【3】葉 その2
窓を少し開けているせいで、外の声が聞こえてくる。
心桜と虎徹がきゃっきゃとはしゃいで追いかけっこしている声がする。龍さんが窓から探していたが、すぐ見つかったと声に出していた。似た者姉弟だ。
「つまり、生まれてすぐどっかのバカがアンタらの家の前に捨ててったってこと?」
俺の大雑把なまとめに龍さんは頷く。
「どこのバカかはわかってて、事情も聞いて、今後虎徹が望みさえすれば会わせてやるとは言ってある。だけど…」
言い淀んだ言葉の先は予想がつく。
虎徹が今のところ望んでないんだろう。
「つまり、何も変わってないって感じ? 心桜は「お姉って呼んでくれなくなったらどうしよう~」とか言ってたけど」
「無駄な心配だよな」
ふーと長い息を吐く。低くて怖い声に反して、発される言葉は大体優しい。
「虎徹にとっては、心桜が全部みたいなもんだからな。母親で、姉で、家族で、恋人。俺と親父はおまけみたいなもん。そういや、お前にも近い内に会わせられるかもな。最近調子良さそうじゃなねえか」
全然くっついていない両足首と、減らない点滴を前に龍さんは平気で言う。何をもって調子がいいと言うんだか。
「変な夢は見なくなってきてるって、先生が言ってたぞ」
「ああ、あれは…」
あれは、心桜がいる時には見ないんだ。と、口にしかけて止めた。龍さんは続く言葉を待っているように俺を覗き込む。
「そうですね、ほとんど、見てないです。最近は」
ついこの間、心桜がその、虎徹のお話合いで丸一日来なかっただけで見たくせに、よくもまあ簡単に嘘をつける。自分に感動してしまう。もしかしたら俺はこういうことばっかり言っていたから痛い目に遭ったんじゃないだろうか。
「夜に、心桜がこっそり来ると思うから」
コツン、コツンと足音が鳴る。
「忘れ物あったらその時心桜に言ってくれればいい。じゃあ」
コツン、コツンと足音が遠ざかっていく。少し開けていた窓がそのままで、心桜と虎徹の楽しそうな笑い声がまだ風に乗って聞こえてくる。目を閉じて、そっと聞き入る。
* * *
「まだ起きてたの? もう消灯時間だよ」
囁くような声が耳元で急に聞こえた。心桜の声だとわかっても心臓がバクバクと激しく波打つ。
「……びっくりさせるなよ…」
「だって、こっそり来なくちゃいけないから…」
心桜ともう1つ大きな誰かの影がベッドを隠すカーテンに映る。
「今日は隠れる気あんまりないわね?」
影に向かって心桜が笑いかける。影は答えない。俺も誰かは聞かない。聞いたら答えてくれそうな気がするけど、聞いてはいけない気もするからだ。
「お兄から聞いたと思うんだけど、虎徹の話」
心桜は影を無視して話を進める。いつものようにベッドの横、丸椅子に腰掛けて俺の顔の横に肘をついて話しかける。俺はゆっくり顔を向けて目を合わせる。
「めっちゃ泣かれた」
胸を押さえるような仕草をして、顔を歪める。
「『もうお姉って呼んじゃダメなの?』って言われてさ…そんなわけないじゃんって、叫んで抱き締めて熱い抱擁を交わした2人はそのまま口づけを交わし…」
「おいおい」
はは、と心桜は笑った。
「まあ、べったべたに一緒に寝て、起きたらいつも通りって感じだったかな、一応。でも時々めそめそしちゃうって自分で言ってたから、寂しくなった時は私が虎徹にハグするチャンスなの。そんなのなくてもいつもしてるんだけど」
すぐ想像がつく。心桜は目を伏せながら、それでも幸せそうな笑顔を浮かべている。
「家族でいたいって思ってくれて、よかった…」
そりゃそうだろ、と出かかった言葉を飲み込んだ。心桜にとっては大きな心配事だったんだろう。傍から見たら言わずともがな、というようなことでも。
「葉は? もうあまり変な夢は見なくなってる?」
するりと心桜の細い指が伸びてきて、逃げる間もなく頬が捕まる。柔らかい指がさするようにそっと撫でる。誘われるように目を閉じて、「うん」と答える。
大きくて怖い黒い何かが俺を見下ろしている。
じっくり品定めでもするかのように、怪しく光る眼玉が2つ、俺の髪の毛1本1本までじっとりと目線を這わす。
怖くて、気持ち悪くて目を逸らしたいのに、体のどれ1つも動かせなくて、できない。
嫌で嫌で仕方ないのに、吸い寄せられるような光る2つの目玉から目を逸らせず、逃げ出せないまま時間だけが過ぎていく。
知ってる。
俺が俺を見ながら言う。
知っている。
お前は、こいつらに----んだ。
知ってるだろ。
覚えてるだろ。
忘れた振りをするな。
俺が俺に言う。
真っ暗の中で、時間だけがただ流れていく。
これがいつもの夢だ、もう、目を閉じなくても見えてしまう夢。
ふう、と息を吐く。本当はどんなことがあったか、俺の体はしっかり覚えているんだろう。だからこんな夢を見せてくる。でも、俺はまだ思い出せない。俺自身が思い出さないようにしているんだろう。
「……なんでお前がそんな顔してんだよ」
白い前歯がピンクの下唇をぎゅっと噛んでいる。
心桜がこんな顔をするから、思い出したくないと思ってしまうんだろうと思う。心配させたくない、困らせたくない、悲しい顔もさせたくない。俺のことなんかで。
そう、俺のことなんか、気にしなければいいのに。
「手、繋いでいい?」
心桜がそう言って、俺が頷く。
管やコードのついてない指を探して、柔らかく握りしめる。心桜が先に目を閉じる。長いまつげが優しく瞼を覆っている。俺はその横顔を見ながら目を閉じる。繋いだ指からふわふわと心桜の温度が伝わってくる。
「……虎徹はいいよな」
「え…?」
思わず零れた言葉に、心桜が顔を上げるのが分かった。俺は目を閉じたまま続ける。
「出てきた場所はあんまりだったろうけど、育った場所がいいとこだから、幸せな子になれるだろ?」
「そう思ってくれたらいいけど…」
再びベッドに体重がかかる。ごそごそと布の擦れる音がする。
「葉も、だよ」
「何が?」
「葉も、家族になるんだよ」
「……ああ、そんな話もあったっけ…」
目を強く閉じて、決して開かないようにする。心桜が覗き込んでくるのが分かる。
『俺と虎徹は話が違うだろ』と、反論されるに決まってる言葉を口の中で咀嚼して、ただ、ふうと吐く息に変えた。
「昼、寝れた?」
心桜が諦めて話題を変えた。
「ちょっとだけ」
「そう」
握られた指に少し力が入る。
「眠るまでここにいるから」
「ん……」
頭を優しく撫でる指の感触がどんどん麻痺したみたいに弱くなっていく。ギュッと握ってくれた指の感覚だけはまだ消えない。足の方から誰かに引っ張られるみたいにゆっくり沈んでいく。ああ、眠れるんだとぼんやり思う。
「心桜……」
「なに?」
何か言おうと思って呼んだ名前に言葉を続ける前に、意識は俺を眠りに引きずり込んでいった。
* * *
ぎゅっと眉間に皺を寄せて目を閉じている様子は、人によっては寝ているとは思われないのではないだろうか。俺には関係のないことだけど、と影の中で独り言ちる。
「朝までここにいたらさすがに怒られるよね?」
小声で心桜が声をかけてくる。時刻は22時を回ったところだ。朝までじゃなくても十分怒られる時間と言っていい。
「アカチャンが指離してくれないのか?」
がっちり繋がれた指を示すと、するんと心桜は器用に抜き出した。
「ん…」
もぞもぞと探すように指が動くが、目を覚ます様子はない。
「どうせ怒られるなら、いっそ朝までって手もあるな」
「そうやってすぐ片棒担いでくれようとするー」
怒られることだからって、悪事ってわけでもないだろ。変にまじめなところが出ているな、と思わず笑いそうになる。影の中だから見えていないとは思うが。
「虎徹が待ってるから、昨日の今日だし、さすがに帰るよ。葉のことも気になるんだけどね。夢のこととか」
ぎゅっと固く睨むように結んだ両眼の下には、およそ子供らしくない青黒いクマが深く刻まれている。殴られた痣よりも濃いかもしれない。
「中途半端に記憶が揺り戻されてるんだろうな。ろくな記憶じゃねーだろうから、忘れてんなら忘れたままの方が幸せだと思うけど」
俺の言葉に唇を尖らせて心桜が見上げる。
「経験談だよ、悪いか」
「べっつに」
舌を出さんばかりの勢いの語気でありながら、小声であることは忘れないんだから大したもんだと思う。険しい顔のままだが、葉が目を覚ます気配はない。
名残惜しそうに、愛おしそうに前髪を整えるように撫でて、そのままおでこにキスを落とした。
「怖い夢を見ませんように」
心桜がいつも虎徹にやるおやすみの挨拶だ。
寝ててよかったな、ボウズ。思わず天を仰いだ。
影に溶け込んで、心桜に手を伸ばす。
心桜が手を取って、影に溶け込む。
今夜はおあつらえ向きに新月だ。
影とは何か、まだ謎です




