第11話 伝説の暗殺者六人を面接したら、全員の志望動機が重すぎました
朝霧透は、面接用の椅子を二脚、カウンターの前に並べていた。
普段なら客が座る場所だが、今日は少しだけ配置を変えている。
テーブルの上には、六人分の履歴書と、質問を書いたメモ帳。
その隣には、面接のあとに出すつもりのクッキーが置いてあった。
「よし。準備はこんなところかな」
透はメモ帳を開き、質問を読み返した。
勤務できる曜日。
希望する勤務時間。
接客経験の有無。
苦手な仕事。
そして、志望動機。
最後の項目を見て、彼は少し考えた。
「志望動機って、何を聞けばいいんだろうなあ……」
求人を出したのは、忙しい時間に手伝ってくれる人が欲しかったからだ。
特別な能力を求めているわけではない。
客に笑顔で接することができて、仕事を少しずつ覚えてくれて、困ったときには相談してくれれば十分だった。
透はメモ帳を閉じた。
「まあ、気楽に話してもらえばいいか」
そのとき、入口の扉が開いた。
「おはようございます、マスター」
No.1《王冠》が入ってきた。
いつもどおり隙のないスーツ姿だが、今日は手に黒い書類ケースを持っている。
「王冠さん。早いですね」
「面接の十分前には到着するようにしております」
「そんなに早くなくても大丈夫ですよ。座って待っていてください」
「承知しました」
王冠は椅子に座り、書類ケースを膝の上に置いた。
その姿は、喫茶店のアルバイトに応募した人間というより、巨大企業の重要な契約を結びに来た経営者のようだった。
透は苦笑した。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですからね」
王冠の指が、書類ケースの持ち手をわずかに強く握った。
「……緊張しているように見えますか」
「ちょっとだけ」
「そうですか」
王冠は短く答えた。
彼は、数え切れないほどの修羅場を経験してきた。
命のやり取りをする場面で、手が震えたことはない。
だが、今は違う。
この店では、過去の実績も、裏社会での地位も、何の役にも立たない。
問われるのは、ここで働けるかどうか。
それだけだった。
王冠は、こんなにも自分の立場が心細くなる経験を、ほとんどしたことがなかった。
*
面接は、午前十時に始まった。
「それでは、よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
王冠は深々と頭を下げた。
透は履歴書に目を通した。
「ええと……組織運営と人員管理の経験が長いんですね」
「はい」
「すごいですね。人をまとめる仕事って、大変じゃないですか?」
「……大変ではあります。しかし、責任を持つ者が全体を把握し、適切に役割を分担することが重要だと考えております」
「なるほど」
透は頷いた。
「でも、うちの場合はそんなに大勢いるわけじゃないので、そこまで難しく考えなくても大丈夫ですよ」
王冠は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……はい」
「忙しいときに、手が空いている人が食器を下げたり、注文を確認したり。そういう感じです」
「理解しました」
「それと、困ったことがあったら、周りの人に相談してくださいね」
王冠の表情がわずかに変わった。
祖父の帳簿に書かれていた言葉が、脳裏をよぎる。
――No.1は、何でも自分で背負いすぎる。たまには誰かに任せること。
透は、そんな事情など知らない。
ただ、仕事をするうえで必要なことを伝えているだけだった。
「……ひとつ、質問してもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「自分で判断できないことがあった場合、すぐに相談するべきでしょうか。それとも、まずは自分で考え、答えを出すべきでしょうか」
透は少し驚いた。
「うーん。内容によりますね」
「内容による、ですか」
「はい。すぐに確認したほうがいいこともあるし、自分で考えてみていいこともあります。でも、お客様に迷惑がかかりそうだったり、失敗すると困ることだったりしたら、早めに聞いてくれたほうがいいです」
王冠は、じっと透を見た。
「自分一人で全部解決しようとしなくてもいい、ということでしょうか」
「そうですね。みんなで働くんですから」
透は笑った。
「一人で頑張りすぎて、倒れちゃったら大変ですし」
王冠は、静かに息を吐いた。
それは、あまりにも当たり前の答えだった。
だが、自分にとっては、長いあいだ忘れていた答えでもあった。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。それでは、次の質問ですが」
透はメモ帳に目を落とした。
「週に何日くらい働けますか?」
王冠の思考が止まった。
「……週に、何日」
「はい。無理のない範囲で教えてください」
王冠は、これまでに経験したどんな交渉よりも真剣な顔で考え始めた。
週に一日。
週に三日。
あるいは、もっと働けるのか。
だが、裏社会の組織運営を担う自分が、どれほどの時間を店に使えるのか。
彼は初めて、自分の生活を仕事の側からではなく、自分のために考えなければならなくなった。
「……週に二日から三日程度であれば、安定して勤務できると思います」
「わかりました。ありがとうございます」
透は何の疑問も持たずに記録した。
王冠は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
面接は続いた。
最後に透が尋ねた。
「それでは、どうしてうちで働きたいと思ったんですか?」
王冠は、すぐには答えなかった。
用意していた言葉なら、いくらでもある。
マスターの近くで店を守るため。
店の運営状況を把握するため。
不審な人物の接近を防ぐため。
どれも、理由としては間違っていない。
しかし、それだけではなかった。
「……この店で過ごす時間が、好きだからです」
王冠は、まっすぐに透を見た。
「ここでは、何かを成し遂げなくても、誰かの役に立たなくても、座っていることが許される。私は、それをとても大切なことだと思っています」
透は、少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、嬉しいですね」
「だからこそ、客として通うだけでなく、店を支える側にもなってみたいと思いました」
それは、王冠が初めて口にした、本当の志望動機だった。
透は履歴書を閉じた。
「わかりました。今日はありがとうございました。採用については、皆さんの面接が終わってから連絡しますね」
「承知しました」
王冠は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
店を出るとき、彼は振り返った。
「マスター」
「はい?」
「……面接をしていただき、ありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ、応募してくれてありがとうございます」
その言葉を聞いて、王冠はほんの少し笑った。
誰かに評価されるためではなく、自分が望んだからここに来た。
そのことが、彼には不思議なほど嬉しかった。
*
次に来たのは、No.2《黒百合》だった。
彼女は王冠ほど緊張している様子を見せなかったが、履歴書を渡す指先には、わずかな硬さがあった。
「よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
透は履歴書に目を通した。
「情報収集や状況判断が得意なんですね」
「……ええ。人の様子を見たり、変化に気づいたりすることは得意です」
「それは助かりますね。お客様が困っているときに気づけるのは、大切だと思います」
黒百合は、少しだけ目を見開いた。
彼女は、人の変化に気づくことで生き延びてきた。
呼吸の乱れ。
視線の動き。
言葉の裏に隠された意図。
それらを見落とせば、自分だけでなく、仲間の命まで危険にさらすことがあった。
だが、ここで求められているのは、そんな極限の観察力ではない。
水を欲しがっている客に気づくこと。
迷っている客に声をかけること。
困っている人を、そっと助けること。
黒百合は、その違いを考えていた。
「何か、苦手な仕事はありますか?」
透の質問に、彼女は少しだけ視線を落とした。
「……人と、必要以上に親しくなることは得意ではありません」
「なるほど」
「接客に向いていないと思われますか?」
透は首を横に振った。
「そんなことはないですよ。無理にお客様と仲良くなる必要はありませんから」
「……え?」
「挨拶をして、注文を聞いて、必要なことを伝えて。困っているようなら声をかける。それができれば十分だと思います」
黒百合は、しばらく黙っていた。
「無理に笑顔を作る必要もないですし、話したくないときまで話す必要もありません。ただ、お客様に失礼にならないようにしてもらえれば」
「……そう、ですか」
「はい。得意なことも苦手なことも、人それぞれですから」
彼女は、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。
誰かと親しくなることが苦手だと言えば、冷たい人間だと思われることがあった。
人を警戒する癖が抜けないと話せば、信用できない人間だと見なされることもあった。
しかし、透はそれを欠点として責めなかった。
無理をしなくていい。
できることを、できる範囲でやればいい。
その考え方が、黒百合にはひどく眩しかった。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。では、週に何日くらい働けそうですか?」
「週二日ほどなら」
「わかりました」
透は記録した。
志望動機を尋ねると、黒百合は少し迷ったあと、静かに答えた。
「……ここでは、自分を偽らなくてもいい気がしたからです」
透は、彼女の顔を見た。
「そう思ってもらえたなら、嬉しいです」
黒百合は、それ以上何も言わなかった。
だが、面接を終えて店を出たあと、彼女は自分が思っていた以上に、ほっとしていることに気づいた。
誰かに自分を理解してもらおうと、必死に説明する必要はなかった。
苦手なことを苦手だと言っても、すぐに否定されるわけではなかった。
それだけで、少しだけ前に進めた気がした。
*
No.3《葬送》の面接は、開始早々に問題が起きた。
「よろしくお願いします!」
彼は、勢いよく頭を下げた。
その拍子に、履歴書を机から落とした。
「あっ、すみません!」
「大丈夫ですよ」
透が拾おうとすると、葬送も同時に手を伸ばした。
頭がぶつかった。
「痛っ」
「申し訳ありません!」
「いやいや、僕もすみません」
面接開始から三十秒。
葬送は、すでに額を押さえていた。
透は苦笑しながら、椅子を勧めた。
「落ち着いてくださいね」
「はい!」
彼は、今度こそ慎重に座った。
透は履歴書を見た。
「体力には自信があるんですね」
「はい。重い荷物を運ぶことも、長時間動くことも問題ありません」
「それは助かります。仕入れた食材を運ぶこともありますからね」
葬送の目が輝いた。
「食材を運ぶ!」
「はい。ただ、重いものを持つときは無理をしないでください。腰を痛めたら大変ですから」
「……腰を」
葬送は真剣に頷いた。
戦場では、負傷しても動き続けることが求められた。
痛みを我慢できることが、強さの一部だった。
しかし、この店では違う。
怪我をする前に、無理をしないことが大切なのだ。
「それと、調理を勉強中とありますね」
「はい!」
葬送は、ここぞとばかりに背筋を伸ばした。
「将来的には、料理を任せていただけるようになりたいと思っています!」
「おお。いいですね」
「現在は、米を炊く練習と、野菜を切る練習をしております!」
「そうなんですね。包丁は、もう慣れましたか?」
葬送の表情が曇った。
「……まだ、少々」
「最初は難しいですよね。僕も祖父に教えてもらったとき、何度も失敗しました」
「マスターも、ですか?」
「もちろんです。いきなり上手にはできませんよ」
透は笑った。
「少しずつ覚えていきましょう。もし採用になったら、簡単なところから教えますね」
葬送は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その声が大きすぎて、店内の客が何事かと振り返った。
「あっ、すみません。声が大きかったですね」
「ははは。少しずつ慣れていけば大丈夫ですよ」
葬送は、耳まで赤くなった。
彼は今、人生で初めて、誰かに料理を教えてもらう約束をした。
それがどれほど嬉しいことなのか、自分でもうまく説明できなかった。
*
No.4《道化師》は、面接の前に質問を二十七個用意していた。
勤務条件の確認。
研修期間の長さ。
接客時の判断基準。
クレーム対応の手順。
衛生管理の基準。
さらには、繁忙期における業務分担まで。
透は、彼が取り出したメモを見て、思わず笑った。
「すごい。ずいぶん準備してきたんですね」
「不明点を残したまま業務に就くのは、双方にとって望ましくないと判断しました」
「それはそうですね。でも、全部を今すぐ決めなくても大丈夫ですよ」
「……そうなのですか?」
「はい。実際に働いてみないとわからないこともありますから」
道化師は、しばらく考え込んだ。
「事前に完全な手順を構築することは不可能、ということでしょうか」
「うーん。そこまで難しく考えなくてもいいと思いますけど」
透は笑った。
「わからないことが出てきたら、そのときに一緒に考えましょう」
道化師は、手元のメモを見つめた。
彼は、物事を分析することが得意だった。
あらゆる可能性を想定し、失敗の原因を特定し、最適な手順を構築する。
その能力によって、数え切れないほどの危機を乗り越えてきた。
だが、ここでは、すべてを事前に決めておく必要はないらしい。
予想外のことが起きても、その場で考えればいい。
誰かに相談してもいい。
失敗したら、やり方を変えればいい。
「……承知しました」
道化師は、二十七個の質問のうち、十六個に線を引いた。
残りの質問も、今すぐ尋ねる必要がないと判断したものから順に消していった。
最後に透が志望動機を尋ねると、彼は少しだけ困ったように笑った。
「……何も考えずに過ごせる時間が、必要だと思ったからです」
「何も考えずに、ですか?」
「正確には、すべてを分析しなくてもいい時間、でしょうか」
透は頷いた。
「そういう時間も大切ですよね」
道化師は、メモ帳を閉じた。
その瞬間、彼はようやく気づいた。
この面接では、正解を導き出す必要などなかったのだ。
*
No.5《渡り烏》の面接は、終始穏やかだった。
彼は丁寧に受け答えし、質問にも落ち着いて答えた。
接客経験もあり、人との交渉や調整を得意としている。
透は、履歴書を見ながら感心した。
「いろいろな人と話すお仕事をされてきたんですね」
「ええ。人の話を聞き、互いに納得できるところを探すのは、嫌いではありません」
「それは、うちでも役に立ちそうですね」
渡り烏は、優しく笑った。
「そうだといいのですが」
だが、透が勤務希望日を確認すると、彼は少しだけ言葉に詰まった。
「週三日程度を希望しております」
「わかりました。ほかのお仕事との兼ね合いもありますよね」
「……ええ。少々、調整が必要な仕事がありまして」
「無理はしないでくださいね。こちらも、勤務できる日を相談しながら決めたいと思っています」
渡り烏は、目を伏せた。
彼は長年、他人の事情を優先してきた。
誰かが困っていれば手を貸し、誰かが争っていれば仲裁し、誰かが行き場を失えば逃げ道を用意してきた。
それを、自分の役目だと思っていた。
しかし、自分が何を望んでいるのかと問われると、答えに困ることが多かった。
「……ここで働くことで、自分のための時間も大切にできればと思っています」
透は、穏やかに頷いた。
「いいと思います。仕事も大事ですけど、自分の時間も必要ですからね」
渡り烏は、しばらく目を閉じた。
祖父が、かつて同じようなことを言っていた。
――他人の人生を支えるのはいい。だが、自分の人生まで他人に預けるな。
あの言葉を、彼は何十年も覚えていた。
それでも、実践することはできなかった。
今日、彼は初めて、自分の時間を確保するために働き方を選んだ。
それは小さなことだった。
だが、彼にとっては、長く忘れていた自分の願いを拾い上げるような出来事だった。
*
最後にやってきたのは、No.6《零》だった。
彼女なのか、彼なのか、初対面の人間には判断が難しい。
今日も表情をほとんど変えず、静かに椅子へ座った。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
透は履歴書を見た。
「清掃や整理整頓が得意なんですね」
「……うん」
「掃除って、意外と大変なんですよ。営業中も、閉店後もありますから」
「……平気」
「それなら助かります」
透は、少しだけ考えてから尋ねた。
「ちなみに、苦手なことはありますか?」
零は、しばらく黙っていた。
「……説明すること」
「説明ですか?」
「自分のことを、言葉にするのが苦手」
透は、頷いた。
「そうなんですね」
それだけだった。
もっと詳しく聞こうともしない。
苦手を克服するように求めることもない。
「それなら、最初は実際に仕事をしながら覚えていきましょう。わからないことがあったら、指差して聞いてくれてもいいですから」
零は、透を見た。
「……それで、いいの?」
「もちろんです。言葉だけが伝える方法じゃないですから」
零は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
自分の中にあるものを、うまく言葉にできないことがある。
何を考えているのかと尋ねられても、答えが見つからないことがある。
そのたびに、周囲からは何を考えているかわからない人間だと思われてきた。
だが、透は違った。
言葉が少なくても、伝える方法はあると言った。
その言葉は、零にとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。
「……ここで、働きたい」
零は、小さく言った。
透は笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。ちゃんと検討しますね」
*
六人の面接が終わったのは、夕方だった。
透はカウンターに座り、六人分の履歴書を並べていた。
「……どうしようかな」
正直に言えば、全員を採用したい気持ちはあった。
それぞれに得意なことがあり、真面目に働こうという意欲も感じられた。
だが、アルバイトを募集した理由は、忙しい時間帯を手伝ってもらうためだ。
六人全員を雇うほどの仕事量があるわけではない。
そもそも、時給を六人分支払えるのか。
透は電卓を叩いた。
「……いや、無理だな」
彼は正直に認めた。
気持ちだけで採用して、十分な仕事を用意できなかったり、給与の支払いに困ったりするのでは意味がない。
透は、六人の履歴書を丁寧に揃えた。
「ちゃんと考えて決めよう」
その夜、六人はいつものようにBARの部屋に集まっていた。
全員が、いつもより静かだった。
「……面接はどうだった?」
葬送が、ぎこちなく尋ねた。
「問題なく終わった」
王冠が答えた。
「採用されるかどうかは、まだわからないが」
「そうか」
葬送は、少しだけ肩を落とした。
道化師が言った。
「当然だろう。応募したからといって、採用される保証はない。店の規模を考えれば、全員が採用される可能性は低い」
「わかっている」
葬送は、低い声で答えた。
「だが……少し、期待してしまった」
誰も笑わなかった。
黒百合は、カップに視線を落とした。
「私も」
渡り烏が、静かに頷いた。
「ええ。私も同じです」
零は何も言わなかったが、膝の上に置いた手をそっと握った。
彼らは、採用されることそのものを望んでいたのだろうか。
もちろん、それもある。
だが、それだけではない。
この店で働いてみたい。
自分の手でコーヒーを運び、食器を洗い、誰かの役に立ってみたい。
客として過ごすだけでは得られない時間を、ここで過ごしてみたい。
それぞれの胸に、そんな願いが生まれていた。
そして、その願いが、採用されるかどうかという結果に結びついてしまったことに、彼らは戸惑っていた。
「……もし採用されなくても、ここに来てはいけないわけではない」
王冠が言った。
「我々は、これまでどおり客として通えばいい」
「そうね」
黒百合が答えた。
だが、その言葉には、わずかな寂しさが混じっていた。
彼らは、誰かの役に立つことでしか、自分の居場所を確かめられない時期を長く生きてきた。
だからこそ、ここで働きたいという願いを持ったこと自体が、彼らにとって新しい経験だったのかもしれない。
*
翌朝。
透は六人を店に呼んだ。
全員が、少しだけ緊張した様子でカウンターの前に並んでいた。
「皆さん、来てくれてありがとうございます」
透は、六人を順番に見た。
「面接をしてみて、皆さんが真剣に考えて応募してくれたことが、よくわかりました」
王冠が、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただ、今の店の規模だと、六人全員に十分な仕事をお願いするのは難しいんです」
六人の表情が、わずかに引き締まった。
「それに、採用するからには、きちんと給料を払って、仕事を覚えてもらう時間も用意したい。中途半端な形ではお願いできません」
透は、正直に説明した。
「そこで、まずは一人、試用期間という形で働いてもらえないかと思っています。仕事内容や相性を確認して、店の状況を見ながら、必要があれば改めて募集を考えたいです」
沈黙が落ちた。
一人。
六人のうち、一人だけ。
誰もが、その意味を理解していた。
そして、誰もが、簡単には口を開けなかった。
自分が選ばれたい。
だが、他の五人が選ばれなかったからといって、ここにいられなくなるわけではない。
それでも、選ばれたいという気持ちは、確かにそこにあった。
透は、少し困ったように笑った。
「……皆さん、本当に真剣ですね」
「当然です」
王冠が答えた。
「我々にとって、この店は大切な場所ですから」
透は、その言葉を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。じゃあ、採用する人を発表しますね」
六人が、息を潜めた。
透は一枚の紙を手に取った。
「今回、お願いしたいのは――零さんです」
零は、動かなかった。
まるで、自分の名前を呼ばれたことが理解できなかったかのように。
「……私?」
「はい。掃除や整理整頓が得意だと聞きましたし、仕事についても、実際にやりながら覚えていく形が合っていると思ったんです」
透は、笑顔で続けた。
「もちろん、最初から全部できる必要はありません。わからないことがあったら、いつでも聞いてください」
零は、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
王冠は、零を見て頷いた。
「おめでとう」
黒百合も、穏やかに笑った。
「よかったわね」
葬送は、少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を作った。
「……料理のことは、また教えてくれ」
「もちろんです」
零が答えた。
道化師は、冷静に分析するような口調で言った。
「清掃と整理整頓の適性を考慮すれば、妥当な判断だろう」
「道化師さん。悔しいなら悔しいって言ってもいいんですよ」
透が笑うと、道化師は口を閉じた。
「……多少は、悔しい」
その言葉に、店内に小さな笑いが広がった。
渡り烏は、零に向かって優しく頷いた。
「いい機会ですね。どうか、自分のためにも楽しんでください」
零は、もう一度、小さく頭を下げた。
*
その日の午後。
零は、初めての勤務に入った。
透から渡されたエプロンを身につけ、店内の清掃方法を教わる。
「まず、テーブルを拭くときは、汚れが残らないように端まで確認してください」
「……うん」
「床を掃除するときは、お客様が歩いているところに道具を置かないように。転んだら危ないですからね」
「……わかった」
「あと、洗剤を使うときは、種類を間違えないようにしてください。これは食器用、こっちは床用です」
透が説明すると、零は一つひとつ丁寧に確認した。
彼女は、仕事を覚えることに集中していた。
誰かの命を守るためでも、任務を完遂するためでもない。
この店を、きれいに保つために。
客が気持ちよく過ごせるように。
ただ、それだけのために。
しばらくすると、透がコーヒーを淹れながら声をかけた。
「零さん。ちょっと休憩しませんか?」
「……まだ、終わってない」
「大丈夫ですよ。続きは休憩のあとでいいですから」
零は、手を止めた。
「……でも」
「仕事は逃げませんからね」
透は笑った。
「無理をして疲れてしまうより、休みながら少しずつ覚えていきましょう」
零は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
カウンターに座ると、透がコーヒーと小さなクッキーを出してくれた。
「どうぞ。今日の分です」
「……ありがとう」
零はクッキーを手に取った。
温かいコーヒーを飲み、甘いクッキーをかじる。
何かを達成したわけではない。
誰かを救ったわけでもない。
特別な成果を上げたわけでもない。
それでも、自分が働いた時間に対して、休む時間が与えられている。
自分がここにいていいのだと、言葉ではなく、扱いそのもので伝えられている。
零は、静かに目を伏せた。
「……ここで働けて、よかった」
その声は、透には聞こえなかった。
彼は厨房で、明日の仕込みについて考えていたからだ。
*
その夜、裏社会では、また新たな噂が広がっていた。
六人の伝説がCAFE 灯の求人に応募し、そのうち一人が正式に採用された。
しかも、選ばれたのは、六人の中でも最も口数が少なく、表立った活動が少ない《零》だった。
「店主は、何を基準に選んだんだ?」
「能力か? 忠誠心か?」
「いや、店主は戦闘能力など知らないはずだ」
「では、何を見て選んだ?」
誰も答えられなかった。
その情報を聞いたある幹部は、深刻な顔で言った。
「……選ばれなかった五人は、どう動く?」
「現時点では、特に動きはありません」
「そうか」
幹部は、しばらく考え込んだ。
「つまり、あの店では、選ばれなかった者にも居場所があるということか」
部下は困惑した顔をした。
「……と、申しますと?」
「採用されなかった五人も、引き続き店に通っているのだろう?」
「はい。そのようです」
「ならば、そういうことだ」
幹部は深く頷いた。
「普通の組織では、選ばれなかった者は価値を失う。だが、あの店では違う。働けるかどうかと、そこにいていいかどうかが、切り離されているのだ」
部下は、しばらく言葉を失った。
その解釈が正しいかどうかは、わからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
CAFE 灯では、採用されなかったからといって、追い出されるわけではない。
働く者も、客として訪れる者も、同じ店でコーヒーを飲むことができる。
それだけのことだった。
そして、それだけのことが、裏社会の人間たちには、ひどく難しいものに思えた。
*
閉店後。
透は、零が使ったエプロンを洗濯かごに入れた。
「今日はお疲れさまでした。初日なのに、いろいろ覚えてもらって助かりました」
「……ありがとう」
「明日も、無理のない範囲でお願いしますね」
「……うん」
零は、少しだけ迷ってから口を開いた。
「……私、ここにいていい?」
透は、きょとんとした。
「え? もちろんですよ」
「……仕事が、できなくても?」
「最初から何でもできる人はいませんから」
「……役に立てなくても?」
透は、少し考えてから答えた。
「役に立つことは大事ですけど、それだけが全部じゃないと思いますよ。働いてもらう以上、覚えてほしいことはあります。でも、できないことがあるからって、いきなりいなくなってもらうわけじゃないです」
零は、黙って聞いていた。
「困ったら相談してください。できるようになるまで、一緒に考えましょう」
透は笑った。
「それに、零さんは今日、ちゃんと仕事をしてくれましたよ。助かりました」
零は、顔を伏せた。
その表情を、透はよく見ることができなかった。
ただ、彼女の肩が、ほんの少しだけ震えているのがわかった。
「……ありがとう」
零は、もう一度そう言った。
それ以上は、何も言わなかった。
透も、無理に聞こうとはしなかった。
ただ、洗い終わったカップを棚に戻し、いつもどおり明日の準備を始めた。
誰かが泣きそうなとき、理由を聞かなくてもいいことがある。
言葉にできない気持ちを、無理に説明させなくてもいいことがある。
そのことを、透は祖父から教わっていた。
そして零は、今日、初めて知った。
自分が何かを成し遂げたからではなく。
誰かの役に立てたからだけでもなく。
ただ、ここにいたいと願っていいのだということを。
その夜、六人はそれぞれの場所へ帰っていった。
五人は、次に募集があれば応募できるように、少しずつ準備を始めた。
葬送は料理の練習を続け、道化師は履歴書の書き方を調べ直し、黒百合は接客の基本について資料を読んだ。
渡り烏は、自分の予定表に休みの日を記入した。
王冠は、仕事を誰かに任せるための計画を立て始めた。
そして零は、明日着るエプロンを、丁寧に畳んで机の上に置いた。
彼らはまだ、自分たちが何を探しているのか、完全には理解していない。
ただ、少しずつ変わり始めていた。
誰かの役に立つためだけに生きるのではなく。
誰かに必要とされるためだけに存在するのでもなく。
自分がここにいたいと思う場所で、自分にできることをしてみる。
そんな、当たり前の生き方を。
灰都の裏社会は、零の採用を重大な転換点として記録した。
だが、朝霧透がその日の日報に書いたのは、たった一行だった。
『零さん、初出勤。掃除がとても丁寧で助かりました。明日もよろしくお願いします』
その文字の隣には、小さなクッキーの絵が描かれていた。




