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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第20話 店主が「失敗したお弁当も、みんなで食べれば思い出ですよ」と言った結果、灰都の裏社会で前代未聞の共同炊事が始まりました

朝から、CAFE 灯の厨房は異様な熱気に包まれていた。


 原因は、火災でもなければ、襲撃でもない。


 卵焼きである。


「……王冠。なぜ、卵を焼く前に温度計を用意しているんですか?」


 朝霧透は、銀髪の男の手元を見つめていた。


「火加減を一定に保つためだ」


「フライパンの温度って、そんなに厳密に管理するものなんですか?」


「少なくとも、再現性を求めるなら必要だろう」


「卵焼きに再現性……」


 透は、なんとも言えない顔をした。


 その隣では、道化師がノートパソコンを開き、何やら表を作成していた。


「材料の重量、調味料の比率、加熱時間、巻く回数。これらを記録しておけば、個人差を分析できる」


「道化師さん、今日は研究会じゃないですよ?」


「わかっている。だからこそ、研究対象を卵焼きに限定している」


「限定する必要もないんですけどね……」


 透の声は、誰にも届かなかった。


 厨房の奥では、葬送が大きな包丁を握っている。


 普段なら、その手に握られるものは、彼の世界で恐れられる何かを終わらせるための道具だった。


 しかし今日は違う。


 目の前にあるのは、ニンジンである。


「……マスター」


「はい?」


「このニンジンは、どこまで切ればいい」


「食べやすい大きさで大丈夫ですよ」


「食べやすい大きさ……」


 葬送は、真剣な表情でニンジンを見つめた。


「人によって違うのではないか?」


「まあ、そうですね」


「ならば、全員の好みを確認すべきでは?」


「そこまでしなくても、普通の大きさなら大丈夫だと思います」


「……普通」


 葬送は、包丁を置いた。


 そして、真顔で尋ねた。


「マスター。普通とは、誰にとっての普通だ?」


「ええ……?」


 透は、助けを求めるように店内を見回した。


 しかし、黒百合は野菜を洗っている。


 渡り烏は果物を選別している。


 零は弁当箱を並べている。


 鷹宮宗一郎は、なぜかエプロンを着けて、黙々と米を研いでいた。


 誰も助けてくれそうになかった。


 透は、諦めた。


「……とりあえず、食べてみて決めましょうか」


「なるほど」


 葬送は納得したように頷いた。


 その直後、ニンジンが細かく切り刻まれた。


 細かく、細かく、細かく。


「……葬送さん」


「なんだ」


「これは、みじん切りですね」


「食べやすいようにした」


「……そうですね」


 透は、それ以上何も言わなかった。


 今日という日が、無事に終わることを祈りながら。


     *


 そもそも、なぜこんなことになったのか。


 話は三日前に遡る。


 透が何気なく「みんなでお弁当を作ったら楽しそうですね」と言ったことが、すべての始まりだった。


 その言葉を受けた王冠は、参加者全員が調理工程に関わることを提案した。


 黒百合は、無理に得意分野を担当させるべきではないと主張した。


 渡り烏は、食材費を均等に負担する必要はないのではないかと指摘した。


 道化師は、共同作業の成果を評価する基準について考え始めた。


 葬送は、全員に十分な量を食べてもらうため、食材を大量に用意しようとした。


 零は、失敗した場合に備えて、予備の弁当箱を購入した。


 そして鷹宮は、各人が普段どのような食事をしているのかを知る機会だと考えた。


 結果。


 当初は九人程度の参加を想定していたはずの弁当作りに、なぜか二十人近い人間が関わることになった。


 鷹宮の部下が食材を届けに来た。


 王冠の関係者が調理器具を持ち込んだ。


 渡り烏の知人が、珍しい果物を差し入れた。


 さらに、誰かが「食材の安全性を確認する必要がある」と発言したことで、食品関連の専門家まで紹介されかけた。


 透は、最初の段階で止めるべきだったのかもしれない。


 しかし、彼は思ってしまったのだ。


 みんな、楽しみにしてくれているんだな、と。


 その結果が、今である。


     *


「マスター。米の量について確認したい」


 鷹宮が、炊飯器の前から声をかけた。


「はい?」


「九人分の弁当を用意する場合、米は何合必要だろうか」


「ええと……普通のお弁当なら、五合もあれば十分じゃないですかね」


「五合」


 鷹宮は、静かに頷いた。


「わかった」


 その言葉を聞いた部下が、慌ててスマートフォンを取り出した。


「会長、追加の米を手配します」


「いや、待て」


「しかし、五合では不足する可能性が――」


「マスターは十分だと言った」


「……承知しました!」


 部下は、なぜか感動したような顔で頭を下げた。


 透は、そのやり取りを見て首を傾げた。


「足りなかったら、また炊けばいいんですけどね」


 鷹宮の手が止まった。


「……また、炊けばいい」


「はい。そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ」


 鷹宮は、しばらく黙っていた。


 これまでの彼の人生では、準備不足は許されないことだった。


 予測できる問題は事前に潰す。


 不足する可能性があるなら、余分に確保する。


 何かが足りなくなってから動くのでは遅い。


 それが、彼の生きてきた世界の常識だった。


 だが、ここでは違う。


 米が足りなければ、もう一度炊けばいい。


 料理が失敗したら、別のものを作ればいい。


 予定通りに進まなくても、誰かが責められるわけではない。


 鷹宮は、炊飯器の蓋を閉じた。


「……そうか」


 彼は、小さく笑った。


「それでいいのか」


「え?」


「いや。こちらの話だ」


 鷹宮は、部下に連絡を入れた。


「追加の米は不要だ。必要になったら、そのときに考える」


 部下は、目を見開いた。


「……か、会長。問題が発生してから対応するということでしょうか」


「そうだ」


「……承知しました」


 通話が切れたあと、部下はしばらくスマートフォンを見つめていた。


 会長が、問題の発生を許容した。


 失敗を前提にするのではなく、失敗が起きても対処できると考えている。


 それは、彼にとって驚くべき変化だった。


 その日の午後、鷹宮グループでは、現場の判断を尊重するための小規模な試験運用が始まった。


 もちろん、誰も知らない。


 きっかけが、炊飯器の米だったことを。


     *


 午前十一時。


 最初の問題が発生した。


「……マスター」


 零が、少し困った顔で呼んだ。


「どうしました?」


「卵焼きが、うまく巻けません」


 彼女の前には、黄色い塊があった。


 正確には、卵焼きを作ろうとした結果、何か別の料理へと変貌しかけているものだった。


 端は破れ、中央は膨らみ、全体が妙な形に崩れている。


 零は、それをじっと見つめていた。


「……最初から、やり直したほうがいいでしょうか」


 透は、フライパンを覗き込んだ。


「うーん。これはこれで、食べられそうですけどね」


「……形が違います」


「卵焼きの形って、決まっているわけじゃないですから」


「ですが、皆さんに出すものです」


「そうですね。でも、これは零さんが作ったものですよね?」


「……はい」


「じゃあ、まずは味見してみましょう」


 透は、箸で小さく切り分けた。


 零も一口食べる。


「……少し、塩辛いです」


「本当ですね。次は少し減らしましょう」


「……はい」


「でも、食べられないほどじゃないですよ」


 零は、もう一度、自分の作った卵焼きを見た。


 以前の自分なら、こんなものを誰かに見せることはできなかっただろう。


 失敗した。


 だから、隠す。


 隠せないなら、最初からなかったことにする。


 そうやって、自分の不完全な部分を誰にも見せずに生きてきた。


 けれど、透は違った。


 失敗を見ても、表情を変えない。


 怒らない。


 失望しない。


 ただ、次はどうすればよくなるかを一緒に考えてくれる。


「……マスター」


「はい?」


「この卵焼き、捨てなくてもいいですか」


 透は、不思議そうな顔をした。


「どうして捨てるんですか?」


「……失敗したので」


「食べられるなら、食べればいいじゃないですか」


 その言葉に、零は目を伏せた。


 失敗したものにも、役割がある。


 完璧ではないものにも、価値がある。


 そのことを、彼女はまだ何度も確かめなければ、信じられないのかもしれない。


「……わかりました」


 零は、崩れた卵焼きを小皿に移した。


「これは、私が食べます」


「はい。じゃあ、次は一緒に作りましょう」


「……お願いします」


 零の表情が、少しだけ和らいだ。


 その光景を、少し離れた場所から黒百合が見ていた。


 彼女は、何も言わなかった。


 ただ、零の隣に置かれた新しい卵を、そっと手元へ寄せた。


 次の挑戦のために。


     *


 昼に近づくにつれ、厨房はますます騒がしくなった。


 王冠は、予定していた時間よりも早く卵焼きを完成させた。


 しかし、見た目を整えることに集中しすぎたため、味付けを忘れていた。


「……これは、卵の味がするな」


 葬送が、率直な感想を述べた。


「卵を焼いたのだから、当然だろう」


「そういう意味ではない」


 王冠は、無言で塩を取りに行った。


 その横で、道化師が唐揚げの揚げ時間を計測していた。


「油温は適切。衣の色も良好。内部温度も――」


「道化師」


 黒百合が声をかけた。


「何だい?」


「その唐揚げ、もう三分も前に揚がっているわよ」


「……あ」


 道化師は、鍋を見た。


 唐揚げは、すでに理想的なきつね色を通り越し、深い茶色になっていた。


「……時間の記録に集中しすぎた」


「そうね」


「これは、興味深い失敗だ。観察対象に集中するあまり、観察対象そのものを損なうとは」


「反省は食べてからにして」


 黒百合は、唐揚げを皿に移した。


 焦げた部分を取り除けば、食べられるものもあった。


 道化師は、ひとつ口に入れた。


「……苦い」


「でしょうね」


「次は、タイマーを設定する」


「最初からそうしなさい」


 道化師は、素直に頷いた。


 いつもなら、彼は自分の失敗を認めるまでに、いくつもの理由を考えただろう。


 だが、ここでは違う。


 失敗した。


 では、次はどうするか。


 それだけでよかった。


 少し離れた場所では、渡り烏が果物を切り分けていた。


「マスター、果物はどのくらいの大きさがいいだろうか」


「食べやすい大きさで大丈夫ですよ」


「また、その答えか」


 渡り烏は、苦笑した。


「君は本当に、何でもそう言うのだな」


「え? 駄目ですか?」


「いや。むしろ、助かっている」


 渡り烏は、包丁を置いた。


 彼は長年、交渉の場に立ってきた。


 誰かの利益を守るために、別の誰かの利益を削る。


 妥協点を探し、条件を整え、全員が受け入れられる結論を導き出す。


 それが自分の役割だと思っていた。


 しかし、透の言葉は、いつも少し違う。


 食べやすい大きさでいい。


 好きなものを入れればいい。


 足りなければ、また作ればいい。


 すべての問題を、交渉によって解決しなくてもいいのだ。


 誰かが自分の好きなものを選んでも、それだけで誰かが損をするわけではない。


「……たまには、私も好きなものを選ぶとするか」


 渡り烏は、果物の中から、自分が一番好きな梨を選んだ。


 それを自分の弁当箱に入れる。


 ほんの小さなことだった。


 けれど、彼にとっては、長いあいだ忘れていた習慣を取り戻すような行為だった。


     *


 午後一時。


 すべての料理が、ようやく弁当箱に収まり始めた。


 いや、正確には、収まり始めたように見えた。


「……待ってください」


 透が、弁当箱を見つめていた。


「これは、何ですか?」


 そこには、卵焼き、唐揚げ、野菜、果物、おにぎりが並んでいた。


 それぞれの料理は、決して悪くない。


 問題は、量だった。


 弁当箱が大きい。


 異様に大きい。


 もはや一人分という概念を超えていた。


「……九人分ですよね?」


 透が尋ねると、王冠が頷いた。


「そうだ」


「これは……」


「不足が生じないよう、余裕を持たせた」


「いや、余裕というか……」


 葬送が、誇らしげに胸を張った。


「肉も十分に用意した。足りなくなることはない」


 鷹宮も、静かに頷いた。


「米も余裕がある」


 道化師が、補足した。


「栄養の偏りを避けるため、複数の食材を組み合わせた」


 渡り烏は、果物の箱を指さした。


「デザートもある」


 黒百合は、ため息をついた。


「……もう、これは弁当というより宴会ね」


 零は、少し不安そうに透を見た。


「……マスター。多すぎましたか」


 透は、弁当箱を見た。


 そして、全員の顔を見た。


 みんな、真剣だった。


 自分たちなりに、楽しもうとしてくれたのだろう。


 足りなかったら困る。


 誰かが食べられなかったら困る。


 みんなが楽しめるようにしたい。


 その気持ちは、よくわかった。


 だから、透は笑った。


「……食べきれなかったら、持って帰りましょうか」


 全員が、動きを止めた。


「え?」


「いや、無理して全部食べる必要はないですし。残ったら、持ち帰れるものは持ち帰ればいいですから」


 透は、ごく自然に続けた。


「せっかくみんなで作ったんですから、量を間違えたことも含めて、楽しい思い出にしましょう」


 その言葉が、静かに厨房へ広がった。


 量を間違えてもいい。


 予定通りにできなくてもいい。


 頑張ったことが、必ずしも理想的な結果につながらなくてもいい。


 それでも、誰かと過ごした時間は、失敗にはならない。


 王冠は、弁当箱を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。


「……そうだな」


 黒百合が微笑んだ。


「そうね。全部食べることが目的じゃないもの」


 道化師は、ノートパソコンを閉じた。


「記録上の成果が不十分でも、体験そのものに価値がある……」


「道化師」


「わかっている。今のは独り言だ」


 葬送は、大きな弁当箱を持ち上げた。


「残ったら、俺が持ち帰って食べる」


「無理はしないでくださいね」


 透が言うと、葬送は真面目に頷いた。


「わかった。食べられる分だけにする」


 鷹宮は、その会話を聞きながら、静かに笑った。


 かつての彼なら、準備したものを余らせることを、失敗と捉えただろう。


 だが、今は違う。


 余ったからといって、誰かが責められるわけではない。


 必要な量を見誤ったなら、次に調整すればいい。


 その程度のことなのだ。


「……マスター」


 鷹宮が声をかけた。


「はい?」


「次回は、もう少し少なく用意する」


「そうですね。そのほうが持ち運びやすいかもしれません」


「……次回」


 鷹宮は、その言葉を口の中で繰り返した。


 今回が終わっても、次がある。


 失敗したからといって、終わりではない。


 彼は、少しだけ肩の力を抜いた。


     *


 午後三時。


 弁当作りは、ようやく終了した。


 厨房には、洗い物が山のように残っていた。


 王冠は、洗剤の量を確認している。


 道化師は、食器を分類している。


 葬送は、洗った鍋を乾かす場所に困っていた。


 渡り烏は、残った食材を保存容器に移している。


 黒百合は、零と一緒にテーブルを拭いていた。


 鷹宮は、黙って床を掃除していた。


 そして透は、全員にコーヒーを淹れていた。


「皆さん、お疲れさまでした」


 カウンターに並べられたカップから、湯気が立ち上る。


「……今日は、楽しかったですね」


 透が言うと、零が小さく頷いた。


「はい」


「うまくいかなかったこともありましたけど、みんなで作ると楽しいですね」


「……そうですね」


 零は、自分の手元を見た。


 少しだけ、指先が荒れていた。


 慣れない調理で、何度も手を洗ったからだろう。


 けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 今日は、誰かの命令を待っていたわけではない。


 誰かの期待を満たすためだけに動いていたわけでもない。


 自分で考えて、自分で選び、失敗して、やり直した。


 その結果、少しだけおいしい卵焼きが作れた。


 それだけのことが、嬉しかった。


「……マスター」


「はい?」


「明日も、何か作っていいですか」


「もちろんです。今度は何を作りましょうか?」


 零は、少し考えた。


「……サンドイッチを作ってみたいです」


「いいですね。僕も手伝いますよ」


「……はい」


 零は、笑った。


 その笑顔を見て、黒百合は目を細めた。


 彼女は、零が少しずつ変わっていくことを嬉しく思っていた。


 誰かに必要とされるために働くのではなく、自分がやってみたいから挑戦する。


 失敗を恐れて何もしないのではなく、失敗しても次があると信じてみる。


 それは、簡単なようで、難しいことだった。


 そして、この店は、その難しいことを、少しずつ可能にしていた。


     *


 その夜。


 灰都情報管理連絡会に、最終報告が届いた。


『共同調理は終了』


『重大な対立は確認されず』


『調理工程において複数の失敗が発生したが、参加者間で責任の押しつけ合いは見られなかった』


『余剰食材については、持ち帰りを含めて柔軟に対応する方針が示された』


 報告書を読んだ責任者は、しばらく黙っていた。


「……つまり、何も問題は起きなかったということか」


「はい」


「それは、本当に何も問題が起きなかったのか?」


「調理上の問題は複数発生しました」


「そういう意味ではない」


 責任者は、頭を抱えた。


 六人の伝説が一堂に会し、鷹宮宗一郎まで参加した。


 複数の組織が食材を持ち寄り、共同作業を行った。


 その結果、誰も傷つかず、誰も責任を追及されず、料理が完成した。


 これほど大規模な集まりで、何も起きなかった。


 それは、それで異常だった。


「……報告書に追記しろ」


「何と記載しましょうか」


 責任者は、しばらく考えた。


「『当該集団は、失敗の発生を許容することで、組織間の緊張を低下させた可能性がある』」


「承知しました」


「それから……」


 責任者は、報告書の末尾を指さした。


「この『卵焼きの形状に関する意見の相違』という記述は何だ?」


「王冠の卵焼きが、本人の想定した形にならなかったとのことです」


「……それも記録する必要があるのか?」


「情報管理上、確認できた事実は記録すべきかと」


 責任者は、天井を仰いだ。


 そして、静かに呟いた。


「……灰都は、いったいどこへ向かっているんだ」


 誰も答えなかった。


 答えられる者など、いるはずがなかった。


     *


 翌朝。


 CAFE 灯は、いつも通り営業を始めた。


 透は、店の扉を開け、看板を表に出した。


 厨房では、零がサンドイッチの材料を並べている。


 昨日の卵焼きは、いくつかの弁当箱に収められ、参加者たちの手に渡った。


 葬送は、焦げた卵焼きを自分で食べた。


 道化師は、失敗した唐揚げを食べながら、タイマーの必要性を学んだ。


 王冠は、味付けを忘れた卵焼きを、次回は塩を先に用意することで改善すると決めた。


 鷹宮は、米が余ったことを問題視せず、部下に持ち帰らせた。


 そして零は、自分が作った卵焼きのことを、少しだけ誇らしく思っていた。


 完璧ではなかった。


 けれど、誰かと一緒に作った。


 失敗しても、笑ってもらえた。


 それだけで、十分だった。


「マスター」


 零が声をかけた。


「今日のサンドイッチですが、少し形が崩れてしまいました」


 透は、皿を覗き込んだ。


 確かに、端から具材が少しはみ出していた。


「……本当ですね」


 零の表情が、わずかに曇った。


 だが、透はすぐに笑った。


「でも、おいしそうですよ」


「……そうですか」


「はい。食べやすいように切り分ければ大丈夫です」


 零は、頷いた。


「……では、そうします」


 透は、コーヒーを淹れ始めた。


 今日も、いつも通りの一日が始まる。


 誰かが失敗するかもしれない。


 誰かが悩むかもしれない。


 思い通りにならないことも、きっとある。


 それでも、ここには、次がある。


 何かを間違えたからといって、すべてを失うわけではない。


 完璧でなくても、誰かと一緒にいられる。


 透にとって、それは当たり前のことだった。


 だからこそ、彼は今日も店を開ける。


 コーヒーを淹れ、料理を作り、客を迎える。


 ただ、それだけだ。


 その一方で。


 灰都の裏社会では、昨夜の報告を受けた複数の組織が、調理研修の導入を検討し始めていた。


 目的は、組織間の緊張緩和。


 成果を求めすぎない環境の構築。


 失敗を隠さず、改善につなげる文化の形成。


 そのための第一歩として、各組織の代表者が一緒に料理を作る。


 提案書の仮題は、こうだった。


 『共同炊事を通じた相互理解促進計画』


 その下には、小さな注記が添えられていた。


 ――なお、卵焼きの味付けについては、参加者の自由を尊重すること。


 透は、まだ知らない。


 自分が「みんなでお弁当を作ったら楽しそうですね」と言っただけで、灰都の裏社会に料理研修が広がり始めていることを。


 そして、次に彼が何気なく口にする一言が。


 今度は、裏社会の人間たちにとって、さらに難しい問題を引き起こすことになる。


 なぜなら。


 その日の閉店間際、透はカレンダーを見ながら、何気なく呟いたのだ。


「そういえば……今度は、みんなで旅行に行くのも楽しそうですね」


 店内の空気が、止まった。


 王冠が、ゆっくりと顔を上げた。


 黒百合が、手にしていたカップを置いた。


 葬送が、厨房から出てきた。


 道化師は、反射的にノートを開いた。


 渡り烏は、静かに目を閉じた。


 零は、透を見つめた。


 そして鷹宮宗一郎は、スマートフォンを取り出した。


「……旅行、か」


 その夜。


 灰都の裏社会に、一本の連絡が走った。


『店主が、次の集団行動として旅行を提案した可能性あり』


『目的地、期間、参加人数、行程は不明』


『各勢力は、独自判断による先行調査を控え、まず本人の希望を確認すること』


 最後の一文は、鷹宮宗一郎が自ら追記したものだった。


 彼は、少しだけ笑った。


 以前の自分なら、すでに旅行先の候補を十か所ほど選び、警備計画を作り、移動手段を手配していただろう。


 だが、今は違う。


 まずは本人に聞く。


 それから、一緒に考えればいい。


 鷹宮はスマートフォンをしまい、窓の外を眺めた。


「……今度は、何を食べに行くことになるのだろうな」


 誰にともなく呟いたその言葉に、部下は答えられなかった。


 彼らはまだ知らない。


 旅行というものが、行き先を決めるだけでは終わらないことを。


 ましてや、六人の伝説と鷹宮宗一郎が参加する旅行なら、なおさらである。


 ただ一人。


 朝霧透だけは、何も知らずに笑っていた。


 祖父が好きだった温泉まんじゅうを思い出しながら。


「……温泉とか、いいかもしれないなあ」


 その一言が、灰都の裏社会をどこまで動かすことになるのか。


 彼は、まだ知らなかった。

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