第41話 店主が「ドリアは少しくらい焦げても、そこが香ばしくておいしいんですよ」と言った結果、灰都の裏社会で焦げ目の許容範囲を巡る審議が始まる
灰都の裏社会には、決して表に出してはならない秘密がある。
誰が誰と手を組んでいるのか。
どの組織が、どの情報を握っているのか。
誰が裏切り、誰が忠誠を誓い、誰が最後まで約束を守るのか。
それらは、時として街の勢力図を塗り替えるほどの意味を持つ。
だからこそ、情報管理連絡会は、日々膨大な情報を集め、分類し、必要なものだけを上層部へ報告していた。
……本来ならば。
「報告します」
朝の会議室。
一人の調査員が、緊張した面持ちで資料を差し出した。
「CAFE 灯において、昨日に引き続き、六人の伝説および鷹宮宗一郎が特異な行動を取っています」
責任者は、嫌な予感を覚えながら資料を受け取った。
「今度は何だ」
「ドリアです」
「帰れ」
「まだ説明が終わっていません!」
「説明を聞く前から、だいたいわかるようになってきたんだよ!」
責任者は額を押さえた。
しかし、調査員は真剣だった。
「問題は、ドリアそのものではありません」
「……ほう」
「表面の焦げ目です」
責任者は、ゆっくりと資料を閉じた。
「私は今、君たちの組織運営について、根本から考え直す必要性を感じている」
「それは、焦げ目の許容範囲に関する新たな基準を設けるということでしょうか?」
「違う!」
責任者の叫びが、会議室に響いた。
灰都の裏社会は、今日も平和だった。
少なくとも、CAFE 灯の店主が何も知らないうちは。
*
「ドリアって、焼きたてがおいしいですよね」
その日の昼。
朝霧透は、厨房で楽しそうに話していた。
「表面のチーズがこんがりして、中は熱々で。寒い日には最高です」
テーブルには、昨日から引き続きドリア作りに挑戦している面々が集まっていた。
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
そして、なぜか今日も当然のように来店している鷹宮宗一郎。
全員の前には、小さな耐熱皿が置かれている。
「今日は、それぞれ好きな具材で作ってみましょう。鶏肉でも、エビでも、きのこでも。自分が食べたいものを入れればいいですよ」
透はそう言って、食材を並べた。
「焼き色も、好みがありますからね。薄めが好きな人もいれば、しっかり焼いたほうが好きな人もいます」
その瞬間、道化師の手が止まった。
「……好み?」
「はい」
「つまり、焼き色に唯一絶対の正解は存在しない、と」
「そうですね。もちろん、生焼けにならないようにすることは大切ですけど、表面の焼き色は好みもありますから」
道化師は眼鏡を押し上げた。
彼の頭の中で、何かが急速に組み上がっていく。
「安全性に関する最低基準は共有しつつ、それ以上の部分については個人の選択を認める……」
「え?」
「いや、何でもない」
道化師はノートを開いた。
黒百合が、すぐにそのノートを取り上げた。
「料理中に何を書いているのよ」
「焼き色の選好と、組織における判断基準の関係性について」
「ノートを返してほしければ、まずその発想を捨てなさい」
「それは難しい相談だ」
「じゃあ返さない」
「待て。これは俺の知的財産だ」
「ドリアに知的財産権を持ち込まないで」
透は、そのやり取りを見て笑った。
「皆さん、本当に仲がいいですね」
六人は一斉に黙った。
鷹宮だけが、静かに頷いた。
「……ああ。そうかもしれないな」
その言葉に、渡り烏は少しだけ目を細めた。
かつて、この六人が同じテーブルで笑い合う日が来ると、誰が想像しただろう。
彼らはそれぞれの分野で頂点に立ち、互いを警戒し、必要以上に距離を取ってきた。
協力することはあっても、気を抜くことはなかった。
それが今では、ドリアの焼き色を巡って口論している。
渡り烏は、思わず笑った。
「……悪くないな」
「渡り烏さん、何か言いました?」
「いや。いい店だと思っただけさ」
透は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
*
最初に問題を起こしたのは、王冠だった。
彼は、鶏肉ときのこを使ったドリアを作っていた。
具材の大きさは均一。
ご飯の量も正確。
ホワイトソースは滑らかで、チーズの配分にも偏りがない。
焼く前の状態だけを見れば、文句のつけようがなかった。
「よし」
王冠は、ドリアをオーブンに入れた。
設定温度を確認し、タイマーを合わせる。
そして、静かに待った。
予定された時間が過ぎる。
タイマーが鳴った。
王冠はミトンを装着し、オーブンを開けた。
そこには、見事な焼き色のドリアがあった。
ただし。
「……少し、濃いか」
表面の一部が、想定よりも濃い茶色になっていた。
王冠は皿を見つめた。
食べられないほどではない。
香りも悪くない。
それでも、予定どおりではなかった。
彼は無言で、ドリアをテーブルの奥へ移動させた。
そして、隣に置かれた葬送の皿を見た。
葬送のドリアは、表面がほぼ白かった。
「……葬送」
「何だ」
「皿を交換しないか」
「断る」
「まだ理由を説明していない」
「お前がそういう顔をしているときは、大抵ろくでもない提案だ」
「これは単なる配置の調整だ」
「自分の皿を隠したいだけだろう」
王冠は沈黙した。
葬送は、自分の皿を守るように手を置いた。
「俺のドリアは、俺が食べる」
「……そうか」
王冠は、静かに自分の皿を引き寄せた。
その一部始終を見ていた黒百合が、呆れた声を出した。
「何やってるのよ。焦げ目くらいで」
「問題は焦げ目ではない」
王冠は冷静に答えた。
「事前に想定した結果と、実際の結果に差が生じたことだ」
「つまり焦げたんでしょ」
「……そうとも言う」
「だったら食べなさいよ」
王冠は、しばらく皿を見つめた。
そして、スプーンを手に取った。
一口。
表面のチーズが、かりっと音を立てた。
続いて、ホワイトソースとご飯の柔らかな食感が広がる。
「……」
王冠は、もう一口食べた。
「……悪くない」
「でしょ?」
透が、いつの間にか隣に立っていた。
「少し焼き色が濃くても、その部分が香ばしくておいしいこともあるんですよ」
「……そうだな」
王冠は、もう一度ドリアを見た。
予定とは違った。
しかし、失敗と決めつけるほど悪いものでもなかった。
彼は小さく息を吐いた。
「次は、焼く時間を少し短くしてみよう」
「はい。そうやって好みを見つけていけばいいと思います」
透は、何でもないことのように笑った。
王冠は、少しだけ肩の力を抜いた。
灰都の裏社会で、彼が最も得意としているのは、失敗を未然に防ぐことだった。
だが、この店では、失敗しないことだけが正解ではない。
失敗したあとに、何を見つけるか。
それもまた、大切なのかもしれなかった。
*
次に問題を起こしたのは、葬送だった。
彼は、エビとマッシュルームを使ったドリアを作っていた。
表面の焼き色は薄い。
チーズは溶けているが、焦げ目はほとんどついていない。
「……完成した」
葬送は、皿をテーブルに置いた。
透が覗き込む。
「おいしそうですね」
「本当か」
「もちろんです。焼き色が薄いのが好きな人もいますから」
葬送は、ほっとしたように頷いた。
だが、問題はそのあとだった。
隣に座っていた道化師が、葬送のドリアを見つめていた。
「……焼成時間を短くしたのか?」
「そうだ」
「表面の色が薄い」
「そういう好みにした」
「しかし、焼き色が濃いほうが香ばしさは増す可能性がある」
「俺は薄いほうがいい」
「なるほど。では、次回は条件を変えて比較してみるべきだな」
「……お前、俺のドリアで実験する気か?」
「合理的な検証だ」
「断る」
葬送は、皿を自分の前に引き寄せた。
「これは俺が作った。俺が食べる」
その言葉に、零が顔を上げた。
葬送は、少しだけ戸惑ったように彼女を見た。
「……何だ」
「ううん」
零は首を振った。
「自分で作ったものを、自分で食べるって、いいね」
葬送は黙った。
彼はこれまで、自分が作ったものを誰かに評価されることばかり考えていた。
誰かの期待に応えられたか。
役に立ったか。
十分な結果を出せたか。
けれど、今は違う。
自分で作ったものを、自分が食べる。
それだけでも、いいのだ。
「……そうだな」
葬送は、ゆっくりとスプーンを動かした。
「自分で作ったものを、自分でうまいと思えるなら、それでいい」
透は嬉しそうに頷いた。
「そうですよ。料理は、自分がおいしいと思えることも大切ですから」
その言葉を聞いて、零は自分の皿を見つめた。
彼女のドリアは、表面のチーズが一部だけ濃く焼けていた。
昨日までなら、そこばかり気にしていたかもしれない。
もっときれいに作るべきだった。
こんな焼き方では駄目だ。
次は失敗しないようにしなければ。
けれど、今日は違った。
零はスプーンを入れた。
香ばしいチーズと、熱々のソース。
自分で選んだ具材。
自分で決めた焼き時間。
彼女は一口食べて、小さく笑った。
「……おいしい」
誰かに褒めてもらう前に。
誰かに認めてもらう前に。
自分で、自分の作ったものをおいしいと思えた。
それは、零にとって小さくない変化だった。
*
道化師のドリアは、別の意味で問題だった。
彼は、焼き色の違いを比較するため、表面を四つの区画に分けていた。
左上は薄め。
右上は標準。
左下は濃いめ。
右下は、かなり濃いめ。
「……道化師さん」
透は皿を覗き込み、困ったように笑った。
「これは、どうしたんですか?」
「比較実験だ」
「料理を四分割して、焼き時間を変えたんですか?」
「正確には、途中でオーブンから取り出すタイミングを変えた」
「なるほど……」
透は少し考えた。
「でも、同じ皿の中だと、場所によって熱の入り方も違いますから、正確な比較にはならないかもしれませんね」
道化師の動きが止まった。
「……確かに」
「まあ、いろいろ試してみるのは楽しいですけどね」
「……そうか」
道化師は、皿を見下ろした。
彼は、自分が正確な答えを見つけようとしていたことに気づいた。
どの焼き色が最も優れているのか。
どの条件が最適なのか。
すべての人にとって、最もよい結果は何なのか。
しかし、透は言った。
試すのは楽しい、と。
答えを見つけるためだけではなく。
ただ試してみることそのものが、楽しいのだと。
「……透」
「はい?」
「次は、普通に作ってみる」
「いいですね」
「比較はしない」
「食べ比べるくらいなら、してもいいと思いますけど」
「……そうか」
道化師は、少しだけ笑った。
「では、次は食べるために作る」
「ぜひ、そうしてください」
黒百合が横から口を挟んだ。
「そのほうが、よっぽどまともなドリアになりそうね」
「黒百合。俺のドリアは、すでに完成している」
「その四分割された実験物を?」
「実験物ではない。比較用の試作品だ」
「言い方を変えても、見た目は変わらないわよ」
道化師は反論しようとしたが、結局やめた。
自分でも、少し妙なものを作った自覚があったからだ。
彼は、濃く焼けた部分を一口食べた。
「……これはこれで、悪くない」
「でしょう?」
透は笑った。
「食べてみないと、わからないこともありますからね」
*
そして、最大の騒動を起こしたのは鷹宮宗一郎だった。
彼は、ベーコンと玉ねぎを使ったシンプルなドリアを作っていた。
材料も少ない。
工程も複雑ではない。
透の説明を聞きながら、丁寧に作業を進めた。
ところが。
オーブンから取り出した皿を見た瞬間、鷹宮は無言になった。
表面の一部分だけが、明らかに黒かった。
焦げ目というより、焦げだった。
「……鷹宮さん?」
透が声をかける。
「これは……」
鷹宮は皿を見つめた。
「想定外だ」
「少し焼きすぎたみたいですね」
「……そうか」
鷹宮は、しばらく黙っていた。
そして、驚くべき行動に出た。
隣に座っていた渡り烏の皿を、自分の前へ滑らせたのである。
「……交換しないか」
渡り烏は、自分の皿と鷹宮の皿を交互に見た。
「宗一郎」
「何だ」
「君は、何をしているんだ」
「合理的な提案だ」
「君の皿が焦げているから、私の皿と交換しろということか?」
「……そういう見方もできる」
「ほかにどういう見方があるんだ」
鷹宮は黙った。
渡り烏は深々とため息をついた。
「君は、灰都の裏社会を代表する男だろう」
「それがどうした」
「焦げたドリアを隠すために、友人の皿を奪おうとするな」
「奪ってはいない。交換を提案しただけだ」
「断る」
渡り烏は、自分の皿を守った。
その一部始終を見ていた黒百合が、とうとう吹き出した。
「ちょっと、鷹宮さん! 何やってるのよ!」
「……問題を解決しようとしただけだ」
「焦げた部分を食べれば解決するでしょう!」
「焦げた部分を食べることが、最善の解決策とは限らない」
「ドリア一皿に、どれだけ大げさな理屈をつけるのよ!」
鷹宮は反論しようとした。
しかし、透が皿を覗き込んだ。
「うーん。ここは少し焦げちゃいましたね」
「……ああ」
「でも、全部が焦げたわけじゃないですから。焦げたところだけ避けて食べてもいいですし、香ばしいのが好きなら少し味見してみてもいいと思いますよ」
鷹宮は、皿を見下ろした。
「……食べてもいいのか」
「もちろんです。食べられるところまで全部駄目になるわけじゃありませんから」
その言葉は、料理についての話だった。
それ以上の意味など、透にはなかった。
だが、鷹宮には、別のことを思い出させた。
彼は、これまで何度も失敗をしてきた。
決断を誤ったこともある。
信頼していた相手を見誤ったこともある。
守れなかった約束も、取り返せなかった時間もある。
そのたびに、彼は失敗を認めることより、失敗がもたらす損失をどう処理するかに意識を向けてきた。
失敗を隠す。
損失を最小限に抑える。
周囲に弱みを見せない。
そうして、何とか立ち続けてきた。
だが、この店では。
焦げたドリアを見せても、誰も彼を笑いものにはしなかった。
少し失敗したからといって、席を取り上げられるわけでもない。
誰かに失望されるわけでもない。
透は、ただ言った。
食べられるところを食べればいい、と。
「……そうだな」
鷹宮は、スプーンを手に取った。
焦げていない部分を一口食べる。
次に、焦げた部分をほんの少しだけ口に運んだ。
苦味があった。
確かに、焼きすぎていた。
しかし、全部が食べられないほどではなかった。
「……少し苦いな」
「そうですね。次は時間を短くしてみましょうか」
「……ああ」
鷹宮は、静かに頷いた。
「次は、もう少しうまく作る」
その言葉に、渡り烏は微笑んだ。
「そうすればいい。最初から何でも完璧にできる人間などいないさ」
鷹宮は、友人の顔を見た。
そして、少しだけ笑った。
「……君の皿を交換してもらわなくてよかった」
「まったくだ」
渡り烏も笑った。
その場にいた全員が、声を上げて笑った。
灰都の裏社会で、鷹宮宗一郎が失敗を認めた。
それだけでも十分に珍しい出来事だった。
だが、この日の本当の変化は、彼が失敗を認めたことではない。
失敗を認めたあとも、彼がその場に座り続けていたことだった。
誰にも隠れず。
誰にも皿を交換してもらわず。
自分で作った焦げたドリアを、自分で食べながら。
*
食事が終わるころには、全員がそれぞれのドリアを食べ終えていた。
焼き色が濃かった者。
薄かった者。
少し焦がした者。
奇妙な四分割ドリアを作った者。
全員が、同じものを作ったわけではなかった。
それでも、誰も困らなかった。
「……透さん」
零が、食器を片づけながら声をかけた。
「今日、私のドリアは少し焼き色が濃かったでしょう?」
「そうですね。でも、おいしかったですよ」
「……うん」
零は、少し考えた。
「次は、もう少し薄い色にしてみようと思う」
「いいですね。いろいろ試してみましょう」
「……もし、次も失敗したら?」
透は、きょとんとした。
「そのときは、また次に試せばいいんじゃないですか?」
「……また次」
「はい。何度でも作れますから」
零は、目を伏せた。
何度でも。
それは、彼女が以前、簡単には信じられなかった言葉だった。
一度の失敗で、すべてが終わると思っていた。
一度間違えれば、もう取り返せないと思っていた。
でも、ここでは違う。
うまくいかなかったら、もう一度試せばいい。
少しずつ、自分の好みを見つければいい。
誰かと違っても、自分の皿を自分で選んでいい。
「……透さん」
「はい?」
「私、ここで働けてよかった」
透は、少し驚いたあと、優しく笑った。
「僕も、零さんがいてくれて助かっていますよ」
「……本当?」
「もちろんです。零さんがいてくれると、お店の準備も早く終わりますし、何より一緒に働けて楽しいですから」
零は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「……そっか」
彼女は、笑った。
今度は、不安を隠すための笑顔ではなかった。
自分がここにいていいと、少しだけ信じられた人間の笑顔だった。
*
その日の夕方。
灰都情報管理連絡会では、例の報告書について、最終的な判断が下されていた。
「結論を述べる」
責任者が、会議室の全員を見回した。
「CAFE 灯で確認された、ドリアの焦げ目に関する一連の事象について、組織としての対応は不要とする」
誰も異論を唱えなかった。
「個人の好みによる差異を、無理に統一する必要はない。安全上の問題がない範囲であれば、各自の判断に任せればいい」
責任者は、そこで一度言葉を切った。
「そして、失敗した者を必要以上に責めるな。失敗したという事実と、その者に価値がないという判断は、まったく別の話だ」
若い職員が、恐る恐る手を挙げた。
「……それは、今回のドリアの件から導き出された結論でしょうか?」
「違う」
責任者は即答した。
「私は以前から、そう考えていた」
「では、なぜ今、改めて……」
「……」
責任者は、窓の外を見た。
自分もまた、失敗を恐れていたのかもしれない。
間違いを認めれば、責任を問われる。
責任を問われれば、立場を失う。
そう考えて、問題が起きるたびに、誰が悪いのかを探してきた。
だが、それでは何も変わらないこともある。
失敗した人間を追い詰めても、失敗そのものがなくなるわけではない。
大切なのは、何が起きたのかを確かめ、次にどうするかを考えることだ。
「……まあ」
責任者は、軽く咳払いをした。
「今回の件で、私も一つ学んだということだ」
職員たちは、静かに頷いた。
そのとき、一人が資料をめくりながら言った。
「ちなみに、明日の昼食ですが、食堂でドリアを出すことになったそうです」
責任者は、ゆっくりと目を閉じた。
「……なぜだ」
「職員からの要望です」
「誰が提案した」
「調査員です」
「……あいつか」
責任者は深々とため息をついた。
「いいだろう。ただし、報告書は書くな」
「ドリアについてもですか?」
「ドリアについてもだ!」
*
閉店後。
透は、厨房で明日のメニューを考えていた。
「ドリアの次は、何がいいかな……」
カウンターでは、六人の伝説と鷹宮が、いつものようにコーヒーを飲んでいた。
「……店主」
王冠が声をかけた。
「はい?」
「次は、何を作る予定だ?」
「そうですねえ。ドリアを作ったら、少しご飯が余ったので……チャーハンでも作りましょうか」
その瞬間、道化師が顔を上げた。
黒百合が嫌な予感に眉をひそめた。
葬送は、すでに厨房を見ていた。
渡り烏は、静かにカップを置いた。
零は、少しだけ笑った。
そして、鷹宮宗一郎が真剣な声で尋ねた。
「……チャーハンにも、焦げ目は必要なのか?」
「え?」
透は首を傾げた。
「そうですね。強火で炒めると香ばしくなりますけど、焦がしすぎると苦くなっちゃいますからね」
王冠は、ゆっくりと腕時計を見た。
「火力の調整が必要ということか」
「はい。でも、家庭のコンロでも十分おいしく作れますよ」
道化師は、ノートを取り出しかけた。
黒百合が、その手を押さえた。
「……道化師」
「まだ何も書いていない」
「そのノートをしまいなさい」
「しかし、チャーハンの水分管理と火力調整は、合理的な分析対象として――」
「しまいなさい」
「……わかった」
葬送は、静かに立ち上がった。
「透。俺は、米を炒める練習がしたい」
「いいですね。じゃあ、今度一緒に作りましょう」
「……ああ」
鷹宮は、自分の手を見下ろした。
昨日は卵を潰した。
今日はドリアを焦がした。
そして明日は、米を炒めることになるかもしれない。
彼は、かつての自分なら考えられなかった未来に、少しだけ笑った。
「……楽しみだな」
透は、嬉しそうに頷いた。
「料理は、みんなで作ると楽しいですからね」
その言葉に、零も頷いた。
彼女はもう、失敗をしないことだけを目指してはいなかった。
うまくいかなくても、次がある。
自分の好みを見つけてもいい。
誰かと違ってもいい。
そして、何かを成し遂げられない日でも、この店にいていい。
それを、彼女は少しずつ覚えていた。
灰都の片隅にある、小さな喫茶店。
そこでは今日も、誰かが失敗し、誰かが笑い、誰かが新しいことを覚えていく。
伝説と呼ばれた者たちが、ただの客としてテーブルを囲む。
大きな力を持つ者が、焦げたドリアを食べる。
完璧であることを求めてきた者が、次は少し違うやり方を試してみようと考える。
そして店主の朝霧透は、そんな変化に気づいているのかいないのか、明日の仕込みを考えながら笑っていた。
「そうだ。チャーハンを作るなら、卵を先に炒めるか、あとから入れるか……皆さんはどっちが好きですか?」
その瞬間、店内に沈黙が落ちた。
王冠が顔を上げる。
道化師の眼鏡が光る。
葬送が腕を組む。
黒百合が頭を抱える。
渡り烏が、ゆっくりと天井を見上げた。
鷹宮は真剣な顔で言った。
「……それは、非常に重要な問題だな」
「重要じゃありません!」
黒百合の叫びが、閉店後の店内に響いた。
零は、声を上げて笑った。
そして透も、つられて笑った。
明日もきっと、ここでは何かが起きる。
けれど、それでいい。
失敗しても、やり直せる。
意見が違っても、一緒に食べられる。
誰かが焦がしたチャーハンだって、みんなで笑って食べれば、いつか思い出になるかもしれない。
ただし。
灰都の裏社会が、卵を入れる順番を巡って三つの派閥に分裂するまで、あと一晩。
朝霧透は、まだ何も知らなかった。




