第45話 店主が「マヨネーズも、好きなら試してみればいいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で白い調味料を巡る緊急会議が開かれる
人は、自分の好みをどこまで知っているのだろう。
好きなものは、好きだと言える。
苦手なものは、苦手だと言える。
しかし、まだ試したことのないものについては、どうだろう。
食べたことがない。
使ったことがない。
誰かが勧めてくれたこともない。
だから、自分には関係がないと思っている。
朝霧透は、そういうものが世の中にはたくさんあるのだろうと思っていた。
そして、知らないものを知るために必要なのは、壮大な決意でも、特別な覚悟でもない。
ほんの少し、試してみること。
ただ、それだけでいい。
もっとも。
その考えを灰都の裏社会に持ち込んだ場合、話はそう簡単には終わらないのだった。
*
「……店主」
朝のCAFE 灯。
王冠が、カウンターの上に置かれた白い容器を見つめていた。
「はい?」
「これは何だ」
「マヨネーズですよ」
「それは見ればわかる」
「そうですか」
透は、特に気にした様子もなく答えた。
王冠は、もう一度容器を見た。
昨日、渡り烏が口にした何気ない一言。
――ケチャップの次は、マヨネーズかもしれないな。
それが、まさか翌朝、本当に目の前に現れるとは思わなかった。
「……なぜ、ここにある」
「サンドイッチに使おうと思って、買ってきたんです」
「サンドイッチに?」
「はい。卵サンドにも使いますし、野菜と合わせてもおいしいですよ」
王冠は、黙った。
マヨネーズ。
卵と油と酢などを使った調味料。
一般家庭の冷蔵庫に入っていても何ら不思議ではない。
サンドイッチに使うことも、野菜にかけることも、珍しくはない。
何も問題はない。
そう、何も問題はないはずだった。
「……チャーハンにも使うのか?」
「使う人もいるんじゃないですかね」
透は、少し考えてから答えた。
「僕は、あまり試したことがないですけど」
王冠の目が細くなった。
「試したことがない?」
「はい」
「店主も?」
「ええ。だから、今度試してみてもいいかもしれませんね」
王冠は、容器を見つめた。
透自身も試したことがない。
つまり、これは誰かの完成された理論をなぞる話ではない。
正解を知っている人物が、答えを教えてくれるわけでもない。
ただ、試したことのない組み合わせを試してみる。
その結果、おいしいかもしれないし、そうでもないかもしれない。
王冠にとって、それは少しばかり落ち着かない話だった。
「……店主」
「はい?」
「今日の昼食は、チャーハンにしてくれ」
「いいですよ。材料もありますし」
「それから」
王冠は、マヨネーズの容器を見た。
「……これも、用意しておいてくれ」
透は笑った。
「わかりました」
こうして、たった一言から始まった。
灰都の裏社会における、マヨネーズ検証会が。
*
昼。
店内のテーブルには、人数分のチャーハンが並んでいた。
卵、長ねぎ、鶏肉。
透が手際よく炒めた、いつものチャーハンである。
その中央には、問題のマヨネーズが置かれていた。
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
そして鷹宮宗一郎。
全員が席についていた。
「……なぜ、こんなに集まっているんだ」
王冠が呟いた。
「あなたが昼食にチャーハンを頼んだからでしょう」
黒百合が答える。
「全員が来る必要はなかった」
「でも、道化師は来るでしょうね」
「俺は呼ばれたから来た」
道化師が眼鏡を押し上げた。
「それに、未知の調味料の使用によって味覚がどう変化するか、確認する価値はある」
「未知じゃないわよ。マヨネーズよ」
「マヨネーズ自体は既知だ。しかし、今回の条件における使用結果は未知だ」
「言い方を変えただけじゃない」
葬送は、腕を組んでいた。
「……かけるだけなら、簡単だろう」
「そうですね」
透が答えた。
「まずは少しだけかけてみて、味を確かめるといいと思います」
その言葉に、零が頷いた。
「ケチャップのときと同じだね」
「はい。無理に全部にかけなくてもいいですし、かけてみて合わなかったら、そのまま食べてもいいですから」
鷹宮は、マヨネーズの容器を見た。
「……失敗しても、問題はないということか」
「食べられるものなら、そうですね。もし味が合わなくても、次は量を減らせばいいですし」
「なるほど」
鷹宮は真剣に頷いた。
渡り烏が、小さく笑った。
「お前さん、最近は料理から学ぶことが多いな」
「……そうかもしれない」
「以前なら、食べる前から結論を決めていただろう」
鷹宮は、少し考えた。
確かに、そうだったかもしれない。
自分が知っているもの。
過去にうまくいったもの。
実績があり、失敗の可能性が低いもの。
そういうものを選ぶことが多かった。
新しいことを試すより、確実なものを選ぶ。
そのほうが合理的だと考えていた。
だが、ここでは少し違う。
試してみることそのものが、許されている。
成功するかどうかを、先に証明する必要はない。
「……では、始めよう」
王冠が言った。
なぜか、開会宣言のような口調だった。
透は、思わず笑いそうになった。
「そんなに構えなくても大丈夫ですよ」
「……わかっている」
王冠は答えた。
わかっているつもりだった。
だが、目の前のマヨネーズを前にすると、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
*
最初に手を伸ばしたのは、葬送だった。
「……少量でいいんだな」
「はい」
葬送は、チャーハンの端にマヨネーズを少しだけ絞った。
白い線が、米粒の上に乗る。
彼はしばらくそれを見つめてから、一口食べた。
噛む。
飲み込む。
そして、首を傾げた。
「……濃い」
「そうですね。マヨネーズには油分がありますから」
透が答える。
「だが、悪くはない」
葬送は、もう一口食べた。
「鶏肉には合う気がする」
「なるほど」
道化師が、すぐさまノートを開いた。
「鶏肉との相性がよい可能性がある。では、鶏肉の量を増やした場合は――」
「道化師」
王冠が遮った。
「食べろ」
「今、分析している」
「食べてから分析しろ」
「……それもそうだな」
道化師は、ようやくスプーンを手に取った。
彼は、チャーハンを一口食べた。
そのまま食べる。
次に、マヨネーズを少量つける。
さらに、少しだけ混ぜてみる。
最後に、チャーハンの一部に多めにかけた。
「……違うな」
黒百合が呆れた。
「あなた、食べる前より調べることが増えているじゃない」
「条件が増えたからな」
「自分で増やしたのよ」
道化師は、口を閉じた。
それから、少しだけ笑った。
「……確かに」
彼はノートを閉じた。
「今日は、もう少し普通に食べることにする」
「できるの?」
「努力する」
「その時点で普通じゃないのよ」
零は、チャーハンを見つめていた。
マヨネーズをかけるかどうか、迷っている。
昨日のケチャップは、少量なら好きだった。
だが、マヨネーズも好きになるとは限らない。
同じように試せばいいとわかっていても、少し不安だった。
「……零さん」
透が声をかけた。
「試してみますか?」
「うん。でも、あまり好きじゃなかったらどうしようって」
「そのときは、次から使わなければいいだけですよ」
「……それだけ?」
「はい。それだけです」
透は、当たり前のように答えた。
「一回試したからって、好きにならなきゃいけないわけじゃないですから」
零は、ゆっくりと頷いた。
マヨネーズをほんの少しだけ、チャーハンの端につける。
そして、一口食べた。
「……あ」
「どうですか?」
「……ちょっと、まろやかになる」
「そうですね」
「でも、私は……」
零は、もう一口食べてみた。
「……そのままのほうが好きかも」
「それなら、それでいいと思いますよ」
零は、ほっとしたように笑った。
好きではなかった。
それでも、何も悪くなかった。
誰かが好きなものを、自分も好きにならなければならないわけではない。
試してみて、自分には合わないと知ることだって、一つの発見なのだ。
零は、残りのチャーハンをそのまま食べ始めた。
その姿を見て、黒百合もマヨネーズを手に取った。
「じゃあ、私も試してみようかしら」
彼女は、少しだけかけて、一口食べた。
「……うん。私は、悪くないと思う」
「好きなのか?」
王冠が尋ねた。
「好きかどうかは、もう少し食べてから決めるわ」
黒百合は、笑った。
「一口で結論を出す必要もないでしょう?」
王冠は、黙って頷いた。
その言葉は、思いのほか胸に残った。
*
問題は、鷹宮宗一郎だった。
彼はマヨネーズの容器を前に、じっと考え込んでいた。
「……どうしたんですか?」
透が尋ねた。
「いや」
鷹宮は答えた。
「どの程度が適切なのか、考えていた」
「昨日のケチャップと同じで、少しずつ試せばいいと思いますよ」
「……そうだな」
鷹宮は、容器を手に取った。
ほんの少し。
そう思ったのだが、力加減を誤った。
マヨネーズが、思っていたより多く出た。
白い線が、チャーハンの中央を横切る。
「……」
「……」
「……」
全員が、鷹宮の皿を見た。
鷹宮も、皿を見ていた。
「……少し、多かったな」
静かな声だった。
道化師が口を開きかけた。
王冠が、その肩を掴んだ。
「何も言うな」
「まだ何も言っていない」
「言うつもりだっただろう」
「……否定はしない」
鷹宮は、しばらく皿を見つめていた。
以前なら、こういう失敗を見せたくなかったかもしれない。
自分が不器用なところ。
予想どおりにできなかったところ。
そうしたものを、人前にさらすことに慣れていなかった。
しかし、ここでは。
「……食べてみるか」
鷹宮は、スプーンを手に取った。
そして、マヨネーズの多い部分を一口食べた。
噛む。
飲み込む。
少し考える。
「……濃いな」
透が頷いた。
「そうですね。ちょっと多かったかもしれません」
「だが、食べられないほどではない」
「なら、よかったです」
鷹宮は、もう一口食べた。
そして、今度はマヨネーズの少ない部分を食べた。
「……こちらのほうが、好みだ」
「じゃあ、次は少なめにすればいいですね」
透は笑った。
鷹宮は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
失敗した。
だが、誰も笑わなかった。
正確には、道化師が笑いそうになり、王冠に肩を掴まれていた。
それでも、誰も鷹宮を責めなかった。
次にどうするかを考えればいい。
ただ、それだけだった。
鷹宮は、残りのチャーハンを食べながら、ふと笑った。
「……店主」
「はい?」
「ここでは、妙な失敗をしても、何とかなるものだな」
透は、少し首を傾げた。
「料理なら、だいたい何とかなりますよ。食べられなかったら、次は気をつければいいですし」
「……そうか」
鷹宮は、静かに頷いた。
それから、少しだけ付け加えた。
「料理以外でも、そうならいいのだがな」
その言葉に、店内の空気がわずかに変わった。
透は、鷹宮を見た。
いつもの、少し疲れた顔だった。
多くの人に頼られ、多くの判断を求められ、失敗の許されない場所で生きてきた人間の顔。
透は、何か気の利いたことを言おうとはしなかった。
ただ、穏やかに答えた。
「……失敗したら、次にどうすればいいか考えればいいんじゃないですか?」
鷹宮は顔を上げた。
「もちろん、取り返しのつかないこともあると思います。でも、そうじゃないことまで、全部怖がらなくてもいいと思いますよ」
透は、空になりかけた皿を見た。
「少なくとも、ここでは。次にどうするか、一緒に考えられますから」
鷹宮は、何も言わなかった。
ただ、手元のスプーンを静かに置いた。
そして、深く頭を下げる代わりに、小さく笑った。
「……ありがとう」
「いえいえ」
透は、いつもの調子で答えた。
「マヨネーズ、まだありますからね。次は少しだけにしましょう」
鷹宮は、思わず笑った。
「ああ。次は、少しだけにする」
*
その日の午後。
灰都の裏社会では、マヨネーズに関する報告が相次いでいた。
ある組織では、幹部がチャーハンにマヨネーズをかけた。
別の組織では、若い構成員が「自分はそのままのほうが好きだ」と発言した。
さらに別の組織では、調理担当者がマヨネーズの量を間違え、全体に混ぜてしまった。
結果は、さまざまだった。
おいしいと感じた者。
苦手だと感じた者。
思ったより悪くないと感じた者。
そして、何も変わらないと感じた者。
誰一人として、同じ感想にはならなかった。
それでも、何か大きな争いが起こることはなかった。
なぜなら、誰かがマヨネーズを好きだからといって、別の誰かが嫌いであることを否定する必要はなかったからだ。
もちろん、灰都の裏社会にいる全員が、そのことを理解したわけではない。
だが、少なくとも、CAFE 灯に出入りする者たちは、少しずつ知り始めていた。
自分が好きなものを、好きだと言ってもいい。
自分が苦手なものを、苦手だと言ってもいい。
誰かと違っていても、それだけで関係が壊れるわけではない。
その当たり前のことを、彼らはチャーハンと調味料を通じて学んでいた。
*
夕方。
透が、カウンターで明日の仕込みを確認していると、渡り烏が声をかけた。
「店主」
「はい?」
「一つ聞いてもいいか」
「もちろんです」
「明日は、何を作る予定だ?」
「そうですね……」
透は、冷蔵庫の中身を思い出した。
「鶏肉と野菜が残っていますから、焼きそばにしようかなと思っています」
「焼きそばか」
渡り烏は頷いた。
「いいな。俺は好きだ」
「そうですか。じゃあ、少し多めに作っておきますね」
「いや、全員分を用意する必要はない。食べたい者だけでいい」
透は笑った。
「そうですね。食べたい人がいたら、声をかけてください」
渡り烏は、その言葉を聞いて、目を細めた。
かつての彼なら、全員が参加できるように調整しようとしただろう。
全員に連絡し、希望を聞き、食材の量を計算し、参加者をまとめる。
それも悪くはない。
だが、全員が同じことをする必要はないのだ。
食べたい者は食べればいい。
食べたくない者は、別のものを選べばいい。
その程度のことで、誰かが仲間から外れるわけではない。
「……そうだな」
渡り烏は、穏やかに笑った。
「明日は、焼きそばを食べに来るとしよう」
「お待ちしています」
その会話を聞いていた道化師が、すぐに顔を上げた。
「焼きそばか。麺を先に焼くか、具材を先に炒めるかで、仕上がりが変わる可能性がある」
「……道化師」
王冠が言った。
「明日は、普通に食べろ」
「俺は普通に食べるつもりだ」
「その言葉を、俺はもう信用していない」
黒百合が笑った。
「でも、焼きそばなら、ソースの量も好みが分かれそうね」
葬送が頷く。
「肉を多く入れたい」
零は少し考えた。
「私は、野菜を多めにしたいかな」
鷹宮が口を開いた。
「……焼きそばにも、マヨネーズをかけるのか?」
全員が、静かになった。
道化師の手が、ゆっくりとノートへ伸びた。
王冠が、その手を押さえた。
「書くな」
「しかし、焼きそばとマヨネーズの組み合わせは、すでに一般的に知られている」
「なら、なおさら記録する必要はない」
「……確かに」
道化師は、珍しく素直にノートを閉じた。
透は、そのやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「焼きそばも、好きなように食べればいいと思いますよ。ソースだけでもいいですし、マヨネーズをかけてもいいですし」
王冠は、深くため息をついた。
「……店主」
「はい?」
「あなたは、本当に何も考えていないのだな」
「えっ?」
透は、少し困ったように笑った。
「焼きそばのことなら、明日考えますよ」
王冠は、額に手を当てた。
黒百合は笑いをこらえ、葬送は明日の肉の量を考え始め、道化師は閉じたノートを抱え、渡り烏は窓の外を眺めた。
零は、そんな全員を見て、静かに笑った。
明日は、焼きそば。
ソースを多めにする者もいるだろう。
野菜を多くする者もいるだろう。
マヨネーズをかける者も、かけない者もいる。
そして、誰かが失敗するかもしれない。
それでも、ここでは、次がある。
朝霧透は、ただ普通の昼食を用意しようとしているだけだった。
しかし、六人の伝説と灰都の裏社会は、明日の焼きそばを前に、すでに新たな問題を抱え始めていた。
――ソースは、最初から全体にかけるべきか。
それとも、食べる直前に自分で足すべきか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




