第22話 店主が「お土産は、渡したい人に渡せばいいんですよ」と言った結果、灰都の裏社会で贈答品を巡る極秘会議が始まりました
温泉旅行の帰り道。
朝霧透は、旅館の玄関先に並べられた土産物の棚を眺めていた。
湯上がりの身体には、まだ心地よい温もりが残っている。
昨夜は久しぶりによく眠れた。
仕事のことを考えず、誰かの機嫌をうかがわず、何かを成し遂げる必要もない。
ただ温泉に入り、食事をして、夜空を眺めた。
それだけのことが、思いのほか楽しかった。
「……温泉って、いいものですね」
透がしみじみと呟くと、隣に立っていた鷹宮宗一郎が静かに頷いた。
「そうだな」
「また来たいですね」
「……ああ」
その返事には、普段の鷹宮が持つ威圧感がなかった。
大企業の頂点に立つ男でも、裏社会に名を轟かせる男でもなく、単純に温泉を気に入った客の顔だった。
透は満足そうに笑うと、棚の一角に視線を移した。
「お、温泉まんじゅうだ」
黒い箱に金色の文字。
小豆の甘い香り。
箱の横には、湯気の立つ温泉まんじゅうの写真が印刷されている。
透は一つ手に取った。
「お土産に買っていこうかな」
その瞬間。
背後にいた六人の空気が、わずかに変わった。
王冠が眼鏡の位置を直す。
黒百合が棚を見渡す。
葬送が、まんじゅうの箱を手に取ろうとして途中で止まる。
道化師は、なぜか腕時計を確認した。
渡り烏だけが、深いため息をついた。
零は透の手元を見ていた。
「……店主」
王冠が慎重に口を開く。
「その土産物は、誰に渡す予定だ?」
「え? うーん……店のお客さんとか、いつもお世話になっている人とかですかね」
透は箱の裏側を確認した。
「祖父も、温泉に行くとよく買ってきてくれたんですよ。店に置いておくと、常連さんが喜んでくれて」
その言葉に、渡り烏の表情が少しだけ柔らかくなった。
彼はかつての店主を知っている。
祖父は特別な贈り物をする人ではなかった。
高価な品物も、意味深な手紙も、相手を縛るような約束も渡さなかった。
ただ、帰り際に小さな菓子を手渡した。
それだけだった。
それだけなのに、何年も忘れられなかった者がいる。
「……そうか。あの人も、よく買っていたな」
渡り烏が懐かしそうに呟いた。
「ええ。僕も好きなんです」
透は笑った。
「お土産って、渡すのも楽しいですからね」
王冠の眉が、ぴくりと動いた。
道化師が顔を上げた。
黒百合が目を細めた。
鷹宮だけが、嫌な予感を覚えた。
そして、その予感は正しかった。
*
「贈答対象の選定基準を確認したい」
帰りの列車に乗る前、王冠が真剣な顔で言った。
「……何の話ですか?」
「土産物だ」
「まんじゅうの?」
「そうだ」
透は少し考えた。
「好きな人に渡せばいいんじゃないですか?」
王冠は沈黙した。
黒百合が小さく息を呑んだ。
道化師の手から、携帯端末が滑り落ちかけた。
葬送は、なぜか拳を握り締めた。
鷹宮は目を閉じた。
「……店主。それは、つまり」
王冠の声が低くなる。
「相手との関係性によって、渡す品と数量を変える必要はない、ということか?」
「え? いや、相手が甘いものを好きかどうかくらいは考えますけど」
「相手の好みに合わせる」
「そうですね」
「しかし、相手によって品物を変えることが、特別な意味を持つ場合もある」
「まあ、ありますよね」
「同じ品物を複数の相手に渡した場合、そこに序列はないと考えていいのか?」
「……え?」
透は、手元のまんじゅうを見た。
王冠は真剣だった。
黒百合も真剣だった。
道化師は、すでに何かの資料を作り始めていた。
鷹宮は額に手を当てた。
「王冠」
「何だ」
「まんじゅうだぞ」
「理解している」
「本当にか?」
「当然だ」
王冠は胸を張った。
「だが、贈り物という行為には、相手に対する認識と意思が反映される。軽視することはできない」
「……そうだな」
鷹宮は否定しなかった。
実際、彼らの世界では、贈り物は単なる贈り物では済まないことがある。
誰が誰に何を渡したか。
それを受け取ったか。
返礼をしたか。
どのような包装で、どのような言葉を添えたか。
小さな違いが、時には組織同士の関係を左右する。
だが。
「好きだから渡す。それだけでいいんじゃないですか?」
透が首を傾げた。
全員が、黙った。
「もちろん、相手が困るようなものは避けますけど。おいしいものを食べてほしいとか、喜んでもらえたらいいなとか。そういう気持ちで十分だと思います」
透は、何でもないことのように言った。
「お返しが欲しくて渡すわけじゃないですし」
その言葉は、彼らの世界では、少しばかり珍しかった。
贈り物には、しばしば代価がつく。
借りを作るため。
相手を喜ばせるため。
味方につけるため。
あるいは、断りにくい関係を作るため。
何かを渡せば、何かが返ってくる。
そういう仕組みの中で生きてきた者たちにとって、見返りを求めない贈り物は、意外なほど扱いに困るものだった。
王冠は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……なるほど」
その目に、何かを理解したような光が宿った。
「見返りを前提としない贈答。それは、相手に負債を負わせないための配慮なのだな」
「え? いや、そんな大層なものじゃ……」
「返礼の義務を発生させず、受け取る側の自由を残す」
「王冠さん?」
「贈り物を、取引から切り離すということか」
道化師が、ものすごい勢いで端末に文字を打ち込んだ。
「新たな関係構築の原則……いや、そもそも関係を構築する意図すら必要ないのか。相手を変えようとせず、ただ喜んでほしいと願う……」
「道化師さん、まんじゅうですよ?」
「分かっている」
道化師は真顔だった。
「だからこそ、恐ろしい」
「何がですか!?」
透には、まったく分からなかった。
*
その日の午後。
灰都の裏社会にある、とある会議室。
普段なら、利権や情報、組織間の協定について話し合われる場所に、場違いな資料が並んでいた。
資料の表題は、こうである。
『温泉旅行における土産物の購入および配布方針について』
参加者たちは、誰一人として笑っていなかった。
「まず、確認する」
情報管理部門の責任者が立ち上がった。
「朝霧透氏は、土産物を購入する意向を示した。その目的は、日頃世話になっている者への感謝、および自身が気に入った菓子を共有することと推測される」
「推測ではなく、本人がそう言っていたのでは?」
「発言の一部は確認済みだ。しかし、対象者の全容は不明だ」
「……まさか、全員に配るのか?」
誰かが呟いた。
会議室が静まり返る。
灰都には、複数の大きな勢力が存在する。
そのうちの六つは、表向きの企業活動とは別に、裏社会の情報や人員、資金の流れに深く関与していた。
そして、彼らの頂点に立つ者たちが、現在、同じ温泉まんじゅうの問題に直面していた。
「仮に全員に同一の品を配布した場合、特定の組織を優遇していないことの表明となる」
「しかし、配布対象に漏れがあった場合は?」
「意図的な排除と受け取られる可能性がある」
「では、全勢力に同数を配布すればいいのでは?」
「人数が異なる」
「人数に応じて数量を調整するべきだ」
「いや、人数に応じて調整すれば、規模の大きい組織ほど多く受け取ることになる。それを優位性の表明と解釈される可能性がある」
「では、一人一個か?」
「家族分はどうする」
「家族?」
そこで、全員が黙った。
誰かが小さく呟く。
「……朝霧氏には、家族や友人もいるのではないか?」
その一言が、会議室にさらなる沈黙をもたらした。
彼らは、透が普通の青年であることを知っている。
知っているはずだった。
それでも、彼の何気ない行動が、いつも想定外の方向へ波及する。
だからこそ、今回も考えずにはいられなかった。
「結論を急ぐな」
議長が言った。
「現時点で確認できるのは、本人が土産物を好み、誰かに渡したいと考えていることだけだ」
「では、我々はどう対応する?」
「……待機だ」
「待機?」
「本人から何も求められていない。勝手に介入するな」
その言葉に、数人が顔を上げた。
それは、以前なら考えられない判断だった。
朝霧透の意図を推測し、先回りして準備し、失敗の可能性を潰す。
それが彼らの常識だった。
しかし、温泉旅行を経て、少しずつ変わった者もいた。
結果が出なくても、怒られない。
何かを与えられても、必ず返す必要はない。
そして、頼まれていないことまで背負う必要もない。
議長は、資料を閉じた。
「各勢力とも、通常業務に戻れ。まんじゅうの件は、本人の行動を待つ」
会議は終了した。
その直後。
出席者の一人が、個人的なメッセージを送った。
『帰りに菓子を買って帰る。家の者にも食べさせたい』
返信は、数秒で届いた。
『珍しいな。何かあったのか?』
『いや。少し、食べてほしいと思っただけだ』
彼は、その返信を見つめた。
理由は、それだけでよかった。
*
一方、帰りの列車。
透たちは、まだ土産物売り場にいた。
「……店主」
零が、控えめに声をかけた。
「はい?」
「お土産は、誰に渡すの?」
「そうですねえ」
透は棚を眺めた。
「店に来てくれる人たちと……祖父の知り合いで、今もたまに顔を出してくれる人がいるんですよ。その人にも渡そうかな」
「……おじいさんの知り合い」
「はい。昔からお店に来てくれていた人です。最近は忙しいみたいで、あまり会えないんですけどね」
透は少し笑った。
「こういうものがあれば、久しぶりに会うきっかけにもなるかなって」
零は、何も言わなかった。
ただ、その言葉を大事にしまうように、静かに頷いた。
黒百合が横から尋ねた。
「あなた自身は、誰かに渡さないの?」
「僕ですか?」
「そう。自分が好きなものなら、自分で食べてもいいでしょう」
「ああ、もちろん食べますよ」
透は即答した。
「お土産を買って、自分の分を忘れたら悲しいですからね」
黒百合は、思わず笑った。
「……そういうところよね」
「え?」
「何でもないわ」
その笑顔は、普段の彼女からすれば、少しだけ無防備だった。
葬送が、山のような土産物の箱を抱えて戻ってきた。
「店主。これだけあれば足りるか?」
「……葬送さん、それ全部買うんですか?」
「全員に渡すなら、これくらい必要かと思った」
「いや、そんなにたくさんは……」
「足りないか?」
「足りない以前に、多すぎます!」
葬送は、抱えた箱を見下ろした。
「……そうか」
少しだけ肩を落とす。
その様子を見て、透は慌てて言った。
「でも、ありがとうございます。みんなのことを考えてくれたんですよね?」
「……ああ」
「嬉しいですよ。ただ、買いすぎると食べきれなくなっちゃいますから。必要な分だけで大丈夫です」
「必要な分……」
葬送は、真剣に考え込んだ。
「……分かった。数を減らそう」
彼は箱を棚に戻し始めた。
その動きは、普段、敵対組織の武装を解除するときよりも慎重だった。
王冠が隣で頷く。
「適量を見極めることも重要だな」
「王冠さんも、まさか買いすぎていませんよね?」
「当然だ」
透が安堵しかけた、そのとき。
「俺は三十個だ」
「多いです!」
「配布先の数を想定した結果だ」
「そんなに配る相手がいるんですか!?」
「……必要な相手は、いる」
王冠は、それ以上説明しなかった。
透は困ったように笑った。
「まあ、無理のない範囲でお願いしますね」
王冠は頷いた。
そして、購入予定数を三十個から十二個に変更した。
彼にとっては、かなり大きな譲歩だった。
*
土産物売り場の隅で、渡り烏は一人、古い携帯端末を見つめていた。
画面には、何年も前の連絡先が表示されている。
かつて、彼が何度も助けられた人物だった。
裏社会の仕事を離れ、今は地方で小さな食堂を営んでいるという。
最後に連絡を取ったのは、三年ほど前だ。
互いに忙しかった。
何を話せばいいのか分からず、連絡は途絶えたままだった。
「……どうしたんですか、渡り烏さん?」
透が隣に立った。
「いや、昔の知り合いを思い出してな」
「そうなんですか」
「随分と長いこと、連絡していない」
「じゃあ、連絡してみたらどうですか?」
渡り烏は、苦笑した。
「今さら何を話せばいいのか分からんよ」
「お土産を買ったから、よかったら食べてください、じゃ駄目ですか?」
あまりにも簡単な答えだった。
渡り烏は、画面を見たまま動かなかった。
昔の彼なら、連絡する理由を探しただろう。
仕事上の必要性。
情報交換の利点。
相手にとっての利益。
連絡を取ることで生じる義務。
そうしたものを考え、条件が整わなければ動かなかった。
けれど。
「……それだけで、いいのか」
「いいと思いますよ。久しぶりに話したいなら、それで十分じゃないですか?」
渡り烏は、しばらく黙った。
やがて、画面を操作する。
『久しぶりだな。今度、そちらに顔を出してもいいか? 温泉まんじゅうを買ったんだ。甘いものが苦手でなければ、持っていきたい』
送信。
数秒後、返信が来た。
『お前がまんじゅう? 何か悪いことでもしたのか?』
渡り烏は、声を出して笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
『していない。たまには普通に会いたいだけだ』
返信は、すぐに届いた。
『なら、いつでも来い。茶くらい出してやる』
渡り烏は、携帯端末を胸ポケットにしまった。
「……ありがとう、店主」
「え? 僕、何かしました?」
「いや。大したことではない」
そう言って、渡り烏は土産物の箱を一つ手に取った。
「ただ、久しぶりに会いに行く理由ができただけだ」
透は、嬉しそうに笑った。
「それはよかったです」
*
その頃、零もまた、棚の前で迷っていた。
彼女が手に取ったのは、小さな箱だった。
他のものより少しだけ安く、包装も簡素だった。
けれど、箱にはかわいらしい絵が描かれている。
「……零さん、それにするんですか?」
透が尋ねると、零は小さく頷いた。
「……うん」
「誰に渡すんですか?」
「……」
零は答えなかった。
視線を落とし、箱を両手で持ち直す。
「……まだ、決めてない」
「そうですか」
透は、無理に聞かなかった。
「渡したくなったら、渡せばいいと思いますよ」
「……渡さなくても?」
「もちろんです。自分で食べてもいいですし」
零は、箱を見つめた。
彼女は長い間、誰かに何かを渡すことに慣れていなかった。
必要なものを用意する。
命令されたものを届ける。
仕事に必要な情報を渡す。
そういうことなら、いくらでもできた。
しかし、ただ誰かに喜んでほしくて、何かを渡す。
相手が受け取らなくても、理由を説明しなくてもいい。
そんな行為は、彼女にとって未知のものだった。
「……渡したら、迷惑じゃないかな」
零が、小さな声で尋ねた。
透は少し考えた。
「相手が苦手なものだったら、困るかもしれませんね」
「……うん」
「でも、相手のことを考えて選んだものなら、きっと気持ちは伝わると思いますよ。受け取るかどうかは相手が決めることですし」
零は、静かに顔を上げた。
「……断られても?」
「ええ。断る自由もありますから」
「……それでも、渡していい?」
「もちろんです」
零は、しばらく透を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……買ってみる」
「いいですね」
透は、それ以上何も言わなかった。
零もまた、何も言わなかった。
ただ、彼女が選んだ小さな箱は、先ほどより少しだけ大切なものに見えた。
*
灰都へ戻った翌日。
CAFE 灯のカウンターには、温泉まんじゅうの箱が置かれていた。
透が買ってきたものだ。
「皆さんも、よかったら食べてくださいね」
店主がそう言うと、六人は一斉に箱を見た。
「……いただいてもいいのか?」
王冠が確認する。
「もちろんですよ。お土産なんですから」
「代金は?」
「いりませんよ! お土産ですから!」
王冠は、まんじゅうを一つ手に取った。
そして、慎重に包装を開けた。
「……なるほど」
「何がですか?」
「見返りを求めずに渡されたものを受け取る、という経験だ」
「王冠さん、普通に食べてください」
黒百合が吹き出した。
葬送は、まんじゅうを一口食べて、真剣な顔で頷いた。
「……うまい」
「よかったです」
「店主。これは、温めてもいいのか?」
「温めるとおいしいものもありますけど、これはそのままでも大丈夫ですよ」
「そうか……」
葬送は、残りのまんじゅうをじっと見つめた。
「……料理に使えるだろうか」
「使わなくていいです!」
道化師は、すでに二つ目を手に取っていた。
「興味深いな。皮の食感と餡の甘さの比率が……」
「道化師さん、分析しなくても大丈夫ですよ」
「いや、これは重要な知見だ」
「ただのお菓子です!」
店内に笑い声が広がる。
鷹宮は、温かい茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
誰かが誰かに贈り物をする。
それを受け取った者が、素直に喜ぶ。
そこに、条件も交渉も、将来の利益も必要ない。
そんな時間が、彼らには少しずつ増えていた。
「……店主」
鷹宮が声をかけた。
「はい?」
「一つ、持ち帰ってもいいだろうか」
「もちろんです。気に入ってもらえたなら、嬉しいですよ」
鷹宮は頷いた。
そして、まんじゅうを一つ、丁寧に箱へ戻した。
持ち帰る相手の顔を思い浮かべる。
いつも自分の予定を気にして、食事の時間さえ遠慮がちに尋ねてくる秘書。
長年、仕事の成果だけを見てきた部下たち。
彼らにも、これを食べてほしいと思った。
ただ、それだけだった。
「……そうか」
鷹宮は、静かに呟いた。
「渡したいと思った相手に、渡せばいいのだな」
「ええ。そうですよ」
透は、いつもの調子で答えた。
「ただし、食べ物なので、賞味期限には気をつけてくださいね」
「……ああ」
鷹宮は、真剣に頷いた。
その日の夕方。
鷹宮の会社では、秘書が小さな紙袋を受け取った。
「会長、こちらは?」
「土産だ」
「……お土産、ですか?」
「温泉まんじゅうだ。食べるといい」
秘書は、しばらく紙袋を見つめていた。
会長から菓子を渡されたことなど、記憶にない。
「……ありがとうございます」
「うむ」
鷹宮は、それ以上説明しなかった。
秘書は紙袋を抱えたまま、頭を下げた。
そして、会長が執務室に入ったあと、小さく笑った。
その日、彼女は久しぶりに、仕事とは関係のない理由で誰かに感謝した。
*
その夜。
灰都情報管理連絡会には、一件の報告が届いた。
報告書の内容は簡潔だった。
『各勢力の関係者において、個人的な菓子の贈答が複数確認された。現時点で、組織間の対立や不審な資金移動との関連は認められない』
担当者は、報告書を読んだ。
読み直した。
もう一度、読んだ。
「……菓子?」
「温泉まんじゅうだそうです」
「なぜ、そんな報告が上がってくる?」
「各勢力の上層部が、普段なら贈答品一つにも確認を求めるため、念のため記録したとのことです」
「……そうか」
担当者は、深く椅子にもたれた。
以前なら、こうした動きはすぐに政治的な意図と結びつけられた。
誰かが誰かに何かを渡す。
そこには必ず、理由があるはずだ。
理由が分からなければ、調査しなければならない。
しかし、今回の報告には、妙な一文が添えられていた。
『関係者の一部は、単純に相手に喜んでほしかったためと説明している』
担当者は、その文章をしばらく眺めた。
「……調査は不要だ」
「よろしいのですか?」
「本人たちが渡したくて渡し、受け取った側も納得している。何の問題がある?」
「……ありません」
「なら、記録だけ残して終了だ」
担当者は報告書を閉じた。
それから、机の隅に置かれた自分の昼食を見た。
今日は忙しく、まだ食べていなかった。
いつもなら、仕事が終わるまで後回しにするところだ。
だが、彼は時計を確認し、昼食の包みを開けた。
誰かに評価されるためでもない。
仕事の効率を上げるためでもない。
ただ、腹が減っていたからだ。
「……うまいな」
誰も聞いていない部屋で、彼は呟いた。
*
翌朝。
CAFE 灯の開店準備をしていた透は、カウンターの上に小さな箱が置かれていることに気づいた。
「……あれ?」
見覚えのある包装だった。
温泉まんじゅうの箱ではない。
薄い紙に包まれた、小さな菓子箱だ。
その横には、短いメモが添えられていた。
『この前、話を聞いてくれてありがとう。今度は私から。よかったら食べてください』
差出人の名前は書かれていない。
けれど、透には心当たりがあった。
以前、店で悩みを打ち明けてくれた客だ。
透は、メモを丁寧に折りたたんだ。
「……そっか」
小さく笑う。
返礼を求めたことはない。
お礼を言われることすら、期待していなかった。
ただ、あの人が少しでも気持ちを軽くできたなら、それでよかった。
それでも、こうして何かを渡してもらえると、やっぱり嬉しかった。
「皆さん、これ、あとで一緒に食べませんか?」
透が振り返ると、六人がこちらを見ていた。
王冠が頷く。
「……そうだな」
黒百合が微笑む。
「いいんじゃない?」
葬送は、すでに皿を取りに向かっていた。
「人数分、用意しておく」
「葬送さん、まだ箱を開けていません!」
道化師は、メモを見ないように視線を逸らしていた。
渡り烏は、何も言わずに茶を淹れ始めた。
零は、少し迷ってから、小さな包みをカウンターの上に置いた。
「……店主」
「はい?」
「……これ」
透は、包みを見た。
零が昨日、土産物売り場で選んだものだった。
「……私から」
その声は、小さかった。
「……いつも、ありがとう」
透は、驚いたように目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと笑った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
零は、わずかに肩の力を抜いた。
断られなかったからではない。
高価なものだったからでもない。
自分が渡したいと思ったものを、自分の意思で渡せた。
そして、それを受け取ってもらえた。
その事実が、何より嬉しかった。
「……よかった」
零は、そう呟いた。
透は、包みを大切にカウンターの内側へ置いた。
「じゃあ、あとで一緒に食べましょうか」
「……うん」
朝の光が、店の窓から差し込んでいた。
コーヒーの香りが広がる。
誰かが茶を淹れ、誰かが皿を並べ、誰かが椅子を引く。
そこには、特別な儀式も、秘密の約束もなかった。
ただ、誰かが誰かを思い、何かを渡す。
そして、受け取った側が、嬉しいと伝える。
それだけのことだった。
透は、ふと祖父のことを思い出した。
昔、祖父はよく言っていた。
――人に何かを渡すときは、相手が受け取ってくれたことを喜びなさい。
――受け取ってもらえなかったときは、相手の事情を考えなさい。
――どちらにしても、自分の気持ちを相手に押しつけてはいけないよ。
当時の透は、その意味を深く考えたことがなかった。
けれど今なら、少しだけ分かる気がした。
誰かに何かを渡すことは、相手を自分の思いどおりにするためではない。
自分の気持ちを、ほんの少しだけ相手のそばに置いてくることなのだ。
それを受け取るかどうかは、相手が決める。
だからこそ、受け取ってもらえたときは嬉しい。
「……さて」
透は、エプロンの紐を結び直した。
「今日も、お店を開けましょうか」
六人が、それぞれ頷いた。
その日の昼、灰都の裏社会では、各勢力の幹部が妙に機嫌よく仕事をしていた。
誰かは家族に菓子を渡し。
誰かは昔の友人に連絡を取り。
誰かは、いつも厳しく接していた部下に「たまには甘いものでも食べろ」と菓子を差し出した。
受け取った者たちは戸惑い、疑い、そして少しだけ笑った。
もちろん、一部では相変わらず、贈答品の意味を分析する会議が開かれていた。
ただし、議題は少し変わっていた。
『相手に負担を感じさせず、自然に感謝を伝える方法について』
その会議の結論は、意外にも簡単だった。
――まずは、相手に聞いてみよう。
そして、無理に渡さなくてもいい。
受け取ってもらえたなら、素直に喜ぼう。
それだけだった。
灰都の裏社会が、たった一箱の温泉まんじゅうから何を学んだのか。
その全容を知る者は、まだ誰もいない。
ただ、CAFE 灯の店主だけは、そんなことをまるで知らずに、いつものようにコーヒーを淹れていた。
「……あ、そうだ」
透が思い出したように顔を上げた。
「今度は、みんなでお菓子を作るのも楽しそうですね」
六人の手が止まった。
王冠が、ゆっくりと眼鏡を外す。
道化師が、無言で端末を閉じた。
葬送は、厨房のほうを見た。
黒百合は、こめかみを押さえた。
渡り烏は、深く息を吐いた。
零だけが、少しだけ目を輝かせた。
「……お菓子」
透は笑った。
「ええ。クッキーとか、ケーキとか。みんなで作ったら、きっと楽しいですよ」
王冠は、静かに立ち上がった。
「……必要な道具を確認する」
「王冠さん、まだ決まってませんからね!?」
だが、その声はすでに届いていなかった。
灰都の裏社会に、新たな危機が迫っていた。
次に彼らが頭を抱えることになるのは、温泉まんじゅうでも、卵焼きでもない。
小麦粉とバターと、砂糖の分量である。
そして朝霧透は、今日もまだ知らない。
自分が何気なく口にした「みんなでお菓子を作ったら楽しそうですね」という一言が、灰都の六大勢力を巻き込む、前代未聞の共同製菓計画へと発展しようとしていることを。




