第42話 店主が「チャーハンは卵を入れる順番で食感が変わりますよ」と言った結果、灰都の裏社会で卵投入順序を巡る三派閥が生まる
料理には、順番がある。
材料を切る順番。
火を入れる順番。
味をつける順番。
そして、卵を入れる順番。
灰都の裏社会において、順番は極めて重要だった。
交渉の順番を間違えれば、相手に主導権を握られる。
報告の順番を誤れば、情報の価値が失われる。
人を動かす順番を間違えれば、組織全体が崩れる。
だからこそ、六人の伝説と呼ばれる者たちは、何事においても順序を重んじていた。
だが、彼らはまだ知らなかった。
料理における順番は、必ずしも一つの正解にたどり着くためのものではないということを。
その日、CAFE 灯の厨房には、炊きたてではなく、少し冷ましたご飯が用意されていた。
「今日はチャーハンを作りましょうか」
朝霧透が、まな板の上に長ねぎを並べながら言った。
その瞬間、店内の空気が変わった。
王冠が新聞を畳む。
黒百合がコーヒーを置く。
葬送が厨房へ視線を向ける。
道化師は、すでにノートを取り出していた。
渡り烏は、深いため息をついた。
零は、少し楽しそうに目を輝かせた。
そして、鷹宮宗一郎が真剣な顔で尋ねた。
「……卵は、いつ入れる?」
「え?」
透は包丁を止めた。
「そうですね。最初に卵を炒めてからご飯を入れる方法もありますし、ご飯を炒めてから卵を入れる方法もありますよ」
道化師のペンが動き始めた。
「二つの方式が存在するのか」
「はい。卵を先に入れると、ふわっとした卵とご飯がまとまりやすいですし、あとから入れると、ご飯に卵が絡んでぱらっとした感じになります」
王冠が静かに頷いた。
「食感が変わる」
「そうですね。どちらが正しいというより、好みの問題だと思います」
その言葉に、全員が黙った。
好み。
正解が一つではない。
それは、彼らにとって料理の話にしては、あまりにも重大な響きを持っていた。
「……つまり」
道化師が、ゆっくりと口を開いた。
「卵を入れる順番によって、同じ材料でも異なる結果が生じる。しかも、その結果に優劣はなく、個人の選好によって評価が変わる」
「そうですね」
「ならば、比較検証が必要だ」
「食べ比べるくらいなら、いいと思いますよ」
透は笑った。
だが、その一言が、灰都の裏社会を三つの派閥に分けることになるとは、彼自身まだ知らなかった。
*
「まず、卵を先に入れる方式が基本だ」
王冠が、厨房の作業台に材料を並べながら言った。
「熱した油に卵を入れ、半熟の状態でご飯を加える。これが最も安定する」
「安定という言葉で、好みを決めないで」
黒百合が即座に反論した。
「私は、ご飯を炒めてから卵を入れるほうが好き。卵がご飯に絡んで、全体がまとまるから」
「それは、卵の存在感が薄くなる」
「それがいいのよ」
「卵は卵として感じられるべきだ」
「誰が決めたのよ」
王冠と黒百合の間に、早くも火花が散った。
道化師は、二人の会話を聞きながら、紙に二本の線を引いた。
「卵先行派と、卵後入れ派か」
「派閥にしないで」
渡り烏が言った。
「まだ料理を始めてもいない」
「しかし、すでに意見の相違が明確になっている」
「意見が違うだけで、組織を分けるな」
道化師は少し考えた。
「では、暫定的な分類に留める」
「分類もしなくていい」
葬送は、二人のやり取りを見ながら、静かに手を挙げた。
「俺は、卵を最後に入れる」
全員が葬送を見た。
「最後?」
透が尋ねる。
「ご飯と具材を炒め、味をつけたあと、最後に卵を入れる。卵の形を残したい」
「それだと、卵が固まりすぎるかもしれませんね」
「それでもいい」
葬送は、真剣な顔で答えた。
「卵は、卵として存在してほしい」
黒百合が目を細めた。
「それ、卵先行派と何が違うの?」
「最後に入れる」
「順番が違うだけじゃない」
「だから違う」
道化師のペンが、さらに一本の線を引いた。
「卵先行派、卵後入れ派、卵最終投入派。三派閥が成立した」
「成立させないで!」
黒百合の声が厨房に響いた。
*
透は、三つのフライパンを用意した。
「じゃあ、せっかくなので、三種類作ってみましょうか」
「三種類」
王冠が確認する。
「同じ具材で、卵を入れる順番だけ変える」
「はい。食べ比べてみれば、自分の好きなものがわかるかもしれません」
零が、少し不安そうに尋ねた。
「……もし、好きなものがみんなと違ったら?」
「それでいいんですよ」
透は、長ねぎを刻みながら答えた。
「料理は、自分がおいしいと思うものを選べばいいですから」
零は、少しだけ安心したように頷いた。
彼女は以前なら、誰かと同じものを選ぼうとしていた。
みんなが卵を先に入れるなら、自分もそうする。
みんなが後に入れるなら、自分も合わせる。
違う意見を言えば、迷惑をかけるかもしれない。
そう考えていた。
だが、透は何でもないことのように言った。
自分がおいしいと思うものを選べばいい。
その言葉は、零の中に静かに残った。
「じゃあ、私は……卵を先に入れるのを試してみたい」
「いいですね」
透は笑った。
「ふわっとした卵が好きかもしれませんね」
「うん。まだ食べたことがないから、試してみたい」
それは、誰かに合わせた選択ではなかった。
自分で試して、自分で決めるための選択だった。
*
最初のフライパンに油が入る。
王冠が、卵を割った。
殻が入らない。
黄身も崩れない。
完璧な割り方だった。
「……見事ね」
黒百合が、思わず感心する。
「卵を割るだけで、そこまで評価されるとは思わなかった」
王冠は、卵をフライパンへ流し入れた。
じゅわっと音がする。
卵が膨らみ、白身が固まり始める。
「ここでご飯を入れる」
王冠は、迷いなくご飯を加えた。
木べらで卵を崩し、ご飯と混ぜる。
動きに無駄がない。
「王冠さん、料理も手際がいいですね」
透が言った。
「手順が明確だからな」
「料理は、手順どおりにいかないこともありますけどね」
「その場合は、手順を修正する」
「そういうところは、いつもどおりですね」
透は笑った。
王冠は、少しだけ眉を動かした。
自分が料理をしているときまで、組織運営と同じ考え方をしていることに気づいたのだ。
だが、フライパンの中で卵とご飯が混ざっていく様子を見ていると、悪い気はしなかった。
決めた順番に従って、材料が変化していく。
その変化を、自分の目で確かめる。
それは、思っていたよりも楽しかった。
*
二つ目のフライパンでは、黒百合がご飯を炒めていた。
「ご飯を先に入れると、油が全体に回るのよ」
「卵はまだ入れないのか?」
王冠が尋ねる。
「まだ。焦らないで」
「卵を入れる時間が遅くなる」
「だから何?」
「卵の火の通りが変わる」
「それが狙いなの」
黒百合は、ご飯を軽くほぐした。
長ねぎと鶏肉を加え、塩と少しの醤油で味をつける。
香ばしい匂いが広がった。
「ここで卵を入れる」
黒百合が溶き卵を流し込む。
卵はご飯の隙間に入り込み、全体を包むように固まっていった。
「……なるほど」
道化師が、身を乗り出した。
「卵がご飯の表面に均等に付着している」
「付着って言い方、やめてくれる?」
「しかし、観察結果として正確だ」
「料理を研究資料みたいに扱わないで」
黒百合はフライパンを振った。
ご飯が跳ね、卵が絡み、全体が黄金色に変わっていく。
「ほら。これがいいのよ」
「まだ食べていない」
「見ればわかるでしょう」
「見ただけで味を断定するのは危険だ」
「あなたたち、料理になると本当に面倒ね」
透は、三つ目のフライパンを準備しながら笑っていた。
*
三つ目のフライパンでは、葬送がご飯と具材を炒めていた。
彼は、卵をまだ入れていない。
「葬送さん、卵は最後でいいんですか?」
「そうだ」
「ご飯が熱いうちに入れたほうが、卵が固まりやすいですよ」
「それでいい」
葬送は、炒めたご飯をフライパンの端へ寄せた。
中央に空いた場所へ、溶き卵を流し込む。
卵が固まり始める。
葬送は、卵を崩さず、しばらく待った。
「……葬送さん?」
「卵が固まるまで待つ」
「なるほど」
透は頷いた。
葬送は、昨日のグラタンを思い出していた。
待つこと。
何もしないこと。
すぐに手を出さず、変化を見守ること。
以前の彼なら、卵を入れた瞬間に混ぜていたかもしれない。
早く完成させるために。
失敗を防ぐために。
だが、今は待っている。
卵がどう変わるのかを、自分の目で見ている。
白身が固まり、黄身がゆっくりと色を変える。
まだ柔らかい。
もう少し。
葬送は、静かに待った。
「……葬送さん」
零が声をかけた。
「待つの、上手になったね」
葬送は、少しだけ目を見開いた。
「そうか?」
「うん。昨日は、オーブンの前でずっと立っていたけど」
「今日は、フライパンの前で待っている」
「同じじゃない?」
「……そうかもしれない」
葬送は、ほんの少し笑った。
卵が固まった。
彼は、そこで初めてご飯と混ぜた。
卵は大きめの塊として残り、ご飯の中に散らばった。
「完成だ」
「おいしそうですね」
透が言った。
葬送は、満足そうに頷いた。
「卵が、卵として残っている」
「葬送さんは、本当に卵が好きなんですね」
「……そうかもしれない」
彼は、自分の好みを口にしたことに気づいた。
卵は卵として残っていてほしい。
それが、自分の好みだった。
誰かに命じられたわけでもない。
正しいと教えられたわけでもない。
ただ、自分がそう思った。
それだけのことが、葬送には少し新鮮だった。
*
三種類のチャーハンが完成した。
卵先行。
卵後入れ。
卵最終投入。
透は、それぞれを小皿に分けた。
「じゃあ、食べ比べてみましょう」
全員が席についた。
王冠は卵先行の皿を見つめた。
黒百合は卵後入れの皿を自分の前に置いた。
葬送は、卵最終投入の皿を守るように手を添えた。
道化師は、三つの皿を同じ距離に並べた。
渡り烏は、全員の顔を見回した。
「……まさか、チャーハンを食べるだけで、ここまで緊張するとはな」
「緊張する必要はないでしょう」
透が笑った。
「好きなものを食べて、好きな感想を言えばいいんですから」
その言葉に、鷹宮が顔を上げた。
「好きな感想を?」
「はい。おいしいと思ったら、おいしい。好みじゃなかったら、そう言っても大丈夫です」
鷹宮は、三つの皿を見た。
彼はこれまで、食事の感想を求められることなどほとんどなかった。
食べられるか。
栄養があるか。
時間内に済ませられるか。
料理に対して、好みを問われたことはない。
好みを持つこと自体が、贅沢だと思っていた。
「……では」
鷹宮は、卵先行のチャーハンを一口食べた。
卵がふわっとしている。
ご飯と具材がまとまり、口当たりも柔らかい。
「悪くない」
次に、卵後入れのチャーハンを食べた。
ご飯に卵が絡み、香ばしさが強い。
「これも、悪くない」
最後に、卵最終投入のチャーハンを食べた。
卵の塊が残り、ご飯とは違う食感がある。
鷹宮は、しばらく黙っていた。
「……どうですか?」
透が尋ねる。
鷹宮は、三つの皿を見比べた。
いつもの彼なら、どれが最も効率的か、どれが最も完成度が高いかを考えただろう。
だが、透は聞いている。
どれが好きか。
自分は、何を好むのか。
鷹宮は、もう一度、卵最終投入のチャーハンを食べた。
「……これがいい」
店内が静かになった。
「卵が、卵として残っている」
鷹宮は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ご飯と混ざりすぎず、別の食感がある。俺は、これが好きだ」
それは、鷹宮宗一郎が初めて、自分の好みをはっきりと主張した瞬間だった。
王冠が、わずかに目を見開いた。
黒百合は、少し驚いたあと、笑った。
葬送は、静かに頷いた。
道化師は、ノートに何かを書こうとして、やめた。
渡り烏は、何も言わずに微笑んだ。
透は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、鷹宮さんは卵を最後に入れるのが好きなんですね」
「ああ」
「次からは、それで作りましょうか?」
鷹宮は、少し考えた。
「……いや」
「はい?」
「次は、俺が作る」
全員が、鷹宮を見た。
「鷹宮さんが?」
「自分の好みなら、自分で作れるようになりたい」
透は、目を細めた。
「いいですね。じゃあ、次は一緒に作りましょう」
「……ああ」
鷹宮は、少しだけ笑った。
自分が何を好きなのか。
それを知ることは、思っていたよりも難しくなかった。
ただ、誰かに尋ねられたことがなかっただけなのだ。
*
食べ比べの結果、意見は見事に分かれた。
「私は卵後入れが好き」
黒百合が言った。
「ご飯に卵が絡んでいるほうが、全体のまとまりがいいもの」
「俺は卵最終投入だ」
葬送が続ける。
「卵の形が残っている」
「私は、卵先行が好きかも」
零が言った。
「ふわっとしていて、やさしい感じがする」
「俺は卵先行だな」
王冠が言った。
「最も安定している」
「それは好みなのか、評価なのかしら」
黒百合が尋ねる。
「両方だ」
「便利な答えね」
道化師は、三つの皿を見ながら考えていた。
「俺は、三種類すべてに異なる利点があると思う」
「つまり、決められないのね」
「違う。状況によって選択すべきだ」
「それを決められないって言うのよ」
道化師は反論しようとしたが、少し考えてから頷いた。
「……そうかもしれない」
渡り烏は、三種類を少しずつ食べていた。
「私は、卵後入れが好みだな」
「渡り烏さんも?」
黒百合が嬉しそうに尋ねる。
「ああ。香ばしさがある」
「でしょう?」
「ただ、葬送の卵最終投入も悪くない」
「そっちも認めるの?」
「好みは一つに限定しなくてもいいだろう」
黒百合は、少し黙った。
「……それもそうね」
透は、全員の皿を見ながら笑った。
「みんな違いますね」
「だからこそ、三種類作った意味があった」
道化師が言った。
「同じ材料でも、順番を変えるだけで結果が変わる。さらに、その結果に対する評価も人によって異なる」
「料理って、面白いでしょう?」
「……ああ」
道化師は、ノートを閉じた。
「これは、記録しなくても覚えていられそうだ」
黒百合が、少し驚いた顔をした。
「珍しいわね」
「何が?」
「あなたが、書かずに覚えておくなんて」
「すべてを記録する必要はない」
道化師は、チャーハンをもう一口食べた。
「自分で食べて、感じたことなら、記録よりも確かな場合がある」
透は、その言葉を聞いて嬉しそうに笑った。
*
その日の午後。
灰都情報管理連絡会では、緊急の会議が開かれていた。
「報告します」
調査員が、深刻な顔で資料を差し出した。
「CAFE 灯において、六人の伝説および鷹宮宗一郎が、卵を投入する順番を巡って三つの意見に分かれました」
責任者は、資料を受け取らなかった。
「……三つ?」
「はい。卵先行派、卵後入れ派、卵最終投入派です」
「それは、派閥ではなく好みだ」
「しかし、各派が自らの方式の優位性を主張しており――」
「主張しているだけだろう」
「はい」
「なら、派閥ではない」
「ですが、鷹宮宗一郎が卵最終投入派を支持したことで、影響力のある勢力が――」
「影響力を料理に持ち込むな!」
責任者の声が、会議室に響いた。
調査員は、なおも資料をめくった。
「さらに、鷹宮宗一郎が『俺はこれが好きだ』と発言しました」
責任者の動きが止まった。
「……何?」
「自分の好みを、明確に主張したようです」
会議室が静かになった。
鷹宮宗一郎。
他人の意見を聞き、状況を分析し、最適な判断を下す男。
自分の好みを語ることなど、これまでほとんどなかった。
彼が何を食べたいのか。
何を好むのか。
何を嫌うのか。
周囲の人間は、誰も知らなかった。
「……それは」
責任者は、資料を見下ろした。
「重要な変化かもしれないな」
「はい。今後、鷹宮宗一郎の食事における卵投入順序が、組織内の意思決定に影響を与える可能性があります」
「そこまでではない」
「しかし――」
「そこまでではないが」
責任者は、少しだけ声を和らげた。
「自分の好みを言えるようになったこと自体は、悪いことではない」
調査員は、意外そうに顔を上げた。
「そうでしょうか?」
「人間は、何を望んでいるのかを自分で知っておく必要がある。誰かに決められたものだけを選んでいると、いつか自分が何をしたいのかわからなくなる」
責任者は、そこで言葉を切った。
自分自身にも、思い当たることがあった。
組織のため。
部下のため。
街のため。
そう言いながら、自分が何を食べたいのかさえ考えずに生きてきた。
「……昼食は何だ?」
責任者が尋ねた。
「食堂では、チャーハンを出す予定です」
「卵は?」
「先に入れる方式だそうです」
責任者は、少し考えた。
「……今日は、後に入れる方式を頼んでみよう」
「食堂に、そのような注文は――」
「聞いてみればいい」
調査員は、困惑しながら頷いた。
その日の昼、灰都情報管理連絡会の食堂では、卵を後から入れるチャーハンを作れるかどうかを巡って、厨房が一時騒然となった。
責任者は、完成したチャーハンを一口食べた。
「……悪くない」
それから、少し考えて付け加えた。
「いや。私は、こちらのほうが好きだ」
調査員は、その発言を報告書に書こうとした。
責任者は、すぐに止めた。
「それは報告するな」
「ですが、重要な変化では?」
「個人の昼食の好みだ」
「鷹宮宗一郎のときは――」
「鷹宮のときも、報告するな!」
*
夕方。
店内の客が少なくなったころ、透は残った材料を片づけていた。
「今日は、いろいろなチャーハンを作りましたね」
零が、洗った皿を拭きながら言った。
「うん。楽しかった」
「零さんは、卵先行が好きだったんですね」
「食べてみたら、そう思った」
「食べる前は、わからなかった?」
「うん」
零は、布巾を動かしながら考えた。
「今まで、自分が何を好きなのか、あまり考えたことがなかったから」
「そういうこともありますよね」
透は、鍋を洗いながら答えた。
「誰かに合わせているうちに、自分の好みがわからなくなることもありますし」
「……透さんは、何が好き?」
「僕ですか?」
「うん。卵をいつ入れるのが好き?」
透は少し考えた。
「僕は、卵を先に入れることが多いですね。ふわっとした感じが好きなので」
「じゃあ、透さんも卵先行派だね」
「そうですね」
零は、少し嬉しそうに笑った。
「同じだ」
「でも、後から入れるのもおいしいですよ」
「うん。私も食べてみて、そう思った」
零は、三種類のチャーハンを思い出した。
どれも違っていた。
どれもおいしかった。
その中から、自分が好きなものを選んだ。
誰かと同じだった。
でも、それは誰かに合わせた結果ではない。
自分で食べて、自分で決めた結果だった。
その違いが、零には大切に思えた。
*
閉店後。
六人の伝説と鷹宮は、いつものようにカウンターに座っていた。
透は、余ったチャーハンを小さな器に分けていた。
「よかったら、持って帰ってください」
「俺は、卵最終投入のものをもらう」
鷹宮が言った。
黒百合が、すぐに反応した。
「本当に気に入ったのね」
「ああ」
「昨日まで、自分の好みなんて聞かれても答えられなかったくせに」
「……そうだったか?」
「そうよ」
鷹宮は、少し考えた。
「なら、今日から覚えておけばいい」
渡り烏が、静かに笑った。
「自分の好みを一つ覚えた。それだけでも、十分な変化だろう」
「一つだけではない」
鷹宮が言った。
「コーヒーは苦めが好きだ」
透が顔を上げた。
「そうなんですか?」
「ああ」
「初めて聞きました」
「俺も、今初めて言った」
黒百合が、思わず吹き出した。
「じゃあ、ほかには?」
「ほか?」
「好きなものよ。せっかくだから、いろいろ言ってみなさい」
鷹宮は、真剣に考え始めた。
「……静かな場所」
「それは知ってる」
「予定どおりに進むこと」
「それも知ってる」
「焦げていない料理」
「それは好みというより、普通の希望でしょう」
鷹宮は、少しだけ眉を寄せた。
「……では、焦げていても食べられる料理」
「どうしてそっちに戻るのよ」
店内に笑い声が広がった。
鷹宮は、困ったように口元を緩めた。
自分の好みを話す。
それは、思っていたよりも難しく、思っていたよりも楽しかった。
誰かに弱みを見せるわけではない。
判断を誤るわけでもない。
ただ、自分が何を好きなのかを言葉にするだけだ。
それだけのことが、彼には新鮮だった。
「……店主」
「はい?」
「次は、俺がチャーハンを作る」
「楽しみにしています」
「卵は最後に入れる」
「わかりました」
「ただし、他の方式も試す」
黒百合が、目を丸くした。
「結局、全部試すの?」
「自分の好みを知るためには、比較が必要だ」
「そこはやっぱり鷹宮さんね」
透は笑った。
「じゃあ、次は鷹宮さんのチャーハンをみんなで食べましょう」
「ああ」
鷹宮は頷いた。
自分で作る。
自分で選ぶ。
自分の好きなものを、誰かと分け合う。
それは、彼がこれまで知らなかった時間だった。
*
翌日。
灰都の裏社会では、奇妙な噂が広がっていた。
鷹宮宗一郎が、卵を最後に入れるチャーハンを好むらしい。
その情報は、なぜか極秘情報として扱われた。
ある組織では、鷹宮との会食に備えて、卵最終投入方式のチャーハンを研究し始めた。
別の組織では、卵後入れ方式のほうが交渉に有利だという分析が行われた。
さらに別の組織では、鷹宮が本当に卵最終投入を好むのか、裏取り調査が始まった。
情報管理連絡会には、次々と報告が届いた。
「鷹宮宗一郎、卵最終投入派との情報」
「卵後入れ派との意見交換を確認」
「卵先行派を否定していないため、三派閥の融和を模索している可能性」
責任者は、報告書を一枚ずつ机に置いた。
「……誰がこんな情報を流した」
「発信元は不明です」
「なぜ、誰も止めなかった」
「料理の好みに関する情報なので、危険性が低いと判断されました」
「危険性が低いから放置した結果、三つの組織がチャーハンの研究を始めているんだぞ!」
責任者は頭を抱えた。
そのとき、別の職員が駆け込んできた。
「報告します!」
「今度は何だ」
「鷹宮宗一郎が、明日、自らチャーハンを作る予定だそうです」
責任者は、ゆっくりと顔を上げた。
「……自ら?」
「はい。CAFE 灯で、店主と一緒に」
「それは、もう情報ではない」
「では、何でしょうか?」
責任者は、しばらく考えた。
「……料理教室だ」
「料理教室」
「そうだ。明日の議題は、料理教室だ。誰も報告書を書くな」
しかし、その日の夕方には、灰都中の裏組織が、鷹宮宗一郎のチャーハン作りを見守るための人員を配置していた。
もちろん、CAFE 灯の周囲に集まった者たちは、全員、透に見つかって追い返された。
「ここは普通の喫茶店ですから、外でこっそり見張るのはやめてくださいね」
透にそう言われた男たちは、全員、深く頭を下げて帰っていった。
彼らは、鷹宮の命令には逆らえても、透のお願いには逆らえなかった。
*
そして翌日。
鷹宮宗一郎は、厨房に立っていた。
目の前には、卵、冷ましたご飯、長ねぎ、鶏肉、調味料。
透が隣に立っている。
「まず、フライパンをしっかり温めます」
「ああ」
「油を入れて、具材を炒めます」
「ああ」
「ご飯を入れて、ほぐしながら炒めます」
「ああ」
「味をつけたら、最後に卵を入れます」
「わかっている」
鷹宮は、真剣な顔でフライパンを握った。
王冠たちは、少し離れた場所から見守っている。
黒百合は腕を組み、葬送は静かに頷き、道化師はノートを持っていた。
「道化師、記録するのはやめなさい」
黒百合が言った。
「これは重要な観察だ」
「鷹宮さんが料理しているだけよ」
「だから重要なんだ」
渡り烏は、二人を見ながら笑った。
「まあ、今日は見守るだけにしよう」
零は、鷹宮の手元を見つめていた。
彼の動きは、普段の交渉や指示とは違っていた。
慎重で、少し硬い。
それでも、誰かに任せるのではなく、自分でやろうとしている。
鷹宮は、ご飯を炒め、味をつけた。
そして、溶き卵を手に取った。
「ここで入れます」
透が言う。
「ああ」
鷹宮は、卵をフライパンへ流し込んだ。
じゅわっと音がした。
卵が固まり始める。
鷹宮は、すぐには混ぜなかった。
葬送と同じように、少し待った。
「……待つんですね」
透が言った。
「卵が、卵として残るために必要だ」
鷹宮は答えた。
その言葉に、葬送が小さく頷いた。
卵が固まった。
鷹宮は、ゆっくりとご飯と混ぜた。
卵の塊が残り、全体に散らばる。
「完成です」
透が言った。
鷹宮は、フライパンの中を見つめた。
「……これが、俺のチャーハンか」
「はい」
「自分で作ったものを、食べてもいいのか」
「もちろんです」
鷹宮は、皿に盛りつけた。
そして、一口食べた。
少し味が薄い。
卵の一部は、思ったより大きい。
ご飯も、少しだけ固まっている。
完璧ではなかった。
だが。
「……悪くない」
鷹宮は、もう一口食べた。
「いや」
彼は、少し考えてから言い直した。
「俺は、これが好きだ」
透は、嬉しそうに笑った。
「よかったですね」
「ああ」
鷹宮は、自分の皿を見た。
完璧ではない。
けれど、自分で選んだ順番で、自分で作った。
だから、好きだと思えた。
それは、誰かに評価されるための結果ではなかった。
自分が、自分のために選んだ結果だった。
王冠が、静かに言った。
「……自分で作ると、評価の基準も変わるな」
「どういう意味だ?」
「完成度だけではなく、選択した過程も含めて判断するようになる」
黒百合が、チャーハンを一口食べた。
「少し薄味だけど、おいしいわよ」
「本当か?」
「ええ。卵の感じも、ちゃんと残ってる」
葬送も頷いた。
「俺の好みに近い」
「そうか」
鷹宮は、少しだけ嬉しそうだった。
自分の好みを、誰かが理解してくれる。
それは、思っていたよりも温かいことだった。
*
その日の夜。
情報管理連絡会の責任者は、机の上に置かれた新しい報告書を見ていた。
『鷹宮宗一郎、自らチャーハンを調理。卵を最後に投入。完成品を試食し、「俺は、これが好きだ」と発言』
責任者は、長い間、報告書を見つめた。
「……これは」
調査員が尋ねる。
「重要でしょうか?」
責任者は、すぐには答えなかった。
鷹宮宗一郎が、自分で料理を作った。
自分の好みを選んだ。
完璧ではないものを、自分が好きだと言った。
それは、組織の勢力図を変える情報ではない。
街の安全を左右する情報でもない。
だが、人間一人の変化としては、決して小さくなかった。
「……保存しておけ」
「報告書を?」
「ああ」
「極秘指定は?」
責任者は、少し考えた。
「不要だ」
「では、通常資料として?」
「いや」
「では、どう扱えば?」
責任者は、報告書を引き出しにしまった。
「誰にも見せなくていい。ただ、捨てるな」
調査員は、不思議そうに頷いた。
「わかりました」
責任者は、窓の外を見た。
灰都の夜は、いつもどおり暗い。
その暗闇のどこかで、誰かが自分の好きなものを選び、誰かがそれを一緒に食べている。
それだけのことが、街を少しだけ穏やかにしているように思えた。
*
閉店後。
透は、厨房の片づけを終えた。
「今日は、鷹宮さんのチャーハン、おいしかったですね」
「……そうか?」
「はい。卵が大きめに残っていて、鷹宮さんらしいチャーハンでした」
「俺らしい?」
「丁寧で、しっかりしていて。でも、少しだけ不器用なところもあって」
鷹宮は、少し黙った。
「……不器用か」
「悪い意味じゃないですよ」
「わかっている」
鷹宮は、カウンターの上に置かれたコーヒーを見た。
「店主」
「はい?」
「俺は、これまで自分の好みを考えたことがなかった」
「そうなんですか?」
「ああ。必要なものを選び、役に立つものを選び、失敗しないものを選んできた」
「それも大切なことだと思います」
「だが、それだけでは、自分が何を望んでいるのかがわからなくなる」
透は、静かに頷いた。
「だから、これから少しずつ見つけていけばいいんじゃないですか?」
「少しずつ」
「はい。好きな料理とか、好きな飲み物とか。好きな時間とか」
鷹宮は、考えた。
「好きな時間……」
「ありますか?」
「……ここで、料理ができるのを待つ時間」
透は、嬉しそうに笑った。
「それは、僕も好きです」
「そうか」
鷹宮は、コーヒーを一口飲んだ。
苦めの味が、口の中に広がる。
「それから、苦いコーヒー」
「覚えておきますね」
「卵を最後に入れたチャーハン」
「はい」
「……自分で作ったもの」
透は、何も言わずに笑った。
鷹宮は、その笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
自分の好みを言う。
自分のために選ぶ。
それは、誰かを傷つけることでも、誰かを裏切ることでもない。
ただ、自分がここにいることを確かめるための、小さな方法だった。
*
翌週。
灰都の裏社会では、三つのチャーハン派閥が、ついに共同試食会を開いた。
卵先行派。
卵後入れ派。
卵最終投入派。
それぞれが自分たちの方式を持ち寄り、互いのチャーハンを食べ比べた。
結果。
誰も、相手の方式を完全には否定できなかった。
「……卵先行も悪くない」
「卵後入れも、香ばしいな」
「卵最終投入は、食感が面白い」
会場には、困惑と納得が入り混じった。
最終的に、三派閥は次の結論に達した。
『どれもおいしい。自分の好きなものを選べばいい』
その結論を聞いた責任者は、深くため息をついた。
「……最初からそう言っている」
だが、誰もその言葉を聞いていなかった。
彼らは、互いのチャーハンを食べながら、少しずつ笑っていた。
自分の好みを主張してもいい。
相手の好みを否定しなくてもいい。
違うものを選んだまま、一緒に食べることもできる。
それは、灰都の裏社会において、意外にも新しい発見だった。
*
CAFE 灯では、その日もいつもどおり、穏やかな時間が流れていた。
零は、透に教わりながら卵を割っている。
王冠は、具材の量を測りながらも、以前ほど厳密ではなくなっていた。
黒百合は、卵を入れるタイミングについて葬送と議論している。
道化師は、ノートを開いたまま、何も書かずにチャーハンを食べていた。
渡り烏は、三種類の味を楽しみながら、静かに笑っている。
そして、鷹宮宗一郎は、フライパンの前に立っていた。
「卵は、最後に入れる」
彼は、誰に言われるでもなく、そう決めた。
透が隣で頷く。
「はい。鷹宮さんの好きな順番で作りましょう」
鷹宮は、卵をフライパンへ流し込んだ。
じゅわっと音がする。
彼は、すぐには混ぜなかった。
卵が固まるのを待つ。
その時間を、もう苦痛だとは思わなかった。
自分が好きなものを作るために必要な時間。
誰かと一緒に過ごす時間。
何もしなくても、ここにいていい時間。
鷹宮は、卵が固まるのを見ながら、静かに笑った。
「……悪くないな」
透が笑う。
「でしょう?」
灰都の片隅にある、小さな喫茶店。
そこでは今日も、誰かが自分の好きなものを見つけていた。
誰かと違ってもいい。
途中で好みが変わってもいい。
最初はわからなくても、試してみればいい。
そして、自分で選んだものを、自分で好きだと言っていい。
六人の伝説は、少しずつそれを覚えていた。
鷹宮宗一郎は、卵を最後に入れるチャーハンが好きだった。
苦いコーヒーも好きだった。
そして、自分で作ったものを、誰かと一緒に食べる時間も。
ただし。
灰都の裏社会が、次に三つの派閥へ分裂する議題が、卵を入れる順番ではなく――
「チャーハンにマヨネーズをかけるべきか」
になるまで、あと二日。
朝霧透は、まだ何も知らなかった。




