【2】虎徹
お昼ご飯を食べ終わった後、珍しくおとうがまじめな顔をしてぼくを呼んだ。会社が休みの日だから、珍しく朝ご飯だけじゃなくてお昼ご飯も一緒に食べれた日だった。いつもと違ってお休み用の紺に緑のしましまの着物(着流しって言うんだよとおねえが前に教えてくれた)を着ていて、前髪もいつもはかっこよくまとまってるけど、今日は下ろしてて、いつもとは違ったかっこよさがある。
「虎徹、この後お話あるから会社のお部屋に来なさい」
「は……はい…」
おねえと一緒にお盆に片づけるお茶碗を乗せていた手が止まる。おとうのまじめな顔がなんかおっかなくて、助けを求めるようにおねえを見上げる。おねえがおとうを見て、ぎゅっと唇を結んだ。
「虎ちゃん、その前におトイレ行こうか」
でも、ぼくに向けた顔は、いつもと同じ優しい笑顔だった。
「うん」
返事をしてから、途中だったお片づけを再開する。カチャカチャと少しぶつかり合って鳴る食器の音が、いつもより大きく聞こえる。割れないように静かに重ねているはずなのに、今にも割れてしまいそうで不安になる。
「俺も行く」
おにいの声が上から降ってきた。
声のした方を見上げると、おにいが機嫌の悪い時の顔をしていた。朝ご飯の時にはいなくて、ついさっきようやく起きたとおねえが言っていた。パジャマにしているグレーのTシャツと、黒のスウェットパンツのままだ。おとうもおにいも何着ててもかっこいいなあ。としみじみ思った。
お盆に全部乗せ終わると、おねえが「ありがとね」とぼくの頭をなでなでする。エプロンから覗くおねえのTシャツと自分のTシャツを見て、同じ空の写真に、思わず笑顔になる。おねえとお揃いで買ってもらったやつだ。
「おねえ、ぼく、ひとりでおトイレ行けるよ」
「虎ちゃんえらいねえ。でもお姉が一緒に行きたいから、お姉の洗い物終わるまで待っててくれる?」
おねえの隣を転ばないように、転ばせないように気を付けて歩いていく。おねえは前とぼくを一緒に見れる。『とくしゅなくんれん』を受けているんだと言っていた。
ご飯を食べる部屋から台所まではすぐだ。畳から板の間になって、台所に行くと足がちょっとヒヤッとする。
「俺やっといてやるから、先行ってこい」
ぬっと黒い影が差したかと思うと、おにいがおねえの手からお盆を取り上げていた。
「お嬢、龍さんじゃなくて自分がやるので大丈夫です」
もう1つぬっと黒い影が差す。さえきだ。
さえきは休みの日なのに、会社の日と同じスーツを着ている。あ、でも上着は脱いでシャツだけだ。長い髪はいつもと同じように後ろでまとめている。おねえがあげた赤いゴムがきん色のさえきの髪に似合っている。
おねえたちと一緒のくろ色の髪になりたいけど、さえきと同じきん色もかっこいいなあと思わずみとれる。ぼくの髪はちゃ色で、誰とも似てなくてなんかやだなあ。ちょっとしょんぼりする。
「じゃあ大丈夫ね」
「おい、どういう意味だよ」
おねえはにっこり笑ってエプロンを外す。ぼくとお揃いの空の写真がしっかり見えるようになった。
さえきと目を合わせてウインクをし合う。
おにいより大きいさえきは、まあまあと言いながらさっさと洗い場に食器を置いていく。ジャーと水の音がする。おねえは文句を口の中でもごもご言ってるおにいじゃなくて、さえきに向かって声をかけた。
「佐伯、応接室にお茶1つと麦茶3つお願いしていい?」
ピタ、とさえきの手が止まる。おにいの文句も止まった。
「合わせて持ってきてね」
そう言うと、おねえはぼくに手を差し出した。ぼくにピッタリの高さに差し出された手を、誰にもとられないように急いで掴む。
「行こうか、虎」
「うんっ」
おとうとおにいのちょっと怖い顔を忘れて、ぼくはおねえとおうちの方に向かった。
* * *
おうちの方には、ご飯を食べるお部屋から右に曲がって、突き当りをもう1回右に曲がって、鍵のついてる戸を開けたら到着する。おねえとぼくの部屋はおうちの方の一番奥にあって、お部屋の中にお風呂とトイレもある。おねえは女の子だから特別なんだって言ってた。
ぼくが小学生になったら、おねえと一緒の部屋じゃなくて隣の空いてる部屋にぼくの部屋ができるんだって言われた。おねえと一緒に寝れなくなるのは寂しいけど、自分の部屋ができるのはかっこよくてうれしいから、たのしみにしている。
「おへやの外のトイレつかうね」
もう小学生になるから! とちょっといい顔をしてぼくはおねえの手を離して早歩きする。廊下は走っちゃだめだから、早歩きが一番速い。
「じゃあ、お姉は手洗うとこで待ってるね」
外のトイレは、新しいぼくのへやの向かいの通路の奥で、その隣が手洗うところとお風呂。手洗うところではみがきもする。あ、そうだ。お昼ご飯食べたからはみがきしなくちゃだ!
「おねえ、はみがきもする?」
「うーん…お話の後に、しようか。麦茶出してもらうから」
ぼくが振り返ったら、おねえは難しそうな顔をしてそう言った。「わかった」と返事して、ぼくは外のトイレに向かった。
おとうのだいじな話って何だろうな、小学生になるから、こころがまえかな? おとうとおにいみたいにかっこよくなるためのヒミツとか教えてくれるのかな。なんだろう、ドキドキするな。
そう、ちょっとワクワクしながらぼくはおとうに言われた通り、会社のお部屋に行った。
ご飯のお部屋から、おうちとの方とは反対側、いつもは入っちゃダメだよって言われている場所。
* * *
おとうが話し始めたのは、ぼくたちがお部屋に入って、ちょうどいいタイミングでさえきがお茶を持ってきて、それでもまだまだしばらくしてからだった。静かなのが怖くて、ぼくがおねえとおにいを見上げたのがきっかけになったみたいに話は始まった。
会社のお部屋、大きくて広い座ると冷たい椅子に、おとうが1人。反対の椅子におにい、おねえ、ぼくで座って、向かい合わせになっている。
「虎徹がもうすぐ小学生になるから、ちゃんと話しておこうと思って……5年前の、まだ少し暑い秋の日、ちょうどこれくらいの時期だったと思う。今度の週末が誕生日だから、本当に今くらいだったんだな。そうか、もう小学生になるのか、早いな」
おたんじょうびプレゼントの話かな? とおとうを見ると、おとうはグッと口を閉めてまた黙った。
ぼくは慌てて目線を自分の膝に落とす。
少しして聞こえたおとうの声は、おたんじょうびプレゼントの話はしてくれなかった。
「朝の新聞取りに行くのは、5年前は心桜のお手伝いの仕事だったな。あの時12歳くらいだったかな。心桜が中学上がる前くらい…」
「そうだな、そんくらいか」
「………いつも通り新聞取りに行った心桜がさ、息切らして帰ってきたと思ったら、喉に張り付いたような乾いた声で変なこと言ってきたんだ」
何度も何度も区切りながら、おとうが話を続ける。
「『赤ちゃんがいる』って言った時は、本当に何言ってるんだ、って思った。さすがにな。心桜がその時に震えながら両手で抱えてたのは、新聞と白いビニール袋でさ。コンビニでもらうようなビニール袋の中、手ぶるぶるさせながら差し出してきたのを見たら、ほんとにいたんだよ。まだへその緒付いたまんまの赤ん坊が」
「……虎徹、それがお前だ」
え?
という言葉は、喉の奥で消えた。
膝に落としていた視線をおそるおそるおとうにを見上げる。
おとうは怒ってるわけじゃないのに、それはわかるのに、いつもよりずっと怖い顔をしていた。
「あのまま死ぬかと思ったところ、お前が生きようとしてくれて」
「心桜がずっと母代わりに育ててきて」
「母親がいなくて心細いこともあったと思うが」
「俺たちと似てないことをきっと学校に行ったら色々言われることがあると思う」
「でも、俺たちにとってお前は紛れもなく家族で」
「大事な息子で」
おとうが何か話している。
『誰か』の昔話。ぼくのしらない、昔の話をしている。最初はそう思ってたけど、ほんとうは思いたかっただけで、ぼくにだってわかってた。わざわざぼくを呼んだんだもん。
最初っからずっと、『誰か』じゃなくて『ぼく』の話をしてるんだよね。
「それって」
ぼんやりと頭に浮かんだことばが口から零れる。
「ぼくは、おとうと、おにいと、おねえと、ほんとうは、かぞくじゃないよってこと? ただ、すてられた子だってこと?」
前に図書館で読んだ絵本を思い出す。兄弟たちと見た目が違う鳥さんのお話。おねえに読んでと言ったら、おねえが「それは読めないの、ごめんね」と言って一度も読んでくれなかった絵本。字が読めるようになって自分で読んで、ぼくに似てるなってちょっと思ってた。でも、ぼくは、白鳥にまざったアヒルだから、あのお話とは逆だなって。それに、おねえもおにいもおとうも、誰もぼくを追い出そうとしないから違うなって、そう、思ってた。
「………何をもって本当って言うのかって話になってくるんだが…」
おとうが天井を見上げる。ぼくも見上げる。こたえでも書いてあるのかと思ったけど、何もない。ただ木の模様があるだけだった。あ、あそこ、ちょっと顔に見える。
「血の繋がりって意味では違う。だから、見た目は似てない。今後似ることもないだろう。だが、戸籍上という意味では、しっかり家族だ。あと、心の中では、もっとずっと、家族だ」
難しい言葉がわからなくて、ぼくはわかってないのに「うん」と返事をした。冷たい椅子は、ぼくの体温を吸ってもうぬるくなっている。横にいるのはわかっているけど顔を見るのがなんか怖くて、手だけを隣のおねえに伸ばした。ツンと当たったおねえの手は、椅子と同じくらい冷たかった。冷たい手が、ちょっとだけ触れたぼくの指を掴む。
「……おねえ…」
呼んでいいかちょっと不安になって、でも、それ以外に呼び方が分からなくて、そっと隣を見上げる。おねえがぼくをいつもと同じ優しい顔で見ている。
「なあに、虎ちゃん」
声を聞いたら体が勝手に動いてしまって、がまんしなきゃいけないって気がしたのも放り出して、そのまま、目の前のお揃いのTシャツに飛び込んだ。
おとうの言ってることがよくわからないよ、おねえ。ちゃんと教えて。
ぼくのことほんとうにいつも言ってるみたいに好き?
かわいい?
たいせつな弟?
それほんと? うそじゃない?
ぼくは、おねえって呼んでいいの?
いつかまた捨てられるんじゃないの?
おねえたちが本当の「ちのつながったかぞく」じゃないなら、
「ちのつながったかぞく」が来たら、ぼくはそっちに行かないといけないの?
ここにいていいの?
いなくならなきゃいけないの?
全部声にならなくて、ただぎゅっとTシャツを掴む。おねえが何も言わないで、ぼくをTシャツごと抱き上げた。身体がふんわりと浮く。
「お父、戻るね」
おねえの声が頭の向こうで聞こえる。
「お兄と話すことあるんでしょ?」
おとうとおにいの立ち上がった音に、おねえがそう言って止める。
「かわいい弟とのラブリースイートタイム、邪魔しないでね」
落とされないようにおねえのTシャツをもっと強く握る。おねえはぼくの頭にちゅって音をさせた。
「おねえと虎のお部屋行こうね」
おねえが歩くたびに、体がちょっとだけ揺れる。
ゆらゆら。ふらふら。ぐらぐら。
落とされないように、落ちないように、手だけじゃなくて足も思いっきり絡めて抱き付いて離れないようにする。
「虎徹、虎、虎ちゃん、がまんがじょうずな子にしちゃって、ごめんね」
頭にふにふにと柔らかい感触が当たる。おねえがほっぺをくっつけてるのがわかる。
会社のお部屋から、おうちのおねえとぼくの部屋まで、おねえはずっとぼくの名前の歌を歌ってくれていた。
虎徹 虎 虎ちゃん かわいいかわいい私の弟
よい子でいてくれて ありがとね
たまには悪い子でもいいんだよ
どんな子でも だいじだいじ
かわいいかわいい私の弟
おにいがこの歌を聞くと、いつもゲーって口に出して恥ずかしそうに笑う。
おとうがこの歌を聞くと、いつも困ったような顔をして笑う。
さえきがこの歌を聞くと、「お嬢は天才です」と拍手をする。
ちょっと恥ずかしくて、大好きな歌で、ぼくが怒られたりしたときに、おねえは歌ってくれる。あとは、なんとなく、眠れない夜とかに。
落ちないように、落とされないように、捨てられないように、ぎゅっと全身でおねえにかじりつく。
おねえがちょっとジャンプをしてぼくを抱え直す。
いつもと同じ、おねえもおうちも何も変わらないのに、ぼくだけが急に変わってしまったみたいで、おねえに掴まっていないと、すぐにどこかに消えてしまいそうだった。
ひらがなで書く部分が多いと誤字してそうで目が痛くなりますね。




