第44話 店主が「ケチャップをかけても、おいしければいいんじゃないですか」と言った結果、灰都の裏社会で炒飯の伝統が崩壊しかける
料理には、自由がある。
何を入れるか。
どの順番で作るか。
どのくらい味を濃くするか。
そして、完成した料理に何をかけるか。
朝霧透にとって、それらはごく当たり前のことだった。
冷蔵庫にある材料で工夫する。
味見をして、足りなければ調味料を足す。
自分の好きな味にする。
料理とは、そういうものだと思っている。
だが、灰都の裏社会において、自由という言葉は時として危険だった。
特に、長年守られてきた慣習に関わる場合は。
そして今、その慣習を揺るがそうとしているのは、ひと皿のチャーハンだった。
*
「……店主」
CAFE 灯のカウンターで、鷹宮宗一郎が真剣な顔をしていた。
「はい?」
「昨日のチャーハンだが」
「ああ、ケチャップをかけて食べていたものですね」
「そうだ」
鷹宮は、目の前の皿を見下ろした。
皿の上には、透が昼食用に作ったチャーハンが盛られている。
具材は鶏肉、長ねぎ、卵。
味付けは塩と醤油を中心にした、ごく一般的なものだ。
そして、その横には小さなケチャップの容器が置かれていた。
「……もう一度、試してみようと思う」
「いいですね」
透は、コーヒーを淹れながら笑った。
「昨日は、ちょっとだけでしたからね。今日は好きなだけ試してみてください」
鷹宮は頷いた。
その様子を、店内にいた六人の伝説が見つめていた。
王冠は新聞を畳んだ。
黒百合はカップを置いた。
葬送は厨房から顔を出した。
道化師は、すでにノートを開いていた。
渡り烏は、何かを察したように目を閉じた。
零は、ケチャップの容器を見つめている。
「……何かしら、この緊張感」
黒百合が呟いた。
「鷹宮さんが、食事をするだけでしょう?」
「そのはずだ」
渡り烏が答えた。
「そのはずなんだがな」
道化師が、静かにペンを走らせた。
「昨日の試行では、ケチャップを少量使用した。本人の感想は『悪くない』。本日は使用量を増やし、再現性と嗜好の変化を確認するものと思われる」
「……道化師」
王冠が低い声で言った。
「何を記録している」
「食文化における新しい試みだ」
「記録する必要はない」
「しかし、鷹宮宗一郎が自ら既存の調理法を離れ、新しい味覚を模索している」
「チャーハンにケチャップをかけているだけだ」
「その『だけ』を軽視してはいけない」
道化師は真剣だった。
「これまで自分の好みを明確に語らなかった人物が、新しい味を自ら試している。しかも、昨日の結果を受けて再挑戦している。これは継続的な自己選択の表れだ」
王冠は、口を閉じた。
言いたいことは山ほどあった。
だが、鷹宮が昨日、自分で作ったチャーハンを嬉しそうに食べていたことを思い出すと、強く否定する気にもなれなかった。
「……記録は一行にしておけ」
「一行では足りない」
「なら、記録するな」
「それは困る」
「困らなくていい」
いつものやり取りだった。
ただし、今日は全員の視線が鷹宮の皿に集まっていた。
*
鷹宮は、ケチャップの容器を手に取った。
蓋を開ける。
赤い液体が、ゆっくりと口元に現れた。
彼は、チャーハンを見つめた。
昨日は、ほんの少しだった。
味の変化を確かめるには、量が少なすぎたのかもしれない。
では、今日はどうするべきか。
少量を追加する。
それとも、最初から全体に混ぜる。
あるいは、一口分だけにかける。
「……鷹宮さん?」
透が声をかけた。
「何か迷っていますか?」
「いや。どの程度かけるべきか、考えていた」
「ああ、なるほど」
透は、ケチャップの容器を見た。
「最初は少しだけにして、味を見ながら増やせばいいと思いますよ」
「……途中で変更してもいいのか?」
「もちろんです。最初から完璧な量なんて、わからないですから」
鷹宮は、ゆっくりと頷いた。
少しだけかける。
食べてみる。
必要なら増やす。
それだけのことだ。
彼はチャーハンの端に、細くケチャップを垂らした。
赤い線が、黄色い卵と白い米粒の上に伸びる。
鷹宮はスプーンを手に取り、一口すくった。
口に運ぶ。
噛む。
そして、静かに飲み込んだ。
「……どうですか?」
零が、思わず尋ねた。
鷹宮は考えた。
酸味がある。
醤油の香ばしさが少し変わる。
鶏肉の味も、昨日とは違って感じられる。
決して、今まで食べたことのない味ではない。
だが、思っていたほど悪くもなかった。
「……悪くない」
黒百合が肩を落とした。
「その感想、便利ね」
「実際に悪くないのだから、仕方がない」
「もう少し何かないの?」
鷹宮は、もう一口食べた。
今度は、先ほどより少し多めにケチャップをつける。
「……少し酸味が強くなるな」
「そうですね」
透は頷いた。
「かける量で、かなり変わりますから」
「なるほど」
鷹宮は、ケチャップの量を見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……これは、自分で調整できるのがいいな」
その一言に、零が顔を上げた。
「自分で?」
「ああ。最初から味が決まっているわけではない。自分で足して、自分で決められる」
鷹宮は、スプーンを置いた。
「同じ料理でも、自分の好みに変えられるということか」
「そうですね」
透は何でもないことのように答えた。
「料理って、そういう楽しみもありますから」
鷹宮は、再びチャーハンを食べ始めた。
ケチャップをかけた部分。
かけていない部分。
その両方を、交互に食べる。
そして、最後に言った。
「……俺は、少しかけるのが好きらしい」
店内が静かになった。
道化師のペンが止まった。
王冠が目を細めた。
黒百合は、口元を押さえた。
渡り烏は、とうとう額に手を当てた。
「……また一つ、好みが見つかったな」
彼が言った。
鷹宮は頷いた。
「ああ」
透は、嬉しそうに笑った。
「よかったですね」
その瞬間。
道化師のノートに、新たな一行が加わった。
『鷹宮宗一郎、ケチャップは少量を好む』
王冠は、それを見て静かに言った。
「……燃やせ」
「なぜだ」
「情報として扱うな」
「しかし、本人の嗜好に関する貴重な記録だ」
「貴重ではあるが、機密ではない」
「機密でなくとも記録する価値はある」
「ない」
黒百合が二人の間に割って入った。
「もういいから、あなたたちも食べなさいよ。チャーハンが冷めるでしょう」
葬送が頷いた。
「冷める前に食べる。それが正しい」
「今、正しさの話はしていないのよ」
*
その日の昼食は、全員がケチャップを試すことになった。
もちろん、透が勧めたわけではない。
ただ、鷹宮の皿を見ていた黒百合が「少しだけなら試してもいいかもしれない」と言い、葬送が「味を確かめるだけなら」と続け、零が「私も少しだけ」と言ったのである。
王冠は最後まで参加しないつもりだった。
だが、目の前で全員が味を試しているのを見て、とうとうスプーンを手に取った。
「……あくまで比較のためだ」
「はいはい」
黒百合は笑った。
「誰も王冠に、ケチャップを好きになれなんて言っていないわよ」
王冠は、チャーハンの端にほんの少しケチャップをつけた。
一口食べる。
そして、眉を動かした。
「……思ったより、酸味が強い」
「嫌い?」
黒百合が尋ねる。
「嫌いとは言っていない」
「じゃあ、どうなの?」
「……少量なら、悪くない」
「鷹宮さんと同じじゃない」
「同じではない。俺は味の変化を確認しただけだ」
「はいはい」
王冠は、反論をやめた。
自分でも、何を守ろうとしているのか、少しわからなくなっていた。
葬送は、チャーハンにケチャップをかけると、しばらく見つめた。
「……赤いな」
「ケチャップですからね」
透が答える。
「味も赤いのか?」
「味は赤くないと思いますけど」
透は困ったように笑った。
葬送は、一口食べた。
そして、真剣な顔で頷いた。
「……肉料理には合うかもしれない」
「チャーハンも肉料理の一種と考えれば、そうかもしれませんね」
「なるほど」
葬送は、納得したようにもう一口食べた。
道化師は、チャーハンの四分の一にケチャップをかけ、残りをそのままにしていた。
「何をしているの?」
黒百合が尋ねた。
「比較実験だ。ケチャップあり、なし、少量、混合。四つの条件で味の違いを確かめる」
「料理を食べるだけなのに、どうして条件が四つもあるのよ」
「違いを把握するためだ」
「あなた、昨日は三種類のチャーハンを作っていたでしょう」
「だからこそ、今日は四種類だ」
「増やさなくていいの!」
零は、ケチャップをほんの少しだけつけたチャーハンを食べていた。
甘酸っぱい味が広がる。
少し驚いたが、嫌ではなかった。
「……私は、ほんの少しだけなら好きかも」
透が笑った。
「よかったですね」
「うん。でも、かけないほうも好き」
「それなら、両方食べればいいですよ」
零は、皿を見つめた。
かけるか、かけないか。
どちらか一つに決めなければならないと思っていた。
でも、そんな必要はない。
今日はかける。
明日はかけない。
途中で気が変わったら、次は違うものを選ぶ。
料理のことなら、そんな自由が許される。
それを、零は少しずつ知っていた。
「……うん。両方にする」
彼女は、嬉しそうに笑った。
*
ところが。
灰都の裏社会において、昼食の話題が平和に終わることは、ほとんどなかった。
その日の午後。
とある地下会議室で、緊急会議が開かれていた。
「報告します」
情報管理担当者が、資料を机に置いた。
「鷹宮宗一郎が、チャーハンにケチャップを使用しました」
出席者全員が沈黙した。
「……何だと?」
「さらに、少量を好むと発言した模様です」
「少量……?」
「はい」
会議室の空気が、急速に重くなった。
鷹宮宗一郎は、灰都の裏社会において大きな影響力を持つ人物だ。
彼の行動は、常に注目される。
何を食べるか。
どこへ行くか。
誰と会うか。
それらはすべて、何らかの意図があるものとして解釈されてきた。
だからこそ、今回の報告も、ただの食事として受け取られることはなかった。
「……これは、従来の食文化への挑戦なのか?」
「可能性はあります」
「いや、待て。ケチャップは、もともとオムライスなどにも使用される調味料だ。チャーハンに使用すること自体は、新しいとは限らない」
「しかし、鷹宮宗一郎が自ら選んだという点が重要です」
「つまり、既存の慣習を否定するのではなく、選択肢を増やすということか……?」
「そう解釈することも可能です」
会議室の端に座っていた男が、静かに口を開いた。
「……待て」
全員が彼を見た。
「そもそも、チャーハンにケチャップをかけることは、禁止されていたのか?」
沈黙。
「……禁止されてはいない」
「ならば、なぜ挑戦と呼ぶ必要がある?」
誰も答えられなかった。
やがて、一人が小さく手を挙げた。
「……長年、誰も試していなかったからでは?」
「試していないことと、禁止されていることは違う」
男は、資料を閉じた。
「本人が食べたいものを食べただけだろう」
その言葉は、あまりにも単純だった。
だが、会議室にいた者たちは、すぐには納得できなかった。
彼らは長年、あらゆる行動に意味を求めてきた。
何かを選ぶなら、目的がある。
何かを変えるなら、計画がある。
誰かが新しいことを始めるなら、背後に意図がある。
そう考えることで、危険を予測し、対策を立ててきた。
しかし。
世の中には、ただ試してみたいから試すという行動もある。
ただ好きだから選ぶということもある。
その単純さを、彼らは忘れかけていた。
「……では、この件はどう扱うべきでしょうか」
担当者が尋ねた。
男は、少し考えた。
「保留だ」
「保留?」
「危険が確認されていない。誰かが強制されたわけでもない。ならば、今は何もする必要がない」
「しかし、鷹宮宗一郎の影響力を考慮すると――」
「影響力があるからといって、ケチャップを禁止する権限まで生まれるわけではない」
その言葉に、誰も反論できなかった。
会議は、ひとまず終了した。
だが、出席者の何人かは、帰り道にコンビニでケチャップを買った。
自分でも試してみたくなったからである。
*
その頃、灰都情報管理連絡会では、さらに深刻な問題が発生していた。
「責任者!」
調査員が、慌てて部屋に入ってきた。
「どうした」
「各組織から、ケチャップの使用に関する問い合わせが届いています」
「……何?」
「チャーハンにケチャップをかけることは、鷹宮宗一郎への支持表明になるのか。少量なら問題ないのか。ケチャップを全体に混ぜる行為は、別の立場を意味するのか、と」
責任者は、ゆっくりと目を閉じた。
「……全部、料理の話だな?」
「はい」
「政治でも、軍事でもなく?」
「はい」
「……そうか」
責任者は、机の上にあった書類を裏返した。
「全部、返答しなくていい」
「ですが、問い合わせが増えています」
「なら、一つだけ回答を出せ」
「どのような?」
責任者は、深く息を吸った。
「『チャーハンにケチャップをかけるかどうかは、個人の自由である』」
調査員は、真剣な顔で頷いた。
「承知しました」
「それから、鷹宮宗一郎の食事に関する報告書は、今後、原則として作成しない」
「原則として、ですか?」
「例外は、本人が食中毒になった場合だけだ」
「……承知しました」
調査員は退室した。
責任者は、一人になった部屋で、しばらく天井を見上げていた。
その後、昼食の時間になった。
食堂のメニューは、チャーハンだった。
責任者は、しばらく皿を見つめていた。
そして、調味料の棚からケチャップを取った。
ほんの少しだけ、かけてみる。
一口食べる。
「……なるほど」
酸味がある。
思ったよりも悪くない。
彼は、少し考えてから、もう一口食べた。
「……少量なら、悪くないな」
それから、周囲を見回した。
誰も見ていない。
責任者は、ほっと息を吐いた。
だが、食堂の隅では、若い調査員がその様子を見ていた。
翌日、責任者の机には新しい報告書が置かれていた。
『責任者、チャーハンにケチャップを使用。少量を好む可能性』
責任者は、報告書を三つ折りにした。
「……君は、明日から食堂のメニューを担当しろ」
「えっ?」
「調査は、もう十分だ」
*
夕方。
CAFE 灯の店内は、穏やかだった。
零は、洗い終えた皿を棚に戻していた。
透は、明日の仕込みを確認している。
王冠は新聞を読み、黒百合はコーヒーを飲んでいた。
葬送は、厨房で使った包丁を丁寧に拭いている。
道化師は、ノートを閉じていた。
渡り烏は、窓の外を眺めていた。
そして鷹宮は、今日もカウンターに座っていた。
「……店主」
「はい?」
「今日は、ケチャップをかけなかった」
「そうなんですか?」
「ああ。昨日試したから、今日はそのまま食べてみた」
「どうでした?」
「……こちらも好きだ」
透は笑った。
「よかったですね」
「自分でも、少し不思議だ」
「何がですか?」
「昨日は、ケチャップをかけたほうがいいと思った。今日は、かけないほうがいいと思った。どちらも、自分の気持ちだ」
「そうですね」
透は、カップを拭きながら答えた。
「毎日同じものを好きでいなくてもいいと思いますよ」
鷹宮は、静かに顔を上げた。
「……変わってもいいのか」
「もちろんです。昨日は好きだったものが、今日はそうでもないことだってありますし。逆に、昨日は苦手だったものが、今日はおいしく感じることもあります」
「それを、気まぐれとは言わないのか?」
「気まぐれでもいいんじゃないですか?」
透は笑った。
「自分で食べて、自分で決めたんですから」
鷹宮は、しばらく黙っていた。
彼はこれまで、判断を変えることを慎重に考えてきた。
一度決めた方針を変えるには、理由が必要だった。
昨日の判断と今日の判断が違うなら、どこかに誤りがあったのではないかと考えた。
だが、食事の好みは違うらしい。
昨日はケチャップを試したかった。
今日は、そのまま食べたかった。
ただ、それだけだ。
「……ならば、明日はまたケチャップをかけてもいいのか」
「もちろんです」
透は、あっさり答えた。
鷹宮は、少しだけ笑った。
「……そうか」
零が、二人の会話を聞きながら近づいてきた。
「私も、昨日と今日は違うものを食べたよ」
「そうなのか?」
「うん。昨日は甘いものが食べたかったけど、今日は塩味のものがよかった」
「それでいいのか?」
「うん。透さんが、そう言ってくれたから」
零は、少し照れたように笑った。
「好きなものは、自分で決めていいんだよね」
鷹宮は、彼女を見た。
それから、ゆっくりと頷いた。
「ああ。自分で決めていい」
その言葉は、誰かに教えるためのものではなかった。
自分自身に、もう一度言い聞かせるためのものだった。
*
その夜。
王冠は、帰り際に透へ尋ねた。
「店主」
「はい?」
「一つ、確認したいことがある」
「何でしょう?」
「明日の昼食は何だ?」
「明日ですか? まだ決めていませんけど」
「そうか」
王冠は少し考えた。
「……ケチャップを使う料理ではないほうがいい」
「えっ?」
黒百合が、すぐに振り返った。
「どうして?」
「別に、ケチャップが嫌いなわけではない。ただ、連日同じ調味料を使う必要はないだろう」
「つまり、今日はケチャップを使いたくないのね?」
「……そういうことだ」
黒百合は、楽しそうに笑った。
「ちゃんと自分の好みを言えるようになったじゃない」
「料理の話だ」
「料理の話でも、よ」
王冠は、少しだけ黙った。
以前の自分なら、明日の昼食など気にしなかった。
用意されたものを食べればいい。
必要な栄養が取れればいい。
それで十分だった。
だが、今は少し違う。
何を食べたいか。
何を食べたくないか。
自分の希望を言葉にしてもいいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
「……店主」
「はい?」
「明日は、普通のサンドイッチでいい」
「わかりました。卵サンドとハムサンドなら、どちらがいいですか?」
王冠は、すぐに答えようとして、止まった。
どちらがいいか。
そんなことを聞かれた経験は、ほとんどない。
だが、透は答えを急かさなかった。
ただ、静かに待っていた。
「……ハムサンドにする」
「はい。ハムサンドですね」
透は笑った。
王冠は、その笑顔を見て、わずかに肩の力を抜いた。
自分で選んだ。
ただ、それだけのことだった。
*
翌朝。
透は、店の黒板に本日のおすすめを書いていた。
『本日のおすすめ
手作りハムサンド
自家製プリン
ブレンドコーヒー』
零が、その横で小さなメモを貼った。
『ケチャップは、お好みでどうぞ』
「……零さん?」
透が首を傾げた。
「これ、何ですか?」
「昨日、みんながケチャップを試していたから。使いたい人がいたら、自分で選べるようにしておこうと思って」
「なるほど。いいですね」
零は、少し嬉しそうに笑った。
自分で考えて、提案した。
以前なら、こんなことをするのにも迷っていたかもしれない。
余計なことではないか。
店主の考えと違うのではないか。
そう考えて、何も言わなかったかもしれない。
でも、今は違う。
自分がよいと思ったことを、まず提案してみる。
違っていたら、話し合えばいい。
透は、メモを見て頷いた。
「お客さんが、自分の好きな味にできるのはいいことですね」
「うん」
零は、嬉しそうに頷いた。
そのとき、店の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、鷹宮だった。
「おはようございます」
透が挨拶する。
「ああ。おはよう」
鷹宮は黒板を見た。
そして、ケチャップのメモに気づいた。
「……これは?」
「零さんが貼ってくれたんです。ケチャップも、お好みで使えるように」
鷹宮は、零を見た。
「君が考えたのか」
「うん。使いたい人が、自分で選べたらいいなと思って」
「……いい考えだ」
零は、少し照れたように笑った。
その後、王冠、黒百合、葬送、道化師、渡り烏も店に入ってきた。
全員が黒板を見た。
「ケチャップは、お好みでどうぞ、か」
道化師が読み上げた。
「これは、調味料の選択権を客に委ねるということだな」
「違うわよ。好きに使っていいってだけでしょう」
黒百合が言った。
「結果としては同じだ」
「あなたは、どうして何でも難しくするの?」
道化師は、少し考えた。
「……癖だろうな」
「自覚はあるのね」
葬送は、厨房のケチャップを見た。
「今日は、チャーハンはないのか?」
「今日はサンドイッチですよ」
透が答えた。
「そうか」
葬送は少し残念そうにしたが、すぐに頷いた。
「なら、ハムサンドを食べよう」
王冠も頷いた。
「俺も、ハムサンドだ」
「私は卵サンド」
黒百合が言った。
「俺は両方」
道化師が続ける。
「……あなた、昨日から何も学んでいないわね」
「両方食べたいのだから、仕方がない」
渡り烏は笑った。
「それでいいんじゃないか。食べたいものを選べばいい」
鷹宮は、カウンターに座った。
「俺は、ハムサンドと苦いコーヒーを」
「かしこまりました」
透は厨房へ向かった。
いつもの朝だった。
誰かが食べたいものを選び、誰かが違うものを選ぶ。
同じものを頼んでもいい。
違うものを頼んでもいい。
気が変わったら、次に変えてもいい。
そんな当たり前の自由が、この小さな店にはあった。
*
その日の昼過ぎ。
灰都情報管理連絡会には、一枚の報告書が届いた。
『CAFE 灯において、調味料の使用を客の自由選択とする掲示を確認。店内に混乱はなく、客同士の対立も発生していない』
責任者は、その報告書を読んだ。
そして、ペンで大きく一言だけ書き込んだ。
『問題なし』
調査員が、少し不安そうに尋ねた。
「……これだけでよろしいのですか?」
「ああ」
「しかし、鷹宮宗一郎を含む複数の有力者が、同じ店で異なる食事の好みを示しているという点は――」
「問題なし」
「ケチャップの使用量についても、個人差が――」
「問題なし」
「今後、別の調味料が持ち込まれた場合は――」
「そのとき考える」
責任者は報告書を閉じた。
「我々は、街の安全を守るために働いている。誰が何をかけて食べるかを監視するためではない」
「……承知しました」
調査員は頭を下げた。
だが、退室する直前、ふと足を止めた。
「責任者」
「今度は何だ」
「私も、今日の昼食にケチャップをかけてみました」
責任者は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それで?」
「少量なら、おいしかったです」
責任者は、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「……その感想は、報告しなくていい」
「はい」
調査員は、笑顔で退室した。
責任者は一人になった部屋で、机の引き出しを開けた。
そこには、以前の報告書がしまわれていた。
鷹宮宗一郎が、自分でチャーハンを作ったこと。
自分の好みを口にしたこと。
そして、自分で作ったものを「好きだ」と言ったこと。
責任者は、それらをしばらく眺めていた。
街を変えるのは、大きな決断だけではないのかもしれない。
自分が何を好きなのかを知る。
それを、誰かに伝える。
違う好みを持つ相手と、同じテーブルにつく。
そんな小さなことも、人が生きるうえでは必要なのだろう。
責任者は、引き出しを閉めた。
「……明日は、何を食べようか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
*
夕方。
CAFE 灯の閉店時間が近づいていた。
透は、厨房の片づけを終え、カウンターに座った。
零が、最後のカップを棚に戻す。
「今日も、楽しかったね」
透が言った。
「うん」
零は頷いた。
「ケチャップのメモ、貼ってよかった?」
「もちろんです。零さんが考えてくれたんですから」
「……そっか」
零は、少しだけ嬉しそうに笑った。
以前の自分なら、誰かの考えに合わせることばかりを考えていた。
失敗しないように。
間違えないように。
迷惑をかけないように。
でも、今は少しずつ、自分の考えを形にできるようになっていた。
それが誰かの役に立つこともある。
もちろん、うまくいかないこともあるだろう。
それでも、試してみることはできる。
「……透さん」
「はい?」
「私、これからも、いろいろ考えてみるね」
「いいですね」
「お店のことも、自分のことも」
「はい。何か思いついたら、いつでも相談してください」
透は笑った。
「みんなで考えればいいんですから」
零は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
店の外では、灰都の夜が始まろうとしていた。
裏社会では、今日もさまざまな思惑が動いている。
誰かが誰かを警戒し、誰かが情報を集め、誰かが次の一手を考えている。
その一方で、CAFE 灯では、ただのケチャップが客の好みを変え、誰かの小さな提案が店の習慣になろうとしていた。
世界を変えようとしたわけではない。
誰かを導こうとしたわけでもない。
ただ、好きなものを好きなように食べてほしかった。
それだけだった。
そして翌朝。
透は、仕込みのために冷蔵庫を開けた。
卵。
ハム。
チーズ。
野菜。
そして、昨日より少し減ったケチャップ。
「……あれ?」
透は、ケチャップの容器を手に取った。
「昨日、こんなに使いましたっけ?」
厨房の入口から、道化師が顔を出した。
「使用量の記録なら、俺が取っている」
「……え?」
「昨日のケチャップ使用量は、通常比で約三倍だ」
「記録していたんですか?」
「当然だ。新しい食文化の定着過程を――」
「道化師さん」
透は、困ったように笑った。
「ケチャップは、好きに使っていいですけど、記録までしなくていいんですよ」
道化師は、しばらく黙っていた。
そして、ノートを閉じた。
「……わかった」
その直後、店の扉が開いた。
鷹宮が入ってきた。
「店主。今日は、チャーハンを作る予定はあるか?」
「今日はありませんね。どうしてですか?」
「……ケチャップをかけたチャーハンを、もう一度食べてみたくなった」
透は笑った。
「じゃあ、今度また作りましょう」
「ああ」
鷹宮は、満足そうに頷いた。
その後ろでは、王冠が小さくため息をついていた。
「……次は、何が始まるんだ」
黒百合が笑った。
「さあね。でも、少なくとも今日は平和でしょう?」
「そう願いたい」
渡り烏は、窓の外を見た。
「……ただ、あの様子だと」
「何よ?」
「ケチャップの次は、マヨネーズかもしれないな」
全員が、静かになった。
道化師が、ゆっくりとノートを開いた。
王冠が、その手を押さえた。
「書くな」
「まだ何も書いていない」
「書こうとしただろう」
「……否定はしない」
透は、二人のやり取りを見て、不思議そうに首を傾げた。
「マヨネーズですか? チャーハンにかける人もいるんでしょうか」
その瞬間、六人の伝説と鷹宮宗一郎が、同時に透を見た。
透は、きょとんとした。
「……えっと、何か変なことを言いました?」
誰も答えなかった。
ただ、灰都の裏社会ではその日のうちに、ある一つの言葉が静かに広がり始めた。
――次の議題は、マヨネーズ。
朝霧透は、まだ知らない。
自分の何気ない疑問が、灰都の食卓に新たな波紋を広げようとしていることを。
そして、六人の伝説が、たった一本のマヨネーズを前に再び頭を抱えることになるのは、もう少し先の話である。




