第3話 裏社会の王様が来店しましたが、ランチをご注文されました
翌朝、俺は人生で初めて、自分の店の前に並ぶ高級車の台数を数えた。
一台。
二台。
三台。
……七台。
「昨日と同じか」
いや、違う。
よく見ると、昨日より明らかに高そうな車が混じっている。
しかも、車から降りてきた人たちの顔が、そろって怖い。
全員が黒いスーツ。
全員が無言。
そして、全員がうちの看板を見上げている。
その中心には、一人の老人が立っていた。
白髪をきれいに撫でつけ、仕立てのよい灰色のスーツを着ている。手には黒い杖を持っていたが、歩き方には少しの衰えも感じられなかった。
老人は看板を見つめたあと、ゆっくりと俺に視線を向けた。
「ここが……灯か」
「はい。CAFE 灯です。いらっしゃいませ」
俺はいつものように頭を下げた。
「申し訳ありません。まだ開店まで十五分ほどありますが」
「構わん。外で待たせてもらおう」
「えっ、いやいや。寒いですから、中でお待ちください。まだ掃除中ですけど」
俺が扉を開けると、老人の後ろにいた男性が慌てて口を開いた。
「お、お待ちください。こちらの方は――」
「よい」
老人が短く言った。
男性は、その場で口を閉じた。
……何だろう。
もしかして、ものすごく偉い人なのだろうか。
まあ、祖父の知り合いなら失礼のないようにしないと。
「どうぞ。コーヒーならすぐにお出しできますよ」
老人は店内に足を踏み入れた。
そして、カウンターの奥に飾られた祖父の写真を見つけると、足を止めた。
「……変わらんな」
その声は、ひどく小さかった。
「祖父をご存じなんですか?」
「ああ。長い付き合いだった」
「そうだったんですね。祖父も喜ぶと思います」
老人は、ほんの少しだけ笑った。
どこか寂しそうな笑顔だった。
◇
開店時間になった。
俺は老人を窓際の席に案内した。
「ご注文はお決まりですか?」
「おすすめは何だ?」
「今日は日替わりランチがあります。ハンバーグとサラダ、それからスープです。コーヒーも付きますよ」
「では、それを頼もう」
「かしこまりました」
厨房へ向かおうとした、そのときだった。
「マスター」
入口から声がした。
振り返ると、No.1《王冠》が立っていた。
彼は店内を一瞥し、窓際の老人を見つけた瞬間、表情を変えた。
「……閣下」
その一言で、店の空気が凍った。
老人は顔を上げた。
「久しいな、王冠」
「ご健勝のようで何よりです」
「お前もな」
二人はしばらく互いを見つめていた。
俺は厨房の入口で立ち尽くした。
閣下?
王冠?
昔の仕事仲間同士で使う呼び方だろうか。
「お知り合いなんですね」
俺が声をかけると、No.1はすぐにこちらを向いた。
「はい。以前から存じ上げております」
「そうなんですか。じゃあ、ご一緒に食事されます?」
「……よろしいのですか?」
「もちろんです。席は空いてますから」
No.1は老人を見た。
老人は静かに頷いた。
そしてNo.1は、俺に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
いや、だから。
そんなに頭を下げなくても。
俺はただ、席を勧めただけなのだが。
◇
老人の名は、鷹宮宗一郎というらしい。
注文を取りに行ったとき、名刺を渡された。
鷹宮ホールディングス。
代表取締役会長。
「大きな会社なんですね」
俺が感心すると、鷹宮さんは少しだけ苦笑した。
「まあ、長く商売をしているだけだ」
「すごいですね。俺なんて、まだ店を継いだばかりで」
「……この店を継いだのか」
「はい。祖父が亡くなって、俺が引き継ぐことになったんです」
鷹宮さんは、黙って俺を見た。
「そうか。お前が、あの男の……」
「孫です。顔、似てますか?」
「いや。似ているのは、顔ではない」
「え?」
「……何でもない」
鷹宮さんはコーヒーをひと口飲んだ。
そして、ぽつりと尋ねた。
「若い店主よ。少し聞いてもいいか」
「はい。何でしょう?」
「この店を、どうするつもりだ?」
どうするも何も、普通に営業を続けるつもりだ。
「できるだけ長く続けたいですね。祖父が大事にしていた店ですから。それに、お客さんがここに来て、少しでもゆっくりできたらいいなって」
鷹宮さんは黙っていた。
「もちろん、経営は大変でしょうけど。無理して大きくするより、今のまま、来てくれた人に喜んでもらえる店にしたいです」
俺は笑った。
「まあ、まだ始めたばかりなので、偉そうなことは言えませんけどね」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて鷹宮さんは、ゆっくりと口を開いた。
「ならば、一つだけ約束してくれ」
「約束ですか?」
「この店を、誰かの都合で変えないでほしい」
「……ええ。もちろんです」
「たとえ、それが大きな利益を生む話であっても?」
「うーん……お客さんに喜んでもらえるなら、メニューを増やしたり、営業時間を変えたりすることはあるかもしれませんけど」
鷹宮さんは俺を見つめていた。
「でも、誰かに言われたからって、無理に変えるつもりはないですよ。俺の店ですから」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
偉そうに聞こえただろうか。
「もちろん、まだまだ勉強中ですけどね!」
鷹宮さんは、ゆっくりと立ち上がった。
付き従っていた男性たちが、いっせいに背筋を伸ばす。
そして鷹宮さんは、俺の前で深々と頭を下げた。
「……ありがとう」
「えっ!? え、ちょっと、鷹宮さん!?」
「この店を、よろしく頼む」
「いやいやいや! 頭を上げてください! 俺、何もしてませんから!」
「いや。お前は、もう十分にしてくれた」
俺には意味がわからなかった。
だが、鷹宮さんはそれ以上何も言わず、席へ戻った。
そして運ばれてきたハンバーグを、驚くほど丁寧に食べ始めた。
……祖父って、いったい何者だったんだろう。
◇
昼過ぎ。
鷹宮宗一郎が店を出たあと、No.1はすぐに連絡を入れた。
「確認した。鷹宮会長は、店主に頭を下げた」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
『……間違いないのか?』
「私の目で確認した」
『あの鷹宮宗一郎が……?』
「ああ」
No.1は店の窓を見た。
中では透が、楽しそうに食器を片付けている。
「店主は、店を大きくするつもりも、誰かの上に立つつもりもない」
『では、何を望んでいる?』
「この店を、今のまま続けたいそうだ」
電話の向こうが静かになった。
『……それだけか?』
「それだけだ」
『信じられん』
「私もそう思う」
No.1は、少しだけ口元を緩めた。
「だが、だからこそ我々は、彼の望みを守らなければならない」
『具体的には?』
「店に迷惑をかけるな。客を脅すな。勝手に店の経営に口を出すな。それから――店主が望まない限り、誰も彼の人生を決めるな」
それは、祖父との約束だった。
六人が店を守る理由であり、決して破ってはならない最後の一線でもあった。
◇
その夜。
灰都の中心部にある鷹宮家の本邸で、宗一郎は古い写真を眺めていた。
そこには、若い頃の自分と、喫茶店のカウンターに立つ一人の老人が写っていた。
「……お前の孫は、何も知らんのだな」
宗一郎は写真に語りかけた。
「お前がどれほどの人間を救ったのかも。お前がどれほどのものを残したのかも」
返事はない。
当然だ。写真なのだから。
宗一郎は苦笑した。
ふと、机の上の電話が鳴った。
「何だ」
『会長。例の件ですが、他の組織が動き始めています』
「何の件だ」
『CAFE 灯です。店の周辺を調査している者がいるようです』
宗一郎の表情が変わった。
「……誰が、何をしようとしている?」
『店主の素性を探っている可能性が』
宗一郎は目を閉じた。
面倒なことになった。
あの青年は、ただ店を続けたいだけなのだ。
それを裏社会の人間が勝手に騒ぎ立てている。
「全員に伝えろ。店には手を出すな。店主にも接触するな。あの店で騒ぎを起こす者がいれば、私が直接話をする」
『承知しました』
通話が切れた。
宗一郎は窓の外を見た。
力で従わせた人間は、力がなくなれば離れていく。利益で結びついた人間は、利益がなくなれば裏切る。
それでも、あの店には人が戻ってくる。
何も求められず、何者かを演じる必要もなく、ただ座ってコーヒーを飲める場所。
それがどれほど得難いものなのか。
宗一郎は、誰よりもよく知っていた。
「……あの店だけは、残さねばならんな」
その決意を、まだ店主本人は知らない。




