第13話 店主が常連客に「たまには誰かを頼ってみたら」と言った結果、裏社会の均衡が揺らぎ始めました
人は、誰かに頼ることを覚えるまでに、どれほど多くのものを失わなければならないのだろう。
朝霧透は、そんな難しいことを考えながらコーヒーを淹れていたわけではない。
単に、目の前の男があまりにも疲れて見えたのである。
「……マスター」
「はい?」
「本日は、少々ご相談が」
「いいですよ。コーヒーのおかわりですか?」
「いえ。そうではなく」
銀髪の男――No.1《王冠》は、いつものように背筋を伸ばし、完璧な姿勢でカウンターに座っていた。
仕立てのよいスーツ。隙のない身のこなし。冷静沈着な表情。
ただし、その目の下には、うっすらと隈ができていた。
透はそれを見逃さなかった。
「王冠さん、最近ちゃんと寝てます?」
「……睡眠は取っております」
「何時間くらい?」
「必要な時間を」
「それ、何時間ですか?」
「……三時間ほどでしょうか」
「少なっ!」
思わず声が大きくなった。
王冠は、ほんのわずかに目を伏せた。
「現在、少々立て込んでおりまして」
「仕事ですか?」
「ええ。いくつかの案件が重なり、調整に時間を要しております」
「一人で全部やってるんですか?」
「私が処理した方が、全体としては効率的ですので」
透は、手を止めた。
それから、カップを置くような軽い調子で言った。
「たまには誰かを頼ってみたらどうです?」
王冠が沈黙した。
店内の時計が、秒針をひとつ進める。
「……誰かを、頼る」
「はい。ほら、王冠さんって、いつもみんなのことを気にかけてるじゃないですか。でも、自分だけ無理してたら、いつか倒れちゃいますよ」
「私が倒れれば、困る者が出ます」
「王冠さんが倒れたら、もっと困るんじゃないですか?」
透は、何の気なしに続けた。
「頼るって、全部を任せることじゃないと思うんです。自分ができることと、誰かにお願いした方がいいことを分けるだけでも、少し楽になるんじゃないかな」
王冠は、カウンターの木目を見つめた。
彼の頭の中では、すでに別の問題が動き始めていた。
自分が処理すべきだと判断してきた案件。
自分が責任を負うべきだと思い込んでいた交渉。
自分が決めなければ、誰かが傷つくと信じていた選択。
それらを、他人に委ねる。
それは単なる業務分担ではない。
自分が正しいと信じてきた統治の形そのものを、見直すということだった。
「……マスター」
「はい?」
「誰に頼るべきか、見極める必要がありますね」
「そうですね。得意な人にお願いするといいと思います」
「得意な人に……」
「料理が得意な人に料理をお願いするみたいな感じで」
「…………」
王冠は、ゆっくりと顔を上げた。
透は、ちょうど焼き上がったトーストを皿に載せている。
王冠は、その横顔を見ながら、深く頷いた。
「承知しました」
「え? あ、はい。トーストもどうぞ」
「いただきます」
その朝、王冠はいつもより長く店にいた。
コーヒーを飲み、トーストを食べ、帰り際には珍しく「ごちそうさまでした」と笑った。
透は思った。
少しは休んでもらえたらしい。
それだけで、十分だった。
*
午前十時四十分。
灰都の地下にある、所在を知る者が限られた会議室。
そこに、裏社会の主要組織を束ねる幹部たちが集められていた。
呼び出したのは、王冠だった。
普段なら、彼が議題を整理し、各組織の意見を聞き、最終的な結論まで導く。
しかし、その日の王冠は違った。
「本日の議題は三件です」
静かな声が会議室に響く。
「第一に、北区の物流経路を巡る対立。第二に、情報流通の管理体制。第三に、各組織間の責任分担について」
幹部たちは、一斉に姿勢を正した。
王冠は資料を閉じた。
「私は、本日、進行役に徹します」
沈黙。
誰も意味が分からなかった。
「……進行役、ですか?」
「ええ。北区の物流については、現場を知る者が最も適切な判断を下せるでしょう。担当者から説明を」
王冠は、一人の男へ視線を向けた。
指名されたのは、これまで会議でほとんど発言したことのない物流部門の責任者だった。
「わ、私ですか?」
「あなたです。現場の状況を、あなた自身の言葉で説明してください」
「しかし、王冠様のご判断を仰ぐものとばかり……」
「判断材料を出すのは私の役目ではありません。あなたが最も多く持っているはずです」
男は、しばらく口を開けたまま固まった。
やがて、おそるおそる資料を開く。
説明は、決して洗練されたものではなかった。
言葉に詰まり、資料を何度もめくり、途中で数字を言い間違えた。
だが、現場で何が起きているのかという話だけは、誰よりも具体的だった。
王冠は遮らなかった。
間違いを指摘することも、結論を先回りすることもしなかった。
最後まで聞いたうえで、尋ねた。
「あなた自身は、どうすべきだと考えますか?」
「……私の考えで、よろしいのでしょうか」
「あなたの考えを聞いています」
男は息を呑んだ。
そして、初めて自分の判断を口にした。
それをきっかけに、別の幹部が意見を出した。
さらに別の者が、対立していた相手の事情を説明した。
長年、王冠の判断を待つばかりだった会議室に、少しずつ言葉が増えていく。
もちろん、すべてが円満に解決したわけではない。
意見はぶつかり、数字は食い違い、互いの責任を押しつけようとする者もいた。
王冠は、そのたびに問いを返した。
「それは、あなたが決めるべきことではありませんか?」
「相手の事情を確認しましたか?」
「あなたが望む結果は、具体的に何ですか?」
会議は予定を一時間も超過した。
しかし、三件のうち二件について、現場の責任者たち自身が合意にたどり着いた。
残る一件も、次回までに双方が案を持ち寄ることになった。
会議が終わったとき、幹部の一人が呆然と呟いた。
「王冠様が……我々に判断を委ねた」
別の男が、震える声で応じる。
「いや、違う」
「何が違う?」
「我々が、自分で判断できるかどうかを試されたのではないか」
その解釈は、瞬く間に会議室の外へ広がった。
王冠が支配を弱めたのではない。
支配の形を変えたのだ。
誰か一人の判断に依存する組織から、各々が責任を負う組織へ。
そう考えた者たちは、王冠の沈黙に新たな意味を見いだした。
ただ一人、王冠本人だけは、昼食の時間を過ぎたことを気にしていた。
――なるほど。任せてみるというのは、思っていたよりも時間がかかるものなのですね。
彼は時計を見た。
そして、ふと気づいた。
いつもなら、自分がすべての議題を片づけている頃だった。
今日は、まだ結論の出ていない案件がひとつ残っている。
それでも、不思議と焦りはなかった。
会議室を出ると、彼は部下に告げた。
「残りは明日、担当者たちから報告を受けます。今日はここまでにしましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。私にも、行く場所がありますので」
部下は、思わず聞き返した。
「……行く場所?」
「昼食です」
王冠は真顔だった。
部下は、その言葉を聞いて、何か重大な決意を秘めた顔で頭を下げた。
王冠は気づかなかった。
彼が昼食を取るために会議を切り上げたという事実が、すでに幹部たちの間で「王冠が組織の在り方を根本から変えた象徴的な行動」として語られ始めていることに。
*
午後一時。
《CAFE 灯》の扉が開いた。
「いらっしゃいませ!」
透の明るい声が響く。
入ってきたのは、黒百合だった。
黒い髪を整え、いつもの鋭い目をしている。
ただ、今日は少しだけ不機嫌そうだった。
「……王冠は?」
「さっき来てましたよ。お昼前には帰りましたけど」
「帰った?」
「はい。なんだか今日は、ちゃんと休めそうな顔をしてました」
黒百合は、足を止めた。
「……ちゃんと休めそうな顔」
「ええ。最近、疲れてるみたいだったので。少し安心しました」
黒百合は無言で席に着いた。
王冠が、誰かに仕事を任せた。
それだけなら、特別なことではない。
だが、あの男は自分が動かなければ全体が崩れると信じている節があった。
彼が他人に任せることを選んだのなら、何かが変わったのだろう。
問題は、その変化がどこから来たのかだ。
「……マスター」
「はい。ご注文ですか?」
「あなたは、王冠に何を言ったの?」
「え? ちゃんと寝てください、みたいな話ですかね」
「それだけ?」
「あと、たまには誰かを頼ってみたらって」
黒百合は、目を閉じた。
やはり。
この店では、本人が思っている以上のことが起きている。
しかし、黒百合はそこで考えるのをやめた。
透は、何かを企んでいる顔ではなかった。
むしろ、黒百合が難しい顔をしていることに気づいて、心配そうに覗き込んできた。
「黒百合さんも、何か困ってることがあるんですか?」
「……別に」
「そうですか?」
「ええ」
「じゃあ、何か食べます? 今日は新しいケーキを焼いたんですよ」
「……新しいケーキ?」
「はい。ちょっと形が崩れちゃったんですけど、味は大丈夫だと思います」
黒百合は、透の顔を見た。
それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……それをいただくわ」
「ありがとうございます!」
透は嬉しそうに厨房へ向かった。
黒百合は、その背中を眺めながら思う。
この男は、他人を変えようとしているわけではない。
ただ、疲れている者には休めと言い、困っている者には話を聞き、食べたいと言えばケーキを出す。
その結果、周囲の人間が勝手に変わっていく。
本人は、その変化を知らない。
そして、知らないままでいることを、誰もが望んでいる。
「……本当に、厄介な人」
運ばれてきたケーキは、確かに少しだけ形が崩れていた。
しかし、ひと口食べると、甘さが静かに広がった。
「どうですか?」
「……おいしいわ」
「よかった!」
透は心底ほっとした顔をした。
黒百合は、もうひと口食べた。
その日、彼女はいつもより長く店にいた。
*
午後三時。
王冠から連絡を受けた道化師は、資料の山に囲まれていた。
『会議の進行を、各担当者に委ねた』
「……は?」
電話の向こうから聞こえてきた報告に、道化師は眼鏡を押し上げた。
『現場の責任者が、自ら判断する形にしたらしい』
「王冠が?」
『そうだ』
「誰かに脅された?」
『違う』
「弱みを握られた?」
『違う』
「体調に問題が?」
『本人は問題ないと言っている』
道化師は、机に置いていたペンを取った。
紙の中央に、太い文字で書く。
《王冠の権限委譲》
その下に、可能性を書き出していく。
組織再編。
後継者育成。
指揮系統の分散。
内部崩壊への備え。
あるいは、外部勢力の介入を想定した多重指揮体制。
どれも、あり得ない話ではない。
だが、王冠は長年、そうした変化を慎重に避けてきた。
それを急に変えた理由が分からない。
「……まさか」
道化師の頭に、ひとつの場所が浮かんだ。
《CAFE 灯》。
そして、そこにいる店主。
「またか……」
彼は椅子の背にもたれた。
透が王冠に何を言ったのかは分からない。
しかし、王冠が変化を起こした時期と、店を訪れた時期が一致している。
ならば、確認する価値はある。
道化師は、手帳を開いた。
店に行く。
コーヒーを飲む。
店主の言葉を記録する。
ただし、過度な解釈は避ける。
結論を先に決めない。
彼は最後の一文を二重線で囲んだ。
「今回は、絶対に深読みしない」
その宣言から三分後。
彼は手帳の余白に、こう書き加えた。
――王冠の行動変化に関する直接的要因は、店主の何気ない発言である可能性が極めて高い。
道化師は、ペンを止めた。
「……いや、これは事実の整理だ。深読みではない」
誰に言い訳しているのか、本人にも分からなかった。
*
午後四時半。
道化師が店に来ると、透はちょうどカウンターを拭いているところだった。
「いらっしゃいませ。あ、道化師さん。今日はお一人ですか?」
「ええ。少し確認したいことがありまして」
「確認?」
「王冠についてです」
「ああ。今日はちゃんとお昼を食べに来てくれましたよ」
道化師の手が止まった。
「……昼食を?」
「はい。前は忙しそうで、コーヒーだけ飲んで帰ることも多かったんですけど。今日は食べていきました」
道化師は、手帳を取り出した。
書くべきか。
いや、まずは話を聞くべきだ。
「マスターは、王冠に何か助言を?」
「助言ってほどじゃないですよ。最近、寝てないみたいだったので、誰かに頼ったらどうですかって話をしただけです」
道化師は、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
「何がです?」
「いえ。非常に参考になりました」
「そうですか? あ、コーヒーでいいですか?」
「お願いします」
透はコーヒーを淹れ始めた。
道化師は、カウンターの向こうを眺めた。
壁には、祖父の代から使っている古い時計がある。
カウンターには、常連客が置いていった文庫本。
窓際には、誰かが忘れていった傘。
どこにでもある、普通の喫茶店。
それなのに、ここを訪れた人間は、何かを持ち帰っていく。
命令ではない。
情報でもない。
ましてや、脅迫でもない。
自分で決めるための、ほんの小さな余白。
道化師は、その考えに至り、慌てて手帳を閉じた。
「……いけない」
「え?」
「何でもありません」
コーヒーが運ばれてきた。
道化師はひと口飲み、素直に感想を口にした。
「おいしいですね」
「ありがとうございます!」
透は笑った。
「ゆっくりしていってください」
道化師は、その言葉を聞いて、危うく手帳を再び開くところだった。
ゆっくりしていってください。
休息の許可。
思考の停止。
分析の放棄。
あるいは――。
「……いやいやいや」
彼は頭を振った。
「ただの接客だ」
「えっ、何かありました?」
「ありません。非常においしいです」
「それならよかったです!」
透は嬉しそうに厨房へ戻った。
道化師は、手帳に何も書かなかった。
その代わり、コーヒーを最後まで飲んだ。
それだけのことが、彼にとっては珍しかった。
*
夜。
会員制のBARが開く時間になった。
六人は、いつもの席に集まっていた。
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
全員が揃っている。
しかし、いつもと少しだけ空気が違った。
「王冠」
最初に口を開いたのは、渡り烏だった。
「今日の会議、聞いたよ。ずいぶん思い切ったことをしたらしいね」
「そうでしょうか」
「君が判断を他人に任せた。あの場にいた者たちは、相当驚いただろう」
「彼らが現場を最もよく知っていた。それだけです」
「その判断が、今までできなかった?」
王冠は、少しだけ考えた。
「できなかったわけではありません。ただ、私が行った方が早いと考えていました」
「それで、君が三時間しか眠れなくなったわけだ」
「……耳が痛いですね」
葬送が腕を組んだ。
「俺も最近、料理を教わるときに思ったんだが」
「料理?」
道化師が眉を上げた。
「自分でやった方が早いことは多い。だが、教えてもらわなきゃできないこともある。最初は失敗するし、時間もかかる」
「それは料理の話だろう」
「仕事だって似たようなもんじゃないのか?」
葬送は真面目だった。
「俺が全部やれば、確かに早い。でも、俺がいないと何もできない状態になったら、それは困るだろう」
王冠は、葬送を見た。
そして、小さく笑った。
「……その通りですね」
黒百合がグラスを置いた。
「でも、頼る相手を間違えたら、余計に面倒になるわ」
「だからこそ、相手を見極める必要があるのでしょう」
王冠は静かに答えた。
「信頼することと、無条件に任せることは違います。任せるなら、相手の判断を尊重し、必要な責任を分け合う。そうでなければ、ただ仕事を押しつけただけです」
「珍しくまともなことを言うじゃない」
「いつもまともですよ」
「自分で言うことではないわ」
道化師は、そのやり取りを聞きながら、考えていた。
六人は長い間、強くあることを求められてきた。
判断を誤らないこと。
誰にも弱みを見せないこと。
必要とされること。
そして、誰かに頼ることを、少しずつ忘れていった。
それぞれに事情は違う。
王冠は責任を抱え込むことで秩序を保とうとした。
黒百合は人を信じないことで、自分を守ってきた。
葬送は傷つく役目を引き受けることで、仲間を守ろうとした。
道化師は考え続けることで、予測できないものを減らそうとした。
渡り烏は誰かのために動くことで、自分の願いを後回しにした。
零は言葉を少なくすることで、自分の内側を誰にも触れさせないようにしてきた。
彼らはそれぞれ、別の方法で孤独を選んでいた。
そして、あの店では、その選択を責められない。
ただ、時々、別の道もあるのだと教えられる。
「……マスターは」
零が、ぽつりと言った。
「私たちが、頼ってもいいと思っている」
誰もすぐには答えなかった。
零は続けた。
「頼られることを、迷惑だと思っていない。少なくとも、あの店では」
渡り烏は、静かに目を細めた。
「そうだね。あの人は、頼られることを特別なことだと思っていないのかもしれない」
「逆に言えば」
道化師が眼鏡を直した。
「我々が、頼ることを特別なことにしすぎていたのかもしれません」
「……難しい話は、そのくらいにしなさい」
黒百合が立ち上がった。
「せっかく集まったんだから、何か食べましょう」
「賛成だ」
葬送が即座に手を挙げた。
「今日は俺が簡単なものを作る」
「あなたの簡単なものは、鍋を焦がすところから始まるのでは?」
「今日は焦がさない」
「昨日もそう言っていたわね」
「昨日の失敗を踏まえた改善だ」
王冠は、彼らの会話を聞きながら、少しだけ笑った。
「では、葬送。厨房を頼みます」
「おう」
「黒百合は材料の確認を。道化師は手順を整理して、渡り烏は足りないものがあれば調達を。零は――」
「私は、必要なものを先に出しておく」
「お願いします」
それぞれが自然に動き始めた。
王冠は、いつものように全員の仕事を自分で決めているわけではなかった。
それぞれが、自分にできることを選んでいた。
もちろん、葬送は鍋を焦がしかけたし、道化師は調味料の配合を理論化しすぎて黒百合に睨まれた。
渡り烏は食材を買いに行くついでに、なぜか市場の古い知人から三件の相談を受けた。
零は全員が揉める前に、必要な道具を揃えていた。
料理は、完璧ではなかった。
しかし、六人で食卓を囲む頃には、誰もその出来栄えを気にしていなかった。
「……悪くないな」
葬送が呟く。
「味付けが少し濃いわ」
黒百合が指摘する。
「だが、食べられないほどではない」
王冠が公平な評価を下す。
「その評価は、料理人に対して失礼なのでは?」
道化師が言う。
「なら、お前が作れ」
「私は理論担当です」
「逃げたな」
渡り烏が笑った。
零は何も言わず、皿をもう一枚取った。
それから、静かに言った。
「……明日も、ここに来る?」
「来ますよ」
王冠が答えた。
「特別な用事がなくても、来ればいいのです」
その言葉は、誰かの命令ではなかった。
六人の誰もが、それを理解していた。
*
翌朝。
灰都の裏社会では、ひとつの噂が急速に広がっていた。
王冠が、権限の一部を各組織へ委ねた。
黒百合が、情報の独占を避けるため、複数の窓口を設ける案を検討している。
葬送が、部下たちに実務を教え始めた。
道化師が、分析業務を分担するための新たな仕組みを作っている。
渡り烏が、長年対立していた組織同士の仲介を再開した。
零が、各所の連絡網を整理している。
個別に見れば、どれも合理的な変化だった。
だが、六人が同じ時期に動き始めたことに、裏社会の人間たちは戦慄した。
「これは偶然ではない」
「六人が、同じ方向を向いている」
「何を目指している?」
「分からない。だが、彼らが動くということは、何かが変わるということだ」
ある情報屋は、ついにひとつの結論へたどり着いた。
「……《CAFE 灯》だ」
別の男が、顔色を変えた。
「店主が、また何か言ったのか?」
「詳細は不明だ。ただ、王冠が店を訪れた翌日から、変化が始まっている」
「店主は何と?」
「まだ確認できていない」
「確認しろ。ただし、店に迷惑をかけるな」
「……なぜです?」
男は、真剣な顔で答えた。
「店主の望まぬ形で接触すれば、六人がどう動くか分からない」
こうして、《CAFE 灯》を巡る新たな暗黙の了解が生まれた。
店主に余計なことを聞かない。
店の営業を妨げない。
店主の言葉を勝手に利用しない。
そして、店主が何かを望んでいるように見えたら、可能な範囲で協力する。
誰も、その了解がどこまで店主本人の意向に沿っているのかを確認しなかった。
当の透は、そんな噂が広がっていることなど知らなかった。
*
その日の昼。
透はカウンターの向こうで、王冠にサンドイッチを出していた。
「今日はちゃんと食べてくださいね」
「ええ。ありがとうございます」
「最近、少し顔色がよくなった気がします」
「マスターのおかげです」
「いやいや、僕は何もしてませんよ。王冠さんが頑張ったんでしょう」
王冠は、サンドイッチをひと口食べた。
その言葉を、心の中で繰り返す。
自分が頑張った。
確かにそうかもしれない。
だが、自分一人で頑張らなければならない理由はなかった。
誰かに任せること。
誰かの判断を信じること。
失敗したときに、責任を一緒に負うこと。
それらは、決して弱さではない。
「……マスター」
「はい?」
「今後も、時々こちらで休ませていただきます」
「もちろんです。いつでもどうぞ」
「それと、もし私がまた無理をしているようでしたら、ご指摘いただけると助かります」
透は、少し困ったように笑った。
「分かりました。でも、僕が気づかないこともあると思うので、無理そうなときは自分から言ってくださいね」
王冠は目を見開いた。
透は、いつもの調子で続ける。
「僕、そんなに何でも分かる人じゃないですから」
王冠は、静かに頷いた。
「……そうですね」
この店主は、自分を万能な存在として扱われることを望んでいない。
誰かの人生を背負うことも、誰かのすべてを見通すこともできない。
だからこそ、彼の言葉には、相手が自分自身で考える余地が残されている。
王冠はそう受け止めた。
そして、サンドイッチを最後まで食べた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました! またお待ちしてます」
透は、笑顔で頭を下げた。
扉が閉まる。
店内には、コーヒーの香りと、穏やかな昼の光が残った。
透は空いた皿を下げながら、ふと思った。
最近、常連さんたちが以前より楽しそうに見える。
仕事が少し落ち着いたのだろうか。
それならよかった。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
「……王冠さん、今日はちゃんと寝てくれるかな」
透は、夜にでもメッセージを送ろうかと考えた。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
新しい客が入ってきた。
年齢は三十代半ばほど。
地味な服装で、特に目立つところはない。
男は店内を一度見回し、カウンターの端に座った。
「コーヒーを一杯」
「かしこまりました」
透は、いつものようにコーヒーを淹れ始めた。
男は、その手元を眺めながら、何気ない調子で尋ねた。
「この店には、いろいろな人が来るそうですね」
「そうですね。ありがたいことに、常連さんも増えました」
「どんな人たちですか?」
「うーん……いい人たちですよ。ちょっと不器用なところもありますけど」
男の目が、わずかに細くなった。
「不器用、ですか」
「はい。みんな、自分で何とかしようと頑張りすぎちゃうんですよね」
透はコーヒーを置いた。
「だから、ここにいる間くらいは、のんびりしてもらえたらいいなと思ってます」
男は、カップに視線を落とした。
「……そうですか」
それ以上、男は何も尋ねなかった。
コーヒーを飲み、代金を支払い、静かに店を出ていった。
透は、特に気に留めなかった。
しかし、男が路地を曲がったところで、待っていた部下に告げた言葉は、店内での穏やかな態度とはまるで違っていた。
「確認できた」
「何をでしょうか」
「六人は、単に店主を守っているのではない」
男は、振り返って《CAFE 灯》の看板を見た。
「彼らは、あの場所を必要としている」
「それは……弱点ということでしょうか?」
「違う」
男は、即座に否定した。
「弱点だと考えた者から、先に失敗する」
彼は、低い声で続けた。
「人間は、守るものがあるから弱くなるとは限らない。守るものがあるからこそ、初めて自分の意思で動ける場合もある」
「では、我々はどうすれば?」
「まだ何もしない。まずは、あの店を必要としている人間が、ほかにどれほどいるのかを調べろ」
部下は頭を下げた。
男は再び、店の看板を見た。
その表情には、警戒と、わずかな羨望が混じっていた。
「……あそこは、人を支配する場所ではないのかもしれないな」
男は呟いた。
「人が、自分で立ち直るまで待つ場所なのかもしれない」
その推測は、透が聞けばきっと首を傾げるものだった。
彼はただ、コーヒーを淹れていただけなのだから。
そして、その日の閉店後。
透は厨房で、明日のケーキの仕込みをしていた。
カウンターには、六人分のカップが並んでいる。
誰かが来るかもしれない。
誰も来ないかもしれない。
どちらでもよかった。
この店は、来たいときに来て、帰りたいときに帰ればいい場所なのだから。
透は、生地の入ったボウルをかき混ぜながら、小さく笑った。
「明日は、もう少しきれいに焼けるといいな」
その願いは、裏社会の均衡を揺るがすほどのものではない。
少なくとも、本人にとっては。
だが、灰都のどこかで、誰かがまた一つ、自分だけで抱えていたものを手放そうとしていた。
その小さな変化が、いつか大きな波紋になることを。
朝霧透だけが、まだ知らなかった。




