第24話 店主が「誕生日くらい、好きな人に祝ってもらえばいいんですよ」と言った結果、灰都の裏社会で極秘の誕生日調査が始まりました
CAFE 灯には、壁掛けのカレンダーがある。
特別なものではない。
祖父が使っていたものと同じように、日付の枠が大きく、予定を書き込める、ごく普通のカレンダーだ。
透は毎朝、店を開ける前に、その日の予定を確認する。
仕入れの日。
ケーキの材料を注文する日。
定休日。
そして、常連客が予約している日の印。
今日も、いつものようにカレンダーを眺めていた。
「……あれ?」
透は、ある日付の前で手を止めた。
「もうすぐ、じいちゃんの誕生日か」
祖父が亡くなってから、まだ一年も経っていない。
誕生日が近づくと、以前は決まって小さなケーキを買ってきていた。
祖父は甘いものが好きだった。
ただし、甘すぎるものは苦手だった。
生クリームよりも、少し苦みのあるチョコレートケーキを好んだ。
誕生日だからといって、大げさに祝うこともなかった。
店を閉めたあと、二人でケーキを食べ、コーヒーを飲む。
それだけだった。
透は、カレンダーを見つめながら微笑んだ。
「今年も、ケーキを買ってこようかな」
その何気ない独り言を、店内にいた六人が聞いていた。
王冠が新聞を畳んだ。
黒百合が顔を上げた。
葬送は、飲みかけのコーヒーを置いた。
道化師の指が止まった。
渡り烏は、静かに目を閉じた。
零だけが、透の表情を見つめていた。
「……店主」
王冠が、慎重に声をかけた。
「はい?」
「今、誕生日と言ったか?」
「ええ。祖父の誕生日なんです。もうすぐなので」
「……そうか」
王冠は、何かを考えるように沈黙した。
そして、ひとつの質問を口にした。
「店主。誕生日とは、本人がいなくなったあとも、祝うものなのか?」
透は、少し驚いた顔をした。
けれど、すぐに柔らかく笑った。
「そうですね。僕は、祝ってもいいと思いますよ」
「……祝ってもいい」
「はい。亡くなった人の誕生日を覚えているのは、その人と過ごした時間を覚えているってことでもありますから」
店内が静かになった。
透は、カレンダーを見ながら続けた。
「もちろん、悲しくなるなら、無理に何かをしなくてもいいと思います。でも、思い出して嬉しくなるなら、ケーキを食べたっていいし、好きだったものを用意したっていい。人それぞれですから」
その言葉を、六人は黙って聞いていた。
誕生日。
生まれた日。
誰かが、この世に生まれてきたことを祝う日。
彼らは、その意味を知らないわけではない。
ただ、彼らにとって誕生日は、長いあいだ別の意味を持っていた。
身分を隠すための偽の日付。
組織に管理された記録。
生年月日を知られることが危険につながる者もいた。
誰かに祝ってもらう日というより、余計な情報を増やさないために黙って過ごす日だった。
「……そうか」
王冠が、静かに頷いた。
「本人がいなくても、祝っていいのか」
「ええ」
透は、当たり前のように答えた。
「思い出すことまで、やめなくていいですからね」
その瞬間。
道化師の携帯端末が、机の上で小さく震えた。
彼は画面を見た。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……これは、少し厄介なことになったな」
「え? どうしたんですか?」
「いや」
道化師は端末を伏せた。
「まだ、何も起きていない」
しかし、その声には確信がなかった。
*
その日の午後。
灰都の裏社会にある情報管理連絡会の一室では、ひとつの資料が作成されていた。
表題は、こうである。
『CAFE 灯関係者における誕生日および記念日の取り扱いに関する調査』
発端は、六大勢力の一人が、部下にこう尋ねたことだった。
「お前の誕生日はいつだ?」
部下は、顔色を変えた。
裏社会において、個人情報を尋ねることには意味がある。
特に、誕生日は本人確認や身辺調査に使われることもある。
そのため、唐突に尋ねられれば、警戒するのも無理はなかった。
「……何か、問題でも?」
「いや。祝おうと思っただけだ」
「……はい?」
会話はそこで止まった。
上司は、何か間違ったことを言ったような顔をしていた。
部下は、何か重大な命令を受けたような顔をしていた。
そして、そのやり取りが、妙な形で情報管理連絡会に伝わった。
「誕生日を祝う?」
「そうだ。朝霧透氏の周辺で、記念日を祝う行為が新たな意味を持ち始めている可能性がある」
「具体的には?」
「……まだ分からない」
「分からないのに調査を始めたのか?」
「念のためだ」
担当者は、深いため息をついた。
最近、彼らの仕事は変わりつつあった。
以前なら、危険な動きを監視し、問題が起きる前に対応することが中心だった。
今は、菓子の配合を記録し、贈答品の意図を推測し、共同炊事の報告を受けている。
そして、今度は誕生日だ。
「……誕生日を調べる必要があるのか?」
「六大勢力の上層部が、互いの誕生日を確認し始めたという情報があります」
「なぜだ」
「祝うためだそうです」
担当者は、額を押さえた。
「……本人に聞けばいいだろう」
「そのように提案したところ、『本人に聞くこと自体が負担になる場合もある』との意見が出ました」
「……」
担当者は、何も言えなかった。
確かに、その可能性はある。
誕生日を祝われることが苦手な者もいる。
過去の事情から、日付を知られたくない者もいる。
家族との関係が複雑な者もいる。
だからこそ、本人の意思を確認することは重要だった。
「……調査対象を広げるな」
担当者は、ようやく口を開いた。
「本人の許可なく、個人情報を集めることは禁止だ。誕生日を祝いたいなら、本人が話した範囲で考えればいい」
「承知しました」
「それから、誕生日を祝わないという選択も尊重すること」
「……はい」
担当者は、資料の最後に書き加えた。
『記念日は義務ではない。本人が望まない場合、祝うことを強制してはならない』
その一文は、今回の騒動において、最も重要なものになるはずだった。
ただし。
その頃、六大勢力の一部では、すでに別の問題が発生していた。
誕生日を祝うなら、何を贈ればいいのか。
ケーキは何号が適切なのか。
プレゼントは必要なのか。
そもそも、誕生日を知らない相手に、いつ祝えばいいのか。
そして、誕生日を忘れてしまった場合、どうすればいいのか。
誰もが真剣だった。
彼らは、まだ知らない。
朝霧透が、そうした議論のすべてを聞いたら、きっとこう言うだろう。
――本人に聞いてみればいいんじゃないですか?
*
翌日。
CAFE 灯の開店前に、王冠がやってきた。
いつものように整ったスーツ。
いつものように落ち着いた表情。
ただし、手には小さなノートが握られていた。
「店主。少し相談がある」
「はい。どうしました?」
「誕生日についてだ」
透は、思わず笑った。
「……皆さん、誕生日が気になるんですか?」
「気になるというより、確認しておきたいことがある」
「何でしょう?」
王冠は、ノートを開いた。
「誕生日を祝われることが苦手な人間もいる。そうした場合、祝わないことが正しいのか。それとも、本人に気づかれない形で祝うべきなのか」
透は、少し考えた。
「本人が嫌なら、祝わないほうがいいと思いますよ」
「……そうか」
「誕生日って、本人のための日ですから。周りが祝いたいからって、無理に祝うものでもないでしょう?」
王冠は、ノートに何かを書き込んだ。
「本人の意思を優先する」
「はい」
「では、本人が誕生日を忘れている場合は?」
「え?」
「あるいは、自分の誕生日を祝う価値がないと思っている場合は?」
透は、少しだけ表情を変えた。
「……そうですね」
彼は、カウンターを拭いていた手を止めた。
「祝う価値がない人なんて、いないと思いますけどね」
王冠のペンが止まった。
「誕生日を忘れているなら、思い出したときに祝えばいいですし。祝いたくないなら、無理に何かをしなくてもいい。でも、自分が生まれてきたことを、価値がないなんて決めなくてもいいと思います」
透は、静かに笑った。
「生まれてきたこと自体は、誰かに許可をもらうようなものじゃないですから」
王冠は、しばらく動かなかった。
その言葉が、彼自身の胸にも触れたからだ。
王冠と呼ばれるようになる前。
まだ何者でもなかった頃。
彼にも、誕生日があった。
ただ、その日は何かを祝う日ではなかった。
家の都合で予定が決まり、将来が決められ、本人の希望など聞かれなかった。
祝われることはあった。
高価な品物も与えられた。
しかし、そこにあったのは、彼が生まれてきたことへの喜びというより、彼が将来どのような役割を果たすのかという期待だった。
いつしか、誕生日は、自分の存在を確認する日ではなくなっていた。
だからこそ、彼はずっと忘れていた。
自分が生まれた日を、ただ喜んでもらってもいいのだということを。
「……店主」
「はい?」
「君は、誕生日を祝ってもらうのが好きか?」
「ええ。嬉しいですよ」
「何か、特別なことをしてほしいと思うか?」
「うーん……」
透は、少し考えた。
「一緒にご飯を食べたり、ケーキを食べたりできたら嬉しいですね。でも、何もなくても、誰かが覚えていてくれたら、それだけで十分です」
王冠は、静かに頷いた。
「……そうか」
そのとき、厨房から葬送が顔を出した。
「店主。ケーキを作るなら、何を用意すればいい?」
「え? 葬送さんまで?」
「いや……」
葬送は、少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「……俺も、誰かの誕生日を祝ってみたいと思った」
透は、嬉しそうに笑った。
「いいですね。じゃあ、今度一緒に作りましょう」
葬送は、頷いた。
その顔には、戦場で見せるような鋭さはなかった。
ただ、何かを楽しみにしている男の顔があった。
*
昼過ぎ。
黒百合は、一人でカウンターに座っていた。
彼女は珍しく、コーヒーを飲み終えても帰ろうとしなかった。
「……店主」
「はい?」
「誕生日って、覚えていてもらえると嬉しいもの?」
透は、少し驚いた。
「人によると思いますけど、僕は嬉しいですね」
「そう」
黒百合は、カップの縁を指でなぞった。
「……覚えていてほしいと思うこと自体、面倒なことなのかしら」
「どうしてですか?」
「誰かに覚えていてほしいと思うなら、その人に期待しているということでしょう。期待すれば、裏切られることもある」
透は、彼女の顔を見た。
黒百合は、いつものように落ち着いた表情をしていた。
けれど、その目には、わずかな迷いがあった。
「……そうですね」
透は否定しなかった。
「期待したら、思いどおりにならないこともありますよね」
「でしょう?」
「でも、期待すること自体が悪いわけじゃないと思います」
黒百合が顔を上げた。
「……どういう意味?」
「誰かに覚えていてほしいとか、祝ってほしいとか。そう思うのは、自然なことじゃないですか?」
透は、穏やかに続けた。
「期待したからって、相手に全部を背負わせる必要はないですし。もし思いどおりにならなかったとしても、自分がそう思ったことまで、なかったことにしなくていいと思います」
黒百合は、何も言わなかった。
彼女は長いあいだ、誰かに期待することを避けてきた。
信頼すれば、裏切られるかもしれない。
弱みを見せれば、利用されるかもしれない。
だから、最初から何も望まなければいい。
そう考えて生きてきた。
けれど、何も望まないことは、傷つかないための方法であると同時に、嬉しいことを受け取らないための方法でもあった。
「……もし、誰も覚えていなかったら?」
黒百合は、静かに尋ねた。
透は、少し考えてから答えた。
「そのときは、自分でケーキを買ってもいいんじゃないですか?」
「……は?」
「好きなケーキを買って、おいしく食べるんです。誰かが覚えているかどうかとは別に、自分が生まれた日を大切にしたっていいでしょう?」
黒百合は、ぽかんとした。
そして、とうとう笑ってしまった。
「……あなたって、本当に」
「え?」
「いえ。何でもないわ」
彼女は、カップを持ち上げた。
「……そうね。自分で買うのも、悪くないかもしれない」
その声は、少しだけ明るかった。
*
同じ頃、道化師は別の問題に直面していた。
「……誕生日が分からない」
彼は、机の上に広げた資料を見つめていた。
資料は、自分自身のものだった。
正確には、現在使っている身分に関する記録だ。
生年月日。
出身地。
学歴。
経歴。
どれも、必要に応じて用意されたものだった。
彼には、本当の誕生日を知る手段がなかった。
いや、正確には、記録が存在する可能性はある。
しかし、確認するためには、かつて関わった組織の保管資料を調べなければならない。
その過程で、余計な問題が起きる可能性もあった。
「……面倒だな」
道化師は、椅子にもたれた。
誕生日が分からなければ、祝うこともできない。
そう考えたとき、彼はふと、透の言葉を思い出した。
――思い出したときに祝えばいいですし。
道化師は、しばらく考え込んだ。
「……なら、今日でもいいのか」
彼は、机の上にあった小さな菓子を手に取った。
それは、昨日、誰かが差し入れてくれたものだった。
包装紙を開ける。
甘い香りが広がる。
道化師は、一口食べた。
「……悪くない」
誕生日が分からなくても、今日を少しだけ特別にすることはできる。
それなら、無理に過去を掘り返さなくてもいいのかもしれない。
彼は、端末の予定表を開いた。
今日の日付に、小さく文字を入力する。
『自分に菓子を買う日』
入力を終えると、道化師は少しだけ笑った。
誰かに見られたら、きっと笑われるだろう。
それでも、消す気にはならなかった。
*
夕方。
CAFE 灯の店内では、妙な話し合いが始まっていた。
「……つまり、誕生日は本人の意思を尊重する」
王冠が、ホワイトボードに書き込んだ。
「祝いたい場合は、本人が望んでいるかを考える」
道化師が続ける。
「プレゼントの金額で、気持ちの大きさを示そうとしない」
黒百合が付け加えた。
「食事は、本人が好きなものを用意する」
葬送が真剣に言った。
「……ケーキは、食べたい人が食べる」
零が、小さな声で付け加えた。
渡り烏は、全員の顔を見渡した。
「……お前たち、何をしているんだ?」
「誕生日を祝う際の基本方針を整理している」
王冠が答えた。
「……基本方針」
「そうだ」
渡り烏は、額に手を当てた。
「誕生日だぞ?」
「理解している」
「本当にか?」
「当然だ」
王冠は、真剣だった。
透は、厨房から顔を出した。
「皆さん、楽しそうですね」
全員が一斉に振り返った。
「……店主」
王冠が言った。
「誕生日を祝うとき、最も大切なことは何だと思う?」
透は、少し考えた。
「そうですねえ……」
全員が息を潜めた。
「本人が嬉しいと思えること、じゃないですか?」
沈黙。
透は、首を傾げた。
「豪華なプレゼントが好きな人もいるでしょうし、静かに過ごしたい人もいるでしょう。友達と騒ぎたい人もいれば、一人でケーキを食べたい人もいると思います」
彼は、微笑んだ。
「だから、その人がどうしたいかを考えるのが、一番じゃないですかね」
王冠は、ゆっくりとホワイトボードを見た。
そこには、細かい文字でびっしりと方針が書かれていた。
彼は、手に持っていたペンを動かした。
そして、そのすべての下に、一文を書き加えた。
『本人が嬉しいと思えることをする』
「……これで十分だな」
渡り烏が、ようやく笑った。
「最初から、そうしておけばよかったんだ」
王冠は反論しなかった。
ただ、少しだけ照れくさそうにペンを置いた。
*
その夜。
鷹宮宗一郎は、自宅の書斎で古い手帳を開いていた。
手帳には、過去の仕事の記録が並んでいる。
取引の日付。
重要な会合。
組織の節目。
その中に、一つだけ、別の種類の記録があった。
ある人物の誕生日。
かつて、彼のそばで働いていた男のものだった。
その男は、数年前に組織を離れた。
理由は、家族の事情だった。
鷹宮は、彼を引き留めなかった。
必要な手続きを済ませ、十分な退職金を渡し、今後の生活に困らないよう手配した。
それが、彼にできる最大限の配慮だと思っていた。
しかし、男が去るとき、最後に言った言葉を、鷹宮は覚えていた。
『会長。最後に一度くらい、普通に飯を食いたかったです』
鷹宮は、その言葉の意味を、長いあいだ理解できなかった。
食事なら、何度も用意した。
高級な店にも連れていった。
必要なものは、すべて与えたつもりだった。
それでも、男は寂しそうに笑っていた。
鷹宮は、手帳を閉じた。
「……そういうことだったのか」
今なら、少しだけ分かる気がした。
相手が必要としていたのは、何かを与えられることではなかった。
ただ、一緒に食事をしたかった。
仕事の話をせず、評価もせず、何かの役に立つかどうかも考えず。
ただ、人として同じ時間を過ごしたかったのだ。
鷹宮は、机の上の携帯端末を手に取った。
連絡先を探す。
何年も連絡していなかった相手の名前が、画面に表示された。
少し迷ってから、短いメッセージを打ち込んだ。
『久しぶりだ。元気にしているか。今度、食事でもどうだ』
送信。
それだけだった。
数分後、返信が届いた。
『お久しぶりです。驚きました。ぜひ行きましょう』
鷹宮は、画面を見つめた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……誕生日とは、関係なかったな」
それでも、構わなかった。
大切なのは、日付を正確に覚えることだけではない。
誰かと過ごした時間を、もう一度大切にしたいと思うこと。
その気持ちを、行動に移すこと。
それもまた、誰かを祝うことに似ているのかもしれなかった。
*
数日後。
透は、祖父の誕生日を迎えた。
店を閉めたあと、厨房で小さなチョコレートケーキを用意した。
大きなものではない。
二人で食べていた頃と同じくらいの、小さなケーキだ。
透は、ケーキを皿に載せ、カウンターの端に置いた。
その隣には、祖父が使っていた古いコーヒーカップがある。
「……じいちゃん、誕生日おめでとう」
誰もいない店内で、透は静かに言った。
「今年も、ケーキを買ったよ」
返事はない。
けれど、透は寂しそうにはしなかった。
ただ、ケーキを見つめ、少しだけ笑った。
「……お店、ちゃんと続いてるからね」
その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が温かくなった。
祖父が残したものは、建物や道具だけではない。
人が集まり、食事をし、話をして、時には何も言わずに休める場所。
誰かが強くなくても、ここにいていいと思える場所。
それを、透は受け継いだ。
だから、これからも続けていこうと思う。
透は、ケーキを一口食べた。
「……うん。おいしい」
そして、コーヒーを淹れた。
そのとき、店の扉が控えめに叩かれた。
開店時間は、もう終わっている。
透が扉を開けると、そこには六人が立っていた。
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
全員が、少しだけ気まずそうな顔をしている。
「……皆さん?」
透は、驚いた。
「どうしたんですか?」
渡り烏が、一歩前に出た。
「いや。少し、顔を見に来ただけだ」
「顔を?」
「……ああ」
黒百合が、店内の小さなケーキを見た。
それから、何も言わずに微笑んだ。
「……おじいさんの誕生日なのね」
「はい」
透は、少し照れくさそうに頷いた。
「一人で祝うつもりだったんですけど」
王冠が、静かに言った。
「……迷惑でなければ、少しだけ一緒にいてもいいだろうか」
透は、目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに笑った。
「もちろんですよ」
六人は、店内に入った。
誰も、派手な贈り物を持っていなかった。
誰も、祖父の誕生日を大げさに祝おうとはしなかった。
ただ、温かいコーヒーを飲み、ケーキを少しずつ分け合った。
祖父の思い出を、少しだけ話した。
渡り烏は、昔の店主がよく失敗した料理の話をした。
葬送は、祖父に教えてもらった簡単なスープの話をした。
黒百合は、祖父が客の話を最後まで聞いていたことを思い出した。
道化師は、祖父が難しい話をするとき、必ずお茶を出していたことを話した。
王冠は、何も言わずに聞いていた。
零は、静かにケーキを食べていた。
やがて、透が言った。
「……じいちゃん、きっと喜んでると思います」
誰も、否定しなかった。
その夜、CAFE 灯には、特別なことは何も起こらなかった。
裏社会の勢力図も変わらなかった。
誰かが新しい命令を出したわけでもない。
ただ、亡くなった人の誕生日に、八人が小さなケーキを食べた。
それだけだった。
*
翌朝。
灰都情報管理連絡会の担当者は、最新の報告書を読んでいた。
報告内容は、こうだった。
『CAFE 灯にて、故人の誕生日を少人数で偲ぶ集まりが行われた。参加者に不審な行動はなく、特別な対応は不要と判断する』
担当者は、報告書を閉じた。
「……それでいい」
隣の職員が尋ねた。
「何か、気になる点でも?」
「いや」
担当者は、窓の外を見た。
「ただ、最近は報告書を読んでいても、何も起きないことが増えたなと思ってな」
「……何も起きないことが、ですか?」
「ああ」
担当者は、小さく笑った。
「以前は、何かが起きないと安心できなかった。だが今は、何も起きなかったという報告を、そのまま受け入れられるようになった」
職員は、少し考えてから頷いた。
「……悪いことではないですね」
「そうだな」
担当者は、机の上の予定表を見た。
今日の仕事は多い。
それでも、昼休みはきちんと取ろうと思った。
帰りには、家族の好きな菓子を買って帰ろう。
誕生日ではない。
記念日でもない。
ただ、喜んでくれたら嬉しい。
それだけで十分だった。
*
その日の夕方。
CAFE 灯では、零がカレンダーの前に立っていた。
「……店主」
「はい?」
「……私、自分の誕生日を知らない」
透は、手にしていた布巾を止めた。
「……そうなんですか」
「……うん」
零は、カレンダーを見つめていた。
「……昔の記録には、違う日付がいくつもあった。どれが本当なのか、分からない」
透は、すぐには答えなかった。
簡単に「調べましょう」と言うこともできた。
しかし、それが零にとって本当に必要なことなのかは、分からなかった。
「……零さんは、知りたいですか?」
透が尋ねた。
零は、しばらく考えた。
「……分からない」
「そうですか」
「……知りたい気もする。でも、調べるのが怖い気もする」
「……うん」
透は、彼女の言葉を遮らずに聞いた。
「じゃあ、今すぐ決めなくてもいいと思いますよ」
零が顔を上げた。
「……いいの?」
「もちろんです。知りたくなったら調べればいいし、今はそのままでもいい。どちらを選んでも、零さんがここにいていいことは変わりませんから」
零は、じっと透を見つめた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが、少しだけ緩んだ。
自分が何者なのか。
いつ生まれたのか。
何を失い、何を覚えているのか。
分からないことは、たくさんある。
それでも、今ここにいる自分まで、否定する必要はないのかもしれない。
「……店主」
「はい?」
「……もし、私が誕生日を決めてもいいなら」
零は、少しだけ視線を落とした。
「……いつか、この店に初めて来た日を、誕生日にしてもいい?」
透は、目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……もちろんです」
「……本当に?」
「ええ。零さんが、その日を大切にしたいと思うなら」
零は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……考えてみる」
「はい。いつでも相談してくださいね」
零は、カレンダーから離れた。
その背中は、以前より少しだけ軽く見えた。
誕生日が分からなくてもいい。
今すぐ決めなくてもいい。
それでも、いつか自分が生まれてきたことを、喜んでもいいと思える日が来るかもしれない。
その可能性を、初めて考えることができた。
透は、いつものようにコーヒーを淹れ始めた。
窓の外では、夕日が街を赤く染めていた。
今日も、特別な事件は起きなかった。
誰かが新たな勢力を作ったわけでもない。
誰かが裏社会の頂点に立ったわけでもない。
ただ、一人の女性が、自分の誕生日を決めてもいいのだと知った。
それだけだった。
そして、それだけのことが。
彼女にとっては、世界のどこかに、自分の居場所を作ることと同じくらい大切なことだった。
透は、カウンターの向こうから声をかけた。
「零さん。明日、クッキーを焼くんですけど、一緒にどうですか?」
零は振り返った。
「……うん。やりたい」
「じゃあ、決まりですね」
その会話を聞いていた王冠が、静かにノートを閉じた。
黒百合は、何も言わずに微笑んだ。
葬送は、次こそ失敗しないようにと、厨房のほうを見ていた。
道化師は、明日の予定表に何かを書き込んでいた。
渡り烏は、温かいコーヒーを飲んでいた。
誰も、零のために勝手に誕生日を決めようとはしなかった。
いつか本人が決める日を、待つことにしたのだ。
それは、彼らがようやく覚え始めた、誰かを大切にする方法の一つだった。
そして翌日。
彼らがクッキーを焼こうと厨房に集まったとき、透が何気なく言った。
「そういえば、誕生日のケーキって、ろうそくを何本立てるか迷いますよね」
六人の動きが止まった。
王冠が、ゆっくりと顔を上げた。
道化師が、端末を開いた。
葬送が、真剣な表情で尋ねた。
「……ろうそくの本数には、何か意味があるのか?」
透は、きょとんとした。
「え? 年齢の数だけ立てたり、数字の形をしたろうそくを使ったりしますよ」
沈黙。
そして、王冠が静かに呟いた。
「……年齢」
その言葉を聞いた瞬間、道化師の顔から笑みが消えた。
黒百合は、何かを察したように目を閉じた。
渡り烏は、深いため息をついた。
鷹宮が店に入ってきたのは、ちょうどそのときだった。
「……何の話だ?」
王冠は、真剣な顔で答えた。
「誕生日を祝う際の、ろうそくの本数についてだ」
「……そうか」
鷹宮は、店内を見渡した。
「それで、何が問題なんだ?」
王冠は、静かに答えた。
「年齢が分からない者の誕生日を、どう祝うべきかという問題だ」
鷹宮は、しばらく黙っていた。
そして、透を見た。
「……店主。数字のろうそくは、何歳まで売っている?」
「えっ?」
透は、まだ何も知らなかった。
ただ、みんなで楽しくケーキを食べられたらいいなと思っていただけだった。
灰都の裏社会では、次なる難題が生まれようとしていた。
年齢が分からない者の誕生日を、どう祝うのか。
そして、その答えを探すことが、誰かの過去を無理に暴くことではなく、今ここにいる人を大切にすることにつながるのだと。
彼らが理解するまでには、もう少しだけ時間が必要だった。




