第2話 開店前から、裏社会の大物が並んでいます
朝、店の前に高級車が七台並んでいた。
俺は、店の鍵を開ける手を止めた。
「…………」
右を見た。
黒い車。
左を見た。
黒い車。
もう一度、右を見た。
やっぱり黒い車だった。
しかも、どの車も見るからに高そうだった。車に詳しくない俺でもわかる。少なくとも、大学時代に乗っていた中古の軽自動車とは住む世界が違う。
そのうちの一台から、黒いスーツの男性が降りてきた。
続いて、別の車からも。
さらに別の車からも。
最終的には、総勢十数名の強面の男性が、俺の店の前に整列した。
全員、なぜか背筋が伸びている。
全員、なぜか俺を見ている。
そして全員、なぜか顔色が悪かった。
「あの……」
俺は恐る恐る声をかけた。
「申し訳ありません。うちはまだ開店前なんですが」
先頭に立っていた白髪交じりの男性が、一歩前に出た。
年齢は五十代くらいだろうか。
仕立てのよいスーツに、磨き抜かれた革靴。穏やかな顔立ちをしているが、その目だけは笑っていなかった。
男性は俺の前で立ち止まると、深々と頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたしました。私は黒瀬と申します」
「はあ。ご丁寧にどうも」
「本日は、こちらの店主様にご挨拶を申し上げたく、参上いたしました」
「……挨拶?」
「はい」
男性は、もう一度頭を下げた。
後ろに並んでいた男たちも、一斉に頭を下げた。
俺は困った。
ものすごく困った。
祖父の知り合いだろうか。
いや、でも、祖父の葬儀で見た顔は一人もいない。
そもそも、どうして全員がこんなに真剣なのだろう。
「あの、祖父とお知り合いだったんですか?」
「ええ。大変お世話になりました」
「そうだったんですね。それなら、もっと早く言ってくださればよかったのに」
俺は笑って、店の扉を開けた。
「まだ準備中ですけど、コーヒーくらいなら出せますよ。よかったらどうぞ」
その瞬間だった。
男性の目が、わずかに見開かれた。
後ろの男たちが、互いに顔を見合わせる。
何かまずいことを言っただろうか。
「……よろしいのですか?」
「え? コーヒーですか?」
「我々のような者が、この店に入っても」
「お客様なら、誰でも歓迎ですよ」
俺は何気なく答えた。
「もちろん、ほかのお客様に迷惑をかけないことが条件ですけど」
男性は黙った。
そして、再び深々と頭を下げた。
「……承知いたしました」
いや、そんなにかしこまらなくても。
うちのコーヒーは一杯五百円だ。
◇
午前八時。
CAFE 灯は、開店前から異様な光景に包まれていた。
カウンター席には、いかにも堅気ではなさそうな男たちが並んでいる。
窓際には、鋭い目つきの男性が二人。
入口近くには、周囲を警戒しているような若者が三人。
そして一番奥のテーブルでは、黒瀬と名乗った男性が、俺の淹れたコーヒーをじっと見つめていた。
「お口に合いませんでしたか?」
俺が尋ねると、男性は慌てて首を横に振った。
「いえ。素晴らしい香りです」
「ありがとうございます。祖父の頃から使っている豆なんですよ」
「そうですか……」
男性はカップを持ち上げた。
ひと口飲む。
その瞬間、表情が変わった。
「……なるほど」
「え?」
「いえ。何でもありません」
男性は、静かにカップを置いた。
その顔には、何かを悟ったような雰囲気があった。
俺は首を傾げた。
普通のブレンドコーヒーなのだが。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「おはようございます、マスター」
入ってきたのは、昨夜の六人の一人だった。
白髪交じりの男性――No.1《王冠》である。
黒瀬が、勢いよく立ち上がった。
「No.1……!」
低い声だった。
店内の空気が凍った。
No.1は軽く視線を巡らせた。
「黒瀬か」
「……ご無沙汰しております」
黒瀬が深く頭を下げる。
その動きにつられるように、ほかの客たちも立ち上がった。
俺だけが座っていた。
「あれ? 昨日の……」
No.1は俺を見ると、わずかに表情を和らげた。
「マスター。おはようございます」
「おはようございます。今日は早いですね」
「少々、確認したいことがありまして」
「そうなんですか。朝ご飯は食べました?」
「……いえ」
「じゃあ、サンドイッチでも食べていってください。朝から何も食べないのはよくないですよ」
沈黙。
No.1の目が、ほんのわずかに揺れた。
「……ありがとうございます」
彼は、深く頭を下げた。
その姿を見た黒瀬が、息を呑んだ。
伝説の殺し屋、No.1《王冠》。
裏社会において、その名を知らぬ者はいない。
彼は誰に対しても頭を下げない。
組織の長にも、政治家にも、莫大な報酬を積んだ依頼人にも。
必要ならば協力する。
必要ならば取引する。
だが、決して誰かに従属することはない。
その男が。
サンドイッチを勧められただけで、頭を下げた。
黒瀬は、ゆっくりと理解した。
――やはり、この店主は別格なのだ。
昨夜、六人が同じ店に集まったという報告を受けたとき、彼は自分の耳を疑った。
そして今朝、彼は直接確かめるために訪れた。
店主が何者なのか。
六人が何を考えているのか。
だが、目の前で起きたことは、彼の想像を超えていた。
この男は、No.1に食事を勧めた。
ただ、それだけだ。
にもかかわらず、No.1はそれを拒まなかった。
黒瀬は、冷や汗を流した。
これは命令ではない。
命令ですらないからこそ、恐ろしい。
◇
「ところで、皆さんはお知り合いなんですか?」
俺は、サンドイッチを皿に並べながら尋ねた。
No.1は答えた。
「ええ。長い付き合いです」
「へえ。じゃあ、皆さんでお仕事を?」
「……そうですね。かつては」
「なるほど」
俺は、適当に相槌を打った。
仕事仲間というのは、いろいろと大変なのだろう。
昨夜の六人もそうだったが、この人たちは皆、どこか疲れているように見える。
せっかく店に来てくれたのだから、少しでも気を楽にしてほしい。
「お仕事って、いろいろありますからね」
俺はサンドイッチを置いた。
「でも、何でも一人で抱え込まないほうがいいですよ。困ったときは、誰かに相談したっていいんですから」
No.1の手が止まった。
黒瀬が顔を上げた。
ほかの客たちも、聞き耳を立てている。
「……相談、ですか」
「はい。自分一人じゃ思いつかないことも、誰かと話せば解決するかもしれませんし」
俺は笑った。
「まあ、俺もまだまだ勉強中ですけどね」
No.1は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「承知しました」
「え?」
「そのお言葉、しかと受け止めました」
「いや、そんな大げさな……」
「ありがとうございます、マスター」
No.1は頭を下げた。
そして、スマートフォンを取り出した。
「全員に連絡を。今後の方針について、協議を行う」
「……はい?」
俺が聞き返すより早く、No.1は店の外へ出ていった。
黒瀬も、慌てて立ち上がった。
「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」
「いえ、コーヒー代、まだですけど」
黒瀬は固まった。
No.1も、入口で振り返った。
数秒の沈黙。
「……失礼いたしました」
黒瀬は震える手で財布を取り出し、コーヒー代とサンドイッチ代を支払った。
全員が店を出ていったあと、俺はレジを確認した。
「えっと……コーヒーが七杯と、サンドイッチが四つ」
売上は、六千円を超えていた。
「おお。朝から幸先いいな」
俺は満足して、仕込みに戻った。
その頃、灰都の地下では、裏社会の勢力図が静かに塗り替えられ始めていた。
◇
午前九時三十分。
灰都の中心部から離れた、窓のない会議室。
そこには、黒瀬を含む七つの組織の代表者が集まっていた。
誰もが、昨夜から眠れていなかった。
「確認する。No.1《王冠》は、店主の言葉を受けて、六人の協議を始めると宣言した」
黒瀬が告げる。
「それだけではない。店主は、組織間の問題について一切言及していない。だが、彼はこう言った。『困ったときは、誰かに相談したっていい』と」
「……つまり、六人だけで動くなということか?」
「断定はできない」
黒瀬は慎重に答えた。
「だが、少なくとも我々が勝手に接触するのは避けるべきだ」
「なぜだ?」
「彼は、誰にでもコーヒーを出すと言った」
会議室が静まり返った。
「誰にでも、だ」
黒瀬は、言葉を区切った。
「つまり、敵味方の区別を店に持ち込むなということではないか」
「……!」
「店主は、六人に対しても我々に対しても、同じ態度を取った。誰かを特別扱いするつもりがないのだろう」
もちろん、透にそんな意図はなかった。
単に、客を差別したくなかっただけである。
だが、その事実を知る者は、会議室には一人もいなかった。
「では、どうする?」
黒瀬は答えた。
「まずは、店のルールを守る。店内で争わない。店主に迷惑をかけない。そして、店主の言葉を都合よく利用しない」
最後の言葉には、彼自身の戒めも込められていた。
店主が何を望んでいるのか。
それを知るまでは、決して踏み込みすぎてはならない。
会議は、異例の全会一致で終わった。
その日の昼までに、灰都の有力組織には一つの噂が広まった。
――CAFE 灯では、誰も争ってはならない。
――店主の前では、嘘をつくな。
――六人の伝説は、あの店に頭を下げている。
最後の噂が広まる頃には、最初の二つは、誰が言い出したのかさえわからなくなっていた。
◇
午後一時。
俺は、昼の営業を終えようとしていた。
今日も常連さんが来てくれて、売上は上々。
祖父の店を継いでよかったと、心から思う。
「さて、片付けるか」
カウンターを拭いていると、入口のベルが鳴った。
入ってきたのは、黒いスーツの女性だった。
艶やかな黒髪。
切れ長の瞳。
背筋の伸びた立ち姿。
昨夜の六人の一人、No.2《黒百合》だ。
「こんにちは、マスター」
「こんにちは。今日はお一人ですか?」
「はい」
彼女はカウンター席に座った。
「何かお飲みになりますか?」
「マスターのお勧めを」
「じゃあ、カフェラテにしましょうか」
「……お願いします」
俺はミルクを温めながら、彼女の顔を見た。
昨夜も思ったが、少し疲れているように見える。
「そういえば、昨日の皆さん、今日は来ないんですか?」
「……おそらく、今頃は会議をしています」
「会議?」
「はい」
「大変ですね」
俺はカフェラテを差し出した。
「せっかく休める場所があるんですから、あまり無理しないでくださいね」
彼女は、カップを両手で包んだ。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さな声で尋ねた。
「……マスターは、私たちが怖くないのですか?」
「え?」
「私たちは、普通の人間とは違います」
彼女の声には、わずかな硬さがあった。
「たくさんのものを壊してきました。失ったものも、取り返しのつかないものもあります」
俺は、少し考えた。
彼女が何の仕事をしているのか、俺は知らない。
ただ、今の彼女は、何かを抱え込んでいるように見えた。
「詳しいことはわかりませんけど」
俺は、布巾を畳みながら答えた。
「少なくとも、今ここにいるあなたは、お客さんですよ」
彼女の瞳が揺れた。
「……それだけ、ですか?」
「はい。コーヒーを飲みに来てくれたお客さん。それじゃ駄目ですか?」
彼女は、唇を噛んだ。
そして、俯いた。
「……いいえ」
その声は、かすかに震えていた。
「それで、十分です」
彼女はカフェラテを飲んだ。
ひと口。
もうひと口。
最後まで飲み終えると、彼女は静かに立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。また来てくださいね」
「……はい。必ず」
彼女は、いつもの冷たい表情に戻って店を出ていった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
あの人たちにも、いろいろあるんだろう。
せめて、この店にいる間くらいは、ゆっくりしていってほしい。
それだけだった。
◇
その日の夕方。
灰都の裏社会に、新たな情報が流れた。
No.2《黒百合》が、店主と二人きりで会話をした。
会話の内容は不明。
だが、彼女は店を出る際、穏やかな表情をしていたという。
その報告を受けた男が、震える声で呟いた。
「……あの黒百合が、穏やかな顔を?」
別の男が答えた。
「店主は、彼女に何を伝えたんだ……?」
誰にもわからなかった。
ただ一つ確かなことがある。
六人の伝説は、再び動き始めた。
そして、その中心にいる青年は――
「明日はケーキを焼くか。チーズケーキがいいかな」
そんなことを考えながら、閉店後の店で一人、レシピ帳を開いていた。
彼はまだ知らない。
明日の朝、店の前には、今日の七台を超える数の高級車が並ぶことを。
そして、その中には――
灰都の裏社会を二十年以上支配してきた、ある大物の車も含まれていることを。




