしれない。


 曖昧なままにしておくことが、不安だったのかもしれない。


 だが、今すぐ決めなくてもいいことはある。


 試してみてから決めてもいいこともある。


 そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


 責任者は、机の引き出しから昼食のメニュー表を取り出した。


 明日の昼食は、ホットケーキではない。


 だが、食後のデザートには、ヨーグルトがある。


 添えられるものは、いちごジャムとブルーベリージャム。


「……明日は、ブルーベリーにするか」


 責任者は、誰にも聞こえない声で呟いた。


 そして、すぐに首を振った。


「……いや。明日になってから決めよう」


 彼は、少しだけ笑った。


     *


 夕方。


 CAFE 灯の閉店準備が始まっていた。


 透は、残ったジャムを冷蔵庫にしまいながら、零に声をかけた。


「零さん。明日の朝食は、何か食べたいものがありますか?」


 零は、少し考えた。


「……うーん」


 以前なら、彼女はすぐに答えられなかっただろう。


 何を選べば迷惑にならないのか。


 何を選べば、他の人と同じになるのか。


 そんなことを考えていたかもしれない。


 けれど、今は違った。


「……明日は、トーストが食べたい」


「いいですね」


「それで、いちごジャムを塗りたい」


「わかりました。用意しておきますね」


 透は、すぐに答えた。


 零は、少しだけ笑った。


「……もし、明日になって気が変わったら?」


「そのときは、別のものにしましょう」


「……いいの?」


「もちろんです」


 透は、不思議そうに首を傾げた。


「食べたいものって、変わることもありますからね」


 零は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 決めたことを変えてもいい。


 選んだものを、あとから選び直してもいい。


 それでも、自分の居場所がなくなるわけではない。


「……うん」


 零は頷いた。


「明日、楽しみにしてるね」


「はい」


 透は笑った。


 それから、冷蔵庫の扉を閉めた。


「……あ、そうだ」


 透は、ふと思い出したように言った。


「明日は、トーストに卵を乗せてもおいしいですよ」


 零は、目を輝かせた。


「……卵?」


「はい。目玉焼きでもいいですし、スクランブルエッグでも」


「……それも、いいな」


 零は、少しだけ考えた。


「……明日、決めてもいい?」


「もちろんです」


 透は、笑った。


 そして、何でもないことのように続けた。


「好きなものが増えると、楽しみも増えますからね」


 零は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 好きなものが増える。


 選べるものが増える。


 それは、迷う理由が増えるということでもある。


 けれど同時に、楽しみが増えるということでもある。


 ならば、少しくらい迷ってもいいのだろう。


 自分が何を好きなのか。


 何を食べたいのか。


 何をしてみたいのか。


 その答えを、焦らずに見つけていけばいい。


     *


 その夜。


 六人の伝説は、それぞれの帰り道で、ホットケーキの味を思い出していた。


 王冠は、最初から正解を知ろうとする必要はないのだと、少しだけ理解した。


 黒百合は、自分の好みを遠慮なく口にしても、誰かとの関係が壊れるわけではないと感じていた。


 葬送は、今日食べたいものを選ぶことが、昨日の選択を否定することではないと知った。


 道化師は、すべての選択肢に順位をつけなくてもいいのだと気づいた。


 渡り烏は、誰かの希望に合わせるだけではなく、自分の希望を伝えることも大切なのだと思った。


 零は、明日になれば、今日とは違うものを好きになっているかもしれないと考えた。


 そして鷹宮宗一郎は、バターとはちみつの組み合わせを、もう一度試してみたいと思っていた。


 誰もが、何かを得ていた。


 だが、朝霧透は、そんなことを知る由もない。


 彼は、明日の朝食に何を出すか考えていた。


 トースト。


 卵。


 ジャム。


 バター。


 冷蔵庫には、まだ食材が残っている。


「……明日は、何を食べようかな」


 透は、小さく呟いた。


 そのとき、店の扉が開いた。


 渡り烏が、忘れ物を取りに戻ってきたのだ。


「……まだいたのか、透」


「はい。明日の仕込みを少しだけ」


「そうか」


 渡り烏は、カウンターの上に置かれたメニュー表を見た。


「……トーストか」


「はい。明日は、卵を乗せてもいいかなと思っているんです」


「卵を?」


「目玉焼きでも、スクランブルエッグでも。あとは、チーズを乗せてもいいですね」


 渡り烏は、ゆっくりと頷いた。


「……選択肢が多いな」


「そうですね。でも、全部用意しなくてもいいですし、食べたいものを聞いてから決めてもいいと思います」


「……なるほど」


 渡り烏は、少し考えた。


 そして、ふと笑った。


「透。明日は、俺も朝食を食べに来ていいか?」


「もちろんですよ」


「では、トーストを頼む」


「はい。何を乗せますか?」


 渡り烏は、すぐには答えなかった。


 いちごジャム。


 ブルーベリージャム。


 バター。


 卵。


 チーズ。


 選択肢はいくつもある。


 けれど、今すぐ決めなくてもいい。


「……明日、来てから決めるよ」


 透は笑った。


「わかりました。お待ちしています」


 渡り烏は、店を出た。


 その背中を見送りながら、透は明日の朝食の準備を続けた。


 翌朝。


 CAFE 灯では、トーストを前に、六人の伝説と鷹宮宗一郎、そして渡り烏が集まることになる。


 そこで透は、何気なく言うだろう。


 ――「卵は、目玉焼きでもスクランブルエッグでもいいですよ」


 その瞬間、灰都の裏社会では、新たな議論が始まる。


 卵は、形を残すべきなのか。


 それとも、混ぜてから焼くべきなのか。


 そして、朝食の主役はトーストなのか、卵なのか。


 朝霧透にとっては、どちらもおいしければよかった。


 だが、六人の伝説にとっては。


 まだ、答えの出ていない問題だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。