第47話 店主が「ホットケーキは、少しくらい焦げ目がついても大丈夫ですよ」と言った結果、灰都の裏社会で焼き色の基準を巡る紛争が勃発しかける
失敗には、いろいろな形がある。
取り返しのつかない失敗もある。
誰かを傷つけてしまう失敗もある。
準備が足りず、思いどおりにいかない失敗もある。
そして、ほんの少し焼きすぎただけのホットケーキもある。
朝霧透にとって、その二つ目と三つ目を区別することは、さほど難しいことではなかった。
焦げたホットケーキは、少し苦い。
それだけだ。
次は火を弱めればいい。
焼く時間を短くしてもいい。
場合によっては、焦げた部分を切り落として食べてもいい。
それで済む話だった。
しかし、灰都の裏社会に生きる者たちは、長いあいだ、失敗を簡単に済ませることができなかった。
一つの判断が、大勢の運命を変える。
一つの見落としが、取り返しのつかない事態を招く。
だからこそ、彼らは細部にまで気を配り、わずかな違いにも意味を見いだそうとしてきた。
そんな彼らが今日、向き合うことになったのは。
直径十五センチほどの、丸いホットケーキだった。
*
「……店主」
午前十時。
CAFE 灯の厨房で、王冠がフライパンを見つめていた。
「はい?」
「確認したい」
「何でしょう?」
「ホットケーキの焼き色についてだ」
透は、ボウルの中の生地を泡立て器で混ぜながら答えた。
「焼き色ですか?」
「ああ。どの程度が適切なのか」
「そうですね。きつね色くらいが、ちょうどいいんじゃないですかね」
「きつね色……」
王冠は、フライパンの上にある生地を見つめた。
表面に、小さな泡がいくつも浮かんでいる。
周囲が少しずつ乾き始め、裏返す頃合いが近づいていた。
「……では、きつね色を超えた場合は?」
「少しくらい濃くなっても大丈夫ですよ。焦げすぎなければ、おいしく食べられますから」
王冠は、静かに頷いた。
そして、真剣な顔で尋ねた。
「……焦げすぎとは、どこからだ?」
透は、泡立て器を止めた。
「えっ?」
「きつね色と焦げすぎの境界を知りたい」
「うーん……」
透はフライパンを覗き込んだ。
「見た目だけじゃなくて、匂いとかもありますね。ちょっと香ばしいくらいなら大丈夫ですけど、煙が出るほどなら火が強すぎると思います」
「匂い……煙……」
王冠は、その二つを頭の中で整理した。
「つまり、色だけで判断するのではなく、複数の要素を確認する必要があると」
「まあ、そうですね」
「焼き色、香り、火加減、焼成時間……」
「そこまで細かく考えなくても大丈夫ですよ」
透は笑った。
「何枚か焼いていれば、だんだんわかってきますから」
王冠は、フライパンに向き直った。
何枚か焼けば、わかる。
その言葉は、彼にとって意外なものだった。
これまで、彼は何かを始める前に、可能な限り正解を知ろうとしてきた。
失敗の可能性を減らす。
必要な情報を集める。
基準を定める。
そのうえで、実行する。
それが合理的だと考えていた。
だが、ホットケーキは違うらしい。
実際に焼いてみなければ、火加減も、焼き色も、自分の好みもわからない。
最初から完璧な基準を持っている必要はない。
「……わかった」
王冠は、フライ返しを手に取った。
「まずは、焼いてみよう」
透は、にこりと笑った。
「はい。楽しんでくださいね」
その瞬間、厨房の入口から道化師が顔を出した。
「……今の話、詳しく聞かせてくれ」
王冠は、即座に振り返った。
「聞くな」
「なぜだ」
「お前が聞くと、話が長くなる」
「それは偏見だ」
「実績に基づく判断だ」
道化師は、少し考えた。
「……否定はしない」
そして、懐から小さな温度計を取り出した。
王冠は目を閉じた。
「……何を持ってきた」
「調理用温度計だ。生地の加熱状態を確認する」
「しまえ」
「まだ使っていない」
「使うな」
「……合理的な判断とは思えない」
「今はホットケーキを焼く時間だ」
透は、二人のやり取りを聞きながら、笑いをこらえていた。
*
最初に焼き上がったホットケーキは、王冠が作ったものだった。
表面は均一なきつね色。
形も整っている。
厚さもほぼ一定。
皿に盛りつけられたそれは、見た目だけなら、店で出されてもおかしくない仕上がりだった。
「……完成だ」
王冠は、静かに言った。
透が皿を覗き込んだ。
「おお、きれいに焼けましたね」
「そうか」
「はい。いい焼き色です」
王冠の肩から、わずかに力が抜けた。
褒められるということに、まだ慣れていない。
結果がよかったから褒められた。
それだけのことなのに、胸の奥に小さな安堵が広がった。
ところが。
「……少し、薄いな」
葬送が言った。
王冠の表情が止まった。
「何?」
「いや、味ではなく厚さだ。俺は、もっと厚いほうが好きだ」
「……そうか」
王冠は、自分のホットケーキを見つめた。
確かに、少し薄い。
しかし、焼き色はきれいだ。
形も整っている。
十分に成功と言えるはずだった。
「……厚さと焼き色は別の問題だ」
「そうだな」
葬送は頷いた。
「俺は厚いほうが好きだが、これはこれで悪くない」
王冠は、わずかに目を見開いた。
「……悪くないのか?」
「なぜ驚く」
「いや……」
葬送は、自分の皿に目を落とした。
「俺の好みとは違う。それだけだ」
王冠は、しばらく黙っていた。
自分が作ったものを、全員が同じように気に入る必要はない。
きれいに焼けたことと、誰かの好みに完全に合うことは、別の話なのだ。
「……なるほど」
王冠は、ゆっくりと頷いた。
「では、次は厚さを変えてみよう」
「いいんじゃないか」
葬送は笑った。
それだけで、話は終わった。
誰も、王冠のホットケーキを失敗だとは言わなかった。
*
次に挑戦したのは、葬送だった。
彼は、生地をフライパンに流し込むと、透に尋ねた。
「……どのくらいまで焼けばいい?」
「表面に泡が出てきて、周りが少し乾いてきたら、裏返すといいですよ」
「わかった」
葬送は、真剣にフライパンを見つめた。
小さな泡が浮かぶ。
その数が増える。
周囲が少しずつ乾く。
「……今か」
「そうですね。そろそろいいと思います」
葬送はフライ返しを差し込んだ。
そして、勢いよく裏返した。
ホットケーキが宙を舞った。
一瞬、全員の視線がそれを追った。
次の瞬間。
ホットケーキは、フライパンの縁にぶつかり、半分だけ折れ曲がった状態で落ちた。
「……」
「……」
「……」
厨房に、静寂が広がった。
葬送は、フライパンを見下ろした。
折れたホットケーキ。
端からはみ出した生地。
片側だけにできた、濃い焼き色。
「……失敗した」
彼は、静かに呟いた。
その声には、普段の戦場でさえ見せないような落胆があった。
黒百合が、思わず口元を押さえた。
「……ごめんなさい。笑うつもりはなかったの」
「笑っても構わない」
葬送は答えた。
「自分でも、少しおかしいと思う」
道化師は、フライパンを覗き込んだ。
「裏返す動作において、角度と速度の調整が不十分だった可能性が高い。次は――」
「道化師」
王冠が遮った。
「分析はあとだ」
透は、葬送の隣に立った。
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「ああ」
透は、折れたホットケーキを確認した。
「うん。少し形が崩れただけですね」
「……食べられるのか?」
「もちろんです。焦げているところは、ちょっと香ばしいかもしれませんけど」
透は、皿を取り出した。
「半分に切って、盛りつければいいですよ」
葬送は、目を見開いた。
「……それだけでいいのか」
「はい。形を整えたいなら、次に気をつければいいですし。今日は、このまま食べてみましょう」
葬送は、折れたホットケーキを見つめた。
彼は、失敗を嫌っていた。
自分が失敗すれば、仲間が傷つく。
自分が間違えれば、誰かが責任を負う。
そうした経験が積み重なり、失敗はできるだけ避けるべきものだと考えるようになった。
だから、うまくできなかったとき、自分の力不足を責めることには慣れていた。
だが。
目の前のホットケーキは、少し形が崩れただけだった。
食べられる。
味も、きっと悪くない。
次は、もう少し丁寧に裏返せばいい。
「……そうか」
葬送は、ゆっくりと頷いた。
「次は、うまくやる」
「はい。次も一緒に焼きましょう」
透は、何でもないことのように笑った。
葬送は、その笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
失敗したからといって、すべてが台無しになるわけではない。
少なくとも、この店では。
折れたホットケーキを食べながら、葬送は小さく笑った。
「……少し、焦げているな」
「そうですね」
「だが、悪くない」
彼は、もう一口食べた。
「……次は、もっと厚くしてみよう」
*
道化師のホットケーキは、別の意味で問題だった。
彼は、生地を四つに分けていた。
一つ目は薄く。
二つ目は厚く。
三つ目は弱火で長時間。
四つ目は強火で短時間。
さらに、それぞれの焼き色を比較するため、焼く時間を記録していた。
「……何をしているの?」
黒百合が尋ねた。
「比較だ」
「何と何を?」
「厚さ、火加減、焼成時間。それぞれの条件が、焼き色と食感に与える影響を調べている」
「普通に焼けばいいじゃない」
「それでは、違いがわからない」
「違いを知って、どうするの?」
「次に、よりよいホットケーキを焼くためだ」
黒百合は、しばらく考えた。
「……あなた、ホットケーキ屋さんになるつもりなの?」
「その予定はない」
「なら、そこまでしなくてもいいんじゃない?」
「……」
道化師は、答えに詰まった。
彼は、調べることが好きだった。
違いを見つけることが好きだった。
条件を変え、結果を比較し、そこから規則性を見つける。
そうすることで、多くの問題を解決してきた。
だが、ホットケーキを前にすると、何かが違う気がした。
すべての違いを把握しなくても、食べることはできる。
どの条件が最も優れているのかを決めなくても、自分が好きなものを選べる。
「……まあ、いい」
道化師は、記録用の紙を畳んだ。
「今日は、比較を途中でやめることにする」
「珍しいわね」
「俺もそう思う」
道化師は、一番厚く焼いたホットケーキを手に取った。
一口食べる。
外側は少し香ばしく、中はふんわりしている。
「……これが、好きだな」
黒百合が目を丸くした。
「それ、比較の結果?」
「いや」
道化師は笑った。
「食べてみたら、これが好きだった。それだけだ」
黒百合は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「……いいじゃない」
道化師は、ノートをしまった。
今日は、結果を記録しなくてもいい。
ただ、おいしいと思ったものを覚えておけばいい。
そういう日があっても、いいのだろう。
*
零は、ホットケーキの前で迷っていた。
表面は、きれいなきつね色。
端のほうだけ、少し濃くなっている。
焼きすぎたのだろうか。
それとも、この程度なら問題ないのだろうか。
「……透さん」
「はい?」
「これ、少し焼きすぎちゃったかな」
透は、皿を覗き込んだ。
「そうですね。端が少し濃いかもしれません」
零は、顔を伏せた。
「……やっぱり」
「でも、焦げているわけじゃないですよ」
透は、ホットケーキを半分に切った。
断面から、湯気が上がる。
「中までちゃんと焼けています。大丈夫です」
零は、少しだけ顔を上げた。
「……食べてもいい?」
「もちろんです」
零は、一口食べた。
外側は、少し香ばしい。
中は、ふんわりしている。
思っていたよりも、おいしかった。
「……あ」
「どうですか?」
「……おいしい」
透は笑った。
「よかったですね」
零は、もう一口食べた。
「……私、こういう焼き色も好きかもしれない」
「いいですね」
「最初は、失敗したと思ったんだけど」
「食べてみないと、わからないこともありますからね」
零は、静かに頷いた。
失敗したと思った。
けれど、実際に食べてみたら、おいしかった。
それなら、これは失敗ではなかったのかもしれない。
いや、少し焼きすぎたこと自体は、失敗だったのだろう。
それでも、その結果から、自分の好みを知ることができた。
失敗と、そこから得られるものは、必ずしも相反するわけではない。
「……次も、少しだけ濃いめに焼いてみようかな」
零は、小さく笑った。
「もちろんです」
透は答えた。
「零さんの好きな焼き色を、探してみましょう」
零は、嬉しそうに頷いた。
*
ところが。
六人の伝説が、それぞれのホットケーキを焼き始めた頃、店内では別の問題が発生していた。
「……鷹宮さん?」
透が、フライパンを覗き込んだ。
「はい」
鷹宮は、真剣な顔をしていた。
彼のホットケーキは、見事に焦げていた。
表面は濃い茶色。
中央には、黒い部分がある。
端のほうからは、わずかに煙が立ち上っていた。
「……火が強すぎましたね」
透は、困ったように笑った。
「すまない。少し考え事をしていた」
「大丈夫ですよ。次は火を弱めましょう」
鷹宮は、フライパンを見つめた。
「……これは、失敗だな」
「そうですね。少し焦げすぎました」
透は、あっさりと認めた。
「でも、次に気をつければ大丈夫です」
鷹宮は、しばらく黙っていた。
彼は、何度も失敗を見てきた。
部下の失敗。
取引の失敗。
自分自身の判断ミス。
それらの中には、簡単にやり直せないものもあった。
だからこそ、失敗を軽く扱うことには抵抗があった。
しかし、透は、焦げたホットケーキを見ても、鷹宮自身を責めなかった。
ただ、火が強すぎたと説明し、次の方法を提案した。
それだけだった。
「……店主」
「はい?」
「俺が失敗したことを、怒らないのか」
透は、目を丸くした。
「えっ? どうして怒るんですか?」
「焦がしてしまった」
「はい。でも、ホットケーキですからね」
透は、少し困ったように笑った。
「火加減を間違えることもありますよ。僕だって、最初から全部うまくできたわけじゃないですし」
「……君も?」
「もちろんです。料理は、何度も作って覚えるものですから」
鷹宮は、焦げたホットケーキを見つめた。
何度も作って覚える。
そのためには、最初の一回がうまくいかないこともある。
失敗する可能性があるからといって、最初から手を出さなければ、いつまでもできるようにはならない。
「……そうか」
鷹宮は、ゆっくりと頷いた。
「では、もう一度やってみよう」
「はい。今度は火を弱めて、少しゆっくり焼いてみましょう」
透は、新しい生地を用意した。
鷹宮は、火加減を調整した。
今度は、焦げないように、じっくりと焼く。
表面に泡が浮かぶ。
周囲が乾いてくる。
透が頷いた。
「今なら、裏返してもいいと思いますよ」
鷹宮は、フライ返しを差し込んだ。
そして、慎重に裏返した。
ホットケーキは、きれいにひっくり返った。
表面は、ほどよいきつね色だった。
「……できた」
鷹宮は、呟いた。
その顔には、普段の彼からは想像しにくいほど、素直な喜びが浮かんでいた。
「おめでとうございます」
透が笑った。
鷹宮は、ホットケーキを皿に移した。
そして、一口食べた。
ふんわりとした食感。
やさしい甘さ。
ほんの少しの香ばしさ。
「……おいしい」
鷹宮は、静かに言った。
誰かが用意してくれたものではない。
自分で作ったものだ。
最初は失敗した。
それでも、もう一度試して、今度はうまくいった。
そのことが、思いのほか嬉しかった。
「……店主」
「はい?」
「失敗しても、もう一度やればいいのだな」
透は、頷いた。
「そうですね。もちろん、無理をする必要はありませんけど」
「……ああ」
鷹宮は、笑った。
「もう一度やってみたいと思ったなら、試してみればいい」
その言葉は、彼自身に向けたものだった。
*
昼食の終わり頃。
テーブルには、さまざまなホットケーキが並んでいた。
きれいなきつね色。
少し濃い焼き色。
厚みのあるもの。
薄く焼かれたもの。
形が崩れたもの。
そして、鷹宮が最初に焦がした、黒い一枚。
透は、その黒いホットケーキを見つめた。
「……これ、どうしましょうか」
鷹宮が答えた。
「処分してくれ。さすがに焦げすぎている」
「わかりました」
透は、皿を片づけようとした。
すると、葬送が手を挙げた。
「……待ってくれ」
「はい?」
「端のほうは、まだ食べられるんじゃないか」
鷹宮は、少し驚いた。
「……食べるのか?」
「ああ。焦げている部分は避ければいい」
葬送は、黒いホットケーキを見つめた。
「俺も、最初に焼いたものは失敗した。だが、食べられるところは残っていた」
彼は、鷹宮を見た。
「全部がだめになったわけではない」
鷹宮は、静かに頷いた。
透は、黒い部分を確認し、食べられそうな端を小さく切り分けた。
無理に食べる必要はない。
焦げた部分は、処分する。
だが、すべてを捨てる必要もない。
残った部分を、葬送と鷹宮が少しずつ味見した。
「……香ばしいな」
葬送が言った。
「……いや、これは香ばしいという範囲を超えているだろう」
鷹宮が苦笑した。
黒百合が、とうとう笑い出した。
「二人とも、無理して褒めなくていいのよ」
「無理はしていない」
葬送は答えた。
「食べられる部分は、食べられる」
「そういう問題じゃないのよ」
渡り烏も笑った。
「まあ、これも経験だな。次は焦がさなければいい」
鷹宮は頷いた。
「ああ。次は、もう少し火を弱める」
道化師が、静かに口を開いた。
「……今回の焼成結果から、火加減の重要性が確認できた」
王冠が、すぐに言った。
「記録するな」
「まだ何も書いていない」
「書こうとしているだろう」
「……否定はしない」
店内に笑い声が広がった。
誰かが失敗した。
けれど、誰もその失敗を理由に、その人を責めなかった。
笑って、次の方法を考えた。
それで十分だった。
*
夕方。
閉店の準備を終えた零は、カウンターで透と並んで座っていた。
「今日のホットケーキ、楽しかったね」
「そうですね」
「みんな、焼き方が違っていた」
「はい。人によって、好きな焼き色も厚さも違いますから」
零は、自分の指先を見つめた。
「……私、前は、みんなと同じようにできないとだめだと思っていたの」
透は、静かに耳を傾けた。
「同じように仕事をして、同じように動いて、失敗しないようにして。そうすれば、迷惑をかけないと思っていたから」
「……うん」
「でも、今日のホットケーキを見ていたら、同じじゃなくてもいいのかなって思った」
零は、少し照れたように笑った。
「焼き色も、厚さも、みんな違った。でも、みんな、自分のホットケーキを食べていた」
「そうですね」
「……私も、私のやり方を見つけていけばいいのかな」
透は、頷いた。
「もちろんです。零さんがやりやすい方法を見つけていけばいいと思いますよ」
「もし、うまくいかなかったら?」
「そのときは、一緒に考えましょう」
透は、いつもの穏やかな顔で笑った。
「やってみないとわからないこともありますから」
零は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。私、もう少し、自分で考えてみる」
「いいですね」
「でも、わからないことがあったら、相談してもいい?」
「もちろんです」
透は笑った。
「一人で全部できるようにならなくてもいいんですから」
零の目が、わずかに潤んだ。
それは、彼女がずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
何でも一人でできなければ、ここにいられない。
失敗したら、役に立たないと思われる。
誰かに助けてもらうことは、自分の弱さを認めることだ。
そう考えていた時期があった。
でも、今は違う。
助けてもらいながら、覚えていけばいい。
自分で考えながら、必要なときには相談すればいい。
失敗しても、次がある。
ここには、そう言ってくれる人がいる。
「……ありがとう、透さん」
「いえいえ」
透は、照れたように笑った。
「明日も、おいしいものを作りましょうね」
「……うん」
零は、嬉しそうに頷いた。
*
その夜。
灰都情報管理連絡会には、一本の報告書が届いた。
『CAFE 灯にて、複数の客がホットケーキを調理。焼き色や厚さに差異が生じたが、各人が好みを確認しながら食事を楽しんだ模様』
責任者は、報告書を読んだ。
そして、いつものように一言だけ書き込んだ。
『問題なし』
調査員が、少しだけ不安そうに尋ねた。
「責任者。今回は、鷹宮宗一郎がホットケーキを焦がしたという報告もあります」
「……そうか」
「さらに、失敗したものの一部を切り分け、食べられる部分だけを残したとのことです」
「……そうか」
「これは、失敗に対する新たな考え方を示している可能性が――」
「問題なし」
「ですが――」
「ホットケーキだ」
責任者は、書類を閉じた。
「焦がしたなら、次は火を弱めればいい。それだけの話だろう」
調査員は、口を閉じた。
責任者は、少しだけ笑った。
「……もっとも」
「はい?」
「俺も、久しぶりにホットケーキを焼いてみたくなった」
調査員は、目を丸くした。
「責任者が、ですか?」
「ああ。家に帰ったら、試してみようと思う」
「……焼き色は、どうされるのですか?」
責任者は、しばらく考えた。
「……焼いてから決める」
調査員は、静かに頷いた。
それ以上、何も聞かなかった。
*
翌朝。
透は、厨房で冷蔵庫の中身を確認していた。
卵。
牛乳。
バター。
小麦粉。
昨日のホットケーキで使った材料は、まだ少し残っている。
「……今日は、何を作ろうかな」
透が呟いた。
そのとき、零が厨房に入ってきた。
「透さん。今日は、私も何か作ってみたい」
「いいですね。何を作りたいですか?」
零は、少し考えた。
「……昨日のホットケーキ、もう一度焼いてみたい」
「もちろんです」
透は、笑った。
「今度は、どんな焼き色にしてみますか?」
零は、少しだけ考えてから答えた。
「……昨日より、ほんの少しだけ薄くしてみる」
「いいですね。試してみましょう」
零は、嬉しそうに頷いた。
昨日の失敗を、なかったことにする必要はない。
昨日の成功を、絶対の正解にする必要もない。
今日、もう一度試してみる。
その結果、昨日よりおいしくなるかもしれない。
あるいは、昨日のほうが好きだったと気づくかもしれない。
どちらでもいい。
自分で試し、自分で選ぶ。
それが、少しずつできるようになってきた。
ところが、そのとき。
店の扉が開き、王冠が入ってきた。
「店主。今日はホットケーキを焼くのか?」
「はい。零さんと一緒に、もう一度焼こうと思っています」
「……そうか」
王冠は、厨房の奥を見た。
「では、俺も参加する」
透は笑った。
「いいですね。何枚か焼きましょう」
続いて、黒百合、葬送、道化師、渡り烏、鷹宮も入ってきた。
全員が、厨房を覗き込む。
「……何だ、全員来たのか」
王冠が呟いた。
「昨日の続きだもの」
黒百合が答えた。
「焼き色は、まだ研究の余地がある」
道化師が真剣な顔で言った。
「俺は、厚いものが食べたい」
葬送が続ける。
「俺は、昨日のきつね色が気に入った」
渡り烏が笑った。
鷹宮は、静かに頷いた。
「……俺は、焦がさないようにする」
透は、思わず笑った。
「皆さん、そんなに気合いを入れなくても大丈夫ですよ」
六人の伝説は、顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に答えた。
「……わかっている」
その声には、誰一人として説得力がなかった。
厨房には、再び卵を割る音が響き始めた。
今日もまた、失敗する者がいるだろう。
思いどおりに焼けない者もいるだろう。
それでも、昨日より少しだけ上手になる者もいるはずだ。
そして、焼き色が濃くなりすぎたホットケーキを前に、誰かが言うだろう。
――これは、失敗なのか。
その問いに、朝霧透はきっと、いつもと同じように答える。
「食べてみてから、考えましょう」
その言葉が、どれほど多くの人を救ってきたのか。
本人だけが、まだ知らなかった。




