第23話 店主が「お菓子作りは分量どおりじゃなくても、意外と何とかなりますよ」と言った結果、灰都の裏社会で砂糖の配合を巡る派閥抗争が勃発しました
CAFE 灯の朝は、いつもと変わらない。
窓から差し込む柔らかな光。
コーヒー豆を挽く音。
焼きたてのトーストから漂う香ばしい匂い。
そして、カウンターの向こう側で、朝霧透が何気なく口にした一言。
「今度、みんなでお菓子でも作りましょうか」
それが、すべての始まりだった。
正確に言えば、始まりは昨日の夜だ。
透が帰宅したあと、灰都の裏社会では、六大勢力の関係者がそれぞれ独自に動き始めていた。
菓子作りに必要な道具の調達。
材料の品質確認。
衛生管理。
作業工程の整理。
そして、完成した菓子を誰に渡すべきかという、今回の主題から少しずれた議論。
彼らは、いつものように真剣だった。
何しろ、あの朝霧透が楽しそうに提案したことなのだ。
その期待を裏切るわけにはいかない。
ただし、本人はまだ、クッキーを焼く程度のつもりでいる。
*
「……王冠さん、これは何ですか?」
開店前の店内で、透は厨房の隅に積み上げられた箱を見つめていた。
大きな箱が三つ。
中くらいの箱が二つ。
そして、なぜか業務用らしい銀色の機材が一台。
「菓子作りに必要なものだ」
王冠は、いつもの落ち着いた声で答えた。
「必要なもの……?」
「オーブンの温度を正確に管理する機器。計量器。材料を保管する容器。衛生用品。それから、作業効率を高めるための器具だ」
「……クッキーを作るだけですよ?」
「理解している」
王冠は、当然のように頷いた。
「だからこそ、過剰な設備投資は避けた。これでも必要最低限だ」
「最低限の基準がおかしいんです!」
透の声が店内に響いた。
カウンターで新聞を読んでいた渡り烏が、静かに新聞を畳む。
「王冠。お前、またやったのか」
「必要な準備をしただけだ」
「その機材、いくらだ?」
「費用の問題ではない」
「つまり高いんだな」
「……適正価格だ」
「高いんだな」
渡り烏は、ため息をついた。
その横では、道化師が携帯端末を操作していた。
「いや、設備そのものは悪くない。温度管理が安定すれば、焼きムラは減る。計量の誤差も抑えられる。再現性という意味では合理的だ」
「道化師さんまで!」
「ただし、問題は設備ではない」
道化師は顔を上げた。
「レシピだ」
その一言に、王冠が反応した。
「……レシピ?」
「そうだ。材料の比率を決めなければ、設備を用意しても意味がない」
王冠は、ゆっくりと頷いた。
「確かに」
透は嫌な予感を覚えた。
「……あの、皆さん?」
誰も聞いていなかった。
道化師は端末に向かって話し始める。
「一般的なバタークッキーの場合、小麦粉、バター、砂糖、卵の配合によって食感が変わる。砂糖の種類によっても違いが生じる。焼成温度と時間も重要だ」
「なるほど」
「だが、甘さの好みには個人差がある。全員が満足する配合をどう定めるか。それが今回の問題だ」
王冠が腕を組んだ。
「統一基準を設けるべきだろう」
「待て」
黒百合が口を挟んだ。
「どうして最初から全員の好みを統一する必要があるの?」
「好みが異なる場合、完成品の評価が分かれる」
「分かれたら何が問題なの?」
「……」
王冠は黙った。
黒百合は肩をすくめた。
「甘いのが好きな人もいれば、甘さ控えめが好きな人もいるでしょう。別々に作ればいいじゃない」
「しかし、それでは統一性が失われる」
「お菓子に統一性が必要なの?」
「……」
王冠は、再び黙った。
その会話を聞きながら、透は静かに厨房の奥へ逃げようとしていた。
だが、零に袖をつままれた。
「……店主」
「はい?」
「……何を作る?」
「えっと、クッキーとか、簡単なものから始めようかなと」
「……クッキー」
零の目が、ほんの少しだけ輝いた。
「……作ってみたい」
「いいですね。じゃあ、一緒に作りましょう」
「……うん」
零は嬉しそうに頷いた。
透は、その笑顔を見て少し安心した。
少なくとも、一人は普通に楽しんでくれそうだ。
その期待は、三分後に崩れた。
*
「まずは、配合の決定から始めよう」
王冠がホワイトボードの前に立った。
そこには、いつの間にか三種類の配合案が書かれていた。
第一案。標準的なバタークッキー。
第二案。甘さ控えめのバタークッキー。
第三案。食感を重視したバタークッキー。
「この三案から選ぶ」
王冠が宣言した。
「いや、まだ作ってもいないんですけど……」
透が小さく呟いた。
道化師は、すでに資料を作成していた。
「各案の特徴を整理した。第一案はバランス型。第二案は甘さを抑え、バターの風味を引き立てる。第三案は食感を優先し、焼き上がりの軽さを狙う」
「……どれもおいしそうですね」
「問題は、どれを標準とするかだ」
葬送が、腕を組んで唸った。
「俺は、甘いほうがいい」
黒百合がすぐに言った。
「私は控えめがいいわ」
「俺は食感だな」
道化師が眼鏡を押し上げる。
零は少し考えてから、口を開いた。
「……私は、まだ分からない」
「分からない?」
王冠が尋ねる。
「……自分で作ったことがないから」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、空気が静かになった。
零は普段、必要なことを先回りして理解する。
周囲が何を求めているのかを察し、失敗を避け、迷惑をかけないように動く。
しかし、好きな味を尋ねられても、答えられなかった。
今まで、自分が何を食べたいのかを考える機会が少なかったからだ。
透は、そんな零を見て、にこりと笑った。
「じゃあ、いろいろ作って食べ比べてみましょう」
「……食べ比べ?」
「はい。作ってみないと分からないこともありますからね」
零は、ゆっくりと頷いた。
「……そうする」
王冠は、ホワイトボードを見つめた。
「では、三案をすべて作る」
「え?」
「比較するには、実物が必要だ」
道化師も頷く。
「合理的だな」
「……皆さん、そんなにたくさん食べられますか?」
「問題ない」
葬送が即答した。
黒百合が、じっと彼を見た。
「あなた、さっき朝食を三人分食べたでしょう」
「……菓子は別腹だ」
「誰の言葉よ、それ」
渡り烏は、遠い目をした。
「始まる前から、もう疲れたな……」
*
最初のクッキー作りは、予想以上に順調だった。
王冠が計量し、道化師が手順を確認する。
黒百合は材料を混ぜ、渡り烏は作業台を整えた。
葬送は力仕事を担当し、零は透の隣で生地をこねていた。
「……これくらい?」
「そうですね。生地がまとまってきたら大丈夫ですよ」
「……分かった」
零は慎重に生地をまとめた。
形は少し不揃いだったが、きれいにまとまっている。
「上手ですよ、零さん」
「……本当?」
「ええ。いい感じです」
零は、少しだけ口元を緩めた。
その様子を見て、透も嬉しくなった。
ところが、隣で葬送が妙な動きをしていた。
「……葬送さん、何をしているんですか?」
「生地を鍛えている」
「鍛える?」
「力を入れたほうが、まとまりやすいと思った」
葬送の手元では、生地が粘土のように固くなっていた。
道化師が覗き込む。
「……これは混ぜすぎだな。小麦粉を練りすぎると、食感が硬くなる」
「そうなのか」
「クッキーに必要なのは、力ではなく適切な混ぜ方だ」
葬送は、固くなった生地を見つめた。
「……すまん」
「大丈夫ですよ」
透はすぐに答えた。
「これはこれで、どうなるか試してみましょう。次は混ぜ方を変えればいいんです」
葬送は、驚いたように顔を上げた。
「……捨てなくていいのか?」
「食べられそうなら、焼いてみましょう。失敗したって、何か分かることはありますから」
葬送は、しばらく生地を見つめていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
透は、その生地を小さく切り分け、別の天板に並べた。
その横で、王冠が厳しい声を上げた。
「道化師。第二案の砂糖の計量に誤差がある」
「誤差の範囲内だ」
「記録値と一致していない」
「計量器の表示が安定する前に読み取った可能性がある」
「再計量するべきだ」
「そこまで厳密にする必要はないだろう」
「必要だ」
「いや、必要ではない」
黒百合が、二人の間に手を差し入れた。
「……ちょっと。砂糖で喧嘩しないでくれる?」
「喧嘩ではない」
「検証だ」
二人が同時に答えた。
「余計に面倒だわ!」
そのとき、透が小さく声を上げた。
「あっ」
全員が振り返った。
「どうした、店主!」
王冠が一歩踏み出す。
「何か問題が発生したのか?」
「いえ、砂糖を少しこぼしちゃいました」
透の足元には、白い砂糖が小さく散らばっていた。
店内が静まり返った。
道化師が目を閉じた。
渡り烏が天井を仰いだ。
黒百合は、笑いをこらえていた。
王冠が、ゆっくりと息を吸った。
「……店主」
「はい?」
「それは、今回の配合に影響する可能性がある」
「そうですね。掃除します」
「いや、配合への影響を再評価する必要が……」
「王冠さん」
透は、布巾を手に取った。
「床に落ちた砂糖は、もう使えませんよ」
「……」
「だから、片づけて、新しい砂糖を使いましょう」
王冠は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに頷いた。
「……そうだな」
その一言に、黒百合は目を見開いた。
王冠が、失敗を前にして、すぐに原因の追及を始めなかった。
それだけでも、以前の彼を知る者には驚くべき変化だった。
透は、何も気づかず、床を拭いていた。
「大丈夫ですよ。砂糖は、まだありますから」
王冠は、その言葉を聞きながら、少しだけ笑った。
失敗したことそのものより、失敗したあとに何ができるか。
それを考えるようになったのは、いつからだっただろう。
*
焼き上がったクッキーが、テーブルに並んだ。
第一案は、きれいな焼き色がついていた。
第二案は、少し色が薄い。
第三案は、形が崩れているものもあるが、香ばしい匂いが漂っていた。
そして、葬送の生地から作られたクッキーは。
「……硬いな」
本人が一口食べて、正直に呟いた。
黒百合が笑った。
「石みたいね」
「石ではない。クッキーだ」
「それは見れば分かるわよ」
葬送は、もう一口かじった。
そして、真剣な顔で頷いた。
「……次は、混ぜすぎない」
「そうですね」
透は笑った。
「でも、ちゃんとクッキーになりましたよ」
「……ああ」
葬送は、硬いクッキーを皿に戻さなかった。
自分が作ったものだから、という理由だけではない。
失敗したものを、失敗したまま終わらせず、次につなげられる。
その感覚が、少し嬉しかった。
一方、零は三種類のクッキーを一つずつ食べていた。
最初は、慎重に。
次は、少しだけ大胆に。
そして最後に、第三案をもう一つ手に取った。
「……零さん、どれが好きでした?」
透が尋ねた。
零は、少し考えた。
「……これ」
第三案のクッキーを指さす。
「……少し香ばしいのが、好き」
「なるほど。じゃあ、零さんはこれが好みなんですね」
「……うん」
零は、クッキーを見つめた。
好きなものを聞かれて、答えられた。
それだけのことが、思ったよりも嬉しかった。
「……また、作りたい」
「ぜひ、作りましょう」
透は即答した。
「次は、もう少し形を工夫してみてもいいですね」
「……やってみる」
零の声には、ほんの少しだけ弾みがあった。
その様子を見ていた黒百合は、そっと微笑んだ。
誰かに認められるためではなく。
失敗を避けるためでもなく。
自分が好きだから、また作りたいと思う。
その気持ちは、きっと大切なものだった。
*
問題は、そのあとだった。
「……結局、どの配合を標準にする?」
王冠が尋ねた。
道化師は腕を組んだ。
「味の評価は分かれた。第一案は全体的に好評。第二案は甘さ控えめを好む者に支持され、第三案は食感の面で高評価だ」
「ならば、第一案を基本とし、残りを派生型にすればいい」
「それでは、最初から三種類作った意味がない」
「比較の結果を反映するのは当然だ」
「だが、評価項目の重みづけが定まっていない」
黒百合が、椅子の背にもたれた。
「だから、好きなものを好きに食べればいいじゃない」
「……それでは統一基準が」
「必要ないでしょう、そんなもの」
王冠は黙り込んだ。
渡り烏が、湯気の立つコーヒーを口に運んだ。
「王冠。お前は何のためにクッキーを作ったんだ?」
「……店主が楽しめるようにするためだ」
「なら、店主が楽しんでいれば、それでいいんじゃないか?」
「……」
王冠は、カウンターの向こうを見た。
透は、葬送の硬いクッキーを食べながら、笑っていた。
「これ、コーヒーに合いますね」
「……本当か?」
「ええ。少し硬いですけど、噛むほどに味が出ますよ」
葬送の表情が、わずかに明るくなった。
「……なら、これはこれで成功だな」
「そうですね。次はもっとおいしく作れると思います」
王冠は、その光景を見つめていた。
完璧なものだけが価値を持つわけではない。
全員が同じものを好きになる必要もない。
それぞれが好きなものを見つけ、楽しめばいい。
その答えは、目の前にあった。
「……分かった」
王冠は、ホワイトボードに書かれた三つの案を見た。
そして、その下に新しい一文を書き加えた。
『各自の好みに応じて選択する。統一は求めない』
「これでいいだろう」
道化師は、その文字を見つめた。
「……簡潔だな」
「余計な条件は必要ない」
王冠は、ペンを置いた。
黒百合が笑った。
「やっと分かったのね」
「……ああ」
その返事には、以前のような頑なさがなかった。
*
その日の夜。
灰都の裏社会では、奇妙な情報が広まっていた。
六大勢力の関係者が、同じ場所で菓子作りを行った。
配合の違いを検証し、完成品を比較した。
その結果、全員に同一の基準を適用する方針は採用されず、各自の好みを尊重する結論に至った。
情報管理連絡会の担当者は、その報告書を読んで、しばらく動かなかった。
「……今度は何だ」
「共同製菓です」
「聞き間違いか?」
「いえ。クッキーを作ったそうです」
「……クッキー」
担当者は、報告書を机に置いた。
少し前なら、こんな話を真面目に報告すること自体が信じられなかっただろう。
しかし、ここ最近、裏社会のあちこちで小さな変化が起きていた。
部下の失敗を、すぐに責任問題へと発展させない上司。
食事の好みを聞いてから注文する幹部。
休日に、仕事と関係のない相手へ連絡を取る者。
そして、誰かが作った不格好な菓子を、笑いながら食べる者。
どれも、組織の勢力図を塗り替えるような出来事ではない。
だが、確かに何かが変わり始めていた。
「……朝霧透氏は、今回も何か指示を出したのか?」
「確認できる範囲では、特別な指示はありません」
「では、何をした?」
「一緒に菓子を作り、失敗したものも食べ、各自の好みを尊重したそうです」
担当者は、長い沈黙のあと、報告書に一文を書き加えた。
『本件は、現時点で特別な対策を必要としない。各組織は通常業務を継続すること』
そして、書類を閉じた。
その直後、隣の席から声がした。
「……ところで、砂糖控えめのクッキーって、どこで買えますか?」
担当者は、ゆっくりと振り返った。
「お前もか」
「いえ、家族が甘すぎる菓子は苦手でして」
「……そうか」
担当者は、引き出しからメモ帳を取り出した。
「俺も調べておこう」
二人は、何事もなかったかのように仕事へ戻った。
灰都の裏社会は、今日も平和だった。
少なくとも、砂糖の配合を巡って誰かが命を落とすことはなかった。
*
翌朝。
CAFE 灯の厨房では、透が一人、クッキーの試作品を作っていた。
昨日の生地を少しだけ変えたものだ。
砂糖を控えめにし、バターの香りを残す。
焼き上がったクッキーを一つ口に運ぶ。
「……うん。おいしい」
透は満足そうに頷いた。
そのとき、厨房の入り口に零が立っていることに気づいた。
「零さん、おはようございます」
「……おはよう」
「ちょうどクッキーを焼いたところなんです。食べてみますか?」
「……いいの?」
「もちろんです」
零は、一つ受け取った。
少しだけ香ばしい。
甘さは控えめで、口の中にバターの風味が広がる。
零は、ゆっくりと噛んだ。
「……おいしい」
「本当ですか? よかった」
透は嬉しそうに笑った。
零は、クッキーを見つめた。
「……店主」
「はい?」
「……今度は、私が作ってもいい?」
「もちろんですよ」
透は、当たり前のように答えた。
「一緒に作りましょう」
零は頷いた。
そのとき、店の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「店主! 重大な報告がある!」
王冠だった。
その後ろには、道化師と葬送、そしてなぜか大量の材料を抱えた鷹宮がいた。
「……どうしたんですか、皆さん?」
王冠は、真剣な表情で告げた。
「次回の菓子作りに向けて、各勢力から参加希望者が集まっている」
「……はい?」
「現時点で、参加希望者は四十七名」
「多すぎます!」
「さらに、菓子作りの経験者を中心とした班分けの提案が届いている」
「班分け!?」
「材料の共同購入についても、複数の組織から申し出があった」
「共同購入!?」
道化師が補足する。
「なお、砂糖の配合については、甘さ控えめを支持する者と、甘さを重視する者の間で意見が分かれている」
「……まさか、また揉めているんですか?」
「今のところ、意見交換の段階だ」
王冠は、少しだけ誇らしげに答えた。
「互いの好みを尊重する方針は共有されている」
「それならよかったです……」
透は、胸を撫で下ろした。
しかし、鷹宮が抱えていた材料の袋をカウンターに置いた瞬間、透は再び固まった。
「……鷹宮さん。それ、何ですか?」
「材料だ」
「何の?」
「クッキーに必要なものだと聞いた」
袋の中には、小麦粉、砂糖、バター、卵が入っていた。
そして、なぜか高級なチョコレートが大量に詰め込まれていた。
「……チョコレートまで?」
「甘いものが好きな者もいるだろう」
「それはそうですけど……」
鷹宮は、少しだけ表情を和らげた。
「無理に同じものを作る必要はないのだろう?」
「ええ。好きなものを作ればいいと思いますよ」
「ならば、チョコレートを使いたい者がいれば、使えばいい」
透は、笑った。
「そうですね。いいと思います」
鷹宮は、静かに頷いた。
その言葉を聞いて、王冠も道化師も、満足そうに顔を見合わせた。
彼らはもう、全員に同じものを作らせようとはしていない。
それぞれの好みを認め、できる範囲で一緒に楽しもうとしていた。
少しずつではあるが、確かな変化だった。
透は、材料の袋を片づけながら言った。
「じゃあ、次はチョコチップクッキーも作りましょうか」
全員が顔を上げた。
そして、静かに頷いた。
その瞬間。
道化師の携帯端末が震えた。
画面には、灰都情報管理連絡会からの通知が表示されていた。
『共同製菓計画に関する追加報告。チョコレートの使用比率について、各勢力から照会が寄せられている』
道化師は、画面を見つめた。
「……早いな」
「何がですか?」
「いや、何でもない」
道化師は端末を伏せた。
透は気づかなかった。
ただ、次にみんなで作るお菓子のことを考えていた。
クッキー。
チョコチップクッキー。
それから、いつかはケーキもいいかもしれない。
みんなで作って、失敗して、笑って、食べる。
それだけで、十分楽しい。
その日、灰都の裏社会では、チョコレートの使用比率を巡る意見交換が始まった。
甘さ控えめ派。
チョコレート多め派。
生地の味を重視する派。
そして、チョコレートは多ければ多いほどよいと主張する、葬送の一派。
彼らは、まだ知らない。
次に透が何気なく口にするであろう一言が、さらに新たな騒動を引き起こすことを。
何しろ、菓子作りには、まだケーキが残っている。
そしてケーキには、誕生日というものがある。
誰かの誕生日を祝う。
ただ、それだけのことが。
灰都の裏社会にとって、どれほど難しく、どれほど温かい出来事になるのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




