↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/57

第47話 店主が「ホットケーキは、少しくらい焦げ目がついても大丈夫ですよ」と言った結果、灰都の裏社会で焼き色の基準を巡る紛争が勃発しかける

 失敗には、いろいろな形がある。


 取り返しのつかない失敗もある。


 誰かを傷つけてしまう失敗もある。


 準備が足りず、思いどおりにいかない失敗もある。


 そして、ほんの少し焼きすぎただけのホットケーキもある。


 朝霧透にとって、その二つ目と三つ目を区別することは、さほど難しいことではなかった。


 焦げたホットケーキは、少し苦い。


 それだけだ。


 次は火を弱めればいい。


 焼く時間を短くしてもいい。


 場合によっては、焦げた部分を切り落として食べてもいい。


 それで済む話だった。


 しかし、灰都の裏社会に生きる者たちは、長いあいだ、失敗を簡単に済ませることができなかった。


 一つの判断が、大勢の運命を変える。


 一つの見落としが、取り返しのつかない事態を招く。


 だからこそ、彼らは細部にまで気を配り、わずかな違いにも意味を見いだそうとしてきた。


 そんな彼らが今日、向き合うことになったのは。


 直径十五センチほどの、丸いホットケーキだった。


     *


「……店主」


 午前十時。


 CAFE 灯の厨房で、王冠がフライパンを見つめていた。


「はい?」


「確認したい」


「何でしょう?」


「ホットケーキの焼き色についてだ」


 透は、ボウルの中の生地を泡立て器で混ぜながら答えた。


「焼き色ですか?」


「ああ。どの程度が適切なのか」


「そうですね。きつね色くらいが、ちょうどいいんじゃないですかね」


「きつね色……」


 王冠は、フライパンの上にある生地を見つめた。


 表面に、小さな泡がいくつも浮かんでいる。


 周囲が少しずつ乾き始め、裏返す頃合いが近づいていた。


「……では、きつね色を超えた場合は?」


「少しくらい濃くなっても大丈夫ですよ。焦げすぎなければ、おいしく食べられますから」


 王冠は、静かに頷いた。


 そして、真剣な顔で尋ねた。


「……焦げすぎとは、どこからだ?」


 透は、泡立て器を止めた。


「えっ?」


「きつね色と焦げすぎの境界を知りたい」


「うーん……」


 透はフライパンを覗き込んだ。


「見た目だけじゃなくて、匂いとかもありますね。ちょっと香ばしいくらいなら大丈夫ですけど、煙が出るほどなら火が強すぎると思います」


「匂い……煙……」


 王冠は、その二つを頭の中で整理した。


「つまり、色だけで判断するのではなく、複数の要素を確認する必要があると」


「まあ、そうですね」


「焼き色、香り、火加減、焼成時間……」


「そこまで細かく考えなくても大丈夫ですよ」


 透は笑った。


「何枚か焼いていれば、だんだんわかってきますから」


 王冠は、フライパンに向き直った。


 何枚か焼けば、わかる。


 その言葉は、彼にとって意外なものだった。


 これまで、彼は何かを始める前に、可能な限り正解を知ろうとしてきた。


 失敗の可能性を減らす。


 必要な情報を集める。


 基準を定める。


 そのうえで、実行する。


 それが合理的だと考えていた。


 だが、ホットケーキは違うらしい。


 実際に焼いてみなければ、火加減も、焼き色も、自分の好みもわからない。


 最初から完璧な基準を持っている必要はない。


「……わかった」


 王冠は、フライ返しを手に取った。


「まずは、焼いてみよう」


 透は、にこりと笑った。


「はい。楽しんでくださいね」


 その瞬間、厨房の入口から道化師が顔を出した。


「……今の話、詳しく聞かせてくれ」


 王冠は、即座に振り返った。


「聞くな」


「なぜだ」


「お前が聞くと、話が長くなる」


「それは偏見だ」


「実績に基づく判断だ」


 道化師は、少し考えた。


「……否定はしない」


 そして、懐から小さな温度計を取り出した。


 王冠は目を閉じた。


「……何を持ってきた」


「調理用温度計だ。生地の加熱状態を確認する」


「しまえ」


「まだ使っていない」


「使うな」


「……合理的な判断とは思えない」


「今はホットケーキを焼く時間だ」


 透は、二人のやり取りを聞きながら、笑いをこらえていた。


     *


 最初に焼き上がったホットケーキは、王冠が作ったものだった。


 表面は均一なきつね色。


 形も整っている。


 厚さもほぼ一定。


 皿に盛りつけられたそれは、見た目だけなら、店で出されてもおかしくない仕上がりだった。


「……完成だ」


 王冠は、静かに言った。


 透が皿を覗き込んだ。


「おお、きれいに焼けましたね」


「そうか」


「はい。いい焼き色です」


 王冠の肩から、わずかに力が抜けた。


 褒められるということに、まだ慣れていない。


 結果がよかったから褒められた。


 それだけのことなのに、胸の奥に小さな安堵が広がった。


 ところが。


「……少し、薄いな」


 葬送が言った。


 王冠の表情が止まった。


「何?」


「いや、味ではなく厚さだ。俺は、もっと厚いほうが好きだ」


「……そうか」


 王冠は、自分のホットケーキを見つめた。


 確かに、少し薄い。


 しかし、焼き色はきれいだ。


 形も整っている。


 十分に成功と言えるはずだった。


「……厚さと焼き色は別の問題だ」


「そうだな」


 葬送は頷いた。


「俺は厚いほうが好きだが、これはこれで悪くない」


 王冠は、わずかに目を見開いた。


「……悪くないのか?」


「なぜ驚く」


「いや……」


 葬送は、自分の皿に目を落とした。


「俺の好みとは違う。それだけだ」


 王冠は、しばらく黙っていた。


 自分が作ったものを、全員が同じように気に入る必要はない。


 きれいに焼けたことと、誰かの好みに完全に合うことは、別の話なのだ。


「……なるほど」


 王冠は、ゆっくりと頷いた。


「では、次は厚さを変えてみよう」


「いいんじゃないか」


 葬送は笑った。


 それだけで、話は終わった。


 誰も、王冠のホットケーキを失敗だとは言わなかった。


     *


 次に挑戦したのは、葬送だった。


 彼は、生地をフライパンに流し込むと、透に尋ねた。


「……どのくらいまで焼けばいい?」


「表面に泡が出てきて、周りが少し乾いてきたら、裏返すといいですよ」


「わかった」


 葬送は、真剣にフライパンを見つめた。


 小さな泡が浮かぶ。


 その数が増える。


 周囲が少しずつ乾く。


「……今か」


「そうですね。そろそろいいと思います」


 葬送はフライ返しを差し込んだ。


 そして、勢いよく裏返した。


 ホットケーキが宙を舞った。


 一瞬、全員の視線がそれを追った。


 次の瞬間。


 ホットケーキは、フライパンの縁にぶつかり、半分だけ折れ曲がった状態で落ちた。


「……」


「……」


「……」


 厨房に、静寂が広がった。


 葬送は、フライパンを見下ろした。


 折れたホットケーキ。


 端からはみ出した生地。


 片側だけにできた、濃い焼き色。


「……失敗した」


 彼は、静かに呟いた。


 その声には、普段の戦場でさえ見せないような落胆があった。


 黒百合が、思わず口元を押さえた。


「……ごめんなさい。笑うつもりはなかったの」


「笑っても構わない」


 葬送は答えた。


「自分でも、少しおかしいと思う」


 道化師は、フライパンを覗き込んだ。


「裏返す動作において、角度と速度の調整が不十分だった可能性が高い。次は――」


「道化師」


 王冠が遮った。


「分析はあとだ」


 透は、葬送の隣に立った。


「ちょっと見せてもらってもいいですか?」


「ああ」


 透は、折れたホットケーキを確認した。


「うん。少し形が崩れただけですね」


「……食べられるのか?」


「もちろんです。焦げているところは、ちょっと香ばしいかもしれませんけど」


 透は、皿を取り出した。


「半分に切って、盛りつければいいですよ」


 葬送は、目を見開いた。


「……それだけでいいのか」


「はい。形を整えたいなら、次に気をつければいいですし。今日は、このまま食べてみましょう」


 葬送は、折れたホットケーキを見つめた。


 彼は、失敗を嫌っていた。


 自分が失敗すれば、仲間が傷つく。


 自分が間違えれば、誰かが責任を負う。


 そうした経験が積み重なり、失敗はできるだけ避けるべきものだと考えるようになった。


 だから、うまくできなかったとき、自分の力不足を責めることには慣れていた。


 だが。


 目の前のホットケーキは、少し形が崩れただけだった。


 食べられる。


 味も、きっと悪くない。


 次は、もう少し丁寧に裏返せばいい。


「……そうか」


 葬送は、ゆっくりと頷いた。


「次は、うまくやる」


「はい。次も一緒に焼きましょう」


 透は、何でもないことのように笑った。


 葬送は、その笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 失敗したからといって、すべてが台無しになるわけではない。


 少なくとも、この店では。


 折れたホットケーキを食べながら、葬送は小さく笑った。


「……少し、焦げているな」


「そうですね」


「だが、悪くない」


 彼は、もう一口食べた。


「……次は、もっと厚くしてみよう」


     *


 道化師のホットケーキは、別の意味で問題だった。


 彼は、生地を四つに分けていた。


 一つ目は薄く。


 二つ目は厚く。


 三つ目は弱火で長時間。


 四つ目は強火で短時間。


 さらに、それぞれの焼き色を比較するため、焼く時間を記録していた。


「……何をしているの?」


 黒百合が尋ねた。


「比較だ」


「何と何を?」


「厚さ、火加減、焼成時間。それぞれの条件が、焼き色と食感に与える影響を調べている」


「普通に焼けばいいじゃない」


「それでは、違いがわからない」


「違いを知って、どうするの?」


「次に、よりよいホットケーキを焼くためだ」


 黒百合は、しばらく考えた。


「……あなた、ホットケーキ屋さんになるつもりなの?」


「その予定はない」


「なら、そこまでしなくてもいいんじゃない?」


「……」


 道化師は、答えに詰まった。


 彼は、調べることが好きだった。


 違いを見つけることが好きだった。


 条件を変え、結果を比較し、そこから規則性を見つける。


 そうすることで、多くの問題を解決してきた。


 だが、ホットケーキを前にすると、何かが違う気がした。


 すべての違いを把握しなくても、食べることはできる。


 どの条件が最も優れているのかを決めなくても、自分が好きなものを選べる。


「……まあ、いい」


 道化師は、記録用の紙を畳んだ。


「今日は、比較を途中でやめることにする」


「珍しいわね」


「俺もそう思う」


 道化師は、一番厚く焼いたホットケーキを手に取った。


 一口食べる。


 外側は少し香ばしく、中はふんわりしている。


「……これが、好きだな」


 黒百合が目を丸くした。


「それ、比較の結果?」


「いや」


 道化師は笑った。


「食べてみたら、これが好きだった。それだけだ」


 黒百合は、少しだけ嬉しそうに笑った。


「……いいじゃない」


 道化師は、ノートをしまった。


 今日は、結果を記録しなくてもいい。


 ただ、おいしいと思ったものを覚えておけばいい。


 そういう日があっても、いいのだろう。


     *


 零は、ホットケーキの前で迷っていた。


 表面は、きれいなきつね色。


 端のほうだけ、少し濃くなっている。


 焼きすぎたのだろうか。


 それとも、この程度なら問題ないのだろうか。


「……透さん」


「はい?」


「これ、少し焼きすぎちゃったかな」


 透は、皿を覗き込んだ。


「そうですね。端が少し濃いかもしれません」


 零は、顔を伏せた。


「……やっぱり」


「でも、焦げているわけじゃないですよ」


 透は、ホットケーキを半分に切った。


 断面から、湯気が上がる。


「中までちゃんと焼けています。大丈夫です」


 零は、少しだけ顔を上げた。


「……食べてもいい?」


「もちろんです」


 零は、一口食べた。


 外側は、少し香ばしい。


 中は、ふんわりしている。


 思っていたよりも、おいしかった。


「……あ」


「どうですか?」


「……おいしい」


 透は笑った。


「よかったですね」


 零は、もう一口食べた。


「……私、こういう焼き色も好きかもしれない」


「いいですね」


「最初は、失敗したと思ったんだけど」


「食べてみないと、わからないこともありますからね」


 零は、静かに頷いた。


 失敗したと思った。


 けれど、実際に食べてみたら、おいしかった。


 それなら、これは失敗ではなかったのかもしれない。


 いや、少し焼きすぎたこと自体は、失敗だったのだろう。


 それでも、その結果から、自分の好みを知ることができた。


 失敗と、そこから得られるものは、必ずしも相反するわけではない。


「……次も、少しだけ濃いめに焼いてみようかな」


 零は、小さく笑った。


「もちろんです」


 透は答えた。


「零さんの好きな焼き色を、探してみましょう」


 零は、嬉しそうに頷いた。


     *


 ところが。


 六人の伝説が、それぞれのホットケーキを焼き始めた頃、店内では別の問題が発生していた。


「……鷹宮さん?」


 透が、フライパンを覗き込んだ。


「はい」


 鷹宮は、真剣な顔をしていた。


 彼のホットケーキは、見事に焦げていた。


 表面は濃い茶色。


 中央には、黒い部分がある。


 端のほうからは、わずかに煙が立ち上っていた。


「……火が強すぎましたね」


 透は、困ったように笑った。


「すまない。少し考え事をしていた」


「大丈夫ですよ。次は火を弱めましょう」


 鷹宮は、フライパンを見つめた。


「……これは、失敗だな」


「そうですね。少し焦げすぎました」


 透は、あっさりと認めた。


「でも、次に気をつければ大丈夫です」


 鷹宮は、しばらく黙っていた。


 彼は、何度も失敗を見てきた。


 部下の失敗。


 取引の失敗。


 自分自身の判断ミス。


 それらの中には、簡単にやり直せないものもあった。


 だからこそ、失敗を軽く扱うことには抵抗があった。


 しかし、透は、焦げたホットケーキを見ても、鷹宮自身を責めなかった。


 ただ、火が強すぎたと説明し、次の方法を提案した。


 それだけだった。


「……店主」


「はい?」


「俺が失敗したことを、怒らないのか」


 透は、目を丸くした。


「えっ? どうして怒るんですか?」


「焦がしてしまった」


「はい。でも、ホットケーキですからね」


 透は、少し困ったように笑った。


「火加減を間違えることもありますよ。僕だって、最初から全部うまくできたわけじゃないですし」


「……君も?」


「もちろんです。料理は、何度も作って覚えるものですから」


 鷹宮は、焦げたホットケーキを見つめた。


 何度も作って覚える。


 そのためには、最初の一回がうまくいかないこともある。


 失敗する可能性があるからといって、最初から手を出さなければ、いつまでもできるようにはならない。


「……そうか」


 鷹宮は、ゆっくりと頷いた。


「では、もう一度やってみよう」


「はい。今度は火を弱めて、少しゆっくり焼いてみましょう」


 透は、新しい生地を用意した。


 鷹宮は、火加減を調整した。


 今度は、焦げないように、じっくりと焼く。


 表面に泡が浮かぶ。


 周囲が乾いてくる。


 透が頷いた。


「今なら、裏返してもいいと思いますよ」


 鷹宮は、フライ返しを差し込んだ。


 そして、慎重に裏返した。


 ホットケーキは、きれいにひっくり返った。


 表面は、ほどよいきつね色だった。


「……できた」


 鷹宮は、呟いた。


 その顔には、普段の彼からは想像しにくいほど、素直な喜びが浮かんでいた。


「おめでとうございます」


 透が笑った。


 鷹宮は、ホットケーキを皿に移した。


 そして、一口食べた。


 ふんわりとした食感。


 やさしい甘さ。


 ほんの少しの香ばしさ。


「……おいしい」


 鷹宮は、静かに言った。


 誰かが用意してくれたものではない。


 自分で作ったものだ。


 最初は失敗した。


 それでも、もう一度試して、今度はうまくいった。


 そのことが、思いのほか嬉しかった。


「……店主」


「はい?」


「失敗しても、もう一度やればいいのだな」


 透は、頷いた。


「そうですね。もちろん、無理をする必要はありませんけど」


「……ああ」


 鷹宮は、笑った。


「もう一度やってみたいと思ったなら、試してみればいい」


 その言葉は、彼自身に向けたものだった。


     *


 昼食の終わり頃。


 テーブルには、さまざまなホットケーキが並んでいた。


 きれいなきつね色。


 少し濃い焼き色。


 厚みのあるもの。


 薄く焼かれたもの。


 形が崩れたもの。


 そして、鷹宮が最初に焦がした、黒い一枚。


 透は、その黒いホットケーキを見つめた。


「……これ、どうしましょうか」


 鷹宮が答えた。


「処分してくれ。さすがに焦げすぎている」


「わかりました」


 透は、皿を片づけようとした。


 すると、葬送が手を挙げた。


「……待ってくれ」


「はい?」


「端のほうは、まだ食べられるんじゃないか」


 鷹宮は、少し驚いた。


「……食べるのか?」


「ああ。焦げている部分は避ければいい」


 葬送は、黒いホットケーキを見つめた。


「俺も、最初に焼いたものは失敗した。だが、食べられるところは残っていた」


 彼は、鷹宮を見た。


「全部がだめになったわけではない」


 鷹宮は、静かに頷いた。


 透は、黒い部分を確認し、食べられそうな端を小さく切り分けた。


 無理に食べる必要はない。


 焦げた部分は、処分する。


 だが、すべてを捨てる必要もない。


 残った部分を、葬送と鷹宮が少しずつ味見した。


「……香ばしいな」


 葬送が言った。


「……いや、これは香ばしいという範囲を超えているだろう」


 鷹宮が苦笑した。


 黒百合が、とうとう笑い出した。


「二人とも、無理して褒めなくていいのよ」


「無理はしていない」


 葬送は答えた。


「食べられる部分は、食べられる」


「そういう問題じゃないのよ」


 渡り烏も笑った。


「まあ、これも経験だな。次は焦がさなければいい」


 鷹宮は頷いた。


「ああ。次は、もう少し火を弱める」


 道化師が、静かに口を開いた。


「……今回の焼成結果から、火加減の重要性が確認できた」


 王冠が、すぐに言った。


「記録するな」


「まだ何も書いていない」


「書こうとしているだろう」


「……否定はしない」


 店内に笑い声が広がった。


 誰かが失敗した。


 けれど、誰もその失敗を理由に、その人を責めなかった。


 笑って、次の方法を考えた。


 それで十分だった。


     *


 夕方。


 閉店の準備を終えた零は、カウンターで透と並んで座っていた。


「今日のホットケーキ、楽しかったね」


「そうですね」


「みんな、焼き方が違っていた」


「はい。人によって、好きな焼き色も厚さも違いますから」


 零は、自分の指先を見つめた。


「……私、前は、みんなと同じようにできないとだめだと思っていたの」


 透は、静かに耳を傾けた。


「同じように仕事をして、同じように動いて、失敗しないようにして。そうすれば、迷惑をかけないと思っていたから」


「……うん」


「でも、今日のホットケーキを見ていたら、同じじゃなくてもいいのかなって思った」


 零は、少し照れたように笑った。


「焼き色も、厚さも、みんな違った。でも、みんな、自分のホットケーキを食べていた」


「そうですね」


「……私も、私のやり方を見つけていけばいいのかな」


 透は、頷いた。


「もちろんです。零さんがやりやすい方法を見つけていけばいいと思いますよ」


「もし、うまくいかなかったら?」


「そのときは、一緒に考えましょう」


 透は、いつもの穏やかな顔で笑った。


「やってみないとわからないこともありますから」


 零は、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……うん。私、もう少し、自分で考えてみる」


「いいですね」


「でも、わからないことがあったら、相談してもいい?」


「もちろんです」


 透は笑った。


「一人で全部できるようにならなくてもいいんですから」


 零の目が、わずかに潤んだ。


 それは、彼女がずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。


 何でも一人でできなければ、ここにいられない。


 失敗したら、役に立たないと思われる。


 誰かに助けてもらうことは、自分の弱さを認めることだ。


 そう考えていた時期があった。


 でも、今は違う。


 助けてもらいながら、覚えていけばいい。


 自分で考えながら、必要なときには相談すればいい。


 失敗しても、次がある。


 ここには、そう言ってくれる人がいる。


「……ありがとう、透さん」


「いえいえ」


 透は、照れたように笑った。


「明日も、おいしいものを作りましょうね」


「……うん」


 零は、嬉しそうに頷いた。


     *


 その夜。


 灰都情報管理連絡会には、一本の報告書が届いた。


『CAFE 灯にて、複数の客がホットケーキを調理。焼き色や厚さに差異が生じたが、各人が好みを確認しながら食事を楽しんだ模様』


 責任者は、報告書を読んだ。


 そして、いつものように一言だけ書き込んだ。


『問題なし』


 調査員が、少しだけ不安そうに尋ねた。


「責任者。今回は、鷹宮宗一郎がホットケーキを焦がしたという報告もあります」


「……そうか」


「さらに、失敗したものの一部を切り分け、食べられる部分だけを残したとのことです」


「……そうか」


「これは、失敗に対する新たな考え方を示している可能性が――」


「問題なし」


「ですが――」


「ホットケーキだ」


 責任者は、書類を閉じた。


「焦がしたなら、次は火を弱めればいい。それだけの話だろう」


 調査員は、口を閉じた。


 責任者は、少しだけ笑った。


「……もっとも」


「はい?」


「俺も、久しぶりにホットケーキを焼いてみたくなった」


 調査員は、目を丸くした。


「責任者が、ですか?」


「ああ。家に帰ったら、試してみようと思う」


「……焼き色は、どうされるのですか?」


 責任者は、しばらく考えた。


「……焼いてから決める」


 調査員は、静かに頷いた。


 それ以上、何も聞かなかった。


     *


 翌朝。


 透は、厨房で冷蔵庫の中身を確認していた。


 卵。


 牛乳。


 バター。


 小麦粉。


 昨日のホットケーキで使った材料は、まだ少し残っている。


「……今日は、何を作ろうかな」


 透が呟いた。


 そのとき、零が厨房に入ってきた。


「透さん。今日は、私も何か作ってみたい」


「いいですね。何を作りたいですか?」


 零は、少し考えた。


「……昨日のホットケーキ、もう一度焼いてみたい」


「もちろんです」


 透は、笑った。


「今度は、どんな焼き色にしてみますか?」


 零は、少しだけ考えてから答えた。


「……昨日より、ほんの少しだけ薄くしてみる」


「いいですね。試してみましょう」


 零は、嬉しそうに頷いた。


 昨日の失敗を、なかったことにする必要はない。


 昨日の成功を、絶対の正解にする必要もない。


 今日、もう一度試してみる。


 その結果、昨日よりおいしくなるかもしれない。


 あるいは、昨日のほうが好きだったと気づくかもしれない。


 どちらでもいい。


 自分で試し、自分で選ぶ。


 それが、少しずつできるようになってきた。


 ところが、そのとき。


 店の扉が開き、王冠が入ってきた。


「店主。今日はホットケーキを焼くのか?」


「はい。零さんと一緒に、もう一度焼こうと思っています」


「……そうか」


 王冠は、厨房の奥を見た。


「では、俺も参加する」


 透は笑った。


「いいですね。何枚か焼きましょう」


 続いて、黒百合、葬送、道化師、渡り烏、鷹宮も入ってきた。


 全員が、厨房を覗き込む。


「……何だ、全員来たのか」


 王冠が呟いた。


「昨日の続きだもの」


 黒百合が答えた。


「焼き色は、まだ研究の余地がある」


 道化師が真剣な顔で言った。


「俺は、厚いものが食べたい」


 葬送が続ける。


「俺は、昨日のきつね色が気に入った」


 渡り烏が笑った。


 鷹宮は、静かに頷いた。


「……俺は、焦がさないようにする」


 透は、思わず笑った。


「皆さん、そんなに気合いを入れなくても大丈夫ですよ」


 六人の伝説は、顔を見合わせた。


 そして、ほぼ同時に答えた。


「……わかっている」


 その声には、誰一人として説得力がなかった。


 厨房には、再び卵を割る音が響き始めた。


 今日もまた、失敗する者がいるだろう。


 思いどおりに焼けない者もいるだろう。


 それでも、昨日より少しだけ上手になる者もいるはずだ。


 そして、焼き色が濃くなりすぎたホットケーキを前に、誰かが言うだろう。


 ――これは、失敗なのか。


 その問いに、朝霧透はきっと、いつもと同じように答える。


 「食べてみてから、考えましょう」


 その言葉が、どれほど多くの人を救ってきたのか。


 本人だけが、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。