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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第19話 店主が「お弁当は好きなものを入れればいいんですよ」と言った結果、裏社会の六大勢力が卵焼きの配置を巡って緊急会議を開きました

 人間は、何かを楽しみにしているときほど、余計なことを考えてしまう生き物らしい。


 朝霧透は、翌週の休日に予定しているピクニックについて考えていた。


 祖父の店を継いでからというもの、休日らしい休日を過ごした記憶がほとんどない。


 もちろん、喫茶店を営むことは嫌いではない。むしろ好きだ。豆を挽き、コーヒーを淹れ、客の好みに合わせて料理を作る。誰かが「おいしい」と笑ってくれる。それだけで、今日も店を開けてよかったと思える。


 ただ、最近になって気づいたことがある。


 店に来る人たちは、どうやら自分の人生を仕事に捧げすぎている。


 それも、尋常ではないほどに。


 銀髪の男は、予定表に隙間があれば何かを詰め込む。


 黒髪の女は、他人の変化には敏感なくせに、自分の疲労には驚くほど鈍い。


 大柄な男は、誰かのためなら平気で無理をする。


 眼鏡の青年は、考えなくていいことまで考え抜く。


 年配の男は、世界中の人間の都合を調整するくせに、自分の都合を後回しにする。


 そして、零は。


 頼まれてもいない仕事まで探し出し、完璧に片づけようとする。


 透は、彼らが店で笑っている姿を見るたび、少しだけ安心する。


 だからこそ、今回のピクニックは、できるだけ普通の休日にしたかった。


 特別な目的も、立派な成果もいらない。


 ただ、外で弁当を食べて、少し話をして、疲れたら帰る。


 それだけでいい。


 そう考えながら、透は店のカウンターでメモを書いていた。


「ええと……飲み物と、敷物と、お弁当ですね」


「マスター」


 背後から声がした。


 振り返ると、零が立っていた。


「お弁当、私が作ってもいいですか」


「もちろん。助かります」


「……失敗しても、ですか」


「え?」


 透は首を傾げた。


「お弁当って、そんなに難しいものなんですか?」


「いえ。難しくはありません。ただ、皆さんが食べるものなので」


「じゃあ、好きなものを入れればいいんですよ」


 透は、ごく自然に言った。


「零さんが好きなものも、皆さんが好きなものも。全部を完璧にそろえなくても、おいしく食べられたら十分ですから」


 零は黙った。


 その言葉を、頭の中で何度も繰り返しているようだった。


「……好きなものを」


「はい。あ、苦手なものがあったら教えてくださいね。せっかくなら、みんなが楽しめるほうがいいですから」


「……わかりました」


 零は一礼し、厨房へ向かった。


 透はその背中を見送ったあと、メモに小さく書き加えた。


 ――卵焼き。


 ピクニックのお弁当といえば、やはり卵焼きだろう。


 祖父が作ってくれた甘い卵焼きを思い出し、透は少しだけ笑った。


 その何気ない一言が、数時間後、灰都の裏社会を揺るがすことになるとは思いもしなかった。


     *


 零は、まず卵を買いに行った。


 特別な卵ではない。


 近所のスーパーで売っている、ごく普通の卵だ。


 だが、彼女は売り場の前で五分ほど立ち止まった。


「……卵にも、いろいろあるのですね」


 白い卵。赤い卵。少し値段の高い卵。


 栄養価、飼育環境、味の違い。


 気になり始めると、調べることはいくらでもあった。


 しかし、ふと透の言葉が頭をよぎる。


 ――好きなものを入れればいいんですよ。


「……普通の卵にします」


 零は、最も一般的な卵を手に取った。


 それだけのことなのに、なぜか少し誇らしかった。


 ところが、帰り道で問題が発生した。


 スマートフォンに、王冠から連絡が届いたのだ。


『弁当の準備について、確認したい』


 零は足を止めた。


『店主の希望を聞いた。好きなものを入れるという方針らしいな』


『はい』


『各人の嗜好を反映する必要がある。アレルギー、食習慣、食べる量、保存性について確認したい』


 零は画面を見つめた。


 確かに、全員の好みを把握することは大切だ。


 しかし、そこまで細かく決める必要があるのだろうか。


 少し考えてから、返信した。


『好きなものを入れればいいそうです』


 数秒後。


『……なるほど』


 王冠からの返事は、それだけだった。


 零は、なぜか嫌な予感がした。


     *


 その日の夜。


 灰都の地下にある、非公開の会議室。


 そこには、裏社会の主要組織を代表する者たちが集まっていた。


 議題は、ひとつ。


 《CAFE 灯》主催の屋外交流会に関する情報共有。


 発端は、情報管理連絡会に所属する職員が提出した報告書だった。


『店主は参加者に対し、各自の好みを弁当に反映するよう指示した模様』


『零が食材の選定を開始。卵については一般的な商品を選択』


『王冠が参加者の嗜好調査を開始した可能性あり』


 報告書を読んだ男が、眉間を押さえた。


「……弁当だぞ?」


「はい」


「普通、弁当というのは、外で食べるために持っていく食事のことだろう」


「その認識で間違いありません」


「では、なぜ六大勢力の関係者が集まっている?」


 誰も答えられなかった。


 別の男が慎重に口を開いた。


「店主が、各人の好みを尊重するよう求めたのではないでしょうか」


「それは、つまり……」


「各勢力が、自分たちの事情を一方的に押しつけるのではなく、互いの嗜好を認め合う必要がある、という意味かと」


「待て。卵はどうなる?」


「卵、ですか?」


「零が選んだのは一般的な卵だ。特別な品ではない。これは、特定の勢力に利益を集中させないという意思表示ではないのか?」


 沈黙が落ちた。


 最初に報告書を読んだ男が、ゆっくりと顔を上げる。


「……中立食材」


「そう考えると、辻褄が合います」


「合っていないだろう!」


 誰かが叫んだ。


 しかし、叫んだ男以外は、すでに真剣な顔で頷き始めていた。


「卵焼きの配置も重要になるな」


「配置?」


「弁当箱の中央に置けば、全員に対して公平な位置となる」


「いや、中央は店主の分ではないのか?」


「店主の弁当が別に用意される可能性もある」


「では、誰が中央を取る?」


 会議室の空気が、一段と重くなった。


 世界各地で交渉をまとめてきた男たちが、卵焼きの位置について本気で議論している。


 そのとき、扉が開いた。


 現れたのは、鷹宮宗一郎だった。


「何の会議だ」


 全員が立ち上がった。


「鷹宮会長!」


「座れ。話を続けろ」


 鷹宮は報告書に目を通した。


 そして、数秒間、沈黙した。


「……お前たちは、弁当の配置を決めるために集まったのか」


「いえ、会長。これは各勢力間の公平性と、店主の意図を確認するための――」


「弁当だ」


「はい」


「食べ物だ」


「はい」


「腹が減ったら食べるものだ」


「……はい」


 鷹宮は深く息を吐いた。


 かつての自分なら、このような会議を無駄だと切り捨てていただろう。


 だが、今は少し違う。


 彼は最近、結果の出ない時間にも意味があることを知り始めていた。


 だからこそ、部下たちが真剣に考えていること自体を、頭ごなしに否定するつもりはなかった。


 ただし。


「ひとつだけ言っておく」


 鷹宮は報告書を机に置いた。


「店主が本当に望んでいることを、本人に確認したのか?」


 全員が固まった。


「……いえ」


「では、まず本人に聞け。勝手に意味を作るな」


 その言葉に、会議室の者たちは深く頷いた。


 さすが鷹宮会長。


 店主の意図を勝手に解釈せず、直接確認することこそが重要なのだ。


 ――という結論に至った結果。


 翌朝、CAFE 灯には、弁当の内容について問い合わせたいという裏社会の関係者が、三人も訪れることになった。


     *


「いらっしゃいませ」


 透は、カウンターの向こうから笑顔で客を迎えた。


 最初の男は、黒いスーツを着ていた。


 髪は整い、靴は磨かれ、表情は真剣そのものだった。


「店主。一点、確認させていただきたい」


「はい。何でしょう?」


「今回の弁当についてですが……卵焼きは、甘いものがお好みでしょうか。それとも、だし巻きでしょうか」


 透は一瞬、考えた。


「うーん、どっちも好きですね」


「……両方、ですか」


「はい。あ、でも、作る人が好きな味でいいと思いますよ」


 男の目が見開かれた。


「作る者が、好きな味……」


「そうです。せっかく作ってくれるんですから、無理して誰かに合わせなくてもいいんじゃないですかね」


 男は、胸に手を当てた。


「……承知しました」


 そして、深々と頭を下げた。


「貴重なお言葉、ありがとうございます」


「いえ、そんな大げさな……」


 男は店を出ると、すぐに仲間へ連絡した。


『作り手の意思を尊重せよ。味の統一を強制してはならない』


 それを受け取った情報管理連絡会は、報告書に新たな一文を追加した。


『店主は、各勢力が他者の嗜好に過剰適応することを望んでいない可能性が高い』


 透は知らない。


 自分が卵焼きの話をしただけで、裏社会における食文化の自由化が始まりかけていることを。


 続いて、二人目の男がやってきた。


「店主。弁当の量について、お尋ねしたい」


「量ですか?」


「はい。参加者全員に同量を用意するべきでしょうか」


 透は笑った。


「食べられる量は人それぞれですからね。足りない人には追加できるようにしておけばいいんじゃないですか?」


 男は、息を呑んだ。


「……不足した者を、切り捨てない」


「え?」


「いえ。ありがとうございます」


 男は頭を下げて帰っていった。


 その後、情報管理連絡会では、各組織の人員配分に関する議論が急きょ再開された。


 人員の能力だけで配置を決めるのではなく、個人の負担や適性も考慮すべきではないか。


 その議論自体は、決して悪いものではなかった。


 ただ、発端が弁当の量だっただけである。


 三人目の男が店に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。


「店主。もし弁当を食べきれなかった場合は、どうすればよろしいでしょうか」


「無理して食べなくていいですよ」


 透は即答した。


「お腹いっぱいなら、残しても大丈夫です。持ち帰れるものなら持ち帰ればいいですし。せっかくの休日なんですから、食事まで無理をしないでください」


 男は、しばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと頭を下げた。


「……その言葉、忘れません」


「いや、そこまで大事な話では……」


 男はすでに店を出ていた。


 その日の夕方、灰都の裏社会では、長年の慣習を見直す動きが複数の組織で同時に始まった。


 会食で残した料理を責めない。


 無理に酒を飲ませない。


 体調が悪い者には、食事を持ち帰らせる。


 そして、会議の席で出された食事を、完食したかどうかで忠誠心を測らない。


 どれも、人間として考えれば当たり前のことだった。


 しかし、当たり前のことほど、長いあいだ誰も疑問に思わなかったりする。


 その夜、情報管理連絡会の報告書には、こう記された。


『店主は、食事を通じて、成果や消費量によって人間の価値を測らないという姿勢を示した』


 透は、夕食に何を食べるか考えていた。


 ただ、それだけだった。


     *


 翌日。


 零は、厨房で卵焼きを作っていた。


 卵を割り、溶き、調味料を加える。


 フライパンに油を薄く引き、少しずつ卵液を流し込む。


 巻く。


 また流し込む。


 巻く。


 形は、少し歪んでいた。


「……難しいですね」


「初めてなんですか?」


 透が隣から覗き込んだ。


「何度か作りました。ただ、今回は……皆さんが食べるので」


「うん。でも、いい感じですよ」


「……まだ、形が歪んでいます」


「卵焼きって、少しくらい歪んでいても卵焼きじゃないですか」


 零は、手元を見た。


 確かに、卵焼きではある。


 完璧な長方形ではない。表面には小さな凹凸があり、端の部分が少し焦げている。


 それでも、香ばしい匂いがした。


「……マスターは、失敗したものでも食べますか」


「もちろん。食べられるものなら、喜んで」


「……おいしくなくても?」


「そのときは、次においしく作れるように考えればいいんですよ」


 透は、気負いのない声で続けた。


「それに、零さんが作ってくれたものですから。食べるのが楽しみです」


 零は、俯いた。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 以前の彼女なら、歪んだ卵焼きを作った時点で、最初からやり直していたかもしれない。


 人に出すものなら、なおさらだ。


 失敗したものを見せるくらいなら、完成するまで誰にも見せない。


 そうやって、何もかも一人で抱えてきた。


 けれど、ここでは違う。


 隣に立つ店主は、彼女の失敗を笑わない。


 完璧にできるまで待つのでもなく、代わりに全部やってしまうのでもない。


 ただ、楽しみにしていると言ってくれる。


「……もう少し、作ってみます」


「はい。僕も手伝いますよ」


「マスターは、お店の仕込みがあるのでは」


「それはそれ、これはこれです。今日は二人で卵焼きの練習ですね」


「……練習」


 零は、口元をほんの少し緩めた。


「では、次はマスターが巻いてください」


「えっ。僕ですか?」


「はい。私だけ失敗するのは、不公平です」


「なるほど。それは確かに」


 透は、妙に納得してしまった。


 そして、三本目の卵焼きは、見事に崩れた。


「……あ」


「……」


「……これは」


 透は、フライパンの中で無残な姿になった卵を見つめた。


 零が、じっとこちらを見ている。


「……食べられますよね?」


「もちろんです」


 零は、真面目な顔で頷いた。


「マスターが作ったものですから」


「いや、それはちょっと違うような……」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、どちらからともなく笑った。


 その笑い声は、店の奥まで響いた。


     *


 その日の午後。


 王冠、黒百合、葬送、道化師、渡り烏、そして鷹宮が、店に集まった。


 彼らの前には、試作品の卵焼きが並んでいた。


 零が作ったもの。


 透が作ったもの。


 そして、葬送がなぜか持参した、妙に分厚い卵焼き。


「……なぜ、葬送まで作っているんですか?」


 透が尋ねると、大柄な男は少し気まずそうに頬を掻いた。


「いや……魚を料理する練習をしていたら、卵も練習したくなってな」


「そうなんですね」


「ただ、火加減が難しい」


 葬送の卵焼きは、外側が黒く、内側が黄色かった。


 見た目だけなら、何かの鉱石に近い。


 道化師が眼鏡を押し上げた。


「興味深いね。材料と調味料がほぼ同じでも、調理者によって結果が大きく異なる。これは、個性というものを考える上で――」


「食べましょう」


 黒百合が遮った。


「分析は後でいいわ」


「……そうだね」


 道化師は、素直に箸を取った。


 まず、零の卵焼きを食べる。


「おいしい」


 透が言った。


 零は、わずかに目を見開いた。


「……本当ですか」


「はい。少し甘めなんですね。僕は好きです」


 次に、透の卵焼き。


 形は崩れていたが、味は悪くなかった。


「これも、普通に食べられるな」


 葬送が感心したように頷く。


「普通に食べられる、という評価は、もう少し喜んでいいと思うんだが」


 渡り烏が苦笑した。


 最後に、葬送の卵焼き。


 全員が、箸を止めた。


「……」


「……」


「……」


 葬送は、全員の顔を見回した。


「どうした」


 黒百合が、慎重に口を開く。


「……あなた、これを味見したの?」


「した」


「どうだった?」


「……苦かった」


「なぜ、出したのよ」


「練習の成果を見てもらおうと思って」


 王冠が、目を閉じた。


「葬送。成果を見せることと、食べてもらうことは別だ」


「……そうか」


 葬送は、しょんぼりと肩を落とした。


 透は、慌てて手を振った。


「でも、練習したのはすごいですよ。次は火を少し弱くしてみましょう。あと、焦げたところを切り分ければ、食べられる部分もありますから」


「……いいのか?」


「もちろん。次は一緒に作りましょう」


 葬送は、ゆっくりと顔を上げた。


「……頼む」


 その声は、戦場で命令を下すときよりも、ずっと小さかった。


 王冠は、その光景を見ながら思った。


 この店では、誰かが失敗しても、役割を失わない。


 誰かが不得意なことをしても、居場所を失わない。


 できないことを隠すために、誰かを遠ざける必要もない。


 それは、彼らが長年生きてきた世界では、あまりにも珍しいことだった。


 だからこそ、彼らはこの店に通う。


 強くなれるからではない。


 強くなくても、そこにいていいからだ。


「……マスター」


 王冠が口を開いた。


「何でしょう?」


「次のピクニックでは、私も何か作っていこうと思う」


「いいですね。何を作るんですか?」


「……まだ決めていない」


「じゃあ、好きなものを作ってきてください。楽しみにしています」


 王冠は、わずかに目を伏せた。


「……承知した」


 黒百合も、静かに口を開いた。


「私も、何か持っていこうかしら」


「ぜひ。みんなで持ち寄ったら、いろいろ食べられますね」


「……そうね」


 渡り烏は、満足げに頷いた。


「では、私は果物でも用意しよう」


「俺は肉を焼く!」


 葬送が勢いよく言った。


「ピクニックで、ですか?」


「駄目か?」


「いえ、駄目ではないですけど……安全にできる場所を探しましょうね」


「わかった!」


 道化師は、すでにノートを取り出していた。


「弁当の構成を整理すると、主食、主菜、副菜、果物、飲料……」


「道化師」


 黒百合が呼んだ。


「はい?」


「今回は、記録しなくてもいいんじゃない?」


 道化師は、ペンを止めた。


 ほんの少し考えたあと、ノートを閉じた。


「……そうだね。覚えていられなくても、また集まればいい」


「そういうことです」


 透は、嬉しそうに笑った。


「また集まればいいんですよ。何度でも」


 六人は、静かにその言葉を受け止めた。


     *


 その夜。


 灰都情報管理連絡会では、緊急報告が提出されていた。


『各勢力の代表者が、弁当の持ち寄りを決定』


『王冠は調理に参加する意向』


『黒百合も独自の品を用意する可能性』


『葬送は肉料理を担当すると表明』


『道化師は記録を中断。記憶の共有を重視する姿勢を示した』


 報告書を読んだ職員は、しばらく黙っていた。


「……何が起きようとしているんだ」


「現時点では不明です」


「全員が、自分の得意分野ではなく、個人的な好みで動いているのか?」


「そのように見えます」


「それは……組織間の関係に影響する可能性があるな」


「はい。各勢力が相手の嗜好を尊重するようになれば、これまでの交渉手法が通用しなくなるかもしれません」


 職員は頭を抱えた。


 人間関係を、損得だけで測ることができなくなる。


 成果を出せない者にも居場所ができる。


 誰かが不得意なことをしても、嘲笑されずに済む。


 それは、裏社会の仕組みを根底から変える可能性を秘めていた。


 だが。


「……結局、何の集まりなんだ?」


「ピクニックです」


「わかっている! そういう意味じゃない!」


 職員の叫び声が、深夜の会議室に響いた。


     *


 翌朝。


 透は、カウンターでコーヒーを淹れていた。


 零は隣で、弁当箱の大きさを確認している。


「マスター。お弁当箱は、何個必要でしょうか」


「ええと、参加する人の分ですね」


「全員で……九人でしょうか」


「たぶん、そのくらいですね」


 零は、メモに数字を書いた。


「……少し大きめのものを用意したほうがいいでしょうか」


「そうですね。足りなかったら困りますし。でも、余ってもみんなで食べればいいですよ」


「……わかりました」


 零は、今度は迷わず頷いた。


 透は、コーヒーをカップに注ぎながら、ふと思いついたように言った。


「そうだ。お弁当、みんなで一緒に作るのも楽しそうですね」


 零の手が止まった。


「……みんなで?」


「はい。作るのが得意な人も、苦手な人も、一緒にやればいいじゃないですか」


 透は笑った。


「うまくできなくても、それはそれで思い出になりますし」


 零は、ゆっくりと顔を上げた。


「……楽しそうです」


「でしょう?」


 透は満足げに頷いた。


 こうして、ピクニックの前日に、CAFE 灯で弁当作りをすることが決まった。


 その情報は、数時間後、なぜか裏社会の情報網にも流れた。


『前日、店内にて共同調理を実施する模様』


『参加者全員が調理工程に関与する可能性』


『成果の均一化ではなく、共同作業そのものを重視していると推測される』


 報告書の最後には、こう書かれていた。


『なお、卵焼きの味付けについては、甘味派とだし巻き派の双方が存在することが確認された。今後の動向に注意されたし』


 その報告を受けた上層部は、誰一人として笑わなかった。


 彼らにとって、これはもう単なる弁当の話ではなかった。


 長いあいだ、強さと成果だけを求められてきた者たちが、自分の好きなものを選び、自分の不得意を認め、誰かと一緒に何かを作ろうとしている。


 その変化は、確かに大きなものだった。


 ただし。


「……卵焼きの味付けまで監視する必要があるのか?」


 そう呟いた新人職員に、上司は真顔で答えた。


「わからないから、確認するんだ」


「……はあ」


「それに、甘味派とだし巻き派が対立した場合、どちらかが譲歩を強いられる可能性もある」


「いや、そこは好きなほうを食べればいいのでは……」


「君はまだ、何もわかっていない」


 新人職員は、深く後悔した。


 この組織に入ったことをではない。


 弁当の話に、真面目に意見してしまったことを。


     *


 閉店後。


 透は、厨房の片づけを終えた零に声をかけた。


「零さん。今日はありがとうございました」


「……いえ。まだ、何も完成していません」


「でも、楽しかったですよね」


 零は、少しだけ考えた。


 焦げた卵焼き。


 形の崩れた卵焼き。


 それを見て笑った葬送。


 ノートを閉じた道化師。


 自分の好きなものを作ると言った王冠。


 みんなの顔が、順番に浮かんだ。


「……はい」


 零は、静かに答えた。


「楽しかったです」


「それなら、よかった」


 透は、いつものように笑った。


「ピクニックも楽しみですね」


「……はい」


 零は、店内を見回した。


 ここにいると、何かを完璧にこなさなくてもいい。


 失敗しても、次がある。


 うまくできなくても、誰かと笑える。


 そして、何もできない日でさえ、ここにいていい。


 彼女は、まだその感覚に慣れていなかった。


 けれど、少しずつなら覚えていける気がした。


「マスター」


「はい?」


「……明日は、私の好きなものも入れていいんですよね」


 透は、少し驚いたあと、優しく笑った。


「もちろんですよ」


「……そうですか」


 零は、目を伏せた。


 その顔には、ほんのわずかだが、確かな喜びがあった。


 自分の好きなものを選ぶ。


 自分のために、何かを作る。


 誰かに許可されなければできなかったことが、少しずつ、自分の意思でできるようになっていく。


 それは、彼女にとって、小さな一歩だった。


 透は、そんな零の変化に気づいているのかいないのか、明日の天気を確認していた。


「……晴れるといいですね」


「はい」


 零は答えた。


 窓の外には、灰都の夜景が広がっている。


 この街では今夜も、さまざまな思惑が交錯している。


 組織の利害。


 人間関係。


 権力と秘密。


 そして、卵焼きの味付け。


 けれど、CAFE 灯の厨房では、明日のお弁当のために、空になった卵のパックがひとつ、ゴミ箱に入っているだけだった。


 透は、それを見て思った。


 明日は、もう少し上手に卵焼きを作れるだろうか。


 零は、明日はどんなお弁当にしようかと考えていた。


 六人は、それぞれ自分の好きなものを用意しようとしていた。


 そして裏社会は、翌日の共同調理を前に、卵焼きの味付けを巡る最終調整に入ろうとしていた。


 ――お願いだから。


 透は、まだ知らない。


 自分の店で行われる、ただの弁当作りが。


 灰都の裏社会における、史上初の「好きなものを持ち寄るための非公式首脳会談」として記録されようとしていることを。


 翌日、彼らはようやく気づくことになる。


 弁当を作るというのは、思っていた以上に難しい。


 そして、誰かと一緒に作るというのは。


 思っていた以上に、楽しいことなのだと。

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