第10話 店主がアルバイトを募集したら、裏社会の精鋭たちが履歴書を書き始めました
朝霧透は、電卓を叩きながら唸っていた。
「……うーん」
原因は、売上帳簿だった。
喫茶店《CAFE 灯》は、祖父から受け継いだ建物を使っているため、家賃こそかからない。常連客も少しずつ増え、コーヒー豆や食材の仕入れも安定してきた。
それでも、店を一人で切り盛りするのは簡単ではなかった。
朝の仕込み。
昼の接客。
食器洗い。
買い出し。
夜の会員制BARの準備。
帳簿の整理。
そして、最近は予約の問い合わせまで増えている。
「忙しいのはありがたいんだけどなあ……」
透は、カウンターに突っ伏した。
先日、昼のピークに注文が重なり、コーヒーを出すのが遅れてしまった。
幸い、客は誰も怒らなかった。
むしろ「ゆっくりでいいですよ」と気遣われてしまったのだが、それがかえって申し訳なかった。
「お客さんに気を遣わせるのは、店主としてどうなんだろう」
しばらく考えた末、透は顔を上げた。
「……アルバイト、募集してみようかな」
それは、ごく普通の思いつきだった。
忙しい時間帯だけでも手伝ってくれる人がいれば、客を待たせずに済む。
できれば、料理や接客に興味がある人がいい。
経験はなくても構わない。
自分だって、祖父の隣で少しずつ覚えてきたのだから。
透は紙を一枚取り出し、募集要項を書き始めた。
『アルバイト募集』
『仕事内容:接客、簡単な調理補助、清掃など』
『経験不問。未経験者歓迎』
『人と話すのが苦手でも大丈夫です』
『無理せず、少しずつ覚えていきましょう』
最後に、透は少し考えてから書き加えた。
『困ったときは、一人で抱え込まずに相談してください』
「よし。こんなもんかな」
彼は満足げに頷き、募集の紙を入口の掲示板に貼った。
その瞬間、店の外を通りかかった一人の男が、足を止めた。
男は紙を読み、スマートフォンを取り出した。
そして、震える指で短いメッセージを送った。
『CAFE 灯が、人員を募集している』
その報告は、数分後には裏社会の一部に広まっていた。
もちろん、透の意図とはまったく違う形で。
*
最初に報告を受けたのは、No.1《王冠》だった。
「……人員募集?」
彼は届いた画像を確認した。
そこには、見慣れた店の名前と、簡素な募集要項が写っていた。
接客。
調理補助。
清掃。
未経験者歓迎。
王冠はしばらく黙っていた。
「マスターが、人を雇うつもりなのか」
それ自体は何もおかしくない。
むしろ、最近の忙しさを考えれば当然の判断だ。
問題は、その募集が誰の目に触れるかだった。
CAFE 灯には、すでに裏社会の人間が数多く出入りしている。
店主が人員を募集していると知れば、何らかの思惑を持つ人間が応募してくる可能性もある。
店の内部を探るため。
客の情報を集めるため。
あるいは、店主に近づくため。
「……面倒なことにならなければいいが」
王冠は、六人の連絡網にメッセージを送った。
『マスターがアルバイトを募集している。応募を考えている者がいる場合、本人の意思を確認せずに動くな』
送信して数秒後。
葬送から返信が来た。
『料理を覚えられるのか?』
王冠は目を閉じた。
この男は、募集要項のどこを読んでいたのだろう。
*
No.3《葬送》は、真剣だった。
ここ数日、彼は料理の練習を続けていた。
きっかけは、風邪をひいた透のために作った、焦げた米の塊のような粥だった。
あのとき透は、味が薄いだの、米が固いだのと文句を言わなかった。
むしろ、嬉しそうに食べてくれた。
『作ってくれたんですね。ありがとうございます』
その言葉が、葬送の胸に残っていた。
自分の手で作ったものを、誰かが喜んでくれる。
それは、任務を成功させることとはまったく違う満足感だった。
だからこそ、彼は料理を覚えたかった。
そして今回、募集要項にはこう書いてある。
『簡単な調理補助』
「……これは、機会なのではないか」
彼は真剣な顔で呟いた。
もっとも、彼がその機会を得るために必要なのは、殺しの技術でも、戦術眼でも、裏社会で築いた名声でもない。
包丁を正しく使う技術と、食材を焦がさない程度の火加減である。
その事実に、本人はまだ十分に気づいていなかった。
*
一方、No.4《道化師》は、別の問題に頭を抱えていた。
「人員募集……未経験者歓迎……人と話すのが苦手でも大丈夫……」
彼は募集要項を拡大して読んでいた。
「これは、単なる労働力の確保ではないな」
隣で黒百合が冷たく言った。
「ただのアルバイト募集でしょう」
「いや、もちろん表面的にはそうだ。だが、なぜ未経験者を歓迎する? なぜ人と話すのが苦手でもいいと明記する? 通常なら、接客経験や協調性を求めるはずだ」
「人手が足りないからじゃないの?」
「それもあるだろう。しかし、マスターは以前から一貫して、誰かが無理をすることを望んでいない。今回も同じだ」
道化師は指を組んだ。
「能力だけで人を選ばない。苦手なことがあっても、働く場所を与える。つまり、ここでは成果よりも、本人が無理なく続けられることが重視されるのではないか」
黒百合は少しだけ考えた。
「……そういう店があっても、いいんじゃない」
「そのとおりだ。だが、我々が応募するとなれば話は別だ」
「どうして?」
「履歴書に何を書く?」
黒百合は黙った。
殺しの実績。
潜入任務の成功率。
尋問への耐性。
海外の諜報組織との交渉経験。
どれも、喫茶店のアルバイトに書く内容ではない。
「……普通の履歴書を用意すればいいでしょう」
「普通の履歴書とは、何だ?」
「それくらい自分で調べなさい」
黒百合は席を立った。
道化師は、ひとり残された。
「……履歴書とは、想像以上に難解な書類だな」
*
その日の夕方。
透が仕込みを終えて休憩していると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、王冠だった。
いつもどおり整ったスーツ姿で、表情にも乱れはない。
「マスター。少しお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい。何でしょう?」
「今回の募集についてです」
「ああ、アルバイトですか?」
透は笑った。
「もし知り合いに仕事を探している人がいたら、紹介してもらえると助かります。もちろん、無理にとは言いませんけど」
王冠は、慎重に言葉を選んだ。
「……採用にあたって、何か条件はありますか?」
「そうですね。時間を守ってくれることと、ほかのお客様に迷惑をかけないこと。それから、わからないことをわからないままにしないで、聞いてくれることですかね」
「聞くことを、重視されるのですか?」
「そりゃあ、そうですよ」
透は当然のように答えた。
「最初から何でもできる人なんて、いませんから。わからないのに一人で頑張って失敗するより、早めに相談してくれたほうが、こっちも助かります」
王冠は、静かに頷いた。
裏社会では、わからないことを口にするのは弱さと見なされることがある。
判断を誤れば、部下を失う。
失敗を認めれば、立場を失う。
誰かに頼ることが、責任の放棄だと考えられる場面もあった。
だが、透は違う。
わからないことを尋ねるのは、当然のことだと言う。
それを責めるどころか、助かるとまで言った。
「……マスターは、働く者に何を求めているのですか?」
「うーん」
透は少し考えた。
「一緒に気持ちよく働けたら、それでいいんじゃないですかね。忙しいときは助け合って、休みたいときはちゃんと休んで。困ったことがあったら相談して。そんな感じです」
王冠は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。参考になりました」
「いえいえ。いい人が見つかるといいんですけど」
透は、採用する側の人間として当然の心配をしていた。
王冠は、店を出てから空を見上げた。
自分たちは、長いあいだ組織を守るために生きてきた。
人を選び、能力を測り、役割を与え、結果を求めてきた。
それが必要な場面も、確かにあった。
しかし、ここでは。
ただ一緒に働けることが、最初の条件になる。
それは、彼にとって少しばかり新鮮な考え方だった。
*
翌朝。
透が店のシャッターを開けると、入口の前に六人が並んでいた。
「……皆さん?」
王冠。
黒百合。
葬送。
道化師。
渡り烏。
零。
全員が、いつになく真剣な表情をしていた。
透は、嫌な予感を覚えた。
「何かありました?」
王冠が一歩前に出た。
「マスター。今回のアルバイト募集について、我々からご相談があります」
「はい?」
「可能であれば、我々も応募させていただきたい」
透は固まった。
「……え?」
六人は、まっすぐに透を見つめていた。
冗談を言っている様子はない。
「いや、皆さん……仕事は?」
「調整可能です」
王冠が答えた。
「料理の練習をしたい」
葬送が続けた。
「業務内容を把握してから判断したい」
道化師が眼鏡を押し上げた。
「人と働く経験を、少ししてみたいと思ったの」
黒百合は、目をそらしながら言った。
渡り烏は穏やかに微笑んだ。
「年齢制限がないのであれば、私も候補に入れていただけるとありがたいですね」
零は短く告げた。
「……掃除は得意」
透は、六人の顔を順番に見た。
この人たちは、どうしてここまで真剣なのだろう。
ただの喫茶店のアルバイトだ。
時給を払って、仕事を覚えてもらい、忙しい時間に手伝ってもらう。
それだけの話なのに。
「ええと……皆さんが本気で言っているなら、応募すること自体は構いませんけど」
六人の表情が、ほんの少し明るくなった。
「ただ、普通に面接はしますよ?」
「もちろんです」
王冠が即答した。
「履歴書も必要です」
「承知しました」
「あと、採用されるかどうかは、ちゃんと仕事を見て決めますからね」
「異論ありません」
透は、思わず笑ってしまった。
「なんだか、就職説明会みたいになってきましたね」
その笑顔を見て、六人はそれぞれに思った。
この人の前では、伝説である必要はない。
強さを示す必要も、完璧である必要もない。
ただ、応募者の一人になればいい。
それは彼らにとって、思っていた以上に勇気のいることだった。
*
その日の午後、灰都の裏社会は再び騒然となった。
情報屋から、信じがたい報告が入ったのである。
「例の六人が、そろってCAFE 灯の求人に応募するようです」
「……何だと?」
「確認された情報では、全員が履歴書の準備を始めています」
「六人全員?」
「はい」
報告を受けた幹部は、眉間を押さえた。
六人の伝説。
国家規模の組織でさえ扱いに慎重になる存在。
彼らが、たった一軒の喫茶店で働くために履歴書を書いている。
それは、いったい何を意味するのか。
「店主は、六人を配下に置くつもりなのか?」
「断定はできません。しかし、求人に応募するということは、店主の管理下で働く意思があるということです」
「……雇用契約か」
別の幹部が呟いた。
「六人が同じ店で働けば、彼らの行動はこれまで以上に一体化する可能性があります」
「いや、逆かもしれん。店主は六人を戦力として扱うのではなく、普通の労働者として扱おうとしているのではないか」
「それは、彼らにとって何を意味する?」
誰も答えられなかった。
彼らはこれまで、六人が動く理由を、戦略や権力や勢力図から推測してきた。
しかし、今回ばかりは違う。
六人は本当に、喫茶店で働いてみたいと思っているのかもしれない。
料理を覚えたい者がいる。
掃除が得意な者がいる。
誰かと一緒に働く経験をしてみたい者がいる。
それだけの理由で。
「……あの店は、本当に理解できん」
幹部は深く息を吐いた。
「だが、ひとつだけ確かなことがある」
「何でしょう?」
「店主が望んでいないことを、こちらの都合で決めつけるな。採用するかどうかを決めるのは、店主本人だ」
その言葉に、誰も反対しなかった。
奇妙なことに、裏社会の人間たちも少しずつ学び始めていたのである。
CAFE 灯では、誰かの力が強いからといって、特別な扱いを受けるわけではない。
そして、誰かが何かを望んだからといって、必ずその願いが叶うわけでもない。
ここでは、店主が決める。
それだけのことだった。
*
閉店後。
透は、カウンターに六人分の応募用紙を並べていた。
「……本当に全員、応募してきたんだ」
履歴書の職歴欄には、妙に抽象的な記述が並んでいた。
王冠の履歴書には、『組織運営・人員管理に長年従事』。
黒百合には、『情報収集および状況判断を得意とする』。
葬送には、『体力に自信あり。調理を勉強中』。
道化師には、『分析・記録・業務改善に関心あり』。
渡り烏には、『交渉・調整業務の経験が豊富』。
零には、『清掃・整理整頓が得意』。
どれも嘘は書かれていない。
ただし、普通の喫茶店のアルバイトに提出される履歴書としては、どこか異様だった。
「みんな、いろいろ経験してるんだなあ……」
透は感心した。
それぞれに得意なことがある。
それなら、仕事を覚えるのも早いかもしれない。
とはいえ、採用する以上、確認しなければならないこともある。
透はメモ帳を取り出した。
「面接で聞くことは……勤務できる時間と、接客の経験。それから、どうしてうちで働きたいと思ったのか、かな」
最後の質問を書いたところで、彼は少しだけ考え込んだ。
どうして、あの六人は働きたいと思ったのだろう。
これまで店に来るたび、彼らは何かを抱えているように見えた。
けれど、仕事の話を詳しく聞いたことはない。
無理に聞くつもりもなかった。
ただ、もし彼らが本当にここで働きたいのなら。
客として過ごす時間とは、また違うものが見つかるのかもしれない。
「……まあ、まずは話を聞いてみよう」
透は応募用紙をきれいに揃えた。
窓の外では、夜の灰都が静かに光っていた。
裏社会の伝説たちは、今ごろそれぞれの場所で、面接に備えているのだろう。
ある者は想定質問を分析し。
ある者は身だしなみを整え。
ある者は、履歴書の書き方をもう一度調べているかもしれない。
そして葬送は、おそらく包丁を握っている。
明日の面接で、料理について聞かれる可能性があるからだ。
もっとも、彼が今、まな板の上で切っているものが、またしても不格好な野菜の塊になっていることを、透はまだ知らない。
そして、裏社会の人間たちも知らない。
明日の面接で、六人が最も苦戦する質問が、戦闘能力でも、忠誠心でも、過去の経歴でもないことを。
――「週に何日、働けますか?」
その、ごく普通の質問だった。




