第18話 店主が「みんなで釣りに行きませんか?」と言った結果、灰都の海から魚が消えかけました
釣りというものは、魚を釣る遊びである。
竿を用意し、糸を垂らし、魚が食いつくのを待つ。
釣れれば嬉しい。
釣れなければ、次の機会に期待する。
自然を相手にする以上、思い通りにならないこともある。
だからこそ、釣りを趣味にしている人間の多くは、魚が釣れない時間も楽しむのだという。
少なくとも、朝霧透はそう思っていた。
しかし、灰都の裏社会には、釣れない時間を楽しむという概念が、ほとんど存在していなかった。
彼らにとって、目的を持って行動するならば、成果を出すのが当然だった。
成果が出ないなら、方法を変える。
方法を変えても成果が出ないなら、情報を集め直す。
それでも駄目なら、計画そのものを見直す。
釣りであろうと、任務であろうと、彼らの考え方は変わらない。
そんな彼らが、ある朝、喫茶店の店主から誘いを受けた。
「今度、みんなで釣りに行きませんか?」
その瞬間。
灰都の海に、かつてないほどの緊張が走った。
*
「……釣り、ですか?」
No.1《王冠》は、透の言葉を聞き返した。
「はい。昨日、鷹宮さんが釣りに興味があるって話していたので。せっかくだから、皆さんで行ったら楽しいかなと思って」
透は、コーヒーをカップに注ぎながら答えた。
「海の近くに、初心者でも釣りができる場所があるらしいんですよ。道具も貸してくれるみたいですし」
「……初心者でも」
「はい。僕も、最後に釣りをしたのは子供の頃ですから、ほとんど初心者みたいなものですけどね」
透は笑った。
「魚が釣れなくても、海を見ながらのんびりできれば、それでいいと思うんです」
王冠は、カップを受け取ったまま固まった。
魚が釣れなくても、いい。
成果がなくても、いい。
目的を達成しなくても、その時間を楽しめばいい。
先日、趣味について話したばかりだった。
そして今度は、全員でその考え方を実践する機会が与えられた。
「……承知しました」
「よかった。じゃあ、今度の日曜日でどうですか?」
「問題ありません」
「皆さんにも聞いてみますね」
透は、スマートフォンを取り出した。
王冠は、その姿を見つめながら考えていた。
これは、単なる休日の誘いなのだろう。
そう理解している。
理解しているのだが、なぜか胸の奥に、妙な緊張があった。
彼はこれまで、数え切れないほどの危険な場所へ赴いてきた。
銃声の響く戦場にも、誰が敵か分からない交渉の場にも、何度も足を踏み入れた。
だが、今回の目的は魚を釣ることだという。
しかも、釣れなくてもいいらしい。
王冠は、人生で初めて、成功してもしなくても構わない予定を手帳に書き込んだ。
予定の名称は、こうした。
『釣り』
その下に、小さく付け加えた。
『目的:楽しむこと』
書き終えたあと、彼はしばらくその文字を眺めていた。
*
その日の夜。
六人の連絡網では、釣りについての相談が始まっていた。
「場所はどこにする?」
黒百合が尋ねた。
「透さんが初心者向けの釣り場を見つけてくれたらしい」
王冠が答える。
「ならば、現地の環境を確認する必要がある」
道化師が即座に言った。
「海流、潮汐、天候、魚種、混雑状況。これらを把握しておけば、当日の行動が円滑になる」
「……釣りに行くだけよ?」
黒百合の声が冷たくなった。
「釣りだからこそだ。事前に情報を集めておけば、無駄な時間を減らせる」
「その無駄な時間を楽しむために行くんじゃないの?」
道化師は、黙った。
言われてみれば、確かにそうだった。
だが、何も調べずに行くというのは、彼の性格に合わない。
「……最低限の確認だけにしよう」
「その言葉、信用できないわね」
渡り烏が笑った。
「まあまあ。道具を用意する必要もあるだろう。釣り竿を持っていない者もいる」
「俺は持っていない」
葬送が言った。
「俺も」
王冠が続く。
「……私も」
零が小さく手を挙げた。
「私も持っていないわ」
黒百合も認めた。
渡り烏は、少し考えてから言った。
「では、現地で借りることにしよう。店主も、そのつもりのようだしね」
「……それが一番いい」
王冠が頷いた。
しばらくして、鷹宮宗一郎から連絡が入った。
『私も参加してよろしいでしょうか』
六人は、揃って画面を見つめた。
「……来るのか」
葬送が呟いた。
「本人が希望しているのなら、断る理由はない」
王冠が答えた。
その直後、鷹宮から追加の連絡が届いた。
『当日は秘書が送迎を担当します。必要であれば、車両を複数用意できます』
黒百合は、即座に返信した。
『普通に現地集合でいいと思うわ』
さらに数秒後。
『承知しました。現地集合といたします』
鷹宮からの返事は、驚くほど素直だった。
こうして、参加者は七人になった。
店主の朝霧透。
六人の伝説的な常連客。
そして、裏社会の大物である鷹宮宗一郎。
誰もが、日曜日を少しだけ楽しみにしていた。
ただし、道化師の端末には、すでに釣り場の地図と潮汐表が保存されていた。
彼は、それを誰にも見せなかった。
見せれば、また怒られると分かっていたからである。
*
日曜日の朝。
透は、店の前で小さなクーラーボックスを抱えていた。
「おはようございます。皆さん、準備できましたか?」
「問題ありません」
王冠が答えた。
黒百合は、日焼け止めを持っている。
葬送は、なぜか大きなタオルを三枚持っていた。
道化師は、天気予報を確認している。
渡り烏は、飲み物と軽食を用意していた。
零は、透が作ったおにぎりの入った袋を大切そうに抱えている。
そして鷹宮宗一郎は、普段の高級スーツではなく、落ち着いた色の上着を着ていた。
「おはようございます、鷹宮さん」
「おはようございます、朝霧さん。本日はお誘いいただき、ありがとうございます」
「いえいえ。そんな大したことじゃないですよ」
透は笑った。
「それじゃあ、行きましょうか」
全員が頷いた。
その光景を、道の向こうから見ていた男がいた。
灰都情報管理連絡会に所属する情報員だった。
彼は、目を疑った。
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
そして、鷹宮宗一郎。
灰都の裏社会で、名前を聞くだけで緊張が走る人物たちが、揃って一人の青年と出かけていく。
しかも、全員が普段とは違う服装だった。
情報員は、震える手で端末を取り出した。
『緊急報告。六人の伝説および鷹宮宗一郎が、朝霧透とともに移動を開始』
返信は、すぐに届いた。
『目的は?』
情報員は、彼らの手荷物を見た。
釣り竿はない。
代わりに、クーラーボックスと弁当袋がある。
彼は、慎重に答えた。
『不明。現地で装備を調達する可能性あり』
その報告は、数分後には複数の組織へ共有されていた。
そして、灰都の裏社会では、ある推測が広がり始めた。
――彼らは、海で何かを調達するつもりなのではないか。
何を調達するのか。
なぜ海なのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
*
釣り場に到着すると、透は受付で道具を借りた。
「釣り竿を七本お願いします」
「はい。初心者の方もいらっしゃいますか?」
「ええ、ほとんどみんな初心者です」
店員は、笑顔で説明を始めた。
仕掛けの扱い方。
餌のつけ方。
竿の振り方。
魚がかかったときの注意点。
透たちは、真剣に説明を聞いた。
いや、正確には、六人と鷹宮が異様なほど真剣に聞いていた。
「糸が絡まった場合は、無理に引っ張らずに、こちらの道具でほどいてください」
「承知しました」
王冠が答える。
「魚が針を飲み込んでしまった場合は、無理をせずスタッフを呼んでください」
「承知しました」
鷹宮が答える。
「足元が濡れていることがありますので、走らないようにしてくださいね」
「……承知しました」
葬送まで頷いた。
店員は、少し不思議そうな顔をした。
釣りの説明をしているだけなのに、なぜか重要な契約の場にいるような気分になる。
「それでは、楽しんでください」
「ありがとうございます」
透は、にこやかに頭を下げた。
全員が道具を持ち、海沿いの釣り場へ向かった。
目の前には、広い海が広がっていた。
風は穏やかで、空には薄い雲が流れている。
波が堤防に当たり、白い泡を残して引いていく。
「……いい景色ですね」
零が呟いた。
「そうですね」
透は、笑った。
「こういうところで、のんびりするのもいいですよね」
彼らは、釣り場の空いている場所に並んだ。
透は、竿の準備を始めた。
「まずは、餌をつけて……」
そのとき、葬送が小さく手を挙げた。
「マスター」
「はい?」
「餌は、どの程度つければいいんだ?」
「ええと……説明書には、このくらいって書いてありますね」
「なるほど」
葬送は、真剣に餌をつけた。
王冠は、隣で糸の長さを確認している。
黒百合は、海を見つめながら、少しだけ笑った。
「……本当に、何も考えなくていいのね」
「はい?」
「いえ。何でもないわ」
彼女は、竿を持った。
これから何が起きるか、誰にも分からない。
魚が釣れるかもしれない。
釣れないかもしれない。
仕掛けが絡まるかもしれない。
思ったよりも、面白いかもしれない。
それでいい。
黒百合は、初めてそう思えた。
*
釣りを始めて三十分。
誰の竿にも、魚はかからなかった。
「……釣れませんね」
透が呟いた。
「そうですね」
王冠が答えた。
「まあ、まだ三十分ですから。気長に待ちましょう」
「承知しました」
王冠は、海を見つめた。
五分後。
まだ釣れない。
十分後。
やはり釣れない。
十五分後。
道化師が、静かに口を開いた。
「潮の流れが変わっている可能性がある」
「道化師さん」
透が振り向いた。
「はい」
「釣れない時間も、楽しみましょう」
「……そうでした」
道化師は、口を閉じた。
彼は、竿を持ったまま海を眺めた。
波の音がする。
風が吹く。
遠くで、子供の笑い声が聞こえる。
特に何も起きていない。
それなのに、妙に落ち着く。
道化師は、少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき、零の竿が揺れた。
「……あ」
「零さん、かかりました?」
「……分からない」
透が隣に立った。
「少し巻いてみましょう」
零は、慎重にリールを回した。
糸の先に、小さな魚がかかっていた。
「……釣れた」
零の目が、丸くなった。
「おお! おめでとうございます!」
透が笑顔で拍手した。
零は、魚を見つめた。
小さな魚だった。
特別に珍しいわけでもない。
大きくもない。
それでも、自分の竿に魚がかかったという事実が、嬉しかった。
「……釣れた」
もう一度、彼女は呟いた。
黒百合が近づいてきた。
「よかったわね」
「……うん」
零は、少し照れくさそうに笑った。
魚は、スタッフの説明に従って丁寧に針を外し、持ち帰りが難しいサイズだったため、海へ戻した。
魚は水面を跳ね、波の向こうへ消えていった。
「……元気でね」
零が、小さく手を振った。
透は、その様子を見ながら笑った。
「また大きくなって、釣れてくれるといいですね」
零は、頷いた。
彼女にとって、その小さな魚は、今日一番の思い出になった。
*
一時間後。
葬送の竿が大きく揺れた。
「……来た!」
彼は、思わず声を上げた。
「葬送さん、落ち着いて。竿を立てすぎないでください」
「分かっている!」
返事は大きかったが、手つきは慎重だった。
糸を巻く。
魚が抵抗する。
また巻く。
そして、ようやく水面に魚が現れた。
「おおおお!」
葬送が、歓声を上げた。
魚は、思ったよりも大きかった。
透が手伝い、無事に釣り上げる。
「やりましたね!」
「……やった」
葬送は、魚を見つめた。
それから、透を見た。
「マスター。これは、食べられるのか?」
「種類と大きさを確認しましょう。持ち帰れる魚なら、料理してみるのもいいですね」
「……俺が?」
「もちろん。せっかく自分で釣ったんですから」
葬送は、魚を見つめた。
自分で釣った魚を、自分で料理する。
その発想は、彼にとって新鮮だった。
これまで、彼は数え切れないほどの任務を経験してきた。
危険な場所に潜入し、困難な状況を切り抜け、仲間を守るために戦ってきた。
だが、自分で魚を釣り、それを料理して食べるという経験は、ほとんどなかった。
「……持ち帰れるなら、やってみたい」
「いいですね。じゃあ、店で調理できるか確認してみましょう」
葬送は、嬉しそうに頷いた。
その姿を見て、王冠も少しだけ笑った。
魚が釣れたから嬉しい。
自分で釣ったものを料理してみたい。
ただ、それだけのことだ。
それなのに、葬送の表情は、任務を成功させたときとは違う輝きを帯びていた。
*
その頃。
灰都の裏社会では、釣り場周辺の情報が集まり始めていた。
「現在までに確認できた動きは?」
情報管理連絡会の責任者が尋ねた。
「七名は、現地で釣り竿を借り、海沿いに展開しています」
「展開……?」
「はい。横一列に並び、一定の距離を保っています」
「何をしている?」
「……魚を釣っているようです」
責任者は、眉をひそめた。
「魚を?」
「はい」
「……続けろ」
報告員は、端末を確認した。
「一名が小型の魚を釣り上げましたが、海へ戻したとの情報があります」
「なぜ戻した?」
「持ち帰りが難しいサイズだったようです」
会議室が静まり返った。
「……あえて成果を放棄したということか」
「いえ、魚のサイズが……」
「分かっている」
責任者は、机に指を置いた。
「だが、考えてみろ。釣り上げた魚を、あえて持ち帰らない。成果を得ることだけを目的にしていないということだ」
「……なるほど」
「一方で、別の一名は魚を持ち帰るつもりらしい」
「はい。調理することを考えているようです」
「つまり、成果を追う者と、成果を手放す者が同じ場にいる」
責任者は、ゆっくりと立ち上がった。
「……これは、役割の固定化を避けるための実験かもしれない」
報告員は、黙っていた。
もう何も言わないほうがいいと判断したのである。
責任者は、続けた。
「魚を釣ること自体が目的なのではない。状況に応じて、何を成果とするかを自分で判断する。その訓練をしているのだ」
「……確かに、そう解釈することもできます」
「よし。関連組織に共有しろ。ただし、現地への接触は禁止だ」
「承知しました」
こうして、裏社会には新たな噂が流れた。
六人の伝説は、成果を得ることと、成果を手放すことの両方を学んでいる。
実際には、零が小さな魚を海へ戻し、葬送が大きな魚を釣り上げただけだった。
だが、裏社会の人間たちは、そこに深い意味を見いだそうとしていた。
*
昼過ぎ。
釣り場には、少しずつ笑い声が増えていた。
王冠は、小さな魚を一匹釣り上げた。
黒百合は、魚がかかるたびに驚いていたが、最後には自分で針を外せるようになった。
道化師は、釣り方の分析を一度やめたあと、ようやく一匹を釣った。
渡り烏は、魚がかからなくても、海を眺めながら楽しそうにしていた。
鷹宮宗一郎は、まだ一匹も釣れていなかった。
「……釣れませんね」
透が隣に立った。
「ええ。なかなか、難しいものです」
「でも、いい天気ですね」
「……そうですね」
鷹宮は、海を見つめた。
仕事のことを考えようとしても、何も浮かばなかった。
部下の報告も、組織の問題も、明日の会議も、今は遠い。
目の前には海があり、手元には釣り竿がある。
魚が釣れない。
ただ、それだけだった。
「……不思議なものです」
鷹宮が呟いた。
「何がですか?」
「成果が出ていないのに、焦りを感じない」
透は、少し笑った。
「釣りって、そういうものですからね。魚の都合もありますし」
「魚の都合……」
「はい。こっちが頑張っても、食べたいと思ってくれないと釣れませんから」
鷹宮は、思わず笑った。
自分の組織では、誰もが成果を求められる。
結果を出すことが当然とされ、成果が出なければ原因を追究する。
それは必要なことだ。
だが、世の中には、努力だけではどうにもならないこともある。
そして、そうした時間を、無理に成果へ変えなくてもいい場合がある。
「……朝霧さん」
「はい?」
「本日は、お誘いいただいてよかった」
「それなら、よかったです」
透は、笑顔で答えた。
「また来ましょう。次は、もっと釣れるかもしれませんし」
「……ええ。ぜひ」
そのとき、鷹宮の竿が揺れた。
「……!」
「鷹宮さん、来てますよ!」
透が声を上げた。
鷹宮は、慎重にリールを巻いた。
糸の先に、小さな魚がかかっていた。
大きくはない。
珍しい魚でもない。
それでも、鷹宮は魚を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……釣れましたね」
透が笑った。
鷹宮は、静かに頷いた。
「……ええ」
彼は、魚を丁寧に海へ戻した。
そして、もう一度、竿を構えた。
今度は、釣れなくても構わないと思えた。
*
夕方。
釣りを終えた七人は、道具を返却した。
釣果は、それほど多くなかった。
持ち帰れる魚は、葬送が釣った一匹と、王冠が釣った数匹だけだった。
零は、小さな魚を釣ったことが嬉しくて、何度もその話をしていた。
黒百合は、帰り道に花屋へ寄る予定を立てていた。
道化師は、釣りの記録をまとめようとしていたが、王冠に止められた。
「……記録は必要だろう」
「今日は、必要ないんじゃないですか」
透が笑った。
「楽しかったことは、覚えていれば十分ですよ」
道化師は、しばらく考えた。
それから、端末をポケットにしまった。
「……そうですね」
渡り烏が、満足そうに頷いた。
「たまには、記録に残さない思い出もいいものだ」
葬送は、持ち帰る魚を大切そうに抱えていた。
「マスター。これを、店で料理してもいいだろうか」
「もちろんです。魚の種類と状態を確認して、安全に調理しましょう」
「……楽しみだ」
透は、笑った。
そして、全員を見渡した。
「今日は、皆さんと来られてよかったです。また、どこかへ出かけましょう」
六人は、静かに頷いた。
その言葉に、鷹宮も嬉しそうに笑った。
「次は、何をされる予定ですか?」
「そうですねえ……」
透は、少し考えた。
「今度は、みんなでピクニックとかどうですか?」
その瞬間。
王冠が、ほんの少しだけ目を見開いた。
黒百合が、動きを止めた。
道化師は、端末を取り出しかけて、慌ててポケットに戻した。
葬送は、魚を抱えたまま固まった。
渡り烏だけが、楽しそうに笑った。
「いいじゃないか。今度は弁当を持って、のんびり過ごそう」
「……そうですね」
王冠は、慎重に答えた。
「ピクニックなら、釣り道具も必要ありませんし」
「当たり前でしょう」
黒百合が呆れたように言った。
零は、少しだけ手を挙げた。
「……私、お弁当を作ってみたい」
「いいですね。じゃあ、みんなで作りましょうか」
透がそう答えると、零は嬉しそうに頷いた。
そして、その会話を聞いていた鷹宮宗一郎は、帰りの車の中で秘書に告げた。
「次の休日は、予定を空けておいてくれ」
「承知しました。ピクニックに関する準備でしょうか?」
「……いや。まずは、何をしたいか考える時間にする」
秘書は、少し驚いたあと、微笑んだ。
「かしこまりました」
*
翌朝。
灰都の裏社会では、海辺での一件が大きな話題になっていた。
六人の伝説と鷹宮宗一郎が、海で長時間にわたり活動した。
小型の魚を海へ戻した者がいた。
大きな魚を持ち帰った者がいた。
そして、最後には全員が、穏やかな表情で帰路についた。
情報管理連絡会では、これらの行動を分析した報告書が作られていた。
『成果の獲得に固執しない判断』
『環境に応じた目標の再設定』
『個人の余暇活動を通じた関係性の強化』
『競争ではなく、共通の経験による信頼形成』
報告書は、さらに続いていた。
『今後、各組織においても、成果のみを評価するのではなく、過程や本人の意思を尊重する取り組みが必要と考えられる』
報告書を読んだ幹部たちは、深く頷いた。
誰も、間違っているとは思わなかった。
実際、彼らの組織に必要な改善も含まれていたからだ。
ただし、最後のページには、こんな一文が記されていた。
『なお、次回はピクニックが計画されているとの情報がある。引き続き、動向を注視すること』
この一文によって、灰都の裏社会では、次の休日に向けた警戒が始まった。
ある組織は、ピクニック会場の候補地を調査した。
別の組織は、周辺の交通状況を確認した。
さらに別の組織では、弁当の内容が重要な意味を持つ可能性について、真剣な議論が交わされた。
誰もが、次に何が起こるのかを知りたがっていた。
その頃、CAFE 灯では。
「……さて、魚をどうしましょうか」
透が、厨房で葬送に尋ねていた。
「焼くか、煮るか、それとも揚げるか」
「……焼いてみたい」
「いいですね。じゃあ、下処理から一緒にやりましょう」
葬送は、真剣に頷いた。
零は、隣でお弁当のメニューを考えていた。
王冠は、写真集を新しく買おうか迷っていた。
黒百合は、花瓶の水を替えるために早く帰ろうと思っていた。
道化師は、パズルの続きを、今日は急がずにやろうと考えていた。
渡り烏は、帰り道に少し遠回りをするつもりだった。
彼らは、少しずつ自分の時間を取り戻していた。
それは、世界を変えるための計画ではない。
誰かを倒すための作戦でもない。
ただ、自分が何を楽しいと思うのか、少しずつ知っていくことだった。
透は、魚の焼き加減を確認しながら笑った。
「次のピクニックも、楽しみですね」
六人は、揃って頷いた。
その背後で、灰都の裏社会は、次なる大事件に備えていた。
――ピクニック。
それが、彼らにとってどんな意味を持つのか。
今のところ、誰にも分からない。
ただ一人、朝霧透だけは知っていた。
次の休日に、みんなでお弁当を食べたい。
それだけのことだった。




