【4】明 その1
いつからだったろう。
細い隙間から入る光をぼんやり見ながら考える。
いつから、ここまでになってしまったんだろう。
指の先しか動かない。折り曲げられた足の感覚はほとんどなくなってきた。ただ、痛みのような痺れのような、何かがそこにあるのだろうと言う感覚だけで足があることを確認する。息が苦しい。声を出したいのに、口に詰め込まれたタオルの繊維の感触が口の中全てを覆いつくしている。鼻で呼吸はできているけど、それもだんだん苦しくなってきた。
いっそ目も覆ってくればよかったのに。いつもあれだけ嫌いだと言っていたのに、どうして塞いでくれなかったんだろう。細い光が、消えそうで消えない希望を持たせる。
細い隙間から光と熱が沁み込んでくる。ガタガタと揺れる音が頭と体に響く。じわじわと光が歪んできた。スッと流れる生ぬるい水滴は拭うこともできずに鼻を伝って口元に流れていく。
どうして、ここまでされないといけないんだろう。
そんなに、僕が悪いんだろうか。
僕だけが悪いんだろうか。
僕だけのせいだったんだろうか。
そうなんだろうな。
そうだったんだろうな。
ガタン、と大きく揺れて体がぐるっと回った。ゴッと頭が固い何かにぶつかる。
「う…」
呻き声程度は出せるらしい。そんなものが出せたところで、どうしようもないのに。
「………お嬢……けど、……」
話し声が聞こえてきた。さっきも聞いた声だ。若い男の人の声。
「だから……で、……ちょっと、気になって」
女の人の声が近づいてくる。ママとも、お母さんとも違う声だ。いったい僕はどこに来たんだろう。お母さんはなんて言ってたっけ。
「開けて見ていい? 怒られたら私がどうにかするから」
「お嬢が怒られるようなことなんてさせないっす」
「私のしたことを代わりに被ることなんてないでしょう。いい? 私が、言いだして、勝手に、やってるの。何かあっても私のせいだから」
「……わかりまし…あれ? この段ボール、なんか歪んでんな。こんな形だったっけ」
「え?」
「これ確か、最後にお客さんが『中開けないで廃棄してください』って乗っけてきたやつだったと思うんですけど…」
声がどんどん近くなってくる。今なら声を出せば聞こえるかもしれない。出して、と、助けて、と言えば、聞こえるかもしれない。
でも、
開きかけた口がタオルでしぼめられていく。ダメだ、きっと僕が何を言っても。何も聞こえるわけがないし、聞こえても助けてくれる人なんているわけない。もし助けてくれても、僕を見た瞬間にすぐにまたみんなと同じようになるんだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ。
「……誰か、いる?」
真上で声が聞こえる。ダメだ。静かにしないと怒られる。僕はいない存在なんだから。いちゃいけないんだから。呼吸がどんどん早くなるのに、息が吸えない。苦しい。ダメだ、静かにしないと。まるで最初からいなかったみたいに、いないようにしないと。
「開けるわよ」
すぐ上でガサッと音がする。むわっとした空気と眩しい光が細い隙間からどんどん大きく広がっていく。眩しい。ダメ、ダメだよ、ダメなんだ。僕を見つけないで。僕に気付かないで。
「……っ急いで先生呼んできて!」
「は、はいっ!」
眩しい光の中で、誰かが僕に手を伸ばす。ダメです。ダメだよ。僕に触ったら汚れちゃうよ。
「ぼく、怖いかもしれないけど、ちょっと触るよ」
優しい声が眩しい光に溶ける。ゆっくり頭に、頬に触れる。口の中に押し込まれていたタオルが引きずり出されていく。息が一気に入ってくる。
「-っゲホッゲホッ」
急に入ってきた空気に咳込む。優しい手が背中をさする。
「やたら頑丈に結んであるじゃない、これ…」
ふっと体が浮いたかと思うと、光の中の人の顔がぐっと近づいた。目の前に大きな瞳が二つ、僕を覗き込んでいる。キレイな黒い丸い瞳。
「ちょっと我慢してね」
そう言うと、僕の体は腕の中で抱えられて、すっぽりと膝の上に収まった。力が入らなくて、パタンとこの人の体に倒れ込む。甘くて優しい匂いが香る。
ダメなのに。触っちゃダメなのに。謝らないといけない。怒られる、嫌われる。でも、体が動かせない。
「ごめんね、すぐに解いてあげるから」
優しい手が僕の頭を何度かくすぐって、すぐに前で縛られていた手に移動した。謝る前に謝られてしまった。どうしたらいいんだろう。もっと謝らないといけないんだろうか。たくさん謝る時はどうすればいいんだっけ。そうだ、確か地面に頭をつけて、それから、それから……
「……僕っ」
それから、いいって言われるまで動いたらダメで、それから、いいって言われるまでごめんなさいって言わなきゃダメで、それから、それから……
優しい手が頬にぺちぺちと当たる。何か言っている。声が聞こえない。眩しい人がどんどん光に紛れて消えていく。謝らないといけないのに、ごめんなさいって言わなきゃいけないのに、言えない。声が出ない。どうしよう、どうしたらいいんだろう。このままじゃ、また、嫌われちゃう。怒られちゃう。捨てられちゃう。
「………お、ねが、捨てないで…」
何でもするから。何でも我慢するから。
だからお願い、まだ僕を捨てないで。
待ってなきゃいけないんだ。
僕、待ってなきゃいけないんだ。
縋るように伸ばした手ではいつも何も掴めないのに、なぜか、今回は何かを掴めた気がした。
* * *
誰かに呼ばれたような気がして目を開いた。いつものように薄暗い、でも、いつもとは違って天井が見える。見覚えのない白い天井だ。柔らかい布の感触もある。横になって寝ている。ふと、左手が何かを掴んでいるのに気付いた。
「……?」
手を離そうと思ったのに、自分の手が固まってしまったかのように動かない。何か温かいものがそんな僕の手を覆った。
「急に動かすと痛いかもしれないから、ゆっくり開いてね」
細くて長い、優しい指だ。言われるままにゆっくり手を開こうとしたけど、まだ動かない。
「………」
薄暗い部屋の中に、眩しい人がいる。キラキラした二つの大きな瞳が僕を覗いている。さっきの、眩しい人。僕が触っても怒らなかった人だ。
「……お医者さんが診てくれて、とりあえずは安静にってことだったんだけど…喉渇いてない? お腹減ってない? 何か、食べたいものとか、ある?」
優しい指が、何度も僕の指をなぞるように滑る。カチカチに固まっていた指が少しずつほぐれていく。
「………」
何も言えないでいる僕に、大きな瞳が優しく揺れた。
「食べやすいように、柔らかいの作って来るね。甘いのは好き?」
「………」
好きかどうかなんて、考えたことない。また何も言えないで黙っていた僕の頭に、優しい指がふわりと触れた。
「待ってる間、お姉ちゃんの弟が隣にいてもいい? 静かな子だから、あんまり気にならないとは思うんだけど…」
ゆっくりと首を横に動かす。見覚えのない部屋の中にいることに、ようやく気が付いた。いつもよりずっと広い場所だから、ここが誰かの部屋だと気づかなかった。このお姉ちゃんの部屋なんだろうか。薄暗いけど、ベッドと、テーブルと、机がある。テーブルの横に、大きなソファ。いや、あれは座椅子って言うんだっけ。そこに、ちょこんと座った子どもが一人、こちらをじっと見つめている。
「虎徹、おいで」
お姉ちゃんが呼ぶと、パッと立ち上がって小走りで近づいてきた。お兄ちゃんと同じくらいの歳だろうか。乗り物の絵のついた白いTシャツと半ズボン、短い髪と鋭い、少し怖い目がこのお姉ちゃんとは似ていない。僕とお兄ちゃんみたいに、似てない姉弟なのかもしれない。
「私の弟、虎徹っていうの。何か話したいことがあったら話していいし、何か欲しいものとかしてほしいことがあったら、お姉ちゃんがいない間はこの子に言ってくれる? 何も言わないでほしかったら、そう言ってくれたら静かにしてられる子だから」
そう言って、お姉ちゃんはこてつくんの頭を撫でた。こてつくんが目を細めて嬉しそうにする。
「ちょっとだけ、待っててね」
そう言うと、お姉ちゃんの手がまた僕の頭に触れた。優しく撫でた後、同じようにこてつくんの頭を撫でる。
同じ……?
同じなわけないのに、何を思ってるんだ。
「……?」
コテン、と首を傾げてこてつくんが僕を見つめる。そして、今まで自分が座っていた場所を指さす。よくわからなくて、僕はただ頷いた。すると、こてつくんも頷いて、元居た場所に戻ってまた座った。「あっちにいた方がいい?」ってことだったみたいだ。お姉ちゃんはその様子を見て、僕の頭をまた撫でて、通りすがりにこてつくんの頭もまた撫でて、部屋を出て行った。
パタンとドアの閉まる音がして、お姉ちゃんの足音が遠くなっていく。時計のカチコチという針の音だけがする。薄暗い部屋で、初めて会う人と二人きり。目を合わせることもできなくて、とりあえず天井を見つめる。どうしたら誰にも怒られないで済むんだろうか。何も言わないでじっとしていれば、いいだろうか、それだけでいいんだろうか。それとも、先に謝るべきだろうか。
「お姉が、作る、ご飯、おいしい、から」
声がして、こてつくんを見やる。座椅子に座って、顔だけこちらを向いている。少し怖い目がまっすぐに僕を見ている。
「きっと、元気になる」
ふっと目が優しく揺れる。
あ、同じだ。
さっきのお姉ちゃんと、そっくりな笑い方。優しい笑顔。
「………」
僕とお兄ちゃんとは違う。すぐにわかった。この二人は、顔が似てなくてもちゃんと姉弟だ。
「だから、安心して、寝てて、いいよ。俺のことは、気にしないで。君が、具合悪くなった時とか、喉渇いた、とか、トイレ行きたい、とか、そういう時のために、いるだけ、だから」
そう言うと、こてつくんは僕から目線を逸らした。
「あんまり、見るの、嫌でしょ?」
そう言って、何もない壁をじっと見つめ始めた。僕のためだけに目を逸らしてくれたんだとわかった。
「……」
不思議な人たちだ。僕に触るのを嫌がらないし、僕が嫌がることをしないようにしてくれる。なんでだろう。変な感じだ。こういうの初めてだから、どうしていいかわからない。こういう時も、ごめんなさいって言った方がいいんだろうか。それ以外になんて言えばいいんだろう。
カチコチと時計の針の音がする。遠くで誰かの話し声がする。窓の外から車の音が聞こえる。部屋の中のこてつくんは息をひそめているように音を立てない。静かだ。
「………」
静かなのに、怖くない。変な感じだ。カチコチと時計の針が動く音がする。柔らかい布団の感触が気持ちいい。広いベッドは窮屈にしていなくてもいい。体を伸ばして寝るのはいつぶりだろう。甘い優しい匂いがする。お姉ちゃんの匂いと一緒だ。目を閉じて思い返してみた。
僕を見つけてくれた時も、狭いところから出してくれた時も、さっきも、どうしてあのお姉ちゃんは僕に触るのが平気なんだろう。お母さんもお兄ちゃんも、僕のこと汚くて汚らわしくて気持ち悪いっていつも言うのに。汚くなるのが気にならない人なんだろうか。そんな人、いるんだろうか。ううん、いるわけないんだ。「みんな、お前のことが嫌いなんだ」っていつも言われてるじゃないか。いるわけないんだ。あのお姉ちゃんも、まだ、僕のことをちゃんと見てないから嫌いじゃないだけだ。僕の髪も、目も、声も、全てが汚くて気持ち悪いんだから。汚らしいんだから。
「お姉、来たよ」
こてつくんの声が静かに聞こえた。すぐに、コンコンとドアを叩く音がする。こてつくんが立ち上がってドアを開けに行く。
「お待たせ。甘めにしてみたけど、大丈夫かな?」
お姉ちゃんが両手に抱えている何かからあたたかい煙が立っているのが見える。甘い匂いが漂ってくる。
「………」
おいしそう、とぼんやり思った。じゃあ、僕は食べちゃダメだ。
「体起こせる?」
お姉ちゃんはテーブルに抱えてきた何かを置いて、僕の横に腰掛けた。ぐん、と目線が下がる。
「ベッドで食べてもいいけど、食べづらいかな…」
困っている。僕がすぐ起きないからだ。起きないと。いつものろまで、遅いって怒られてるのに、いつまでも同じことをしちゃう。慌てて手を支えに起きようとしたら、力が入らなくて、ぐらっと体が傾いた。
「危ないっ」
お姉ちゃんがすぐに手を伸ばす。お姉ちゃんの腕に倒れ込んでしまう。触っちゃダメなのに、また、触ってしまった。もう、許してくれないかもしれない。どうしたらいいんだろう、どうしたら許してくれるんだろう。嫌われたくない。怒られたくない。謝らないと、すぐに謝らないといけないのに、声が出ない。息が早くなるだけで、声が出ない。
「……下で、食べようか? 嫌じゃなかったら、お姉ちゃんが抱えててもいい?」
慌てて首を振る。そんなこと、許されるわけない。僕がしてもらっていいわけがない。
「そっか……嫌か…」
お姉ちゃんの声が暗くなる。やっぱり怒ってるんだ。僕なんかがここにいるから。僕が手間をかけているから。
「じゃあ、あそこに置いておくね。食べたくなったら食べてね。お姉ちゃんも虎徹も、ここから出てくから、それなら嫌じゃないかな? ごめんね、触られるの好きじゃないのにたくさん撫でたりしちゃったね」
お姉ちゃんはそう言うと、そっと僕をベッドに寝かせた。白い天井が見える。薄暗い部屋に、優しい甘い匂いと、時計の針のカチコチという音が響く。
「虎徹、こっちおいで」
「……俺も、ごめん」
こてつくんは誰に謝っているんだろう。このお姉ちゃんもさっきから何を言ってるんだろう。触られて嫌なのは僕じゃなくて、みんなの方でしょう?
「ごめんね、ゆっくり寝てね」
顔だけドアに向ける。薄暗い部屋の奥、ドアの向こうの明かりに照らされて、泣きそうなこてつくんの顔が見える。お姉ちゃんがそんな顔を優しい手で包む。ふと僕を振り返ったお姉ちゃんと目が合った。お姉ちゃんは優しく微笑んで、それからもう一度、「ごめんね」と唇を動かした。
おかしい。何か変だ。さっきから一回も怒られてない。いつもなら何度も怒られて、叩かれてたっていいくらいなのに。おかしい。何か変だ。
パサ、と何かが落ちた音がした。それが自分の手から落ちたものだと気づくのに少し時間がかかった。さっき何か握ってる気がしてたやつだ。ゆっくり首を動かして見てみると、床に服が落ちている。どこかで見たような気がして、あ、と気づいた。
「………」
お姉ちゃんの服、僕が掴んでたんだ。
テレビで見たことがある、制服っていうやつだ。さっき、狭いところから出してもらった時、何かを掴んだと思ったのは、お姉ちゃんの服だったんだ。僕が強く握ってたから、皺になってる。服を離すと僕の指が痛いから、そのままにしてくれたのかな? それとも、ただ面倒だったからそのままにしたのかな?
「………」
じわじわと床の制服が滲んで、ポタポタと水が落ちる。汚してしまう。ダメだ。ダメだよ、泣くな。泣いちゃダメだ。
「……ふっ…ぅっ…」
謝らないと。ごめんなさいってしないと。僕のためにたくさんしてくれたのに、僕は迷惑しかかけてない。嫌われたくない。捨てられたくない。怒られてもいいから、謝らないと。急いで、捨てられちゃう前に。
体を起こそうと腕をつく、と、さっきみたいにガクンと体が倒れて転がった。そのまま回転して、床に真っ逆さまに落ちた。
ゴン、という音が頭に響く。
「う…」
じんじんと体中に響いてくる。起きなくちゃ、はやく起きて、ごめんなさいって言わないと。会いに行かなくちゃ。謝らなきゃ。
「……んで…」
そう思ってるのに、全然体が動かない。何度腕で押し上げようとしても、すぐにぺしゃんと体が潰れたように崩れる。悔しい。なんで僕は何もできないんだろう。なんでこんなにダメなんだろう。何もかも、全部。
「ひっく…うぅ……ふっ」
がまんしなきゃダメ。しずかにしなきゃダメ。うるさくしたらダメ。僕がしていいことは、じゃまにならないていどに生きていることだけなんだから。
「……僕? ごめんね、音が気になるから入るよ…」
コンコン、とドアを叩く音がする。お姉ちゃんの声。まだ起きれてないのに、どうしよう。どうしたら許してくれるんだろう。ごめんなさいって言わないと、まずはそうしないと。
「返事がないけど、ごめんね、入るよ……」
静かにドアが開く音がする。顔だけをどうにかドアに向ける。滲んだドアの奥に、お姉ちゃんの姿がぼんやり映る。
「…っ!!」
お姉ちゃんが僕を見つけた瞬間、一気に走って近づいてきた。
「痛いところない? 大丈夫?」
伸ばしかけた手が僕に触れる直前でピクッと止まる。きょろきょろと周りを見回して、ベッドからタオルケットを引っ張ってくるとそれで僕を包んだ。
「えーと……これなら、嫌じゃない?」
大きな黒い目が揺れている。
「………」
すぐに謝らないといけないと思っていたのに、声にならない。ただ、どうにか頷いた。
「よかった。何か取ろうとしたの? それとも、どこかに行こうと思った? いくら君が嫌でも部屋にいるくらいはしなきゃいけなかったね。ごめんね」
「……ち、ちが、う」
「え?」
「ちがうよ。い、嫌じゃない、全部」
声が震える。僕がしゃべっても、謝る以外のことをしても怒らないだろうか。嫌われないだろうか。
「ぼ、僕に触ると、汚れるから、ダ、ダメなの。触っちゃダメなの。ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ぼ、ぼ僕が、汚いから、ごめんなさい」
「え? ちょっと待って…汚いってどういうこと?」
お姉ちゃんが僕の顔を困った顔で見ている。
「だって……」
なんで当たり前のことを聞くんだろう。
「ぼ、僕の髪はき、汚い茶色で」
「きれいなアッシュブロンドよね」
「……そ、それ、なに?」
「アッシュブロンド、こういう、焦げ茶色っぽい金髪のことをいうのよ。私は真っ黒だからそういう色、羨ましいとは思うけど…汚いなんて、思わないよ」
「………め、目のい色も、き、き、汚い灰色だし」
「……ちゃんと見せて?」
お姉ちゃんはそう言うと、僕の長い前髪をそっとかき分けた。いつも目が隠れるようにしてくれる前髪だ。お姉ちゃんはゆっくり僕に触らないようにそっとかき分けた。
「……きれいなブルーグレーね。お姉ちゃんの好きな色よ」
「……そ、そんなわけ、な、ないよ。ちゃんと、み、見たらわかる、よ、よ。ぼ、僕は汚くて、汚れてるから、ダ、ダメなんだって、ずっと、そう、お、お母さんとお兄ちゃんが言ってたんだもんっ、マ、ママと同じ色してるから、よ、汚れてるってっ言って…っ」
喋っているうちに息が詰まった。何で、そんなおかしなこと言うの、なんでそんな変なこと言うの、きれいなわけないのに、なんでそんなこと言うの。
「お母さんとお兄ちゃんはそうかもしれないけど、お姉ちゃんはきれいだと思う。好きよ、ほんとに」
お姉ちゃんの黒い大きな目がじっと僕を見ている。
「汚いなんて思わないよ。触っても汚れるなんて思わないよ。もしかして、私たちが嫌がると思って、さっきいやいやしたの?」
こくんと頷く。お姉ちゃんがふう、と息を吐く音がする。
「なんだ、よかった」
「よく、ない」
「ううん、じゃあ、こうしてもいいってことでしょう?」
そう言うと、お姉ちゃんは僕の頬を手で包んで、そのまま腕を背中に回すと、僕を抱き寄せた。
「怖かったでしょう? 狭くて暗くて、苦しい中にいたもんね。今も、知らないところで怖いよね。大丈夫だよ。怖いことも、嫌なこともしないからね。安心してね」
ポンポンと背中に手が触れる。その度に、『大丈夫』って言ってくれる気がする。そんなわけないよって何度も思うのに、お姉ちゃんが言ってることが本当な気がしてくる。
「……ほ、ほんとに、嫌じゃな、ない?」
「うん」
「ぼ、僕、汚くないの?」
「うん」
「さ、触っても、怒らない?」
「うん」
「き、嫌いじゃ、ない?」
「うん」
「ぼ、僕がいても、怒らない?」
「うん」
「ゆ、許してくれる?」
「……許さなきゃいけないこと、何もしてないでしょ。優しい子ね、自分のことじゃなくて、私たちのことばっかり気にして」
「……いいの?」
「うん」
「いても、い、いいの?」
「うん。いてくれる?」
「……うん」
お姉ちゃんの腕に力が入る。ぎゅっとされるのが嬉しい。嬉しい。嬉しい。僕が触ってもいいんだ。一緒にいてもいいんだ。汚いって怒られないんだ。お姉ちゃんの腕が少し緩んで、僕の体を起こした。僕の顔を正面から見つめる。
「顔がびしょびしょね」
ふふ、とお姉ちゃんが笑いかける。細くて長い優しい指が、僕の目元をそっと拭う。
「そんなきれいな目で泣いてると、雨が降ってるみたいに見えるわね」
「きれいじゃ…ない、よ…」
「またそう言う。お姉ちゃんはすごく好きな、きれいな色なんだよ」
「………」
「照れてるの?」
「……ちがうよ」
初めて言われたから。きれいだなんて。好きだなんて。だから、どうしていいかわからない。ごめんなさい以外に、どう言ったらいいのかわからない。
「眠くなってきた? このままここで寝てもいいんだよ」
「ううん……」
そう答えながら、目が重くなっていくのが分かっていた。ついさっきまで寝ていたはずなのに、まだ眠いなんて、変だな。いつも少ししか寝なくても大丈夫なのに。
体がゆらゆら揺れて、ぽとんとお姉ちゃんの体に倒れ込んだ。柔らかい感触が気持ちいい。起き上がらないといけないと思ったのに、そのまま沈んでいくみたいに動けない。
「大丈夫よ、怖いことないからね、大丈夫だからね」
お姉ちゃんの手が僕の頭を滑る。
「いい子ね」
「いい子じゃ…ないよ……ダメな子だから………」
ダメな子だから、皆に捨てられたんだもん。ダメな子だから、みんな僕が嫌いなんだもん。
お姉ちゃんが何か言っているのが聞こえる。何かわからないけど、優しい言葉な気がして、目を閉じた。この人になら怒られない気がして、目を閉じても怖くないと思った。
続きます




