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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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21/57

第21話 店主が「温泉でゆっくりしたいですね」と言った結果、灰都の裏社会が旅館の予約を巡って全面戦争寸前になりました

 温泉旅行。


 その言葉には、不思議な響きがある。


 日々の疲れを癒やし、湯に浸かり、おいしいものを食べ、夜は布団に入って眠る。


 たったそれだけのことなのに、朝霧透にとっては、少しばかり特別な響きを持っていた。


 祖父が生きていた頃、二人で一度だけ温泉に行ったことがある。


 古びた旅館だった。


 豪華な設備があるわけでも、眺めが格別に美しいわけでもない。


 ただ、露天風呂のそばに大きな木が一本あり、夜になると、その枝の隙間から星が見えた。


 祖父は湯船に肩まで浸かりながら、こう言った。


『透。人間、たまには何もしない日が必要なんだ』


『何もしないと、もったいなくない?』


『そう思うなら、まだまだ働きすぎだな』


 祖父は笑っていた。


『何かを得るために休むんじゃない。休むこと自体を楽しめばいいんだ』


 当時の透には、その言葉の意味がよくわからなかった。


 だが、店を継いでから、少しだけわかるようになった気がする。


 誰かのために働くことは、楽しい。


 けれど、誰かのために働き続けることと、誰かと一緒に時間を過ごすことは、同じではない。


 だから、ふと思ったのだ。


 あの六人や鷹宮たちと、温泉に行ってみたい。


 きっと、楽しいだろう。


 温泉に入って、料理を食べて、のんびり過ごす。


 それだけでいい。


 それだけでいいはずだった。


     *


「……温泉旅行、ですか」


 翌朝。


 CAFE 灯のカウンターで、零が小さく呟いた。


「はい。みんなで行けたら楽しそうだなって」


 透はコーヒーを淹れながら答えた。


「もちろん、無理にとは言いませんよ。予定が合わない人もいるでしょうし、行きたい人だけで」


「……行きたいです」


「本当ですか?」


「はい」


 零は、迷わず頷いた。


 その表情は、いつもより少しだけ明るかった。


 温泉に行った経験はある。


 仕事の合間に、短時間だけ利用したこともある。


 しかし、誰かと旅行するために温泉へ行くという発想は、彼女にはなかった。


 目的があるわけでもない。


 任務があるわけでもない。


 ただ、楽しむために出かける。


 そのこと自体が、まだ少し不思議だった。


「……マスター」


「はい?」


「温泉では、何をすればいいのでしょうか」


「え?」


 透は、手を止めた。


「ええと……温泉に入って、ご飯を食べて、ゆっくりすればいいんじゃないですかね」


「……ゆっくり」


「はい。あとは、旅館の周りを散歩したり、お土産を見たり」


 零は、真剣な顔で頷いた。


「……わかりました」


 透は、少しだけ不安になった。


 零は、何かを理解したときほど、真面目になりすぎるところがある。


 以前も、休憩を取るように言ったら、休憩時間の効率的な使い方を調べ始めた。


 今回は大丈夫だろうか。


「零さん」


「はい」


「旅行中は、あまり予定を詰め込まなくていいですからね」


「……はい」


「本当に、ゆっくりするだけでもいいんですよ」


「……承知しました」


 零は、深く頷いた。


 透は安心した。


 少なくとも、本人はわかってくれたようだった。


 問題は、その話を聞いていた他の客たちである。


     *


「温泉旅行だと?」


 その日の昼。


 灰都の地下にある、非公開会議室。


 王冠は、情報管理連絡会から届いた報告書を見つめていた。


 報告書には、透の発言が記録されている。


『温泉とか、いいかもしれないなあ』


 たった一行だった。


 しかし、王冠にとっては、無視できない言葉だった。


「……旅行というものは、事前準備が重要だ」


 彼は静かに言った。


「移動時間、宿泊先、食事、入浴設備、周辺環境。最低限、それらを確認する必要がある」


「王冠」


 黒百合が口を挟んだ。


「まだ行く場所も決まっていないのよ」


「だからこそ、候補を用意する」


「候補を用意するのはいいけれど、選択肢を絞りすぎないで」


「……わかっている」


 王冠は、資料を一枚めくった。


 そこには、すでに候補となる旅館が三十軒ほど並んでいた。


 黒百合は、額に手を当てた。


「どこが、わかっているのよ」


 渡り烏が、資料を覗き込んだ。


「なるほど。移動時間を考えるなら、近場がいいだろうな」


「そうだな」


「ただし、人数によっては部屋の構成も変わる」


「それも確認済みだ」


「食事はどうする?」


「旅館の料理を基本とする」


「アレルギーや苦手な食材は?」


「確認する予定だ」


 道化師が、眼鏡を押し上げた。


「温泉旅行ということは、参加者が日常の役割から離れるための環境が必要になる。つまり、職務上の連絡が入りにくい場所が望ましい」


「……携帯電話の電波が弱い場所ということか?」


 葬送が尋ねた。


「いや、完全に連絡が取れなくなるのは問題だ。緊急連絡手段は確保しつつ、通常業務から距離を置ける場所がいい」


「ならば、山奥の旅館か」


「山奥にも種類がある。交通の便が悪すぎると、それ自体が負担になる」


 黒百合は、机を指で叩いた。


「ちょっと待って。あなたたち、何をそんなに真剣に話しているの?」


 全員が彼女を見た。


「温泉旅行よ。仕事じゃないの」


「わかっている」


 王冠が答えた。


「だからこそ、仕事のように扱わないよう注意している」


「……もう仕事みたいになっているじゃない」


 誰も反論できなかった。


 そのとき、会議室の扉が開いた。


 鷹宮宗一郎が入ってきた。


「話は聞いた」


 全員が立ち上がる。


「会長」


「座れ。温泉旅行の件だろう」


 鷹宮は資料を受け取り、目を通した。


 旅館の一覧。


 移動経路。


 部屋割りの案。


 食事の希望。


 緊急時の連絡方法。


 そして、最後のページには、なぜか温泉地周辺の医療機関まで記載されていた。


 鷹宮は資料を閉じた。


「……これは誰が作った」


「王冠です」


 全員が即答した。


「おい」


 王冠が眉を寄せた。


 鷹宮は、深く息を吐いた。


「必要な確認をするのはいい。だが、本人の希望も聞かずに決めるな」


「承知しています」


「それから、忘れるな」


 鷹宮は、静かに続けた。


「我々が旅行をするのは、温泉地を制圧するためでも、旅館の経営状況を調べるためでもない」


「……はい」


「休むためだ」


 その言葉に、会議室が静まり返った。


 鷹宮は、自分自身にも言い聞かせるように続けた。


「楽しむことを、成果にするな」


 それは、透が何度も口にしてきた言葉に、少しだけ似ていた。


 誰かに評価されるためではない。


 何かを達成するためでもない。


 ただ、そこで過ごすこと自体を楽しめばいい。


 王冠は、資料を見つめた。


「……では、候補を三軒程度に絞り、店主に選んでもらう」


「そうしてくれ」


「ただし、部屋割りについては――」


「王冠」


「……わかった」


 王冠は、口を閉じた。


 その日の会議は、ようやく終わった。


 もっとも、彼らがまだ知らないことがあった。


 旅館という場所では、予約を取ることよりも、もっと難しい問題が待ち受けている。


 それは、浴衣の着方でも、食事の作法でもない。


 誰が、どの風呂に、いつ入るのか。


 そして、六人の伝説は、その問題に対しても、常人とは違う答えを出そうとしていた。


     *


 翌日。


 透は、王冠から三枚の資料を受け取った。


「……ええと、これは?」


「温泉旅行の候補地だ」


「もう調べてくれたんですか?」


「いくつか条件を確認しただけだ」


 透は、資料をめくった。


 どの旅館も、落ち着いた雰囲気で、食事がおいしそうだった。


 一軒目は、山あいの小さな温泉宿。


 二軒目は、湖のそばにある旅館。


 三軒目は、古い町並みが残る温泉街の宿だった。


「どれも良さそうですね」


「店主の希望を優先したい」


「うーん……」


 透は、三枚の写真を見比べた。


 そして、二軒目を指さした。


「ここ、いいですね。湖が見えるんでしょう? 散歩もできそうですし」


「承知した」


 王冠は、即座にメモを取った。


「では、ここを第一候補として確認する」


「ありがとうございます」


「礼には及ばない」


 王冠は、資料を片づけた。


 透は、その様子を見て笑った。


「王冠さんも、楽しみなんですね」


 その言葉に、王冠の手が止まった。


「……そう見えるか」


「はい。いつもより、ちょっとだけ嬉しそうです」


「……そうか」


 王冠は、少しだけ目を伏せた。


 彼は、これまで多くの旅行を経験してきた。


 しかし、そのほとんどは仕事だった。


 交渉のための訪問。


 組織間の会談。


 重要人物との接触。


 観光をしたことはあっても、旅行そのものを楽しんだ記憶は、ほとんどない。


「……私も、楽しみにしているのかもしれないな」


 王冠は、ぽつりと呟いた。


 透は、嬉しそうに笑った。


「それなら、よかったです」


 その笑顔を見て、王冠は思った。


 この旅行では、何かを成し遂げる必要はない。


 店主に評価される必要もない。


 ただ、彼らと一緒に温泉に入り、食事をし、眠る。


 それだけでいいのだ。


 ――そう、頭では理解していた。


 しかし、その日の夕方。


 王冠は、旅館から届いた予約確認の連絡を受けて、ひとつの問題に直面することになる。


 参加人数が、想定よりも多かったのである。


     *


「……二十七名?」


 王冠は、電話口の相手に聞き返した。


『はい。先ほど、鷹宮様の関係者の方から追加のご相談がありまして』


「……少し待ってほしい」


 王冠は、電話を保留にした。


 そして、部屋の中を見回した。


 黒百合がいた。


 葬送がいた。


 道化師がいた。


 渡り烏がいた。


 零がいた。


 鷹宮もいた。


「……誰が増やした」


 沈黙。


 やがて、鷹宮が口を開いた。


「私の部下が、同行を希望したようだ」


「何人だ」


「十人ほど」


「……十人」


 王冠は、ゆっくりと目を閉じた。


「なぜだ」


「私が旅行に参加することを知り、休暇を申請した者がいる」


「それは、本人の希望なのか?」


「そうだ」


 鷹宮は、少し考えた。


「普段、まとまった休みを取らない者たちだ。今回を機に、休暇を合わせたいのだろう」


「……なるほど」


 王冠は、納得しかけた。


 しかし、すぐに別の問題に気づいた。


「待て。全員が、店主と一緒に旅行するつもりなのか?」


「そのようだ」


「……店主は、九人程度を想定していたはずだ」


 黒百合が、静かに頷いた。


「そうね。大人数になれば、落ち着いて過ごせなくなるかもしれない」


 渡り烏が言った。


「参加したい者がいること自体は悪くない。だが、本人の希望を確認する必要がある」


「……そうだな」


 王冠は、電話の保留を解除した。


「申し訳ない。予約については、いったん保留にしてほしい」


 そして、透のもとへ向かった。


     *


「……二十七人ですか?」


 透は、目を丸くした。


「はい。参加を希望する者が増えている」


 王冠は、慎重に言葉を選んだ。


「ただし、人数を増やすことが目的ではない。君が望む人数で決めてほしい」


 透は、少し考えた。


 確かに、大人数の旅行は楽しそうだ。


 しかし、人数が多くなれば、移動も食事も大変になる。


 旅館の予約も、簡単ではないだろう。


「うーん……」


 透は、カウンターに肘をついた。


「僕としては、みんなが無理なく楽しめるのが一番です」


「……そうだな」


「参加したい人がいるなら、別の日に行くのもいいんじゃないですか?」


 王冠は、顔を上げた。


「別の日?」


「はい。今回、全員で行けなくても、また行けばいいですし。人数が多いなら、何回かに分けてもいいと思います」


 透は、笑った。


「せっかくの旅行なんですから、予約の都合で誰かが無理をしたり、予定を合わせるために仕事を詰め込んだりするのは、もったいないですよ」


 王冠は、静かに頷いた。


 また、同じことを教えられた。


 全員を一度に満足させようとしなくてもいい。


 すべてを一回で済ませる必要もない。


 今回が駄目なら、次がある。


 その考え方は、彼にとって新鮮だった。


「……わかった。まずは当初の参加者を中心に、無理のない人数で計画する」


「はい。ありがとうございます」


「こちらこそ」


 王冠は、少しだけ笑った。


 その後、鷹宮は部下たちに連絡を入れた。


 今回の旅行は、当初の参加者を中心に行う。


 参加できなかった者は、別の機会に休暇を取る。


 仕事の都合で無理に予定を詰め込む必要はない。


 連絡を受けた部下たちは、驚いた。


 会長が、旅行の日程を優先するのではなく、休暇そのものを優先したからだ。


 その結果、鷹宮グループでは、複数の部署が交代で休暇を取得する制度について、本格的な検討が始まった。


 ただし、今回の旅行に参加する者たちは、まだ知らない。


 自分たちの温泉旅行が、社内制度の見直しにつながり始めていることを。


     *


 旅行当日。


 灰都駅の改札前に、九人が集まっていた。


 透。


 王冠。


 黒百合。


 葬送。


 道化師。


 渡り烏。


 零。


 そして鷹宮宗一郎。


 人数を数えた透は、少し不思議そうに首を傾げた。


「……あれ? みんな、荷物少ないですね」


 王冠は、自分の鞄を持ち上げた。


「必要なものだけにした」


「そうなんですね。僕も、着替えと歯ブラシくらいです」


「……それで足りるのか?」


「え? 足りますよね?」


 王冠は、言葉に詰まった。


 彼の鞄には、旅程表、予備の充電器、薬、折り畳み傘、予備の衣類、各種連絡先、そして緊急時の対応手順が入っていた。


 必要なものだけにしたつもりだった。


 しかし、透の鞄を見ると、自分の荷物が少し多いような気がしてきた。


「……まあ、足りなければ現地で買えばいいか」


 王冠は、初めてそう考えた。


 黒百合が、隣で笑った。


「成長したわね」


「……何の話だ」


「いいえ、何でもないわ」


 そのとき、葬送が大きな荷物を抱えて現れた。


「……葬送さん。それは?」


「着替えだ」


「大きくないですか?」


「念のため、余分に用意した」


 荷物の中には、着替えが数日分入っていた。


 さらに、なぜか包丁と調味料まであった。


「……料理する予定はありませんよ?」


「旅館で料理をすることはないだろう。だが、何かあったときのために」


「何かって、何ですか……」


 透は苦笑した。


 葬送は、少し考えたあと、包丁を鞄から取り出した。


「……これは置いていく」


「はい。そうしましょう」


 道化師は、スマートフォンを確認していた。


「移動時間は約二時間。到着後、旅館まで徒歩で十分。チェックインまでの時間は――」


「道化師さん」


 透が声をかけた。


「はい?」


「電車の中で、景色を見ませんか?」


「……景色?」


「はい。せっかくですから」


 道化師は、少しだけ考えた。


 そして、スマートフォンをしまった。


「……そうだね」


 渡り烏は、その様子を見て微笑んだ。


 鷹宮は、時計を確認しようとして、やめた。


 零は、切符を握りしめながら、少しだけ緊張していた。


 旅行は、始まったばかりだ。


 何か特別なことをする必要はない。


 ただ、みんなと一緒に移動する。


 それだけでいい。


「では、行きましょうか」


 透が言った。


 全員が頷いた。


     *


 電車の窓から、灰都の街並みが遠ざかっていく。


 高層ビルが小さくなり、住宅街が流れ、やがて緑が増えていった。


「……きれいですね」


 零が、窓の外を見ながら呟いた。


「そうですね」


 透は笑った。


「このあたり、僕も久しぶりに来ました」


 道化師は、景色を見ながら何かを考えていた。


 しかし、今度はノートを開かなかった。


 王冠は、予定表を確認しなかった。


 鷹宮は、部下からの連絡を確認しなかった。


 黒百合は、全員の様子を見回すことをやめた。


 ほんの少しずつ。


 彼らは、いつもの習慣から離れ始めていた。


 やがて、電車が山あいの駅に到着した。


 駅を出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。


 遠くには、湖が見える。


 旅館へ向かう道の途中には、小さな店が並んでいた。


「……いいところですね」


 透が言った。


 その声を聞いて、零は嬉しそうに頷いた。


「はい」


 葬送は、周囲を見回していた。


「……この辺りは、静かだな」


「温泉街ですからね」


 渡り烏が答えた。


「観光客もいるが、都会ほど騒がしくはない」


 鷹宮は、深く息を吸い込んだ。


「……悪くない」


 彼は、普段なら気にも留めないような風の匂いを感じていた。


 木々の香り。


 温泉の湯気。


 どこかの店から漂う、焼きたての菓子の匂い。


 仕事のことを考えなくても、時間は流れていく。


 何かを決めなくても、道は続いている。


 その当たり前のことが、妙に心地よかった。


     *


 旅館に到着した一行は、女将に迎えられた。


「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですね」


「はい。本日から一泊で予約した、朝霧です」


 透が答えた。


 女将は、柔らかく微笑んだ。


「お待ちしておりました。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」


 その言葉を聞いた瞬間、六人の伝説は、なぜか一斉に姿勢を正した。


 鷹宮まで、わずかに背筋を伸ばした。


 女将は、一瞬だけ目を瞬かせた。


「……あの、何かございましたか?」


「いえ」


 王冠が、静かに答えた。


「本日は、休暇を楽しみに参りました」


「それは何よりです」


 女将は、笑顔で頷いた。


 透は、少しだけ安心した。


 普通に挨拶ができた。


 少なくとも、今回は何も起きていない。


 そう思った。


 だが、問題はその直後に発生した。


「お部屋は、こちらの和室を二部屋ご用意しております」


 女将が案内したのは、広い和室だった。


 一部屋には布団が四組。


 もう一部屋には、布団が五組。


 ごく普通の部屋割りだった。


 ところが、王冠が口を開いた。


「……部屋割りについて、少し相談してもよろしいでしょうか」


 透は、嫌な予感がした。


「王冠さん。普通に決めても大丈夫ですよ?」


「いや、しかし――」


「みんな、どこでもいいと思いますし」


 王冠は、言葉を飲み込んだ。


 黒百合が、笑いをこらえている。


 渡り烏が、肩をすくめた。


 道化師は、すでに部屋の広さを見て、布団の配置を考え始めていた。


 葬送は、畳を踏みしめて感心していた。


「……この床、気持ちいいな」


「畳ですからね」


 透は答えた。


「……なるほど」


 葬送は、なぜか納得した。


 零は、部屋の隅に置かれた座布団を見つめていた。


「……座布団」


「どうしました?」


「……家にも、こういうものがあったらいいと思いました」


「いいですね。今度、買いに行きましょうか」


「……はい」


 零は、嬉しそうに頷いた。


 鷹宮は、その会話を聞きながら、静かに笑った。


 旅行は、まだ始まったばかりだ。


 何も成し遂げなくてもいい。


 何も解決しなくてもいい。


 ただ、ここにいることを楽しめばいい。


 そう考えられるようになった自分を、彼は少しだけ誇らしく思った。


     *


 夕方。


 透たちは、温泉に入ることにした。


 もちろん、男女別の浴場である。


 王冠たちは男湯へ、黒百合と零は女湯へ向かった。


 ところが、脱衣所の前で、王冠が立ち止まった。


「……入浴時間は、どのくらいが適切だろうか」


 葬送が答えた。


「長く入れば、疲れが取れるのではないか」


「いや、長時間の入浴は身体に負担がかかる場合がある」


 道化師が、真面目な顔で説明した。


「湯温や体調によって適切な時間は異なる。無理をせず、のぼせる前に上がるべきだ」


 渡り烏が、ため息をついた。


「……君たち、温泉に来てまで議論するのか」


「議論ではない。確認だ」


 王冠が答えた。


「確認する必要があるのか?」


「安全のためだ」


「それなら、旅館の案内に従えばいいだろう」


 全員が、脱衣所の壁を見た。


 そこには、入浴時の注意事項が掲示されていた。


 湯に入る前に身体を洗うこと。


 長湯を避けること。


 体調が悪い場合は無理をしないこと。


 ごく普通の案内だった。


 王冠は、静かに頷いた。


「……わかった。案内に従おう」


 その頃、女湯では。


「……零さん」


 黒百合が声をかけた。


「はい」


「何をそんなに緊張しているの?」


「……温泉に入るのが、久しぶりなので」


「そうなの?」


「はい。以前は、必要なときに短時間だけ利用していました」


 黒百合は、少しだけ目を伏せた。


 零の言う「必要なとき」が、どんな時間だったのか。


 彼女には、想像できた。


 疲れを取るため。


 傷を洗うため。


 次の仕事に備えるため。


 そうした理由で入る温泉と、ただ楽しむために入る温泉は、きっと違う。


「今日は、何も考えなくていいのよ」


 黒百合は、柔らかく言った。


「のぼせないようにして、気持ちよかったら、少しゆっくりすればいい」


「……はい」


「それだけでいいの」


 零は、湯船に足を入れた。


 温かい湯が、ゆっくりと身体を包み込む。


「……あ」


 思わず、声が漏れた。


「気持ちいいでしょう?」


「……はい」


 零は、目を閉じた。


 肩から力が抜けていく。


 誰かに命令されているわけではない。


 時間を計る必要もない。


 何かを達成する必要もない。


 ただ、温かい湯に浸かっている。


 それだけで、よかった。


     *


 夕食の時間。


 大広間には、季節の料理が並んでいた。


 焼き魚。


 煮物。


 刺身。


 天ぷら。


 そして、湯気を立てる鍋料理。


「……すごいですね」


 透は、目を輝かせた。


「どれもおいしそうです」


 その言葉を聞いて、葬送が嬉しそうに頷いた。


「わかる。魚の焼き加減がいい」


「葬送さん、料理に詳しくなってきましたね」


「最近、少し練習している」


「いいですね」


 透は、焼き魚を一口食べた。


「……おいしい」


 その一言に、全員の視線が集まった。


 透は、箸を止めた。


「……え? どうしました?」


「いや」


 王冠が、静かに答えた。


「君が楽しそうで、何よりだと思っただけだ」


 透は、少し照れたように笑った。


「ありがとうございます。でも、みんなも楽しんでくださいね」


 その言葉に、全員が頷いた。


 鷹宮は、鍋の中の野菜を取り分けながら、ふと思った。


 この旅行には、目的がない。


 誰かを説得する必要もない。


 交渉を成功させる必要もない。


 ただ、おいしいものを食べる。


 温泉に入る。


 眠くなったら寝る。


 それだけでいい。


「……マスター」


 鷹宮が声をかけた。


「はい?」


「このような時間を、また作ってもいいだろうか」


 透は、不思議そうに首を傾げた。


「もちろんですよ。旅行じゃなくても、みんなでご飯を食べるだけでも楽しいですし」


「……そうか」


 鷹宮は、笑った。


「では、また考えておこう」


 黒百合が、そっと言った。


「考えるのはいいけれど、今は食べましょう」


「……そうだな」


 鷹宮は箸を動かした。


 その顔には、いつもの厳しさがなかった。


 ただ、一人の人間として、食事を楽しんでいる顔だった。


     *


 夜。


 食事を終えた一行は、旅館の庭を散歩していた。


 湖の向こうには、山の影が見える。


 空には、星が浮かんでいた。


「……きれいですね」


 零が呟いた。


「そうですね」


 透は、隣に立った。


「昔、祖父と温泉に行ったときも、こんな星空を見たんです」


「……お祖父様と」


「はい。あのときは、何もしない時間がもったいないと思っていたんですけどね」


 透は、少し笑った。


「今なら、ちょっとわかる気がします」


 零は、黙って耳を傾けていた。


「何もしない時間って、何もないわけじゃないんですね」


 透は、空を見上げた。


「誰かと話したり、景色を見たり。何も話さなくても、隣にいるだけで安心できたり」


「……はい」


「そういう時間も、大事なんだと思います」


 零は、ゆっくりと頷いた。


 少し離れたところでは、王冠たちも星空を見上げていた。


 誰も、携帯電話を見ていなかった。


 誰も、明日の予定を確認していなかった。


 道化師は、星の数を数えようとしたが、途中でやめた。


 渡り烏は、昔の知人に連絡しようとして、やめた。


 葬送は、何か話そうとして、やめた。


 鷹宮は、仕事のことを思い出しかけて、やめた。


 何かをしなくてもいい。


 話さなくてもいい。


 ただ、そこにいる。


 その時間は、彼らが長いあいだ忘れていたものだった。


 透は、六人の様子を見て、嬉しそうに笑った。


「……来てよかったですね」


 王冠が、静かに答えた。


「……ああ」


 それ以上の言葉は、必要なかった。


     *


 その頃。


 灰都では、情報管理連絡会の職員が、旅館から届いた報告を確認していた。


 報告内容は、拍子抜けするほど平和だった。


『参加者は予定通り到着』


『宿泊施設において問題は発生せず』


『食事を楽しみ、温泉を利用し、庭を散歩した模様』


『現在、全員が休息中』


 職員は、報告書を見つめた。


「……これだけか?」


「はい」


「何か、特別な動きは?」


「確認されていません」


「情報交換は?」


「食事中に、料理の感想を話していたとのことです」


「……交渉は?」


「確認されていません」


「……そうか」


 職員は、ゆっくりと椅子に背を預けた。


 これまで、六人が一堂に会することには、常に警戒が必要だった。


 彼らが何を考え、何を決め、どのように動くのか。


 その一つひとつが、灰都の勢力図に影響を与える可能性があった。


 だが、今回は違う。


 彼らは、ただ温泉に入っていた。


 食事をしていた。


 星を見ていた。


 そして、眠っていた。


「……人間は、休むこともできるのか」


 職員は、ぽつりと呟いた。


 長いあいだ、裏社会に身を置いてきた彼にとって、休息とは次の仕事に備えるための準備だった。


 身体を休めるのは、明日も働くため。


 食事を取るのは、力を維持するため。


 眠るのは、判断力を保つため。


 すべてに目的があった。


 だが、あの店主は違う。


 休むこと自体を楽しめばいいと言う。


 何も得なくてもいい。


 何も達成しなくてもいい。


 ただ、その時間を過ごせばいい。


 職員は、報告書を閉じた。


 そして、机の上に置かれた自分の予定表を見つめた。


 明日の予定は、朝から夜まで埋まっている。


 彼は、しばらく考えた。


 それから、ひとつだけ予定を消した。


 昼休み。


 十五分。


 何もしない時間。


 その予定を書き込んだとき、彼は少しだけ笑った。


     *


 深夜。


 旅館の一室。


 透は、布団の中で天井を見つめていた。


 窓の外から、かすかな風の音が聞こえる。


 隣の部屋からは、誰かの笑い声が漏れていた。


 おそらく、葬送と道化師が、何か話しているのだろう。


 透は、目を閉じた。


 祖父の言葉を思い出す。


『何かを得るために休むんじゃない。休むこと自体を楽しめばいいんだ』


 今なら、少しわかる。


 この旅行で、何か特別なことを成し遂げたわけではない。


 誰かを救ったわけでもない。


 大きな問題を解決したわけでもない。


 ただ、温泉に入り、おいしいものを食べ、星を見た。


 それだけだ。


 けれど、今日の時間は、きっと忘れないだろう。


 透は、静かに笑った。


「……また、みんなで来たいな」


 その声は、誰にも届かなかった。


 けれど、隣の部屋では、王冠が同じことを考えていた。


 黒百合も。


 葬送も。


 道化師も。


 渡り烏も。


 零も。


 鷹宮も。


 誰も、口にはしなかった。


 ただ、心のどこかで思っていた。


 また、来たい。


 何も成し遂げなくていい場所へ。


 強くなくてもいい時間へ。


 自分が何者であるかを忘れても、誰にも困られない場所へ。


 そして、翌朝。


 透が朝食の席で何気なく言った一言が、彼らの静かな休暇を、再び騒がしいものへと変えてしまうことになる。


「……温泉まんじゅう、お土産に買って帰りましょうか」


 王冠の箸が止まった。


 道化師が顔を上げた。


 鷹宮は、ゆっくりと湯飲みを置いた。


 零は、嬉しそうに頷いた。


 そして、灰都ではまだ知られていない。


 温泉まんじゅうという、ごく普通のお土産が。


 六大勢力の間で、思いがけない騒動を引き起こそうとしていることを。


 ――もちろん、透は何も知らない。


 彼はただ、祖父が好きだった温泉まんじゅうを、みんなにも食べてもらいたいと思っただけだった。

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