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六人の伝説が頭を下げる店  作者: パルパル


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第12話 新人アルバイトが一度お客様に怒られただけで、伝説の五人が店の前に集結しました

 朝霧透は、最近ひとつ気づいたことがあった。


 人を雇うというのは、思っていた以上に難しい。


「零さん、そこのカップは、乾いてから棚に戻してくださいね」


「……わかった」


「あと、床が濡れていると滑るので、拭いたあとは看板を置いておきましょう」


「……うん」


 No.6《零》は、真剣な顔で頷いた。


 アルバイトを始めて三日目。


 彼女は、すでに店内の清掃手順をほとんど覚えていた。テーブルの隅に残った汚れにもよく気づき、食器の並べ方も、透が教えたとおりに整えている。


 仕事ぶりは、申し分なかった。


 ただし、ひとつだけ問題がある。


「零さん、疲れていませんか?」


「……平気」


「本当に?」


「……うん」


 そう答えながら、零はすでに三時間近く休憩を取っていなかった。


 透は困ったように笑った。


「仕事が早いのは助かりますけど、休憩も仕事のうちですよ」


「……でも、まだ掃除が」


「掃除は逃げませんから」


 透は、零の手から布巾を受け取った。


「ほら、コーヒーを淹れますから、一緒に休みましょう」


 零は少し迷ったあと、素直に頷いた。


「……うん」


 カウンターに座り、温かいコーヒーを飲む。


 その隣には、小さな皿に載ったクッキーがあった。


 零はクッキーをひとつ手に取り、じっと眺めた。


「……これ」


「はい?」


「……今日も、あるんだ」


「ええ。休憩のお供です」


 透は笑った。


「毎日同じだと飽きるかもしれませんけどね。今度は違うお菓子も用意してみます」


 零は、ゆっくりとクッキーを口に運んだ。


 甘かった。


 特別な味ではない。


 高級な菓子でもない。


 それでも、彼女はその小さなクッキーを、ひどく大切なもののように食べた。


 自分の働きに対する報酬というわけでもない。


 何かを達成したご褒美でもない。


 ただ、休憩する時間だから、そこに置かれている。


 それが、零にはまだ少し不思議だった。


     *


 その日の午後、店に一人の男がやってきた。


 年齢は五十代ほど。


 高価そうな腕時計を身につけ、仕立てのよいジャケットを着ている。


 男は店内を一瞥すると、空いている席に腰を下ろした。


「いらっしゃいませ」


 透が注文を取りに行くと、男はメニューをろくに見ずに言った。


「ブレンドをひとつ」


「かしこまりました」


 透が厨房へ戻ると、零がテーブルを拭いていた。


 男は、店内を見回しながら、少し不満そうに鼻を鳴らした。


「……最近、ずいぶん人が増えたな」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 零は返事をせず、別のテーブルへ移ろうとした。


「おい」


 男に呼び止められた。


「……はい」


「この店は、いつもこんなに片づけが遅いのか?」


 零は、自分が担当していたテーブルを見た。


 拭き残しはない。


 椅子も揃っている。


 床にも目立った汚れはなかった。


「……申し訳ありません。何か、気になるところがありましたか」


「見ればわかるだろう。店員なら、客に言われる前に気づけ」


 零は、男の視線を追った。


 男が指さしていたのは、テーブルの端に残った、ごく小さな水滴だった。


 零はすぐに布巾を取り出し、拭き取った。


「……失礼しました」


「まったく。最近の若い者は、言われなければ何もできない」


 男は、それ以上何も言わず、スマートフォンに目を落とした。


 零は、静かに頭を下げた。


 そして、次のテーブルへ向かった。


 それだけだった。


 客から注意されること自体は、珍しいことではない。


 仕事をしていれば、誰かの期待に応えられないこともある。


 零は、それを理解していた。


 だが、胸の奥に、ひどく小さな棘が残った。


 自分は、何か間違えたのだろうか。


 あの水滴を、見落としてしまった。


 それは事実だった。


 ならば、次から気をつければいい。


 それだけのことだ。


 そう考えようとした。


 けれど、男の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 ――言われなければ何もできない。


 零は布巾を握り直した。


 そして、いつもより少しだけ速い動きで、次のテーブルを拭き始めた。


     *


 十分後。


「零さん、ちょっといいですか?」


 厨房から戻った透が、彼女に声をかけた。


「……何?」


「少し、手を止めてください」


 零は動きを止めた。


 透は、彼女の手元を見た。


「さっきのお客様に、何か言われましたか?」


 零は、わずかに目を見開いた。


「……どうして?」


「いつもより、ずっと急いでいるように見えたので」


 零は答えなかった。


 透は、困ったように頭をかいた。


「もし、僕の教え方が悪かったなら、遠慮なく言ってくださいね」


「……違う」


「それなら、よかったです」


 透は、少しだけ安心したように笑った。


「お客様から注意されることは、誰にでもあります。でも、一度言われたからって、全部を完璧にしようとしなくても大丈夫ですよ」


 零は、俯いた。


「……でも、見落とした」


「そうですね。水滴が残っていたのは、確かです」


 透は、否定しなかった。


「だから、次から気をつければいいんです。何度も同じことを繰り返さないように、少しずつ覚えていきましょう」


 零は、黙って聞いていた。


「それに、あのお客様が言ったことを、全部背負う必要はありません」


「……全部?」


「はい。テーブルを拭き残したことは、次から気をつければいい。でも、『言われなければ何もできない』という言葉まで、全部自分のことだと思わなくていいんです」


 透は、穏やかに続けた。


「誰だって、最初から何もかも気づけるわけじゃありませんから」


 零は、ゆっくりと顔を上げた。


「……私でも?」


「もちろんです」


 透は笑った。


「零さんは、まだ働き始めて三日目ですよ」


 その言葉を聞いて、零の胸にあった棘が、ほんの少しだけ小さくなった。


 彼女は、長いあいだ、失敗を許されない場所で生きてきた。


 一度の見落としが、大きな損失につながることもあった。


 判断を誤れば、誰かが傷つくこともあった。


 だからこそ、彼女は、失敗しないことを自分に課してきた。


 だが、この店では。


 水滴を拭き残したからといって、存在そのものを否定されるわけではない。


 間違えたら、次から気をつければいい。


 わからなければ、聞けばいい。


 それだけのことなのだ。


「……ありがとう」


「いえいえ。あ、でも、疲れているなら休憩してくださいね」


「……平気」


「その返事は、ちょっと信用できないんですよねえ」


 透が苦笑すると、零はほんのわずかに口元を緩めた。


     *


 問題が起きたのは、それから二十分後だった。


 男が、空になったカップをテーブルに置いた。


「おい、店主」


「はい。おかわりでしょうか?」


「違う。さっきの店員を呼べ」


 透は、少しだけ表情を改めた。


「何かございましたか?」


「あの店員だ。客に注意されたあとも、態度が暗い。接客をする人間としてどうなんだ?」


 透は、男の言葉を聞きながら、零の様子を思い返した。


 確かに、少し落ち込んでいた。


 けれど、それは客を不快にさせようとしたからではない。


 仕事をきちんと覚えようとして、必要以上に自分を責めていたのだ。


「申し訳ありません。もし、何か気になる点があれば、私からも確認します」


「確認? そんなことをする前に、店員としての教育を徹底したらどうだ」


 男の声が大きくなった。


 近くの客が、ちらりとこちらを見た。


 透は、落ち着いた声で答えた。


「ご指摘ありがとうございます。テーブルの拭き残しについては、こちらの不注意でした。今後、確認を徹底します」


「そういうことを言っているんじゃない!」


 男がテーブルを叩いた。


 カップが、かすかに音を立てた。


「客が店員を指導してやったんだ。普通なら、もっと申し訳なさそうにするものだろう!」


 透は、少しだけ眉を寄せた。


 謝罪は必要だ。


 店の不手際があったのなら、店主として責任を取る。


 だが、客が店員に何を言ってもいいわけではない。


 ましてや、仕事を始めて三日目の人間に、完璧な接客を求めるのは無理がある。


「申し訳ありません。ただ、零さんはまだ仕事を覚えている途中です。失敗したことは、こちらで指導します」


「だから、もっと厳しく指導しろと言っているんだ!」


「……それは、私が判断します」


 透は、はっきりと言った。


 男が目を見開いた。


 店内が静まり返る。


「何だと?」


「お客様のご意見は、きちんと受け止めます。ただ、スタッフへの指導については、私が責任を持って行います」


 透は、頭を下げた。


「ご不快な思いをさせてしまったことは、申し訳ありませんでした」


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「ですが、スタッフを必要以上に責めることは、できません」


 男は、しばらく透を睨みつけていた。


「……もういい!」


 彼は財布を取り出し、代金をテーブルに置いた。


「二度と来るものか!」


 男は椅子を乱暴に引き、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 透は、小さく息を吐いた。


「……困ったな」


 それから、零のほうを振り返った。


 零は、入口の近くに立ったまま、動かなかった。


 顔から、表情が消えていた。


「零さん」


「……」


「大丈夫ですか?」


 零は、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


 だが、その返事が本心ではないことを、透は何となく感じていた。


     *


 同じ頃。


 店から少し離れた路地に、黒い車が停まっていた。


 車内には、No.1《王冠》とNo.2《黒百合》が乗っていた。


 今日は、二人とも店に立ち寄る予定だった。


 しかし、入口の前まで来たところで、店内から大きな声が聞こえてきたのである。


「……何があったのかしら」


 黒百合が窓の外を見た。


 王冠は、静かに店内の様子を確認した。


 透が客に頭を下げている。


 その少し後ろに、零が立っていた。


 客は怒った様子で店を出ていった。


 王冠の目が、細くなった。


「……マスターが謝罪している」


「零が、何か失敗したの?」


「状況だけでは判断できない」


 王冠はそう答えた。


 しかし、彼の声は普段よりも低かった。


 黒百合は、零の姿を見つめた。


 顔は見えない。


 それでも、彼女にはわかった。


 あの立ち方は、知っている。


 何かを言われたあと、感情を押し殺して、周囲に心配をかけないようにしているときの立ち方だ。


「……嫌な感じね」


 黒百合が呟いた。


 王冠は、すぐにドアを開けようとはしなかった。


 祖父との約束がある。


 店主の人生を勝手に決めない。


 本人が望まない形で介入しない。


 それは、何度も確認してきたことだった。


「まず、マスターに事情を尋ねるべきだ」


「そうね」


 二人は車を降りた。


 店へ入る前に、王冠は一度だけ立ち止まった。


「……何があったとしても、零自身の意思を確認する。勝手に報復するようなことは、絶対にするな」


「わかっているわ」


 黒百合は答えた。


 彼女もまた、同じことを考えていた。


 零を守りたい。


 だが、零を守るという名目で、彼女の選択を奪いたくはない。


 その違いを、二人は忘れていなかった。


     *


 店に入ると、透が二人に気づいた。


「あ、王冠さん、黒百合さん。いらっしゃいませ」


「マスター。今、何かあったようですが」


「ああ……少し、お客様と行き違いがありまして」


 透は、簡単に事情を説明した。


 零がテーブルの水滴を拭き残したこと。


 客から注意されたこと。


 その後、接客態度についても強く責められたこと。


 そして、透自身が店として謝罪し、スタッフへの指導は自分が責任を持つと伝えたこと。


 王冠は、黙って聞いていた。


 黒百合も、口を挟まなかった。


 説明が終わると、王冠が尋ねた。


「……零は、今どうしていますか?」


「少し休んでもらっています。今日は、もう無理に働かなくてもいいと伝えました」


「そうですか」


 王冠は、零のいるほうを見た。


 彼女は休憩用の椅子に座っていた。


 両手を膝の上に置き、じっと床を見つめている。


 いつものように周囲を観察している様子はなかった。


 黒百合が、ゆっくりと近づいた。


「零」


 零が顔を上げた。


「……黒百合」


「少し、外で話さない?」


 零は一瞬迷ったあと、頷いた。


「……うん」


 二人が店の裏口から出ていくのを見送って、王冠は透に向き直った。


「マスター」


「はい?」


「……あなたは、零を責めなかったのですね」


 透は、不思議そうに首を傾げた。


「え? もちろん、仕事で間違えたところは教えますよ。でも、あれは少し厳しすぎると思いましたから」


「……そうですか」


「零さんは、真面目に仕事をしてくれています。だからこそ、失敗したときに必要以上に落ち込んでしまうんでしょうね」


 透は、困ったように笑った。


「僕も、最初から何でもできたわけじゃありませんから」


 王冠は、何も言わなかった。


 この店では、失敗をなかったことにするわけではない。


 間違いを指摘し、次に活かす。


 それは必要なことだ。


 だが、失敗した人間を追い詰めることはしない。


 その違いを、透は自然に理解している。


 王冠は、改めて思った。


 自分たちが守りたいのは、店の建物だけではない。


 この店にある、こうした当たり前の扱い方なのだ。


     *


 店の裏手。


 黒百合は、壁に寄りかかっている零の隣に立った。


「……大丈夫?」


 零は、すぐには答えなかった。


 やがて、小さく口を開いた。


「……わからない」


「そう」


「……私、失敗した」


「水滴が残っていたんでしょう?」


「……うん」


「それなら、次から気をつければいいわ」


 零は顔を上げた。


「……それだけ?」


「それだけ、というのも違うけれど」


 黒百合は、少し考えてから言った。


「失敗したことと、あなた自身が駄目な人間だということは、別でしょう」


 零は、黙っていた。


「あなたは、いつも周りをよく見ている。細かいことにも気づくし、誰かが困っていると、すぐに動こうとする」


 黒百合は、静かに続けた。


「でも、全部に気づけるわけじゃない。私だって、そうよ」


「……黒百合も?」


「もちろん」


 黒百合は、少しだけ笑った。


「私は、人の顔色を読みすぎることがある。相手が何も言っていないのに、嫌われたんじゃないかとか、何か隠しているんじゃないかとか、勝手に考えて疲れることもあるわ」


 零は、彼女を見つめた。


 黒百合が自分の弱さを口にすることは、あまりなかった。


「……知らなかった」


「言わなかったもの」


 黒百合は肩をすくめた。


「でも、今は言ってもいいと思ったの。あなたに、ひとりで抱え込んでほしくなかったから」


 零は、視線を落とした。


「……私、また失敗するかもしれない」


「そうね。するかもしれないわ」


 黒百合は、あっさりと答えた。


 零が顔を上げる。


「……否定しないんだ」


「だって、本当のことでしょう?」


 黒百合は穏やかに言った。


「失敗しないように気をつけることはできる。でも、絶対に失敗しない人間にはなれないわ」


 そして、少しだけ声を柔らかくした。


「だから、失敗したときにどうするかを覚えていけばいいのよ」


 零は、長いあいだ黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……うん」


 黒百合は、彼女の肩を軽く叩いた。


「それと、あなたがここで働きたいと思った理由を、忘れないで」


「……理由?」


「誰かに認められるためだけじゃなかったでしょう?」


 零は、ゆっくりと目を閉じた。


 そうだった。


 ここで働いてみたいと思った。


 掃除をして、店をきれいにして、誰かが気持ちよく過ごせるようにしたいと思った。


 それは、誰かに評価されるためだけではなかった。


「……うん。忘れない」


 零は、小さく答えた。


     *


 そのころ、店内では、王冠がコーヒーを飲んでいた。


 透はカウンターの向こうで、明日の仕込みについて考えている。


 王冠は、しばらく黙ってから尋ねた。


「マスター。もし、また同じようなことが起きたら、どうされますか?」


「同じようなこと、ですか?」


「スタッフが失敗し、客から強く責められるようなことです」


 透は、少し考えた。


「まずは、何があったのか確認します。それから、店として直すべきところがあれば直しますし、スタッフにも必要なことを伝えます」


「それでも、相手が納得しなかった場合は?」


「……難しいですね」


 透は、正直に答えた。


「できるだけ話し合いたいですけど、何をしても怒り続ける人もいるでしょうし」


 王冠は、じっと透を見た。


「その場合は、どうするのですか?」


「うーん」


 透は、しばらく考えてから言った。


「お客様に満足してもらうことは大事です。でも、スタッフを傷つけてまで、すべての要求に応えるのは違うと思います」


 王冠の指が止まった。


「……スタッフを、傷つけてまで」


「はい。もちろん、店に問題があれば、こちらが責任を取ります。でも、誰かに嫌な思いをさせないために、別の誰かに我慢させ続けるのも違うんじゃないかなって」


 透は、少し照れくさそうに笑った。


「まだ店主としては勉強中ですけどね」


 王冠は、静かに頭を下げた。


「……十分だと思います」


「え?」


「いえ。こちらの話です」


 王冠は、カップを持ち上げた。


 彼は、組織を運営するうえで、何度も判断を迫られてきた。


 全員を満足させることはできない。


 誰かの利益を守れば、別の誰かが不満を抱く。


 それでも、責任者は決断しなければならない。


 だからこそ、彼は結果を重視してきた。


 だが、透は、結果だけを見ていない。


 誰が何を失うのか。


 誰が無理をしているのか。


 そのことも、同じように考えている。


 それは、王冠にとって新しい考え方ではなかった。


 祖父も、同じことを大切にしていた。


 ただ、彼自身がいつの間にか、忘れてしまっていただけなのだ。


     *


 夕方。


 零は店に戻ってきた。


 透は、すぐに気づいた。


「零さん。大丈夫ですか?」


「……うん」


 零は少し考えてから、続けた。


「……明日も、働きたい」


 透は、優しく笑った。


「もちろんです。無理のない範囲でお願いしますね」


「……わかった」


 零は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


「……今日、失敗したところは、明日から気をつける」


「はい。よろしくお願いします」


 透は、いつもどおり答えた。


 それ以上、何も付け加えなかった。


 大げさに褒めることも、特別な言葉をかけることもしなかった。


 明日も働く。


 ただ、それだけの話だった。


 だが、零にとっては、それで十分だった。


 失敗しても、ここに戻ってきていい。


 落ち込んでも、また仕事を覚えていけばいい。


 自分でそう決めて、明日もここに来る。


 それは、誰かに命じられたことではなかった。


 零自身が選んだことだった。


     *


 閉店後。


 六人は、夜のBARに集まっていた。


「……零は、明日も働くそうだ」


 王冠が報告した。


「そう」


 黒百合は、安心したように頷いた。


 葬送が、拳を握った。


「……あの客、許せんな」


「葬送」


 王冠の声が、低くなった。


「わかっている。何もしない」


「ならいい」


 葬送は、少しだけ不満そうに黙った。


 道化師が、眼鏡を押し上げた。


「今回の件で、ひとつわかったことがある」


「何だ?」


 渡り烏が尋ねた。


「店主は、客の意見を受け止めることと、客の要求をすべて受け入れることを、明確に分けている」


「……そうだな」


 王冠が頷いた。


「だからこそ、我々も気をつけなければならない」


 黒百合が言った。


「零を守りたいからといって、勝手に相手を罰したりしたら、店主が守ろうとしているものを壊してしまう」


 葬送は、黙って拳を開いた。


 彼らには、力がある。


 相手を探し出すことも、行動を制限することも、社会的な立場を失わせることも、難しくはない。


 だが、それができるからといって、何をしてもいいわけではない。


 祖父は、彼らに店を守るよう頼んだ。


 店主の人生を勝手に決めるな、とも言った。


 そして今、透は零に、自分で考え、自分で選ぶ機会を与えている。


 ならば、彼らがすべきことは、零の代わりに怒ることではない。


 零が自分で選んだ道を、尊重することだった。


「……明日、何事もなかったように、ここでコーヒーを飲もう」


 渡り烏が言った。


「それが一番だろう」


 王冠が答えた。


 零が失敗したからといって、彼女がここにいられなくなるわけではない。


 客から怒られたからといって、彼女が働く資格を失うわけでもない。


 明日も、いつもどおり店が開く。


 零はエプロンを身につける。


 透はコーヒーを淹れる。


 客は席に座り、それぞれの時間を過ごす。


 それだけでいい。


     *


 翌朝。


 透は、店の入口を開ける前に、ひとつの貼り紙を作っていた。


『スタッフへのご意見・ご要望は、店主までお申しつけください』


 その下には、少し小さな文字で、こう書き加えた。


『誰もが気持ちよく過ごせるお店を目指しています。ご理解とご協力をお願いいたします』


 透は、貼り紙を眺めた。


「……これでいいかな」


 特定の客を責めるためではない。


 零を特別扱いするためでもない。


 これから働くかもしれない人も、今いる客も、みんなが気持ちよく過ごせるように。


 そのための、ごく普通の店のルールだった。


 透は入口に貼り紙を貼り、扉を開けた。


「おはようございます、零さん」


「……おはよう」


 零は、いつもどおりエプロンを身につけていた。


 少しだけ表情が柔らかくなっている。


「今日もよろしくお願いしますね」


「……うん」


 店の奥では、王冠がコーヒーを待っていた。


 黒百合は、窓際の席に座った。


 葬送は、厨房を気にしながらメニューを眺めている。


 道化師は、入口の新しい貼り紙に目を留めた。


 渡り烏は、何も言わずに微笑んだ。


 そして零は、最初のテーブルを丁寧に拭き始めた。


 端に水滴が残っていないか、最後にもう一度確認する。


 昨日より、少しだけ慎重に。


 けれど、昨日ほど必死ではなかった。


 失敗しないために、すべてを完璧にしようとするのではなく。


 失敗したら、次に気をつければいい。


 そのことを、少しずつ覚えていけばいい。


 零は布巾を置き、透に声をかけた。


「……店主」


「はい?」


「……今日も、ここにいていい?」


 透は、きょとんとしたあと、笑った。


「もちろんですよ。零さんは、うちのアルバイトなんですから」


 零は、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


 それから、ほんの少しだけ付け加えた。


「……ありがとう」


 透は、いつもどおりに答えた。


「いえいえ。じゃあ、今日もよろしくお願いします」


 灰都の裏社会では、前日の騒動について、さまざまな憶測が飛び交っていた。


 店主がスタッフを守るために新たな規則を制定した。


 六人の伝説が、店の秩序を維持するために動き始めた。


 あの店では、客であっても店主の判断を尊重しなければならない。


 噂は、今日も勝手に膨らんでいく。


 だが、朝霧透が考えていたことは、ただひとつだった。


 今日は零さんが、少しでも楽しく働けるといい。


 そして、昼の仕込みに失敗しないといい。


 それだけだった。

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