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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第37話 店主が「好きな具を入れれば、サンドイッチは何だっておいしくなりますよ」と言った結果、灰都の裏社会で具材の自由を巡る思想闘争が勃発し、六人の伝説がパンの耳を切るかどうかで国家機密級の議論が

 朝霧透は、朝から困っていた。


 理由は簡単だった。


 冷蔵庫に、昨日の料理で余った食材が大量に入っていたのである。


 卵。レタス。トマト。ハム。チーズ。鶏肉。きゅうり。ポテトサラダ。少しだけ残ったカレー。


 どれも捨てるには惜しい。


 しかし、今日のランチメニューを考えるには、少々中途半端だった。


「うーん……」


 透は冷蔵庫の前で腕を組んだ。


「これ、サンドイッチにしたら、ちょうどいいかな」


 その一言を、店内にいた六人は聞き逃さなかった。


 王冠が、静かに顔を上げた。


 黒百合が、手元のカップを置いた。


 葬送が、厨房から顔を出した。


 道化師は、すでに何かを考え始めていた。


 渡り烏は、嫌な予感を覚えて新聞を畳んだ。


 そして零は、メモ帳を取り出した。


「店主」


 王冠が言った。


「サンドイッチとは、各自が好む具材を選択し、組み合わせる料理という認識でよろしいでしょうか」


「え? はい。まあ、そうですね」


「組み合わせに制限は?」


「えっ?」


「具材の種類、配置、量。何かしらの標準規格は存在しますか」


「いや、好きなものを挟めばいいんじゃないですか?」


 透は、特に深い意味もなく答えた。


「好きな具を入れれば、サンドイッチは何だっておいしくなりますよ」


 沈黙が落ちた。


 王冠は目を閉じた。


 黒百合は、ほんの少しだけ眉を動かした。


 道化師の眼鏡が、窓から差し込んだ光を反射した。


 渡り烏は、新聞をもう一度開いた。


 そして、葬送が低い声でつぶやいた。


「……何を挟んでも、いいのか」


「はい?」


「何を挟んでも、いいんだな」


「食べられるものなら、まあ……」


 透は少し考えた。


「いや、さすがに生肉とか、傷んだものは駄目ですけどね」


「当然だ」


 王冠が即答した。


 なぜか、ひどく真剣な顔だった。


「安全性は前提条件だ。店主の言葉を都合よく解釈してはならない」


「え、はい」


 透は頷いた。


 そして、厨房へ戻った。


 今日のランチはサンドイッチ。


 ただ、それだけの話だった。


 少なくとも、本人にとっては。


     *


 午前十時。


 灰都の地下にある会議室で、緊急会議が始まった。


 議題は、次の一文である。


『好きな具を入れれば、サンドイッチは何だっておいしくなりますよ』


 発言者は、喫茶店CAFE 灯の店主、朝霧透。


 会議室の壁には、具材の相関図が映し出されていた。


 ハムとチーズ。


 卵とレタス。


 トマトとバジル。


 そして、なぜかカレーとポテトサラダの組み合わせまで記載されていた。


「まず確認したい」


 情報管理連絡会の責任者が、疲れた顔で言った。


「これは料理の話だな?」


「はい」


「政治的な比喩ではないな?」


「現時点では、そう考えられます」


「現時点では、を付けるな!」


 責任者は額を押さえた。


 部下が恐る恐る資料を差し出した。


「しかし、対象店舗では近頃、失敗の許容、個人の好みの尊重、共同作業における役割分担など、組織運営にも応用可能と思われる発言が連続しています」


「だからといって、サンドイッチにまで意味を見いだすな!」


「ですが、すでに複数勢力が独自の具材構成を検討している模様です」


「……何?」


 責任者は顔を上げた。


「誰がだ」


「王冠の関係者が、具材の組み合わせ表を作成。黒百合の関係者は栄養面から検討。葬送の関係者は肉類を中心に試作。道化師の関係者は味覚の相互作用を分析。渡り烏の関係者は各地のサンドイッチ文化を調査。零の関係者は……」


「零の関係者は?」


「食パンの袋を開けています」


「もう帰っていいか?」


「まだ議題が残っています」


 責任者は、ゆっくり椅子にもたれた。


「……頼むから、パンくらい自由に食べさせてくれ」


 その願いは、灰都の地下社会において、あまりにも切実だった。


     *


 午前十一時。


 《CAFE 灯》の厨房は、かつてないほどの活気に包まれていた。


「店主、確認したいことがある」


 王冠が、用意した紙を差し出した。


 そこには、サンドイッチの具材構成が一覧になっていた。


 ハムとチーズ。卵とレタス。ツナときゅうり。照り焼きチキンとレタス。


 どれも、見た目には普通である。


「おお、すごいですね。こんなに考えてくれたんですか?」


「選択肢を整理しただけだ」


 王冠は平静を装っていた。


 だが、紙の右下には小さく『組み合わせ候補・第七版』と書かれていた。


 七版。


 サンドイッチを作る前から、すでに六回の改訂が行われている。


「ただ、ひとつ決めかねている」


「何ですか?」


「パンの耳を切り落とすべきかどうかだ」


 透は、まばたきをした。


「……耳?」


「食感、見栄え、食べやすさ。それぞれに利点と欠点がある」


「ええと……好きなほうでいいと思いますけど」


 王冠の手が止まった。


「個人の好みに委ねる、と」


「はい」


「全員に統一を求める必要はない?」


「ないんじゃないですかね。耳が好きな人もいますし」


 王冠は、紙の一番下に何かを書き込んだ。


 ――パンの耳に関する統一規格は設けない。


「王冠さん」


「何だ」


「そんなに真剣に書かなくても……」


「必要な記録だ」


「そうですか……」


 透は、それ以上聞かないことにした。


 人には、それぞれのこだわりがある。


 パンの耳にも、きっと。


     *


「私は、トマトを入れたい」


 黒百合が言った。


 彼女は切り分けられたトマトを見つめていた。


「ただ、水分でパンが湿るのが気になる」


「確かに、少し水気が出ますね」


「ならば、入れないほうがいいのか」


「いえ。キッチンペーパーで水分を取ったり、レタスを間に挟んだりすればいいと思いますよ」


「……好きなものを諦めるのではなく、工夫するのか」


「そうですね。せっかく食べるなら、好きなものが入っていたほうがうれしいじゃないですか」


 黒百合は、しばらく黙っていた。


 彼女は、これまで多くのものを諦めてきた。


 欲しいと思うこと。


 誰かを信じること。


 自分が何かを望んでいると認めること。


 望めば、奪われる。


 期待すれば、裏切られる。


 そう考えていた時期が長かった。


 だから、何かを望む前に、自分から手放すことが習慣になっていた。


 しかし、この店では違う。


 欲しいものを、まず欲しいと言っていい。


 そのあとで、どうすれば実現できるか考えればいい。


「……トマトを、多めに入れてもいいか」


「もちろんです」


「水っぽくなっても?」


「次に工夫すればいいですよ」


 黒百合は、静かに頷いた。


 そして、トマトを一枚追加した。


 その様子を見ていた王冠は、手元の記録に追記した。


 ――希望を削減する前に、実現方法を検討する。


「王冠さん、何を書いているんですか?」


「気にするな」


 黒百合は、トマトをもう一枚取った。


     *


「肉は、どうする」


 葬送が、鶏肉の皿を前にしていた。


「焼くか。蒸すか。揚げるか」


「今日は照り焼きにしてみましょうか」


「照り焼き……」


 葬送は、真剣に頷いた。


 鶏肉を焼き、タレを絡め、火の通りを確かめる。


 その動作は、いつも戦場で見せる無駄のない動きとよく似ていた。


 ただし、目の前にあるのは敵ではなく、鶏肉である。


「よし」


 葬送は完成した照り焼きを見つめた。


 艶のある表面。


 香ばしい匂い。


 申し分ない仕上がりだった。


「これを挟めば、うまいはずだ」


「絶対おいしいですよ」


 透が笑った。


 葬送は、その言葉を聞いて、わずかに目を伏せた。


「……店主」


「はい?」


「自分の好みを、他人に押しつける必要はないんだな」


「え?」


「俺は、肉が好きだ。だが、全員が肉を好むわけではない」


「まあ、そうですね」


「それでも、自分が好きなものを作って、食べてもらうことはできる」


「はい。食べてもらえたら、うれしいですよね」


 葬送は、完成したサンドイッチをひとつ手に取った。


 彼は長い間、自分が誰かに与えられるものは、力だけだと思っていた。


 守ること。


 戦うこと。


 危険を引き受けること。


 そのどれもが必要な場面はあるだろう。


 しかし、今、自分が作ったものを誰かが食べて「おいしい」と言ってくれたら。


 それだけでも、誰かの役に立てるのかもしれない。


「店主。これを食べてくれ」


「いいんですか?」


「ああ。俺が作った」


 透は一口食べた。


「うん、おいしいです!」


 葬送の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その変化を見た道化師が、ぼそりと言った。


「……これは、かなり重要な事例だな」


「何がだ」


「人は、武力以外の成果によっても自己肯定感を得られるということだ」


「お前は黙って食え」


「はい」


 道化師は素直に口を閉じた。


 ただし、頭の中ではすでに論文の題名を考えていた。


     *


「問題は、組み合わせだ」


 道化師が、机の上に何種類もの具材を並べた。


「単体でおいしい食材が、組み合わせてもおいしいとは限らない。味、香り、食感、温度、重量。検証すべき要素は多い」


「道化師さん」


「何だ、店主」


「難しく考えなくても、まず食べてみればいいんじゃないですか?」


 道化師は、止まった。


「……食べてみる?」


「はい。気になる組み合わせがあるなら、試してみればいいんですよ」


「仮説を立てずに?」


「いや、立ててもいいですけど」


「失敗する可能性がある」


「ありますね」


「食材を無駄にする可能性もある」


「だから、最初は少しだけ作ればいいんです」


 道化師は、具材を見た。


 これまで彼は、確実性を求めてきた。


 情報を集め、可能性を計算し、失敗する確率を下げる。


 それは彼の得意分野だった。


 だが、すべてのことに同じ方法が使えるわけではない。


 食べたことのない味は、分析だけでは分からない。


 好みは、計算式の中に完全には収まらない。


「……では、カレーとポテトサラダを組み合わせる」


「おお、いいですね」


「本当に?」


 渡り烏が口を挟んだ。


「いや、否定しているわけじゃない。だが、どちらも主張が強い」


「だからこそ検証する」


 道化師は、真剣だった。


 カレーを薄く塗り、その上にポテトサラダを乗せる。


 パンを重ねる。


 半分に切る。


 断面を確認する。


 そして、一口。


「……」


 道化師は、沈黙した。


「どうですか?」


 透が尋ねる。


「……思ったより、悪くない」


「でしょう?」


「しかし、これは個人的な感想にすぎない。追加検証が必要だ」


「まあ、好きならまた作ればいいんじゃないですかね」


 道化師は、サンドイッチを見つめた。


「……好きなら、また作る」


 その言葉を、彼は妙に気に入った。


 結果がどうであれ、次を試すことができる。


 それは、彼が普段扱っている情報とは、少し違う価値観だった。


「店主」


「はい?」


「この組み合わせを、明日も試していいか」


「もちろんです。材料があればですけど」


「材料は確保する」


「いや、普通にスーパーで買えますからね?」


 道化師は、すでに調達経路の検討を始めていた。


 透は、そっとスマートフォンを取り出した。


 今日の帰りに、食材を買い足しておこう。


 そうしなければ、明日の厨房がどうなるか分からなかった。


     *


「私は、何を入れよう」


 零が、食パンを両手に持っていた。


 彼女は具材を見て、ひとつ取っては戻し、また別のものを手に取った。


 卵。


 ハム。


 チーズ。


 レタス。


 どれも、おいしそうだった。


 だが、決められなかった。


「零さん、迷ってます?」


「……うん」


「好きなもの、ありますか?」


「……分からない」


 透は、少しだけ考えた。


「じゃあ、好きそうなものをひとつずつ入れてみます?」


「全部?」


「全部だと、パンからはみ出すかもしれませんね」


 零は、食パンを見た。


 それから、具材を見た。


「……少しずつなら?」


「いいと思いますよ」


 零は、レタスを一枚置いた。


 その上に、ハム。


 チーズ。


 薄く切った卵。


 最後に、少しだけマヨネーズを加えた。


 パンを重ねる。


 両手で、そっと押さえる。


「……できた」


「おお、いいですね」


 零は、サンドイッチをじっと見つめていた。


「……変じゃない?」


「何がですか?」


「具材の組み合わせ」


「全然。おいしそうですよ」


「……本当に?」


「はい」


 透は、笑った。


「零さんが食べたいと思って作ったんですから。それでいいんですよ」


 零は、ゆっくりサンドイッチを持ち上げた。


 一口食べる。


 レタスの歯触り。


 ハムの塩気。


 チーズの風味。


 卵のやわらかさ。


 どれも、彼女が選んだものだった。


「……おいしい」


「よかった」


「……自分で選んだものが、おいしい」


「はい」


 透は、ごく普通の顔で答えた。


 零は、その横顔を見た。


 以前の彼女なら、誰かの選んだものを受け取り、それに従うほうが楽だった。


 自分の判断が間違っていたら。


 誰かに迷惑をかけたら。


 選んだものが気に入られなかったら。


 そんなことを考えると、自分で決めること自体が怖かった。


 でも、ここでは違う。


 選んでもいい。


 迷ってもいい。


 食べてみて、違うと思ったら、次に変えてもいい。


「……店主」


「はい?」


「次は、甘いサンドイッチを作ってみたい」


「いいですね。生クリームと果物とか」


「……いちご」


「いちご、いいですね」


「……たくさん入れたい」


「じゃあ、たくさん入れましょう」


 零は、小さく笑った。


 その笑顔を見て、黒百合が視線をそらした。


 王冠は、記録用の紙を静かに伏せた。


 渡り烏は、何も言わずにコーヒーを飲んだ。


 彼らは知っている。


 零が自分の希望を口にすることが、どれほど小さく、そして大きな変化なのかを。


     *


 昼食の時間。


 八人は、それぞれ自分のサンドイッチを持ってテーブルについた。


 王冠は、耳を切り落としたハムチーズサンド。


 黒百合は、トマトを多めに挟んだサンドイッチ。


 葬送は、照り焼きチキンを豪快に挟んだもの。


 道化師は、カレーとポテトサラダの実験作。


 渡り烏は、卵ときゅうりを組み合わせた昔ながらのサンドイッチ。


 零は、ハム、チーズ、卵、レタスの四重構造。


 鷹宮宗一郎は、少し悩んだ末に、ハムとチーズにトマトを追加した。


 そして透は、余った具材を使って作った、いくつかの小さなサンドイッチを並べていた。


「……壮観だな」


 鷹宮が言った。


「そうですか? サンドイッチですけど」


「いや。全員、違うものを食べている」


「まあ、好みは人それぞれですからね」


 透は、コーヒーを置いた。


「みんなが同じものを好きじゃなくても、別に困らないでしょう?」


 王冠の手が止まった。


 黒百合が顔を上げた。


 道化師は、実験用のメモを閉じた。


 渡り烏は、静かに笑った。


 鷹宮は、自分のサンドイッチを見つめた。


「……同じである必要はない、か」


「え? はい。みんな違う味が好きなんですから」


 透は首を傾げた。


「それに、違うものがあると、ちょっとずつ交換して食べられますしね」


「交換?」


「そうです。ひと口ずつ食べてみると、意外と好きな味が見つかることもありますよ」


 葬送が、照り焼きチキンのサンドイッチを差し出した。


「店主。食べてみてくれ」


「いいんですか?」


「ああ」


 透は一口食べた。


「おいしいです!」


 今度は、道化師が自分のサンドイッチを差し出した。


「こちらも食べてみてほしい」


「カレーとポテトサラダのやつですね」


「そうだ。なお、現時点では再現性に関するデータが不足している」


「いただきます」


 透は食べた。


 数秒、考える。


「……あ、おいしいですね。ちょっと辛さがまろやかになってる」


 道化師は、ほんの少しだけ胸を張った。


「やはり、仮説は有効だった」


「よかったですね」


「ただし、明日は別の組み合わせを試す」


「気に入ったんじゃないんですか?」


「気に入った。だからこそ、比較したい」


「なるほど……?」


 透は、よく分からなかったが、本人が楽しそうなので何も言わなかった。


 そのあとも、サンドイッチは次々と交換された。


 黒百合のトマトサンドを食べた王冠が、無言で頷く。


 渡り烏の卵サンドを食べた零が、「……やさしい味」と感想を漏らす。


 鷹宮のサンドイッチを食べた葬送が、「トマトを入れると肉の味が変わるな」と真剣に分析する。


 誰も、自分の好みを他人に押しつけなかった。


 誰も、相手の好みを笑わなかった。


 そして、誰もが自分の皿に残ったものを、最後までおいしく食べた。


 それだけのことだった。


 しかし、灰都の裏社会では、その昼食風景を遠くから見守っていた者たちが、深刻な顔で報告書をまとめていた。


     *


 午後二時。


 情報管理連絡会。


 責任者の前に、新しい報告書が置かれた。


「対象店舗において、各人が異なるサンドイッチを作成。互いに試食し、感想を共有したとのことです」


「……それで?」


「特定の組み合わせを正解として統一する動きは確認されていません」


「そうか」


「また、各人が自身の好みを口にすることに対して、否定的な反応は見られませんでした」


「……そうか」


 責任者は、報告書を閉じた。


「それで、組織にどんな影響が出た?」


「現時点では、各勢力の内部で食事の選択肢が若干増加した程度です」


「具体的には?」


「一部の部下が、昼食時に注文できるサンドイッチの種類を増やしてほしいと申し出たそうです」


「……」


「また、これまで全員が同じ弁当を支給されていた部署で、選択式の注文制度を試験導入する案が出ています」


 責任者は、窓の外を見た。


 灰都の街は、今日も平穏だった。


 少なくとも、表向きは。


「……いいか」


「はい」


「サンドイッチの味について、今後は報告しなくていい」


「承知しました」


「ただし、食事の選択肢を増やすことで、業務上の不利益が生じないかは確認しておけ」


「承知しました」


「そして、もうひとつ」


 責任者は、目を細めた。


「誰かが好みを口にしたとき、それを理由に不利益を与えるようなことがあれば、見過ごすな」


 部下は、少し驚いた顔をした。


「……それは、対象店舗の影響でしょうか」


「知らん」


 責任者は立ち上がった。


「だが、昼飯くらい、好きなものを食べられるほうがいいだろう」


 その声には、ほんの少しだけ実感がこもっていた。


 彼自身、長年、決められた食事を決められた時間に食べてきた。


 好きかどうかなど、考えたこともなかった。


 腹が満たされれば、それでよかった。


 しかし、今日の昼。


 部下が差し出したサンドイッチを、何気なく食べてみた。


 中には、卵ときゅうりが入っていた。


 何の変哲もない、普通のサンドイッチだった。


 それなのに、彼は少しだけ思ったのだ。


 ――こういうものが、好きだったのかもしれない。


「……次の会議は、三十分後か」


「はい」


「その前に、何か食べてくる」


「何を召し上がるのですか?」


 責任者は、一瞬考えた。


「……卵サンドだ」


 部下は、深く頷いた。


 灰都の地下社会に、新たな変化が起きていた。


 その変化は、誰も血を流さず、誰も脅迫せず、誰も命を懸けずに進んでいた。


 そして、原因となった店主は、そのことをまったく知らなかった。


     *


 夕方。


 営業を終えた《CAFE 灯》で、零が厨房を片づけていた。


「零さん、今日はありがとうございました」


「……私、何もしていない」


「そんなことないですよ。具材を準備してくれたし、みんなの分も作ってくれたじゃないですか」


「……うん」


 零は、少しだけ考えてから言った。


「……私、サンドイッチを作るのが楽しかった」


「それはよかったです」


「……でも、まだ、何を好きなのか、よく分からない」


「いいんじゃないですか?」


 透は、洗った皿を拭きながら答えた。


「これから見つけていけばいいと思いますよ」


「……ゆっくり?」


「ゆっくりで大丈夫です」


 零は、手元の布巾を見つめた。


「……途中で、好きなものが変わっても?」


「もちろんです」


「……前に好きだったものが、好きじゃなくなっても?」


「それも普通のことですよ」


 透は、当たり前のように言った。


「そのときの気分で変わることもありますし、いろいろ食べてみたら、前とは違うものが好きになることだってありますから」


 零は、小さく頷いた。


 彼女はこれまで、一度決めたことを変えるのが苦手だった。


 変えることは、間違いを認めることだと思っていた。


 選び直すことは、最初の選択が失敗だったと証明することだと思っていた。


 だから、一度決めたら、たとえ苦しくても続けようとした。


 けれど、サンドイッチなら。


 明日は違う具材を選んでもいい。


 今日の味が好きだったとしても、明日は別の味を試していい。


 昨日の自分と、今日の自分が違っていてもいい。


「……店主」


「はい?」


「明日は、いちごのサンドイッチを作りたい」


「いいですね。生クリームも用意しておきます」


「……チョコレートも」


「もちろんです」


「……あと、カスタード」


「おお、豪華ですね」


 零は、少しだけ笑った。


「……好きなものを、全部入れたい」


「じゃあ、パンからはみ出さない程度にしましょうか」


「……うん」


 そのやり取りを、入口付近で聞いていた王冠が、静かに立ち止まった。


 そして、手帳を取り出しかけて――やめた。


 もう、すべてを記録する必要はない。


 零が何を好きになるか。


 何を選び、何を試し、どんな感想を持つのか。


 それは、零自身が決めていけばいいことだ。


 誰かが記録して管理しなければならないものではない。


「王冠さん?」


 透が気づいた。


「どうしました?」


「いや。明日の仕入れについて考えていた」


「いちご、お願いしますね」


「承知した」


 王冠は、即答した。


 その返事があまりにも早かったので、透は笑った。


「ふふ。零さん、明日が楽しみですね」


「……うん」


 零は、今度は迷わず頷いた。


     *


 その夜。


 鷹宮宗一郎は、自宅の食卓に座っていた。


 目の前には、秘書が用意した夕食。


 いつもどおり、栄養バランスが整い、見栄えもよく、必要な量が正確に盛りつけられている。


 彼は箸を取った。


 そして、ふと昼のことを思い出した。


 サンドイッチ。


 具材を選び、パンに挟む。


 ただ、それだけの料理。


 しかし、全員が違うものを作り、互いに食べ、感想を言い合っていた。


 誰かが優れているわけでも、劣っているわけでもなかった。


 ただ、違った。


「……君」


 鷹宮は、秘書に声をかけた。


「はい、会長」


「明日の昼食だが」


「はい」


「何か、選べるようにしてもらえるか」


 秘書は、少しだけ目を見開いた。


「お好みのものを、ですか?」


「そうだな」


 鷹宮は、しばらく考えた。


「……卵サンドが食べたい」


「卵サンド、でございますね」


「できれば、きゅうりも入れてほしい」


「承知いたしました」


 秘書は一礼した。


 鷹宮は、食卓に視線を戻した。


 これまで彼は、選択肢を増やすことを、管理の負担が増えることだと考えていた。


 統一すれば、効率がよい。


 全員が同じものを使えば、準備も容易になる。


 違いが少なければ、調整する必要も減る。


 それは、組織を運営するうえでは正しい考え方のひとつだろう。


 しかし、すべてを統一する必要はない。


 違いがあるからといって、必ずしも問題になるわけではない。


 むしろ、違いを認めることで、初めて分かることもある。


「……朝霧君は、実に不思議な男だな」


 鷹宮は、誰にともなくつぶやいた。


 ただサンドイッチを作っただけなのに。


 ただ好きなものを選べばいいと言っただけなのに。


 その言葉が、自分の中に残っている。


 彼は、少しだけ笑った。


「……明日は、卵を多めにしてもらおう」


 秘書は、静かにメモを取った。


 灰都の大物が、翌日の昼食について真剣に考えている。


 その事実を知れば、裏社会の人間たちは、きっと新たな解釈を始めるだろう。


 だが、鷹宮にとって、それはもう重要ではなかった。


 明日の昼、好きなものを食べる。


 それだけで、少し楽しみだった。


     *


 翌朝。


 透は、仕入れたばかりのいちごを洗っていた。


 隣では、零が生クリームを泡立てている。


 王冠は、食パンとカスタードクリームを用意していた。


 黒百合は、いちごの切り方について零に尋ねている。


 葬送は、なぜか大量の鶏肉を持ってきていた。


 道化師は、甘いサンドイッチの構造について、昨夜まとめた資料を抱えている。


 渡り烏は、全員分のコーヒーを淹れていた。


 そして鷹宮は、店の入口で小さな紙袋を持って立っていた。


「おはようございます、鷹宮さん」


 透が笑顔で迎えた。


「おはよう、朝霧君」


「今日は早いですね」


「少し、渡したいものがあってな」


 鷹宮は紙袋を差し出した。


 中には、サンドイッチ用の食パンが入っていた。


「……昨日、食べてみたくなったのだ」


「食パンを?」


「自分で作ってみようと思ってな」


 透は、目を輝かせた。


「いいですね! 今日はみんなで作りましょう」


 鷹宮は、一瞬だけ戸惑った。


「……私も、参加していいのか?」


「もちろんです。せっかく来たんですから、一緒に作りましょうよ」


 その言葉に、鷹宮は静かに頷いた。


 零が、生クリームの入ったボウルを持ってきた。


「……鷹宮さん。いちご、入れますか?」


「……いや、私は卵サンドを」


「……そう」


 零は、少し考えた。


「……じゃあ、半分ずつ交換しよう」


 鷹宮は、思わず目を見開いた。


 そして、ゆっくりと笑った。


「ああ。それは、いい考えだ」


 透は、その様子を見ながら、パンを切り分けた。


 今日も、店にはさまざまなサンドイッチが並ぶだろう。


 甘いものが好きな人。


 肉が好きな人。


 野菜をたくさん入れたい人。


 昔ながらの味が好きな人。


 そして、まだ自分の好みを探している人。


 どれも、間違いではない。


 どれかひとつに決める必要もない。


「よし。それじゃあ、今日も作りましょうか」


 透は、明るく言った。


「好きなものを、好きなように」


 六人の伝説と、灰都の大物は、それぞれの具材を手に取った。


 そして、この日。


 灰都の裏社会において、最も危険な議論が再び始まった。


 いちごサンドに、チョコレートソースをかけるべきか。


 カスタードクリームは、いちごの下か、上か。


 パンの耳は、甘いサンドイッチでも切るべきか。


 そして、照り焼きチキンにマヨネーズを追加することは、果たして許されるのか。


 王冠は、静かに言った。


「……まずは、各自の好みを確認しよう」


 道化師が頷く。


「そのうえで、試作と比較検証を行う」


 葬送が、鶏肉を持ち上げた。


「俺は、マヨネーズを多めにする」


 黒百合が、冷静に告げた。


「私は少なめがいい」


 渡り烏は、コーヒーを飲みながら笑った。


「なら、両方作ればいいじゃないか」


 全員が、動きを止めた。


 それは、あまりにも単純な解決策だった。


 やがて王冠が、深く頷いた。


「……そのとおりだ」


 道化師は、メモに記録した。


「選択肢の併存による対立の回避。実に合理的だ」


「いや、ただ二種類作るだけですけどね」


 透は笑った。


 今日も《CAFE 灯》は平和だった。


 少なくとも、厨房の外では。


 そして、透はまだ知らない。


 この日の午後、灰都の複数の組織で「個人の好みに応じた選択式の食事制度」が正式に検討されることも。


 鷹宮宗一郎が、自分で作った卵サンドの写真を秘書に見せることも。


 零が、いちごとカスタードをたっぷり挟んだサンドイッチを作り、「……明日はバナナも入れたい」と新しい希望を口にすることも。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 灰都の裏社会を変えているのは、特別な能力でも、圧倒的な権力でも、誰も知らない秘密でもない。


 食べたいものを選ぶこと。


 違うものを好きだと言うこと。


 相手の選択を、無理に変えようとしないこと。


 そして、ときどき、ひと口交換してみること。


 そんな、ごく普通のことだった。


 その日の閉店間際。


 透は、冷蔵庫の中を確認しながら、ぽつりと言った。


「明日は……ホットサンドでも作ろうかな」


 六人の伝説が、一斉に顔を上げた。


 鷹宮宗一郎の手から、コーヒーカップが止まった。


 零が、そっとメモ帳を開いた。


 王冠が、ゆっくりと立ち上がった。


 道化師は、すでにホットサンドメーカーの構造を思い浮かべていた。


 葬送は、肉とチーズの組み合わせを考え始めた。


 黒百合は、焼いたトマトの可能性に目を細めた。


 渡り烏だけが、深くため息をついた。


「……今度は、何を巡って揉めるんだろうな」


 透は、振り返った。


「え? ホットサンドですよ?」


 その言葉を聞いて、誰もが思った。


 ――明日も、きっと忙しい。


 そして、きっと楽しい。


 《CAFE 灯》の灯りは、その夜も静かに灰都を照らしていた。

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