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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第39話 店主が「ピザトーストは、好きな具を好きなだけ乗せていいんですよ」と言った結果、灰都の裏社会でチーズの配分を巡る派閥抗争が勃発

 朝霧透は、ピザトーストが好きだった。


 食パンにケチャップを塗り、玉ねぎ、ピーマン、ソーセージを乗せる。


 その上にチーズをたっぷりかけて、オーブントースターで焼く。


 チーズが溶け、パンの端がこんがり色づいたら完成だ。


 手間は少ない。


 材料も特別なものではない。


 それでも、焼きたてをひと口食べると、なんだか少しだけ幸せな気持ちになる。


 祖父が店を営んでいたころ、忙しい日の昼食によく作ってくれた料理でもあった。


 だから、昨日の閉店間際にピザトーストの話をしたのも、特に深い意味はなかった。


 ただ、食べたくなっただけである。


 ところが、翌朝。


「店主。チーズの配分について、確認したい」


 王冠が、開店前の厨房で真剣な顔をしていた。


「……はい?」


 透は、手にしていた玉ねぎを置いた。


「ピザトーストにおけるチーズの量は、どの程度が適切なのだろうか」


「ええと、好きなだけでいいんじゃないですか?」


「好きなだけ……」


 王冠の表情が変わった。


 その隣では、道化師がノートパソコンを開いていた。


「チーズの量が増えれば、溶けた際の食感や風味も変わる。だが、多すぎれば具材の味を覆い隠す可能性がある」


「まあ、そうですね」


「一方、少なすぎれば、ピザトーストとしての満足感が低下する可能性もある」


「うーん……」


「つまり、適切な量を決定するには、具材との相互作用を検証する必要がある」


「そこまで考えなくても、おいしければいいと思いますけどね」


 透は笑った。


「好きな具を好きなだけ乗せていいんですよ」


 厨房から、音が消えた。


 黒百合が振り返った。


 葬送が手にしていたソーセージを置いた。


 渡り烏が、コーヒーを淹れる手を止めた。


 零は、チーズの袋を抱えたまま固まっていた。


 そして、鷹宮宗一郎が静かに口を開いた。


「……好きなだけ、か」


「はい」


「他人の分量に合わせる必要はない?」


「もちろんです。ただ、食べきれる量にしてくださいね」


 透は、冷蔵庫から追加のチーズを取り出した。


「せっかく自分で作るんですから、自分の好きな味にすればいいんですよ」


 その言葉を聞いた王冠は、ゆっくりと手帳を開いた。


 道化師は、画面に新しい項目を追加した。


 黒百合は、チーズの袋を見つめた。


 葬送は、口元を引き締めた。


 零は、そっとチーズをひとつまみ取り出した。


 鷹宮は、真剣な顔で頷いた。


 ――こうして、灰都の裏社会における、チーズの自由化が始まった。


     *


 午前十時。


 最初に動いたのは、王冠だった。


「全員、聞いてほしい」


 彼は厨房の中央に立ち、六人と鷹宮を見回した。


「本日のピザトーストについて、ひとつ提案がある」


「何だ」


 葬送が腕を組む。


「チーズの量は、各自の好みに委ねる。ただし、具材とのバランスを確認し、食べきれる量を選択する」


「……普通のことでは?」


 黒百合が言った。


「そうだ。だが、これまで我々は、最適な基準を定めることに意識を向けすぎていた」


 王冠は続けた。


「全員に同じ量を求めれば、チーズが好きな者には物足りず、苦手な者には多すぎる可能性がある」


「つまり、統一をやめるということか」


 鷹宮が尋ねた。


「そうだ。個人の選択を認める」


 王冠の言葉に、道化師が頷いた。


「ただし、選択肢が増えるほど、比較検証の条件も増える」


「お前は、もう少し気楽に考えられないのか」


 渡り烏が苦笑した。


「気楽に考えている。比較対象を増やすだけだ」


「それを気楽とは言わないんだよ」


 そのやり取りを聞いていた透は、楽しそうに笑った。


「みんな、やる気ですね。じゃあ、好きなように作ってみましょうか」


 王冠は頷いた。


 道化師は記録を開始した。


 黒百合は玉ねぎを薄く切った。


 葬送はソーセージを大量に並べた。


 渡り烏は、トマトソースの蓋を開けた。


 鷹宮は、チーズの袋を見つめた。


 零は、透の隣で食パンを並べた。


 そして、それぞれが自分のピザトーストを作り始めた。


 このとき、誰も気づいていなかった。


 同じ材料を使っているにもかかわらず、全員の皿が、驚くほど違う姿になっていくことに。


     *


 最初に完成したのは、黒百合のピザトーストだった。


 チーズは控えめ。


 玉ねぎとピーマンを細かく切り、ソーセージも薄く並べている。


 焼き上がりは、きれいだった。


「……できた」


 黒百合が、皿を持ち上げる。


 透は、すぐに笑顔を見せた。


「おお、きれいですね」


「チーズは少なめにした」


「黒百合さんは、具材の味を楽しみたいんですね」


「……そうね」


 黒百合は、自分のピザトーストを見つめた。


「チーズが多いのも嫌いではない。でも、今日はこれが食べたかった」


「いいじゃないですか」


 透は頷いた。


「その日の気分で変えてもいいと思いますよ」


 黒百合は、ほんの少しだけ笑った。


 以前の彼女なら、自分の好みを口にすることに、わずかな抵抗を覚えていただろう。


 好みを知られれば、そこを突かれるかもしれない。


 弱みを見せれば、利用されるかもしれない。


 そうした考えが、いつも心のどこかにあった。


 しかし、ここでは。


 チーズを少なくしたいと言っても、誰も笑わない。


 誰かと違うものを選んでも、否定されない。


 好きなものを好きだと言うことは、弱みをさらすことではないのだ。


「……店主」


「はい?」


「明日は、チーズを多めにしてみるかもしれない」


「いいですね。試してみましょう」


「……ええ」


 黒百合は、ピザトーストをひと口食べた。


「おいしい」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


     *


 次に完成したのは、葬送のピザトーストだった。


 いや、正確には、完成したというより、チーズの山が焼き上がったと言うべきだった。


 食パンの上には、ソーセージが並び、その上から大量のチーズがかけられている。


 焼き上がった表面は、ほとんど白い。


 トマトソースの赤も、ピーマンの緑も、チーズの下に隠れていた。


「……できた」


 葬送は、満足げに頷いた。


 道化師が、思わず身を乗り出した。


「チーズの重量比が、パンに対してかなり高いな」


「好きなだけ乗せていいと言われた」


「確かに言われたが、限度というものがあるだろう」


「俺は、これが好きだ」


 葬送は、真顔だった。


 王冠が静かに尋ねた。


「焼き上がった際、チーズが端から流れ出したことについては、どう考えている?」


「うまそうだった」


「……そうか」


 王冠は、それ以上追及しなかった。


 透が、焼き上がったピザトーストを見て笑った。


「すごいですね、葬送さん。チーズたっぷりだ」


「……ああ」


「食べきれそうですか?」


「問題ない」


 葬送は、ひと口食べた。


 チーズが伸びた。


 さらに伸びた。


 持ち上げた一切れから、長いチーズの糸が垂れ下がった。


 葬送は、それを見つめた。


「……これは、いい」


「気に入ったんですね」


「ああ」


 彼は、もうひと口食べた。


 満足そうだった。


 しかし、三口目で動きが止まった。


「……店主」


「はい?」


「少し、重い」


 透は、吹き出しそうになった。


「やっぱり多すぎたんじゃないですか?」


「……そうかもしれない」


 葬送は、真剣に考えた。


 好きなだけ乗せていい。


 だが、好きなだけ乗せた結果、食べきれなくなってしまった。


 それは、少しもったいない。


「……次は、少し減らしてみる」


「いいと思いますよ」


 透は、残ったピザトーストを小さく切り分けた。


「無理して全部食べなくても大丈夫です。食べられる分だけ食べましょう」


 葬送は、頷いた。


「……ああ」


 自分の好みを尊重することと、自分の限界を無視することは違う。


 好きなものだからこそ、最後までおいしく食べられる量を考えればいい。


 そんな当たり前のことを、葬送はチーズの山から学んでいた。


     *


 道化師のピザトーストは、さらに異様だった。


 彼は、具材を三つの区域に分けていた。


 左側には、チーズを少量。


 中央には、標準量。


 右側には、大量のチーズ。


 その上で、同じ具材を同じ位置に配置している。


「……何をしているんですか?」


 透が尋ねた。


「比較実験だ」


「比較?」


「チーズの量による味の変化を、できる限り同一条件で検証する」


 道化師は、真剣な顔で答えた。


「一枚のパンを三つに分けることで、具材の差異を最小限に抑えられる」


「なるほど……」


 透は、感心したように頷いた。


「面白いですね」


 道化師は、少しだけ満足そうにした。


「ただし、問題がある」


「何ですか?」


「焼き上がりの温度差だ。中央部と端では、熱の伝わり方が異なる可能性がある」


「……そうなんですか」


「また、チーズの量が増えれば、溶けたチーズの流動によって、隣接する区域にも影響が及ぶ」


「……なるほど?」


「したがって、この実験は厳密には完全な比較とは言えない」


 透は、少し考えた。


「じゃあ、別々に作ってみたらどうですか?」


 道化師は、固まった。


「……別々に?」


「はい。チーズ少なめのものと、多めのものを別々に作って、食べ比べればいいんじゃないですか?」


 道化師は、ゆっくりとノートを閉じた。


「……その方法があったか」


「普通にありますよ?」


「いや、条件を揃えることに意識を向けすぎていた」


 道化師は、自分のピザトーストを見つめた。


 彼は、完璧な検証を求めていた。


 誤差を減らし、情報を集め、正確な結論を導き出す。


 それは、彼が長年培ってきた能力だった。


 だが、今回の目的は、世界の真理を解き明かすことではない。


 自分がどの味を好きなのか、知ることだった。


「……店主」


「はい?」


「私は、チーズが多いほうが好きかもしれない」


「おお、そうなんですか」


「ただし、具材の味も感じられる程度が望ましい」


「じゃあ、そのくらいの量を探せばいいんですよ」


 道化師は、頷いた。


「……自分で確かめるしかない、ということか」


「そうですね」


 道化師は、新しいパンを取り出した。


 今度は、何も測らなかった。


 適当にチーズを乗せ、焼き上がったものを食べた。


「……うまい」


 透が笑った。


「よかったですね」


「……ああ」


 道化師は、もう一口食べた。


 その顔には、いつもの分析者としての冷静さとは少し違う、素直な満足が浮かんでいた。


     *


 零は、チーズを少しだけ乗せていた。


 その上に、薄切りのトマトを置く。


 さらに、ほんの少しだけチーズを追加する。


「……これで、いいかな」


 零は、透を見た。


「いいと思いますよ」


「……少なすぎない?」


「零さんが食べたい量なら、いいんじゃないですか?」


 零は、少し考えた。


「……うん」


 彼女は、ピザトーストを焼いた。


 焼き上がったパンを皿に乗せる。


 チーズはきちんと溶けていた。


 トマトの赤が、表面に鮮やかに見えている。


「……できた」


「おいしそうですね」


 透が言うと、零はうれしそうに頷いた。


 ひと口食べる。


 チーズの風味。


 トマトの酸味。


 焼けたパンの香ばしさ。


 どれも、強すぎなかった。


「……おいしい」


「よかったです」


 零は、もう一口食べた。


 そして、ふと手を止めた。


「……店主」


「はい?」


「……私、前は、好きなものを選ぶのが怖かった」


 透は、静かに彼女を見た。


「そうだったんですね」


「……間違えたら、どうしようって思ってた」


 零は、自分のピザトーストを見つめた。


「……みんなと違うものを選んだら、変だと思われるかもしれない。うまくできなかったら、迷惑をかけるかもしれない」


 少しだけ、言葉が途切れた。


「……だから、誰かが決めたものを選んだほうが、楽だった」


 透は、急かさずに聞いていた。


「でも……」


 零は、顔を上げた。


「……今は、自分で選ぶのが、少し楽しい」


「それは、よかったです」


 透は、やさしく笑った。


「好きなものって、最初から分かっているとは限りませんからね。いろいろ試してみて、少しずつ見つけていけばいいんですよ」


「……うん」


「失敗したって、次に変えればいいですし」


 零は、頷いた。


 そして、少しだけ笑った。


「……次は、チーズをもう少し多くしてみたい」


「いいですね。試してみましょう」


「……でも、葬送さんほどは入れない」


 厨房に、笑い声が響いた。


「おい、零。聞こえているぞ」


 葬送が、不満そうに顔を上げた。


「……ごめんなさい」


 零は、まったく悪びれずに謝った。


 葬送は一瞬だけ彼女を見つめ、それから大きく笑った。


「……いや、いい。次は俺も減らす」


 零は、うれしそうに頷いた。


 自分の好みを言ってもいい。


 誰かと違っていてもいい。


 冗談を言い合っても、居場所がなくなるわけではない。


 そのことが、零には少しずつ分かってきていた。


     *


 昼食の時間。


 全員のピザトーストが、テーブルに並んだ。


 王冠のものは、具材の配置が整っていた。


 黒百合のものは、チーズが控えめで、野菜が目立っていた。


 葬送のものは、チーズが大量に乗っていた。


 道化師のものは、途中で実験を放棄した結果、妙にバランスのよい仕上がりになっていた。


 渡り烏のものは、昔ながらのシンプルなピザトーストだった。


 零のものは、トマトがきれいに見える、控えめな一枚だった。


 鷹宮は、チーズとソーセージをたっぷり乗せていた。


 そして透は、祖父がよく作ってくれた、玉ねぎとピーマンを多めに乗せたピザトーストを作っていた。


「……店主」


 鷹宮が、透の皿を見た。


「そのピザトーストは、何か特別なものなのか」


「え? いえ。昔、おじいちゃんがよく作ってくれたんです」


「そうか」


「玉ねぎとピーマンが多めなんですけど、これが好きで」


 透は、懐かしそうに笑った。


「だから、今日はこれにしました」


 鷹宮は、しばらくその皿を見つめていた。


「……自分の好みだけでなく、誰かとの思い出も、料理の味に関わるのだな」


「そうですね」


 透は頷いた。


「おじいちゃんと食べたものって、今でも好きなんですよね。食べると、そのときのことを思い出しますし」


 渡り烏は、静かに目を伏せた。


 彼もまた、この店で祖父と食事をしたことがある。


 特別な料理ではなかった。


 余った材料で作ったスープや、少し形の崩れたケーキ。


 それでも、あの時間は、今も記憶の中に残っている。


「……食事は、不思議なものだな」


 渡り烏が言った。


「味だけではなく、一緒に食べた人のことまで思い出す」


「そうですね」


 透は、笑った。


「だから、みんなで食べると楽しいんじゃないですかね」


 王冠は、ピザトーストをひと口食べた。


 黒百合も、静かに頷いた。


 葬送は、今度こそ食べきれる量のチーズを乗せたピザトーストを、満足そうに食べていた。


 道化師は、比較検証のノートを閉じていた。


 零は、トマトとチーズの組み合わせを楽しんでいた。


 鷹宮は、少しだけ考えてから、透に言った。


「……朝霧君」


「はい?」


「その、祖父君が作っていたものを、今度、私にも作ってもらえるだろうか」


「もちろんです。簡単なものですけど、それでよければ」


「十分だ」


 鷹宮は、静かに笑った。


「……楽しみにしている」


 それは、仕事の依頼でも、取引の申し出でもなかった。


 ただ、ひとつの料理を食べてみたいという、個人的な希望だった。


 透は、うれしそうに頷いた。


「はい。じゃあ、今度一緒に作りましょう」


 その瞬間、鷹宮の表情が、わずかに変わった。


「……一緒に?」


「ええ。作るのも楽しいですよ」


 鷹宮は、少しだけ目を見開いた。


 誰かに用意してもらうのではなく、自分で作る。


 誰かと並んで、手を動かす。


 完成したものを、一緒に食べる。


 その時間を、楽しみにしてもいいのだろうか。


「……ああ」


 鷹宮は、頷いた。


「ぜひ、頼む」


     *


 午後二時。


 灰都情報管理連絡会に、新しい報告書が届いた。


 責任者は、表紙を見ただけで頭が痛くなった。


 表題。


『対象店舗における嗜好の個別化と、共有記憶の形成に関する観察記録』


「……誰が書いた」


 部下が手を挙げた。


「私です」


「なぜ、ピザトーストでこんな題名になる」


「チーズの量を各自が選択した結果、全員が異なる仕上がりになりました。また、店主が祖父の思い出に言及したことで、料理が個人的な記憶と結びついている可能性が確認されました」


「……それで?」


「組織内の食事制度においても、全員に同じ食事を提供するだけでなく、個人の好みや、食事を通じた交流を考慮する余地があると考えられます」


 責任者は、黙っていた。


 しばらくして、ゆっくりと報告書を閉じた。


「……それ自体は、悪い話ではないな」


「はい」


「だが、なぜチーズの写真が十二枚もある」


「比較のためです」


「なぜ、焼き上がりの断面図がある」


「チーズの分布を確認するためです」


「なぜ、葬送のピザトーストだけ別紙なのだ」


「……チーズの量が、想定を超えていたためです」


 責任者は、天井を見上げた。


「……もういい」


「はい」


「今後、料理に関する報告は、食中毒や衛生上の問題がない限り不要とする」


「承知しました」


「それと、最後にひとつ」


「何でしょうか」


「好きなだけ乗せていいと言われたからといって、チーズを山にする必要はない」


 部下は、真剣に頷いた。


「葬送殿には、すでに本人が気づいた旨を確認しております」


「……本人が?」


「はい。次回は、チーズの量を減らすとのことです」


 責任者は、ようやく安心したように椅子にもたれた。


 灰都は、今日も平和だった。


 チーズが大量に消費されたことを除けば。


     *


 夕方。


 《CAFE 灯》の厨房では、透が最後のピザトーストを焼いていた。


 それは、少し小さな一枚だった。


 玉ねぎ。


 ピーマン。


 ソーセージ。


 そして、ほどよい量のチーズ。


 焼き上がったものを皿に乗せ、透はしばらく眺めた。


「……懐かしいな」


 祖父が作ってくれた味。


 忙しい日も、疲れた日も、何も特別なことがなかった日も。


 祖父は、ときどきこうして、簡単な料理を作ってくれた。


 透が失敗して落ち込んでいたときも。


 学校で嫌なことがあったときも。


 何も話したくない日も。


 祖父は、無理に理由を聞かなかった。


 ただ、食事を用意してくれた。


 そして、いつも同じことを言った。


 ――食べられるときに、食べればいい。


 ――話したくなったら、話せばいい。


 ――ここにいることに、理由なんていらない。


 透は、ゆっくりと息を吐いた。


「……おじいちゃん」


 小さくつぶやいた。


「俺、ちゃんと店を続けてるよ」


 返事はなかった。


 それでも、店の中には、祖父が残したものが今も息づいている。


 誰かが来る。


 何かを食べる。


 少し話す。


 笑う。


 そして、帰っていく。


 明日も、きっと誰かが来るだろう。


 透は、ピザトーストをひと口食べた。


「……うん。おいしい」


 その声を聞いて、厨房の入口にいた渡り烏が、静かに微笑んだ。


 彼は何も言わず、そっと店の扉を閉めた。


 今は、透ひとりの時間を邪魔しないほうがいい。


     *


 翌朝。


 透が店に入ると、厨房のテーブルに大きな紙が置かれていた。


 中央には、太い文字でこう書かれていた。


『ピザトースト・次回試作案』


 その下には、具材の組み合わせがびっしり並んでいた。


 チーズ多め。


 チーズ少なめ。


 野菜多め。


 ソーセージ多め。


 トマトソースの代わりにカレー。


 そして、なぜか、はちみつとチーズの組み合わせまで記載されていた。


「……誰が作ったんですか、これ」


 透が尋ねると、道化師が手を挙げた。


「私だ」


「昨日、もう実験は終わったんじゃなかったんですか?」


「昨日の検証で、いくつか新たな可能性が見つかった」


「……そうですか」


 王冠が、紙を指さした。


「ただし、全員に同じ試作を求めるつもりはない。各自が興味のあるものを選べばいい」


「おお、いいですね」


 透は笑った。


「じゃあ、食べてみたいものから作りましょうか」


 零が、そっと手を挙げた。


「……私は、はちみつとチーズ」


 道化師が頷いた。


「甘味と塩味の組み合わせか。興味深い」


 黒百合は、トマトソースと野菜の組み合わせを選んだ。


 葬送は、ソーセージを増やしたいと言った。


 ただし、今回はチーズを控えめにするらしい。


 渡り烏は、昔ながらのものがいいと笑った。


 鷹宮は、少し迷ってから、透に尋ねた。


「……朝霧君。昨日の、祖父君が作っていたものだが」


「はい」


「今日、教えてもらえるだろうか」


 透は、うれしそうに頷いた。


「もちろんです。簡単ですから、一緒に作りましょう」


 鷹宮は、静かに笑った。


 零は、はちみつの瓶を手に取った。


 王冠は、ホットサンドメーカーを片づけ、オーブントースターの準備を始めた。


 黒百合は、野菜を洗った。


 葬送は、ソーセージを切り始めた。


 道化師は、新しい実験用のノートを開いた。


 渡り烏は、全員分のコーヒーを淹れた。


 そして透は、食パンを並べながら言った。


「今日は、みんなで好きなものを作りましょう」


 誰も反対しなかった。


 チーズを多くする人もいる。


 少なくする人もいる。


 甘いものを試す人もいる。


 いつもの味を選ぶ人もいる。


 どれも、それぞれの選択だ。


 誰かの好みを正解にする必要はない。


 誰かの好みを間違いにする必要もない。


 ただ、違いがあることを認めればいい。


 そして、できあがった料理を一緒に食べればいい。


 灰都の裏社会では、その後も長い間、ピザトーストの話題が続いた。


 だが、もう誰も、チーズの量を統一しようとはしなかった。


 ただひとつ、葬送の皿だけは、少しだけチーズの量が減った。


 そのことを知った情報管理連絡会の責任者は、報告書を受け取るなり、深く頷いた。


「……よし。これで、チーズの危機は去ったな」


 部下は、静かに答えた。


「はい。なお、対象店舗では、次回の料理としてグラタンが候補に挙がっているそうです」


 責任者は、ゆっくりと目を閉じた。


「……今度は、何が溶けるんだ」


 その問いに、答えられる者はいなかった。


 そして《CAFE 灯》では、透が楽しそうに言っていた。


「グラタンって、焼きたてがおいしいんですよね」


 六人の伝説が、同時に顔を上げた。


 鷹宮宗一郎が、コーヒーを置いた。


 零が、メモ帳を開いた。


 王冠は、静かに立ち上がった。


 道化師は、耐熱皿の構造を思い浮かべた。


 葬送は、チーズをどれだけ乗せられるか考え始めた。


 黒百合は、具材の組み合わせを検討した。


 渡り烏だけが、天井を見上げてつぶやいた。


「……今度こそ、普通に食べるだけにしようじゃないか」


 透は、不思議そうに首を傾げた。


「え? いつも普通に食べてますよ?」


 その言葉に、全員が沈黙した。


 灰都の裏社会は、まだ知らない。


 次に待ち受けているのが、ホワイトソースの濃度、具材の配置、焼き色の許容範囲、そして鷹宮宗一郎が人生で初めて焦げたチーズを「これはこれでうまい」と認める日であることを。


 もちろん、透だけは、そんな未来をまったく想像していなかった。


 彼はただ、明日の仕込みを考えていた。


 それだけだった。

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