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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第17話 店主が「たまには自分の好きなことをしてください」と言った結果、裏社会の大物たちが趣味を探し始めました

 人間には、仕事以外の時間が必要だ。


 そんなことは、誰でも知っている。


 よく眠ること。

 美味しいものを食べること。

 気の合う人間と話すこと。

 好きなことに時間を使うこと。


 言葉にすれば、どれも難しいことではない。


 しかし、灰都の裏社会で長年生きてきた人間たちにとって、それらは驚くほど縁遠いものだった。


 彼らは、仕事が終われば次の仕事を考えた。


 休暇が与えられれば、休暇中に処理できる案件を探した。


 予定が空けば、何か問題が起きていないか確認した。


 何も起きていない時間でさえ、何かが起きる可能性を考えていた。


 彼らにとって、何もしない時間とは、備えを怠っている時間だった。


 そんな彼らが、ある日の午後、喫茶店のカウンターで店主から尋ねられた。


「皆さんって、趣味はあるんですか?」


 たったそれだけの質問だった。


 だが、その場にいた六人の伝説的な暗殺者は、揃って黙り込んだ。


 そして翌日。


 灰都の裏社会では、複数の大組織が極秘に「個人の余暇活動に関する調査」を開始することになったのである。


     *


「趣味、ですか?」


 No.1《王冠》は、透の質問を聞き返した。


「はい。趣味です。仕事以外で好きなこととか、休みの日にやりたいこととか」


 透はコーヒーを淹れながら答えた。


「この前の試食会、皆さん楽しそうだったじゃないですか。ああいうのって、仕事とは違う楽しさがあると思うんですよね」


「……仕事とは違う楽しさ」


 王冠は、その言葉を繰り返した。


 彼はこれまで、数多くの任務を遂行してきた。


 交渉、情報収集、危機管理、組織運営。


 いずれも得意分野であり、成果を出すことに喜びを感じた経験もある。


 しかし、それらはすべて何らかの目的に結びついていた。


 趣味とは、目的を達成するためではなく、行為そのものを楽しむことなのだろうか。


 王冠は、しばらく考えてから答えた。


「……特に、ありませんね」


「そうなんですか?」


「ええ。仕事以外の時間も、必要な準備や確認に充てることが多いので」


「それだと疲れちゃいません?」


 透は、心配そうに眉を下げた。


「休む時間も大事ですよ。身体だけじゃなくて、気持ちも」


 王冠は返事をしなかった。


 その言葉が、自分に向けられていることは分かっていた。


 彼はいつも、誰かのために判断していた。


 組織が迷わないように。


 仲間が困らないように。


 何かが起きたとき、誰かが責任を取れるように。


 それらは必要なことだった。


 だが、自分自身が何をしたいのかと尋ねられたことは、ほとんどなかった。


「……マスターは、どうなのですか?」


「僕ですか?」


「趣味はありますか」


「うーん。料理とか、コーヒーの豆を探すこととか。あとは、たまに映画を見たりしますね」


「それらは、仕事にも関係しているのでは?」


「そうですね。でも、好きだからやっているだけですよ」


 透は、あっさりと笑った。


「美味しいものを食べるのも好きですし。別に何かの役に立たなくても、楽しいならいいんじゃないですか?」


 王冠は、コーヒーカップを持つ手を止めた。


 役に立たなくても、いい。


 成果がなくても、いい。


 誰かに評価されなくても、いい。


 その考え方は、彼にとってひどく難解だった。


「……なるほど」


「え? 何か変なことを言いました?」


「いいえ。大変、参考になりました」


「それならよかったです」


 透は、次の注文を受けるために厨房へ戻った。


 王冠は、カップの中のコーヒーを見つめていた。


 趣味。


 自分の好きなこと。


 仕事に役立たなくても、構わないこと。


 彼は、人生で初めて、自分のためだけに時間を使う方法を考え始めた。


     *


 その日の夜。


 六人は、いつものように店の奥に集まっていた。


「……趣味がない」


 王冠がそう告げると、黒百合が露骨に顔をしかめた。


「何よ、急に」


「マスターから尋ねられた」


「それで?」


「答えられなかった」


「……あなた、本当に趣味がないの?」


「少なくとも、趣味と呼べるものは思い当たらない」


 道化師が眼鏡を押し上げた。


「趣味の定義を確認する必要がある。仕事上の技能向上を目的としない、自発的な余暇活動。一般的には、そのように整理できるだろう」


「つまり、訓練は趣味に入らないということか」


 葬送が尋ねた。


「目的が技能向上なら、趣味とは言いにくい」


「……じゃあ、筋力トレーニングは駄目か」


「あなたは休みの日まで筋肉を鍛えているの?」


 黒百合が呆れたように言った。


「鍛えていると落ち着くんだ」


「それは趣味かもしれないわね」


「そうなのか?」


「私に聞かないで」


 渡り烏が、楽しそうに笑った。


「まあ、無理に趣味を作る必要はないだろう。好きなものがあれば、それを楽しめばいい。なければ、探してみればいい」


「その探し方が分からない」


 王冠は、真剣だった。


 道化師が、すぐに答えた。


「ならば、候補を列挙し、実際に試して、適性を評価すればいい」


「……また評価表を作るつもり?」


 黒百合が嫌な予感を覚えた。


「当然だ。未知の分野を探索するなら、比較可能な基準が必要になる」


「趣味を探すだけなのよ?」


「だからこそ、効率よく探す必要がある」


「効率よく探すこと自体が仕事になっているじゃない!」


 黒百合の声が、店の奥に響いた。


 零は、静かに手を挙げた。


「……私は、少し分かる気がする」


 全員が零を見た。


「何がだ?」


「好きなことを探すのって、難しい。何が好きか分からないときは、何を選べばいいのかも分からないから」


 零は、少し考えてから続けた。


「でも、最近はミルクティープリンを作るのが楽しい。上手く作れたら嬉しいし、次はどうしようって考えるのも楽しい」


「それは、いいことだな」


 渡り烏が微笑んだ。


「……だから、何かを試してみればいいんじゃないかな。好きかどうかは、やってみないと分からないこともあるから」


 王冠は、静かに頷いた。


「……よし。各自、一つずつ試してみよう」


「待ちなさい」


 黒百合が即座に止めた。


「何を?」


「今の話を、なぜ組織的な活動にしようとしているのよ」


「全員が趣味を持てば、互いに理解が深まる」


「それは否定しないけれど……」


「それに、マスターに尋ねられた際、全員が答えられないのは問題だ」


「誰も困っていないわよ!」


 道化師は、すでにメモを取っていた。


「仮に六人がそれぞれ異なる余暇活動を試せば、比較対象が増える。適性の共有も可能になる」


「あなたまで乗らないで!」


 こうして六人は、なぜか「趣味探索週間」を始めることになった。


 誰も、その必要性を十分に説明できなかった。


 ただ一人、零だけは、少し楽しみにしていた。


     *


 最初に挑戦したのは、王冠だった。


 彼が選んだのは、読書である。


 理由は単純だった。


 透が、映画や本を楽しんでいると話していたからだ。


 王冠は書店に赴き、数冊の本を購入した。


 小説、旅行記、料理本、写真集。


 最初は何を選べばいいのか分からなかったため、店員に尋ねた。


「仕事に関係のない本を探しているのですが」


 店員は少し困った顔をした。


「……どんなジャンルがお好きですか?」


「それを、これから確認するところです」


「なるほど……?」


 王冠は、真剣な表情で本を選んだ。


 そして、帰宅後に読書を始めた。


 最初の小説は、三十ページで登場人物の相関図を作り始めたため、読むのが止まった。


 二冊目の旅行記では、訪問先の治安情報と交通手段を調べ始めた。


 三冊目の料理本では、材料の購入先と原価を計算した。


 写真集だけは、何も調べずに眺めることができた。


 夕暮れの海。


 山間の小さな町。


 雪に覆われた森。


 王冠は、ページをめくりながら、ふと気づいた。


 自分は今、何かを解決しようとしていない。


 ただ、写真を見ている。


 それなのに、時間が過ぎていくことを惜しいとは思わなかった。


「……悪くないな」


 その夜、王冠は六人の連絡網に報告した。


『写真集は有望だ。特に風景写真には、分析を必要としない楽しみがある』


 黒百合から、すぐに返信が来た。


『その報告の仕方をやめなさい』


     *


 黒百合が選んだのは、花だった。


 理由を尋ねられれば、本人は否定するだろう。


 しかし、彼女は昔から、花を見るのが嫌いではなかった。


 ただ、任務中に花を眺めている時間などなかった。


 花屋に入った彼女は、店先に並んだ色とりどりの花を前に立ち尽くした。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


「……花を」


「はい。どんな用途でお使いになりますか?」


「用途?」


「贈り物ですか? ご自宅用ですか?」


「……自分用です」


 店員は、にこやかに頷いた。


「でしたら、お好きな花を選んでみてください」


 黒百合は、困惑した。


 好きな花。


 どれを選べばいいのか。


 長持ちするものか。

 手入れが簡単なものか。

 部屋に置いたとき邪魔にならないものか。


 いつもの癖で、選択基準を探してしまう。


 しかし、店員は急かさなかった。


 黒百合は、店先をゆっくりと歩いた。


 白い花。


 黄色い花。


 淡い紫の花。


 そして、深い赤色の小さな花に目が留まった。


「……これ」


「こちらですか。可愛らしいですね」


「可愛い?」


「はい。お好きですか?」


 黒百合は、花を見つめた。


「……嫌いじゃないわ」


「では、こちらにしましょうか」


 彼女は、その花を買った。


 帰宅後、小さな花瓶に飾った。


 特別な意味はない。


 誰かへの合図でもない。


 部屋の雰囲気を変えるためでもない。


 ただ、自分が気に入ったから、そこに置いた。


 翌朝、花を見た黒百合は、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。


 その日の連絡網には、短い報告が届いた。


『花を買った。悪くないわ』


 渡り烏から返信が来た。


『写真はあるかい?』


『ないわよ』


『そうか。残念だ』


『……今度、撮って送る』


 送信したあと、黒百合は自分の言葉に驚いた。


 誰かに見せるために、写真を撮ろうと思った。


 そのことが、少し嬉しかった。


     *


 葬送は、料理を続けることにした。


 趣味探索週間の前から練習していたが、今回は「誰かに食べてもらうため」ではなく、「自分が作ってみたいもの」を選ぶことにした。


 彼が選んだのは、オムレツだった。


 理由は、透が朝食に作っているのを見たことがあるからだ。


 卵を割る。


 混ぜる。


 フライパンを温める。


 油を引く。


 卵液を流し込む。


 手順だけなら簡単に見えた。


 しかし、実際にやってみると、卵は思ったよりも繊細だった。


 一回目は、火が強すぎた。


 二回目は、混ぜすぎた。


 三回目は、フライパンから出すときに形が崩れた。


「……くそっ」


 葬送は、崩れたオムレツを見つめた。


 昔なら、ここで苛立ちを覚えただろう。


 自分の不器用さに腹を立て、原因を探し、できるまで繰り返したはずだ。


 だが、今は少し違った。


 崩れたオムレツを一口食べてみた。


「……味は悪くない」


 卵は少し固かったが、食べられないほどではない。


 葬送は、皿を持ってソファに座った。


 テレビをつけ、何気なく料理番組を見た。


 料理人が、フライパンを軽く揺すりながら卵をまとめている。


「……なるほど。あのタイミングか」


 彼は、思わず笑った。


 次に試すことが見つかった。


 それだけで、十分だった。


 その夜、彼は六人に報告した。


『オムレツを作った。三回失敗したが、味は悪くない』


 道化師が返信した。


『火加減、混ぜ方、成形時の手順を分けて検証するとよい』


 葬送は、しばらく考えた。


『……趣味の話だったよな?』


 黒百合が返信した。


『その通りよ。無視していいわ』


 葬送は、初めて料理の失敗を誰かに笑って話せたことが、少し嬉しかった。


     *


 道化師は、パズルを選んだ。


 ただし、普通のパズルではなかった。


 彼は、千ピースの風景パズルを購入した。


 完成させること自体は難しくない。


 絵柄を確認し、色や形で分類し、端から組み立てればいい。


 彼にとっては、むしろ得意分野だった。


 問題は、途中で手を止められるかどうかだった。


 一時間後。


 彼は、すでに全体の半分以上を完成させていた。


 二時間後。


 残り百ピース。


 三時間後。


 完成。


 道化師は、完成したパズルを眺めた。


 達成感はあった。


 だが、何かが違う。


 彼は、箱に書かれた完成予想図を見た。


 それから、完成したパズルを見た。


「……同じだ」


 当然だった。


 同じ絵柄のパズルなのだから。


 道化師は、しばらく考えた。


 そして、完成したパズルを崩し始めた。


 翌日、零が尋ねた。


「……パズル、楽しかった?」


「一度完成させた」


「……もう一回やるの?」


「いや。完成したので、次は別のものを試す」


「……そっか」


 零は、少し考えてから言った。


「私は、同じものを何度も作るのも好きだよ。前より上手くできると嬉しいから」


 道化師は、顔を上げた。


「……同じことを繰り返すのが、楽しい?」


「うん。少しずつ違うから」


 彼は、その言葉を考えた。


 効率を求めれば、完成したものを再び作る意味はない。


 だが、零は完成だけを目的にしていない。


 作っている時間も、楽しんでいるのだ。


「……なるほど」


 道化師は、パズルを再び箱に戻した。


 次は、完成を急がないことにした。


 それが、彼にとって初めての「わざと時間をかける」という経験だった。


     *


 渡り烏は、散歩を選んだ。


 彼にとって、移動は日常の一部だった。


 ただし、移動には常に目的があった。


 誰かと会うため。

 情報を集めるため。

 交渉の場へ向かうため。


 今回は、違った。


 目的地を決めず、ただ歩く。


 最初は落ち着かなかった。


 どこへ向かうべきか。

 何時に戻るべきか。

 途中で確認すべき連絡はないか。


 気づけば、いつものように予定を組み立てていた。


 渡り烏は、苦笑した。


「……いかんな」


 彼は、携帯電話をポケットにしまった。


 そして、目の前にあった小さな公園へ入った。


 ベンチに座り、空を見上げた。


 雲がゆっくり流れていた。


 子供たちが遊んでいた。


 近くの売店から、焼き菓子の甘い香りが漂ってきた。


 誰も、彼に何かを求めていなかった。


 誰も、彼の判断を待っていなかった。


 彼はただ、ベンチに座っている一人の老人だった。


 それが、思いのほか心地よかった。


 しばらくして、渡り烏は売店で小さな焼き菓子を買った。


 公園のベンチに戻り、一口食べた。


「……うまいな」


 その感想には、裏も表もなかった。


 彼は、久しぶりに何の目的もない時間を過ごした。


     *


 零は、すでに見つけていた趣味を、もう少し広げてみることにした。


 ミルクティープリン作りである。


 ただし、今回は誰かに頼まれたわけではない。


 自分が作りたいと思ったから、作る。


 彼女は材料を並べ、分量を確認した。


 紅茶を濃くする。


 砂糖を減らす。


 牛乳の量を少し変える。


 前回よりも滑らかにするため、細かい網で丁寧に濾す。


 出来上がったプリンは、前よりも表面が綺麗だった。


 零は、一口食べた。


「……うん」


 少しだけ、紅茶の香りが強くなっていた。


 彼女は、嬉しくなった。


 だが、すぐに考え始めた。


 次は、茶葉を変えてみよう。


 牛乳の種類も変えてみたい。


 容器を変えたら、冷え方は違うだろうか。


 そこまで考えたところで、零は手を止めた。


 以前なら、最適な分量を見つけるまで、納得できなかったかもしれない。


 だが、今日は違った。


「……今日は、これでいい」


 彼女はプリンを一つ器に移し、冷蔵庫にしまった。


 残りは、明日みんなに食べてもらおう。


 そして今夜は、少し早く寝よう。


 明日も仕事があるからではない。


 明日も美味しいものを作るためだけでもない。


 ただ、眠りたいと思ったからだ。


 零は、静かに照明を消した。


     *


 数日後。


 六人は、再びCAFE 灯に集まった。


「……それで、趣味は見つかりましたか?」


 透が尋ねると、六人は顔を見合わせた。


「ええ。いくつか、試してみました」


 王冠が答えた。


「写真集を見るのが、思いのほか楽しかったですね」


「私は花を買ったわ」


 黒百合が、少し照れくさそうに言った。


「自分の部屋に飾っているの」


「オムレツを作った」


 葬送が誇らしげに報告した。


「まだ形は悪いが、味は良くなってきた」


「パズルを始めた」


 道化師が言った。


「ただし、完成を急がないようにしている」


「散歩も、悪くなかったよ」


 渡り烏は、穏やかな顔で笑った。


「何も考えずに歩く時間というのも、いいものだね」


「……私は、プリンを作るのが好き」


 零が、小さく付け加えた。


「前より上手くできると嬉しいし、次はどうしようって考えるのも楽しい」


 透は、六人の話を聞きながら、嬉しそうに笑った。


「いいですね。皆さん、それぞれ好きなことが見つかったんですね」


「まだ、試している途中ですが」


 王冠が言った。


「それでいいと思いますよ」


 透は、コーヒーカップを置いた。


「趣味って、無理に決めるものじゃないですから。好きなら続ければいいし、合わなかったら別のことを試せばいい。途中で変わってもいいと思います」


 六人は、静かに聞いていた。


「仕事だと、どうしても結果を出さなきゃいけないことがありますよね。でも、趣味なら、楽しかったらそれで十分じゃないですか」


 透は、少しだけ首を傾げた。


「もちろん、上手くなりたいと思うのもいいことですけど。楽しむために始めたのに、苦しくなったら本末転倒ですから」


 王冠は、深く頷いた。


「……確かに」


「皆さん、いつも頑張っているみたいですし。たまには、自分の好きなことをしてくださいね」


 透は、笑った。


「誰かの役に立たなくても、自分が楽しいなら、それでいいんですから」


 その言葉を聞いたとき、王冠は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 誰かのために生きることを、否定されたわけではない。


 仕事を捨てろと言われたわけでもない。


 ただ、自分のために何かを選んでもいいのだと、許された気がした。


 彼は、静かに頭を下げた。


「……ありがとうございます、マスター」


「え? いや、そんな大げさな話じゃないですよ」


「いえ。我々にとっては、大切な話でした」


 透は、少し困ったように笑った。


 いつものことだった。


 ただ趣味の話をしただけなのに、なぜか六人は、人生を変えるほどの助言を受けたような顔をしている。


 透は、深く考えないことにした。


 人それぞれ、いろいろあるのだろう。


     *


 だが、その日の午後。


 灰都の裏社会では、予想外の報告が上がっていた。


「……六人の伝説が、全員、仕事以外の活動を始めた?」


 鷹宮宗一郎は、報告書を手にしたまま眉を上げた。


「はい。王冠は読書と写真鑑賞。黒百合は花を購入。葬送は料理。道化師はパズル。渡り烏は目的のない散歩。零は菓子作りです」


「……目的のない散歩?」


「はい」


 報告をした部下は、顔色をうかがった。


「いずれも、組織の業務とは直接関係のない活動です」


 鷹宮は、しばらく黙っていた。


 六人がそれぞれ趣味を始めた。


 それ自体は、問題ではない。


 むしろ、健康的な変化と言えるだろう。


 だが、彼らが同じ時期に動き始めたことには、何らかのきっかけがあるはずだった。


「……朝霧透か」


「その可能性が高いかと」


 鷹宮は、椅子の背にもたれた。


 失敗を恐れずに試すこと。


 他者の意見を聞くこと。


 組織の仕組みを見直すこと。


 そして今度は、仕事以外の時間を持つこと。


 これらは、一見すると何の関係もない。


 しかし、鷹宮には、一つの共通点が見えていた。


「……彼は、あの六人を仕事だけの人間として扱っていないのだな」


「と、おっしゃいますと?」


「彼らが何を成し遂げるかではなく、彼ら自身がどう過ごしたいかを気にかけている」


 鷹宮は、報告書を閉じた。


「我々は、長い間、人間を役割で見すぎていたのかもしれない」


 部下は、黙って頭を下げた。


 鷹宮は、窓の外を見た。


 灰都の街は、いつもと変わらない。


 だが、その下で生きる人間たちの考え方は、少しずつ変わり始めているのかもしれなかった。


「……我々の幹部にも、休暇を取らせよう」


「休暇、ですか?」


「そうだ。仕事以外の時間を持つように勧める」


「具体的には、何をさせればよろしいでしょうか」


「……好きなことをさせればいい」


「好きなこと、でございますか」


 鷹宮は、そこで初めて、自分も同じ質問に答えられないことに気づいた。


「……まずは、私自身が考えてみる必要がありそうだな」


 翌日、鷹宮宗一郎は、秘書に一つの指示を出した。


「趣味を探すための時間を確保してくれ」


 秘書は、驚きながらも手帳を開いた。


「承知しました。どの程度のお時間を?」


「……半日でいい」


「その間の会議は、すべて延期いたしますか?」


「いや、必要なものは出る」


「それでは、時間を確保できませんが」


「……」


 鷹宮は、初めて自分の指示の矛盾を指摘された。


 秘書は、遠慮がちに続けた。


「会長。趣味を探す時間は、会議の合間に行うものではないのでは?」


 鷹宮は、長い沈黙の後、頷いた。


「……君の言う通りだ」


 その日、灰都の大企業のトップは、初めて自分の予定表から会議を一つ削除した。


 そして、空いた時間に何をするか、真剣に考え始めた。


     *


 夜。


 CAFE 灯では、閉店後の片づけが終わっていた。


 透は、カウンターに座り、今日の売上を確認していた。


 零が、温めたミルクティーを持ってくる。


「……どうぞ」


「ありがとうございます」


 透はカップを受け取り、一口飲んだ。


「美味しいですね」


「……少し、茶葉を変えてみた」


「へえ。前より香りが柔らかい気がします」


「……分かるの?」


「何となくですけど」


 零は、嬉しそうに微笑んだ。


「……よかった」


 透は、帳簿を閉じた。


「そういえば、零さんは休みの日、何をしているんですか?」


「……プリンを作ったり、寝たり」


「いいですね。ちゃんと休んでくださいね」


「……うん」


 零は、少し考えてから尋ねた。


「透さんは、休みの日に何をするの?」


「僕ですか? うーん……新しいコーヒー豆を探したり、映画を見たり。あと、たまに何もしないで過ごします」


「……何もしない?」


「はい。朝寝坊したり、家でのんびりしたり。そういう日も必要ですよ」


 零は、静かに頷いた。


「……私も、今度そうしてみる」


「ぜひ。休みの日まで頑張らなくていいですから」


 透は、笑った。


 零も、笑った。


 窓の外では、灰都の街灯が静かに光っていた。


 誰かが働き、誰かが眠り、誰かが明日の予定を考えている。


 その中には、初めて自分のための時間を作ろうとしている人間たちもいた。


 彼らが、どんな趣味を見つけるのかは分からない。


 途中で飽きるかもしれない。


 別のことに興味が移るかもしれない。


 何も見つからないまま、しばらく過ごすかもしれない。


 それでもいいのだろう。


 好きなことは、任務のように期限を決めて達成するものではない。


 自分の心が、少しだけ動く瞬間を探すこと。


 その瞬間を、誰かに許可してもらわなくてもいいと知ること。


 それもまた、生きるということなのかもしれない。


 そして翌朝。


 CAFE 灯の扉を開けた透は、店の前に立つ黒い高級車を見つけた。


 降りてきたのは、鷹宮宗一郎だった。


「おはようございます。今日はどうされました?」


 透が尋ねると、鷹宮は、いつになく真剣な表情で頭を下げた。


「朝霧さん。少し、ご相談がございます」


「はい。何でしょう?」


「……趣味を探したいのです」


 透は、数秒間、言葉を失った。


「……趣味?」


「はい」


「ええと……」


 透は、鷹宮の後ろに並ぶ秘書たちを見た。


 秘書たちも、真剣な顔で頷いている。


 どうやら、冗談ではないらしい。


「……うちの店で、趣味を探すんですか?」


「可能であれば」


「いや、ここは喫茶店なんですけど……」


「承知しております」


「コーヒーを飲む以外にも、いろいろありますけどね」


「ぜひ、教えていただきたい」


 透は、困ったように頭を掻いた。


 鷹宮は、裏社会でも指折りの大物である。


 そんな人物が、趣味を探すために喫茶店を訪れる。


 普通に考えれば、意味が分からない。


 しかし、透は相手の事情を知らない。


 だから、いつも通りに答えた。


「……そうですね。まずは、好きなことを考えてみたらどうですか?」


「好きなこと……」


「昔、夢中になったものとか。気になっているけど、やったことがないものとか」


 鷹宮は、目を閉じた。


 昔、夢中になったもの。


 気になっていたもの。


 仕事に追われるうちに、いつの間にか忘れてしまったもの。


 彼は、長い時間をかけて考えた。


 そして、ゆっくりと目を開いた。


「……釣り、でしょうか」


「釣り?」


「若い頃、一度だけ経験したことがあります。魚が釣れるまで、ただ待つ時間が……嫌いではありませんでした」


 透は、嬉しそうに笑った。


「いいじゃないですか。じゃあ、またやってみたらどうですか?」


「……また、やってみる」


「はい。上手く釣れなくても、それはそれで楽しいかもしれませんよ」


 鷹宮は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。少し、考えてみます」


 そして彼は、秘書たちとともに車へ戻った。


 透は、その背中を見送りながら呟いた。


「……釣りかあ。僕も久しぶりに行ってみようかな」


 その日、鷹宮宗一郎は、秘書に釣具店の場所を調べるよう指示した。


 情報部は、会長が釣りに興味を示したという報告を受け、関連する情報を集め始めた。


 護衛部門は、釣り場の安全性を確認する必要があると判断した。


 経営幹部たちは、会長の新しい趣味が組織運営にどのような影響を与えるか、密かに議論を始めた。


 そして灰都の裏社会には、新たな噂が流れた。


 鷹宮宗一郎が、何かを釣り上げようとしている。


 それが魚なのか。


 それとも、誰にも知られていない新たな計画なのか。


 誰もが慎重に情報を集め始めた。


 ただ一人、朝霧透だけが知っていた。


 鷹宮宗一郎は、久しぶりに釣りをしてみようと思っただけなのだ。


 その夜、透は自宅で釣り道具を探しながら、笑った。


「……今度、みんなで釣りに行くのも楽しそうだな」


 翌日。


 六人の連絡網に、その一言が共有された。


 そして、灰都の裏社会で、過去最大規模の「休日の過ごし方に関する検討会」が開かれることになるのだった。

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