第38話 店主が「ホットサンドは、焼きたてを半分こするとおいしいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で食料の分配を巡る協定が結ばれました
朝霧透は、ホットサンドメーカーを買ったことを、少しだけ後悔していた。
いや、正確に言えば、買ったこと自体は後悔していない。
問題は、それを店に持ち帰ってきた瞬間から、六人の伝説が異様な熱意を見せ始めたことだった。
「店主。これが、ホットサンドメーカーか」
王冠が、黒い調理器具を見つめていた。
「はい。パンに具を挟んで、両面を焼くんです。外がカリッとして、中が熱々になるんですよ」
「なるほど」
王冠は、静かに頷いた。
「密閉された空間で、熱を均等に加える構造か」
「ええと……まあ、そうですね」
「焼き時間によって、仕上がりが変化する」
「そうですね」
「具材の配置によっても、熱の伝わり方が変わる可能性がある」
「たぶん、そうですね」
透は、少しずつ不安になってきた。
ただのホットサンドである。
パンに具を挟んで焼くだけの、家庭でもよく作られる料理だ。
ところが、王冠の表情は、まるで国家の命運を左右する装置を前にしているかのようだった。
「……店主」
今度は道化師が口を開いた。
「焼き時間の基準値は?」
「え?」
「パンの厚さ、具材の温度、チーズの種類、具材の水分量。それらを踏まえた推奨時間は存在するのか」
「説明書に書いてあると思いますけど……」
「説明書は確認した」
「早いですね」
「しかし、説明書はあくまで標準的な条件を想定したものだ。個々の具材構成に対して、最適な焼き時間が保証されているわけではない」
「まあ、そうでしょうね」
「つまり、試行錯誤が必要ということだ」
道化師は、満足げに頷いた。
その横で、葬送が腕を組んでいた。
「焼けばいいんだろう」
「ええ、まあ」
「任せろ」
葬送の声には、揺るぎない自信があった。
透は、思わず笑った。
「じゃあ、今日はみんなで作ってみましょうか」
その一言で、六人の伝説と鷹宮宗一郎は、全員が同時に動き出した。
王冠は計測器具を用意し始めた。
道化師はノートパソコンを開いた。
黒百合は具材の衛生状態を確認した。
渡り烏は、なぜか人数分を大きく上回る食パンを買い足した。
零はチーズとハムを並べた。
鷹宮はホットサンドメーカーの前に立ち、真剣な顔で説明書を読んでいた。
葬送だけが、すでに食パンを二枚重ねていた。
「葬送さん、まだ具材を挟んでないですよ」
「……そうだった」
灰都の裏社会を震え上がらせる男は、静かにパンを置いた。
こうして、ホットサンドを作るだけの一日が始まった。
*
最初の犠牲者は、王冠だった。
「……なぜだ」
彼は、焼き上がったホットサンドを見つめていた。
パンの表面には、美しい焼き色がついている。
形も整っている。
焼き時間も、説明書に記載された範囲内だった。
それなのに。
チーズが、片側から大量にはみ出していた。
「具材の配置に問題があったのか」
「チーズを端まで置きすぎたんじゃないですか?」
透が言った。
「……なるほど」
王冠は、はみ出したチーズを見つめた。
「端に余白を設ける必要がある」
「そうですね。少し内側に置くと、はみ出しにくいですよ」
「理解した」
王冠は、メモを取った。
――具材はパンの端まで配置しない。
そして、次のホットサンドを作り始めた。
今度は、チーズを内側に置いた。
ハムも内側に置いた。
レタスも、慎重に配置した。
結果。
パンの端には、具材がほとんど存在しなかった。
「……店主」
「はい?」
「これは、成功なのか」
透は、断面を確認した。
真ん中には、具材がぎっしり詰まっている。
しかし端のほうは、ほぼパンだけだった。
「うーん……」
透は少し考えた。
「失敗ではないですけど、もう少し具を広げてもいいかもしれませんね」
王冠は、静かに目を閉じた。
「……適切な余白と、十分な充填量。その両立が必要ということか」
「まあ、そうですね」
王冠は、三度目のホットサンドに取りかかった。
その様子を見ていた渡り烏が、ぼそりと言った。
「王冠。君は、いつになったら昼飯を食べるんだ?」
「最適な構成が完成してからだ」
「そのころには夕飯になっているぞ」
「問題ない」
「いや、問題はあるだろう」
透は、苦笑しながら言った。
「王冠さん。まずは一個、食べてみませんか? 冷めちゃいますよ」
王冠の手が止まった。
彼は完成したホットサンドを見つめ、それから透を見た。
「……そうだな」
ひと口食べる。
カリッとしたパンの食感。
溶けたチーズの風味。
ハムの塩気。
多少具材が偏っていても、十分においしかった。
「……うまい」
「よかったです」
王冠は、しばらく黙っていた。
完璧なものを作ることに集中しすぎて、完成した料理を味わうことを忘れていた。
そんな自分に気づいたのだろう。
「……店主」
「はい?」
「次は、食べることも工程に含める」
「いや、最初から食べるために作ってるんですけどね」
王冠は、真剣な顔で頷いた。
「重要な指摘だ」
透は、もう何も言わなかった。
*
一方、葬送のホットサンドは、別の問題を抱えていた。
「……これは、どうすればいい」
彼の手元には、パンの両端から大量にはみ出した具材があった。
ハム。
チーズ。
鶏肉。
さらに、昨日の照り焼きチキンまで追加されている。
「葬送さん、具材が多すぎませんか?」
「たくさん入れたほうが、うまいだろう」
「それはそうですけど……」
「肉が少ないと、食べた気がしない」
葬送は、真剣だった。
彼にとって、料理とは食べる者を満足させるためのものだ。
ならば、具材は多いほうがいい。
少なくとも、そう考えていた。
しかし、ホットサンドメーカーを閉じようとすると、具材がはみ出してしまう。
力を入れて押さえれば、今度は中身が横から飛び出した。
「……くっ」
葬送が、わずかに力を込めた。
「葬送さん、力で解決しようとしないでください!」
透が慌てて止めた。
葬送は、ぴたりと動きを止めた。
「……そうだった」
彼は、ゆっくりと手を離した。
「すまない。つい、押さえれば何とかなると思った」
「具材を少し減らしてみましょう。入りきらないなら、別にして食べてもいいんですから」
「別にして……」
「はい。サンドイッチに全部入れなきゃいけないわけじゃないですし」
葬送は、具材を見つめた。
全部を一度に詰め込まなくてもいい。
入らないものは、別にしてもいい。
料理の話としては、当然のことだった。
しかし彼には、少し違う意味にも聞こえた。
自分が誰かを守ろうとするとき、いつも全部を抱え込もうとしていた。
誰かが困っていれば、自分が引き受ける。
誰かが傷つけば、自分が前に出る。
誰かが失敗すれば、自分が補う。
そうしていれば、誰も困らずに済むと思っていた。
だが、すべてを抱え込めば、自分自身が動けなくなる。
「……店主」
「はい?」
「入らないものは、別にしてもいいんだな」
「もちろんです」
「……そうか」
葬送は、具材を半分だけパンに挟んだ。
残った鶏肉は、皿に盛りつける。
今度は、きれいにホットサンドメーカーが閉じた。
焼き上がったものをひと口食べる。
「……うまい」
「よかったですね」
「残った肉も、うまい」
「それはよかったです」
葬送は、満足そうに頷いた。
そして、残った肉を全員の皿に少しずつ分け始めた。
「食べてくれ。うまいぞ」
透は、その姿を見て笑った。
「葬送さん、みんなに分けるのが好きなんですね」
「……そうかもしれない」
葬送は、照れくさそうに目をそらした。
*
昼前。
零は、ホットサンドをひとつ完成させた。
具材は、ハムとチーズ。
シンプルな組み合わせだった。
パンの表面には、きれいな焼き色がついている。
端から具材もはみ出していない。
「……できた」
零は、少しだけうれしそうに言った。
「おお、きれいにできましたね」
透が近づいてきた。
「……うん」
零は、ホットサンドを半分に切ろうとした。
しかし、包丁を入れたところで手が止まった。
「……店主」
「はい?」
「半分にしたら、二つになる?」
「え?」
「……ひとつを半分にしたら、二つになるよね」
「そうですね」
「……じゃあ、誰かと半分こできる」
透は笑った。
「もちろんです」
零は、ホットサンドを切り分けた。
そして、片方を黒百合に差し出した。
「……食べる?」
黒百合は、少し驚いたように目を見開いた。
「私に?」
「……うん。ハムとチーズ」
「……ありがとう」
黒百合は、ホットサンドを受け取った。
ひと口食べる。
焼きたてのパンが、軽い音を立てた。
「……おいしい」
「……よかった」
零は、自分の半分を食べた。
それから、少しだけ黒百合を見た。
「……ひとりで食べるのも、おいしいけど」
「……うん」
「……誰かと食べるのも、いいね」
黒百合は、静かに頷いた。
「そうね」
零は、もう一口食べた。
これまでの彼女は、誰かに何かを渡すとき、相手にとって必要かどうかを考えすぎていた。
役に立つものか。
喜ばれるものか。
渡すだけの価値があるものか。
そんなことを考えているうちに、結局、何も渡せなくなることもあった。
しかし、今は違う。
自分が作ったものを、食べてほしいと思った。
ただ、それだけで渡してよかった。
相手が受け取ってくれた。
そして、おいしいと言ってくれた。
それだけで、十分だった。
「……店主」
「はい?」
「明日は、ふたつ作りたい」
「ホットサンドですか?」
「……うん。ひとつは自分用。もうひとつは、誰かにあげる用」
透は、やさしく笑った。
「いいですね。誰にあげるんですか?」
零は、少し考えた。
黒百合を見た。
王冠を見た。
葬送を見た。
道化師と渡り烏を見て、最後に鷹宮を見た。
「……まだ、決めてない」
「じゃあ、明日決めましょう」
「……うん」
零は、うれしそうに頷いた。
その様子を見ていた黒百合は、ほんの少しだけ目を細めた。
誰かに何かを渡したいと思えること。
誰かに受け取ってもらえると思えること。
それは、彼女にとっても、いつの間にか大切なものになっていた。
*
午後一時。
問題が発生した。
きっかけは、透の何気ないひと言だった。
「焼きたてのホットサンドって、半分こするとおいしいですよね」
その場にいた全員が、手を止めた。
「……店主」
王冠が、ゆっくりと顔を上げた。
「確認させてくれ」
「はい?」
「半分こすること自体に、何か特別な意味があるのか」
「え?」
「一個を二人で分ける場合、均等に切り分けるべきか。それとも、互いの好みに応じて大きさを変えるべきか」
「……ええと?」
道化師が、すかさず口を挟んだ。
「均等に分ける場合、重量を基準とするか、断面積を基準とするかという問題もある」
「いや、そこまで考えなくても……」
「具材の偏りも考慮すべきだ」
黒百合が冷静に指摘した。
「片方にチーズが集中していれば、見た目の大きさが同じでも公平とは限らない」
「待て」
渡り烏が手を挙げた。
「そもそも、本人が大きいほうを食べたいなら、均等にする必要はないんじゃないか?」
「……それも一理ある」
王冠が頷いた。
鷹宮は、真剣な表情で口を開いた。
「しかし、相手に遠慮して小さいほうを選ぶ者もいるだろう」
「そうですね」
透が頷いた。
「だから、食べる人に聞けばいいんじゃないですか?」
全員が、黙った。
透は、普通に続けた。
「半分こするときは、どっちが大きいほうを食べたいか聞けばいいですし。相手が大きいほうを食べたいなら、譲ってあげてもいいですし。自分が大きいほうを食べたいなら、そう言ってもいいと思いますよ」
王冠は、ゆっくりと息を吐いた。
「……本人に聞く」
「はい」
「相手がどう思っているか、勝手に決めつけない」
「そうですね」
「必要であれば、希望を伝える」
「はい」
王冠は、しばらく黙っていた。
それから、手帳を閉じた。
「……そのほうが、確実だな」
透は笑った。
「でしょう?」
道化師は、何かを書きかけたノートを閉じた。
黒百合は、自分の皿に残っていたホットサンドを見つめた。
渡り烏は、静かに頷いた。
鷹宮は、思い出していた。
自分はこれまで、相手の望みを推測し、それに応えることを仕事としてきた。
相手が何を欲しがっているのか。
何を恐れているのか。
何を譲れば、交渉が成立するのか。
そうした読みは、確かに必要だった。
しかし、近しい人との間でさえ、同じ方法を使う必要はないのかもしれない。
欲しいなら、欲しいと言えばいい。
分からないなら、聞けばいい。
相手の希望を尊重することと、相手の希望を勝手に想像することは、似ているようで違う。
「……朝霧君」
「はい?」
「君は、いつも簡単に答えを出すな」
「そうですか?」
「そうだ」
「うーん……。難しく考えると、疲れちゃいますからね」
透は、ホットサンドメーカーを拭きながら言った。
「もちろん、ちゃんと考えなきゃいけないこともありますけど。でも、聞けば分かることなら、聞いたほうが早いじゃないですか」
鷹宮は、思わず笑った。
「……確かに、そうだな」
その笑い声は、いつもの会議室で聞かせるものとは違っていた。
肩書きも、権力も、駆け引きも関係のない場所で。
ただの客として、ホットサンドを食べている男の笑い声だった。
*
午後三時。
灰都情報管理連絡会に、またしても報告が届いた。
「対象店舗にて、食料分配に関する議論が発生しました」
「……今度は何だ」
責任者は、すでに疲れ切っていた。
「ホットサンドを半分に分ける際、均等分配と希望確認のどちらを優先すべきかという議論です」
「……それで?」
「最終的には、当人同士が希望を確認することが合理的である、という結論に至ったようです」
「そうか」
責任者は、報告書を受け取った。
そこには、ホットサンドの断面図まで添付されていた。
チーズの分布。
ハムの配置。
切断線の位置。
さらには、左右それぞれの重量推定値まで記されている。
「……なぜ、ここまで調べた」
「報告担当者が、均等分配の検証に必要と判断したためです」
「その担当者は、今どこにいる」
「対象店舗の近くにあるパン屋で、ホットサンドを購入しているとのことです」
「……」
責任者は、ゆっくりと報告書を閉じた。
「もういい」
「はい」
「今後、対象店舗に関する食事の報告は、重大な問題がない限り省略しろ」
「承知しました」
「そして、ひとつだけ伝えておけ」
「何でしょうか」
「分け方を決める前に、相手に聞け。以上だ」
部下は、深く頷いた。
「承知しました」
責任者は窓の外を見た。
灰都は、今日も平穏だった。
少なくとも、ホットサンドの分配を巡って、誰かが命を落とすようなことはなかった。
それだけで、十分に進歩と言えるのかもしれない。
*
閉店後。
透は、厨房で残った食パンを確認していた。
「今日は、たくさん作りましたね」
渡り烏が、隣に立った。
「ああ。だが、まだ少し残っている」
「明日の朝食にでも使いましょうか」
「それがいい」
渡り烏は、食パンの袋を閉じた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……透君」
「はい?」
「君の祖父も、よくこうして余った食材を分けていたよ」
透は、手を止めた。
「そうなんですか?」
「ああ。食材が余ると、誰かに持たせたり、店で簡単な料理を作ったりしていた」
「へえ……」
「誰かが遠慮すると、あの人はよく言っていたよ。『欲しいなら欲しいと言えばいい。いらないなら、いらないと言えばいい。どちらでも、ここに来ていいことは変わらない』とね」
透は、少しだけ笑った。
「……おじいちゃんらしいですね」
「ああ」
渡り烏は、懐かしそうに目を細めた。
「昔の俺は、何かをもらうのが苦手だった。借りを作ることになると思っていたからな」
「今は?」
「今も、少し苦手だ」
渡り烏は正直に答えた。
「だが、ここでは、受け取ったからといって、必ず何かを返さなければならないわけじゃないと、少しずつ思えるようになった」
透は、黙って聞いていた。
「もちろん、恩を忘れる必要はない。誰かに助けてもらったなら、感謝はする。自分にできることがあれば、手を貸すこともあるだろう」
渡り烏は、食パンの袋を見つめた。
「ただ、それは最初から契約として決めておくものばかりじゃないんだな」
「……そうですね」
透は、ゆっくり頷いた。
「おいしいものを食べて、うれしかったら、また一緒に食べればいいんじゃないですか?」
渡り烏は、しばらく透を見つめていた。
やがて、ふっと笑った。
「……君は、本当に変わらないな」
「え?」
「いや。いいことだ」
渡り烏は、透の肩を軽く叩いた。
「明日も来るよ」
「はい。お待ちしてます」
渡り烏が帰ったあと、透は厨房の明かりを消した。
今日も、いつもどおりの一日だった。
ホットサンドを作り、みんなで食べた。
それだけだ。
それなのに、店の中には、何かが少しずつ変わっていく気配があった。
*
その夜、鷹宮宗一郎は、自宅の食卓に座っていた。
目の前には、秘書が用意したホットサンドが二つ。
ひとつは、ハムとチーズ。
もうひとつは、卵ときゅうり。
「……二種類あるのか」
「はい。会長がお好みを選べるよう、両方ご用意いたしました」
「そうか」
鷹宮は、二つを見比べた。
どちらも、おいしそうだった。
彼は少し考えてから、卵ときゅうりのホットサンドを手に取った。
一口食べる。
温かい卵と、きゅうりの歯触り。
焼いたパンの香ばしさ。
「……うまいな」
「ありがとうございます」
秘書は、静かに頭を下げた。
鷹宮は、もうひとつのホットサンドを見た。
「君も、食べるか?」
秘書は、驚いた。
「……私が、ですか?」
「ああ。二つある。私ひとりでは食べきれない」
「しかし、これは会長のお食事でございます」
「だから、聞いている」
鷹宮は、穏やかに言った。
「君が食べたいなら、半分どうだ」
秘書は、しばらく黙っていた。
長年、鷹宮に仕えてきた。
その間、食事の席で主人から食べ物を勧められたことは、ほとんどなかった。
仕事の話なら、いくらでもあった。
必要な報告。
次の予定。
判断すべき案件。
しかし、ただ食べ物を分けようと声をかけられたことは、記憶にない。
「……では、お言葉に甘えて」
秘書は、ホットサンドを半分受け取った。
「ありがとう」
鷹宮は頷いた。
二人は、しばらく無言で食べた。
やがて秘書が、ぽつりと言った。
「……会長」
「何だ」
「明日の昼食は、私も自分の好きなものを選んでみようと思います」
鷹宮は、笑った。
「ああ。そうするといい」
その夜、鷹宮はひとつのことを学んだ。
人に何かを与えるとき、必ずしも相手のためになるものを完璧に用意する必要はない。
ただ、自分が持っているものを分けたいと思ったなら、そう伝えればいい。
相手が受け取るかどうかは、相手が決める。
その自由まで奪わないこと。
それもまた、誰かを大切にするということなのだろう。
*
翌朝。
透は、店の前で看板を出していた。
今日のおすすめは、ホットサンド。
ハムチーズ、卵、照り焼きチキン。
そして、昨日零が希望した、いちごとカスタードの甘いホットサンド。
「……店主」
零が、店の扉を開けた。
「おはようございます、零さん」
「……おはよう」
零は、小さな紙袋を差し出した。
「……これ」
「何ですか?」
「……昨日、練習した」
袋の中には、ホットサンドが二つ入っていた。
ひとつは、いちごとカスタード。
もうひとつは、ハムとチーズ。
「おお、作ったんですか?」
「……うん」
「すごいですね!」
透が笑うと、零は少しだけ視線をそらした。
「……店主に、ひとつあげたい」
「いいんですか?」
「……うん。好きなほうを選んで」
透は、袋の中を覗き込んだ。
そして、いちごとカスタードのほうを手に取った。
「じゃあ、こっちをいただきます」
「……うん」
零は、うれしそうに頷いた。
透は、ひと口食べた。
「おいしいです!」
零の表情が、ぱっと明るくなった。
「……本当?」
「はい。いちごとカスタード、よく合ってますね」
零は、自分のハムチーズサンドを見た。
「……こっちも、おいしいよ」
「じゃあ、あとで交換して食べましょうか」
「……うん!」
零は、はっきりと笑った。
その笑顔を見て、透も笑った。
誰かに何かを渡すこと。
受け取ってもらうこと。
自分の好きなものを伝えること。
相手の好きなものを知ろうとすること。
それは、特別な能力がなくてもできる。
誰かを支配する力がなくてもできる。
誰かより強くなくても、できることだ。
《CAFE 灯》の扉が開いた。
王冠が入ってきた。
黒百合が続いた。
葬送が大きな紙袋を持ってきた。
道化師は、また新しい組み合わせを試す気らしい。
渡り烏は、いつもの席に座った。
鷹宮も、少し遅れて店に入ってきた。
「おはようございます。今日は何を作りましょうか?」
透が尋ねると、全員が顔を見合わせた。
そして零が、そっと手を挙げた。
「……今日は、みんなの好きなものを半分こしたい」
透は、笑顔で頷いた。
「いいですね。じゃあ、いろいろ作りましょう」
こうして、《CAFE 灯》の一日は始まった。
今日も、誰もが好きなものを選ぶ。
誰かの好みを否定することなく。
誰かに遠慮して、自分の希望を隠すことなく。
そして、食べきれないものがあれば、誰かと分け合えばいい。
灰都の裏社会では、その後しばらくの間、各組織の食堂でホットサンドが提供されるようになった。
具材は選択式。
分量も、希望に応じて調整可能。
余ったものは、本人の同意を得て分配。
その運用方針を記した文書の末尾には、誰が書いたのか、こんな一文が添えられていた。
『相手のためを思うなら、まず相手に尋ねること』
その文書を見た情報管理連絡会の責任者は、長い沈黙のあと、ひとことだけつぶやいた。
「……頼むから、これ以上パンに哲学を背負わせないでくれ」
しかし、その日の夕方。
《CAFE 灯》の店主が、何気なく口にした。
「今度は、ピザトーストもいいですね」
六人の伝説が、一斉に振り向いた。
鷹宮宗一郎が、静かにコーヒーを置いた。
王冠が、ゆっくりと手帳を開いた。
道化師が、目を輝かせた。
葬送は、チーズの伸び具合を想像した。
黒百合は、具材の組み合わせを考え始めた。
渡り烏は、深いため息をついた。
零は、笑顔で言った。
「……ピザトーストも、半分こできるね」
透は、うれしそうに頷いた。
「そうですね。みんなで食べましょう」
灰都の裏社会に、また新しい嵐が訪れようとしていた。
原因は、チーズとトマトと食パン。
そして、本人だけが何も知らない、普通の喫茶店の店主だった。




