第1話 祖父から相続したのは、カフェと六人の常連でした
裏社会の伝説と呼ばれる六人が、一人の青年に頭を下げていた。
誰もが恐れ、誰も逆らえず、誰もその本心を知ることができない。
そんな六人が、そろって一人の青年を前にしている。
「……どうか、よろしくお願いいたします」
先頭に立つ男が、静かに頭を下げた。
その後ろで、残る五人も同じように頭を下げる。
青年――朝霧透は、困ったように頬をかいた。
「いや、あの……そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ?」
六人は顔を上げなかった。
「うち、そういう難しい相談を受ける店じゃないんですけど」
透は本気で困っていた。
目の前にいる六人が、どれほど恐れられている存在なのか。
彼らが頭を下げるという行為に、どれほど大きな意味があるのか。
そんなことは、何ひとつ知らなかった。
「とりあえず、コーヒーでも飲みませんか? 話はそれからでいいでしょう」
その言葉を聞いた六人は、しばらく動かなかった。
やがて、先頭の男がゆっくりと顔を上げた。
「……承知しました」
その声には、決意のようなものが込められていた。
透には、それがなぜなのか、まったくわからなかった。
このとき、彼はまだ知らない。
自分の何気ない一言が、裏社会の勢力図を塗り替えるきっかけになろうとは。
そもそも、彼はただ、祖父の店を継いだだけの青年だった。
*
話は、三週間前にさかのぼる。
祖父が亡くなった。
突然というほどではなかった。
年齢も年齢だったし、以前から体調を崩すことも増えていた。
それでも、葬儀が終わり、家に戻ったとき、俺は初めて実感した。
もう、あの人はいないのだと。
祖父の遺産は、思っていたより少なかった。
古い建物。
小さなカフェ。
銀行の通帳。
調理道具。
それから、店の鍵。
祖父は派手な生活をする人ではなかった。
毎朝早く起きてコーヒーを淹れ、店を開け、客の話を聞く。
閉店後は店を掃除し、明日の仕込みをする。
そんな毎日を、何十年も繰り返していた。
俺にとって祖父は、いつも店にいる人だった。
学校帰りに立ち寄れば、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた。
悩みごとがあれば、無理に聞き出そうとはせず、黙って温かい飲み物を出してくれた。
そして、よくこう言っていた。
「腹が減っているときと、酔っているときに、大事なことを決めるな」
当時の俺は、その言葉の意味を深く考えたことがなかった。
ただ、祖父らしい言葉だと思っていた。
そんな祖父が、最後に俺へ残したもの。
それが、この店だった。
*
店の名前は、CAFE 灯。
昼は普通のカフェ。
夜は、会員だけが入れる小さなバーとして営業していた。
俺が引き継ぐことになったのは、建物だけではない。
祖父が長年守ってきた、この場所そのものだった。
「……本当に、俺にできるのかな」
誰もいない店内で、俺は呟いた。
経営の経験はない。
特別な料理が作れるわけでもない。
祖父のように、誰かの心を軽くする言葉を知っているわけでもなかった。
それでも、店を手放す気にはなれなかった。
ここには、祖父が生きてきた時間が残っている。
カウンターの傷も、壁の時計も、少し古びた椅子も。
できるなら、この場所を残したい。
それが、俺の出した答えだった。
相続の手続きが終わったころ、俺は祖父の机を整理していた。
引き出しの奥から、一冊の古い帳簿が出てきた。
表紙には何も書かれていない。
中を開いてみると、日付や金額、短いメモが並んでいた。
だが、普通の売上帳とは少し違っていた。
名前の代わりに、数字だけが記されている。
No.1。
No.2。
No.3。
No.4。
No.5。
No.6。
その六つの番号が、何度も繰り返し書かれていた。
「……何だ、これ」
俺は首をかしげた。
祖父の会員番号だろうか。
それとも、常連客の管理用だろうか。
帳簿には、ほかにも短い言葉が記されていた。
けれど、俺には意味がわからなかった。
考えても仕方がない。
俺は帳簿を閉じ、机の引き出しに戻した。
このときは、それで終わりだと思っていた。
*
店を引き継いでから数日後。
俺は、祖父が使っていたカウンターの奥を掃除していた。
そこには、古い写真が飾られている。
祖父が店を始めたころの写真。
常連客と並んで笑っている写真。
見たことのない人たちが写っている写真。
その中に、一枚だけ、妙に気になる写真があった。
祖父の隣に、六人の男女が並んでいる。
全員、表情が硬い。
笑っている者は一人もいない。
まるで、記念写真を撮ること自体が苦手だと言わんばかりだった。
「じいちゃん、こんな人たちとも付き合いがあったんだな」
俺は写真を元の場所に戻した。
祖父は、客の職業や事情をあまり話さなかった。
だから、知らない顔が写っていても不思議ではない。
ただ、写真の裏には短い言葉が書かれていた。
――あいつらが来たら、普通に接してやれ。
それだけだった。
俺は、思わず笑ってしまった。
「普通にって……誰なんだよ」
祖父らしい。
説明が足りないところまで、いつもどおりだ。
その下には、もう一文があった。
――悪い連中じゃない。少し、不器用なだけだ。
俺はその言葉を見つめた。
祖父がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
少なくとも、祖父にとっては大切な客だったに違いない。
俺は写真を丁寧に拭き、元の場所に戻した。
その夜、俺はいつもより少し早く店を閉めた。
翌日から、本格的に営業を始めるつもりだった。
*
夜八時。
店の片づけを終えたころ、入口のベルが鳴った。
顔を上げると、黒い服を着た六人が立っていた。
男もいれば、女もいる。
年齢も、雰囲気も、それぞれ違う。
だが、全員に共通していることがあった。
誰も、無駄な動きをしない。
そして、誰もが妙に静かだった。
「あの……いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、先頭の男が一歩前へ出た。
「朝霧透様で、間違いありませんか」
「はい。そうですけど」
「祖父君から、こちらへ伺うようにと」
「じいちゃんから?」
俺は目を瞬いた。
祖父の知り合いなのだろうか。
「はい」
男は、深く頭を下げた。
それに続いて、残る五人も頭を下げる。
俺は慌てて両手を振った。
「いやいや、そんなにかしこまらなくても!」
だが、六人はすぐには顔を上げなかった。
……何だろう。
もしかして、祖父にかなりお世話になった人たちなのだろうか。
「ええと、とりあえず座ってください。飲み物を用意しますね」
俺はカウンターの中へ戻った。
「コーヒーで大丈夫ですか? お酒もありますけど」
「マスターにお任せします」
「いや、俺、まだマスターになったばかりなんですけど……」
思わず苦笑した。
六人は、誰も笑わなかった。
俺は少しだけ不安になった。
冗談を言うような雰囲気ではなかったのかもしれない。
「じゃあ、まずはコーヒーにしましょう。苦手な方がいたら、別のものを出しますから」
「ありがとうございます」
六人は、ほとんど同時に頭を下げた。
……やっぱり、礼儀正しい人たちだ。
俺はそう思うことにした。
*
コーヒーを出すと、六人は静かにカップを手に取った。
誰も急いで飲まない。
香りを確かめるように、ゆっくりと口をつける。
「……おいしいです」
その一言に、俺はほっとした。
「よかった。祖父が使っていた豆と同じものなんです」
「そうですか」
先頭の男は、カップを見つめた。
「この味も、受け継がれたのですね」
「ええ。できるだけ、じいちゃんのやり方を残したいと思ってます」
六人は、静かにうなずいた。
俺は少し考えた。
せっかく来てくれたのだから、ゆっくりしていってほしい。
祖父も、きっとそう思っていたはずだ。
「来たいときに来て、帰りたいときに帰ればいいんです。ここは、そういう場所にしたいので」
何気なく口にした言葉だった。
店を継いだばかりの俺が、自分なりに考えていたこと。
ただ、それだけだった。
けれど、六人は顔を上げた。
先頭の男が、俺をまっすぐに見つめる。
「……そのお言葉、確かに承りました」
「え? あ、はい」
何だか、ずいぶん大げさな返事だった。
俺は困って笑った。
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。ここは、普通の店ですから」
六人は、しばらく沈黙した。
そして、全員がそろって頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺は、ますます困ってしまった。
コーヒーを出しただけなのに。
祖父の知り合いというのは、みんなこんなに礼儀正しいのだろうか。
*
同じころ。
灰都の地下深くにある一室で、一人の男が報告を受けていた。
「確認できたのか」
「はい。間違いありません」
報告者は、緊張した面持ちで答えた。
「六名全員が、CAFE 灯へ集まりました」
男は黙り込んだ。
六人。
裏社会にその名を知らぬ者はいない。
それぞれが独自の領域を持ち、互いに干渉せず、誰にも従わない。
彼らが同じ場所に集まること自体、異常だった。
ましてや、六人が一人の青年に頭を下げたという。
「店主の名前は」
「朝霧透。故人となった朝霧氏の孫です」
「朝霧……」
男の表情が変わった。
それは驚きだったのか。
それとも、恐怖だったのか。
報告者には判断できなかった。
「接触はするな」
「しかし、もし彼が六人を動かしているのなら――」
「だからこそだ」
男は、低い声で遮った。
「何者なのかもわからない相手に、こちらから手を出すな。六人が自分の意思で動いたのなら、なおさらだ」
「承知しました」
報告者が退出したあと、男は一人、机に置かれた資料を見つめていた。
そこには、古い写真が一枚挟まれていた。
写真に写っているのは、若いころの朝霧透の祖父。
そして、その隣には――
男は写真を裏返した。
「……まだ、終わっていなかったのか」
その呟きは、誰にも聞かれることなく、暗い部屋に消えていった。




