【5】明 その2
くすぐったい風が頭を通り過ぎる。
「…?」
ぼんやりと目を覚ました僕に、甘い声が降ってくる。
「起こしちゃった?」
「……ううん…」
そう言いながら。起こしかけた顔をまた沈める。柔らかくて暖かい感触にほっとする。
「うーん…やっぱり明がいいな。虎徹はどう?」
「いいと思う」
「なんかもっと強そうな字にしろよ」
「強そうな字って何?」
「龍とか虎とかさあ」
「どっちももう使ってるでしょ?」
「だから、そういうなんか強そうな他の字だよ」
「例えば?」
「……お、鬼、とか…」
「……ねえ、お兄、人につける名前だって本当にわかって言ってる?」
「鬼だってかっこいいだろ! なんだよー! いつもお前と虎徹で組んで俺を責めて!」
「だって、虎徹はお姉ちゃんの子だもんね」
「うん」
「お前の名前つけたの俺だぞ!」
「関係ないもんねー?」
「うん」
「こらっ虎徹!」
楽しそうな声が近くで聞こえる。僕には関係のない話だ。いつも関係のない話を聞いていると胸がぎゅうってなって、喉の奥が苦しくなるのに、今は違う。変なの。おかしいな。
「ちゃんと起きたら一緒に言おうね、虎徹」
「うんっ」
こてつくんとお姉ちゃんの楽しそうな声と、少し拗ねてるけど怒ってない男の人の声。お姉ちゃんが「おにい」って言ってたから、お兄ちゃんなのかな。お兄ちゃんか。お兄ちゃんって呼ばれる人は、ちょっと怖いな。違うお兄ちゃんだと思っても、怖いな。
「で? なんでその字なんだよ」
「だって、この字には太陽と月がどっちもあるでしょ? これから一緒にいられなくても、太陽や月が見えない時でもそこにあるみたいに、一緒にいるよってことと…」
「あーあー、お前のロマンチックなのがまた始まったーサムイサムイ」
「もう、どうしてそうすぐ茶化すのよっ」
「お兄、大人げない」
「おまっ、虎徹、そんな言葉どこで覚えて来たんだ」
「お兄が覚えさせてるのよ。それだけじゃないわよ。朝方の、ちょうど月が沈みかけて日が昇りかけの空の色、わかる? それによく似た、きれいな色の目なのよ」
「あー、青っぽい灰色みたいな感じか」
「そう。大好きな空の色だからね」
お姉ちゃんの細くて長い指が、僕の髪をくるくる絡めて優しく撫でていく。
「………ん、そろそろ大人の話がまとまりそうだな。ちょっと行ってくる」
今までの軽い声から、急に低くて重い声になる。お姉ちゃんの手がビクッと固まる。
「大丈夫だよ」
男の人の声がまた柔らかくなる。
「心配すんな」
「うん…」
パタパタと足音が遠くなって、ドアの閉まる音が聞こえた。
お姉ちゃんの手がまた僕の髪を絡めて優しくすべっていく。
「お姉、明、どっか行っちゃうの?」
「……まだわかんないの」
「うちにずっといないの?」
「ずっといてほしいね」
「うん。俺、弟できるの嬉しいもん」
「そうだね、虎徹はお兄ちゃんとお姉ちゃんしかいないもんね」
「うん……明が弟になったらいいな」
「そうね」
お姉ちゃんの手が僕の背中をさする。
「お姉ちゃんもそう思う」
僕のことを言ってるわけないのに、なんでだろう、僕のことを言ってる気がして嬉しくなった。優しい人たちにこんなこと言ってもらえたら、きっと幸せなんだろうな。悲しいことなんてないんだろうな。でも、きっと僕じゃないから。僕はそんなこと言ってもらえるわけないから。
「みんなで、名前考えたの。君が家族になったらって考えて。『明』っていうの、どう思う? 起きたらちゃんと話すね。今はただ、いっぱい頑張ってきた分、いっぱいガマンした分、いっぱい休んでね」
ポンポンと背中に手が触れる。服の擦れる音がして、隣に誰かの体温を感じた。
「虎徹も、優しくやってね」
「うん」
お姉ちゃんより少し小さい手が、同じように背中に触れる。ぽんぽん、ぽんぽん
「明」
あきら
「あなたの名前よ。私たちが呼ぶ、大事な名前」
ぼくの。なまえ。
「明が大事な子だから、名前を付けたのよ。気に入ってくれるといいな、ね、虎徹」
「うん、明、起きたら、お話ししようね」
夢みたいだな。そうか、夢なんだ。だから、こんな嘘みたいなことがあるんだ。良かった、夢なら信じられる。あったかい人が側にいることも、誰かに優しく撫でてもらえるのも、僕じゃ絶対してもらえないことだもん。これは夢だから、僕がしてほしいことが起こるんだ。名前で呼んでもらえて、大事な子だって言ってもらえて、優しいお兄ちゃんがいて、何も怖がらないで眠っていられて、夢なんだ。悲しいな。これが本当だったらよかったのに。きっと目を覚ましたら消えちゃうんだ。このあったかさも、やわらかいのも、全部、なくなっちゃうんだ。いつもの真っ暗で、狭くて、冷たい場所で目を覚ますんだ。いつもみたいに、ひとりぼっちで。
「どうしたの? 悲しい?」
お姉ちゃんの指が僕の目を撫でる。
「ううん…」
悲しくないよ、嬉しい夢だよ。すごくすごく嬉しい夢。嬉しすぎて、嬉しすぎるから、本当はとっても悲しい夢なのかも。
「怖いことないからね、大丈夫よ」
柔らかいのが僕の頬に触れる。甘くて優しい匂いが体中に広がる。夢じゃなかったらいいのにな。そうだったら、いいのにな。
* * *
いつの間にかまた眠っていて、目が覚めるとまだ温かかった。柔らかい感触に目を開くと、すぐ近くにお姉ちゃんの顔があった。
「……よく眠れた?」
そう言うと、お姉ちゃんの優しい手がまた僕の頬を滑る。
「うん…」
くすぐったくて、嬉しいのになんか恥ずかしくて、お姉ちゃんの胸に顔を埋める。
「お腹減ってない?」
「……ちょっと、だけ…」
くううううう、と情けない音が鳴った。ふふ、と笑ったお姉ちゃんの息が耳にかかる。
「あっためたら食べれるようにしてるから、一緒にお台所行こうか。虎徹が寝てるから、静かにね」
お姉ちゃんはそう言うと、僕の体をぐっと抱えて立ち上がる。さっきと同じ、座椅子の上のままだった。ずっと、僕が起きないからそのままでいてくれたみたいだった。
「虎徹はあっち」
お姉ちゃんが声でベッドを指す。ベッドの上で、すやすやと虎徹くんが寝ている。お姉ちゃんが囁くような小さな声で言う。
「結構頑張って隣で起きてたんだけどね。明が起きるの待ってるーって」
「……あきら?」
「そう」
お姉ちゃんはまだ囁くような小さな声で話す。くすぐったい声だ。
「僕とか、君とか、あなたとか、そう呼ぶのもなんか嫌だねって話をしてね、私と虎徹と、一応お兄とで考えたの」
ゆっくり歩きながら、お姉ちゃんは話し続ける。歩くたびにゆらゆら体が揺れる。
「夢、だと…思ってた…」
「ああ、やっぱりあの時半分寝てたのね」
ぽんぽんと背中に手が触れる。
「お姉ちゃんはこはる。心に桜って書くの。お姉ちゃんのお父さんがつけてくれた名前。こてつは動物の虎に徹底って……まだちょっと難しい字で、虎徹。お兄がつけたんだ。お兄はまだ会ってないね。お姉ちゃんのお兄ちゃんで、一文字で龍っていうの。龍ってわかる? ドラゴンとか…物語とかに出てくる…やつ」
「……絵本、見たこと、ある」
小さい頃に読んだ本を思い出す。大きな体で強くて怖い生き物だ。
「龍と虎ってセットで絵になることが結構あるからね、弟できる時に絶対虎がいい! って言って、虎徹の名前つけたの」
「………」
ゆらゆら、体が揺れる。
「あきらはね、明るいっていう字。お日様とお月様がどっちも漢字に入ってるの」
さっき夢の中でお姉ちゃんが言ってた言葉が繰り返される。
「これから一緒にいられなくても、太陽や月が見えない時でもそこにあるみたいに、一緒にいるよってことと…ちょうど、今みたいな空、見える?」
お姉ちゃんが立ち止まる。大きな窓から空が見える。
「……きれい」
夜が終わって朝になる途中みたいな、暗いのに明るい空。
「明の目と同じ、きれいなブルーグレーの空、お姉ちゃんが一番好きな時間の空なの」
すり、とお姉ちゃんの頬が僕の頭に触れる。
「きれいね」
お姉ちゃんが歩くたびに体が揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。
「……お姉ちゃんは…」
「うん?」
お姉ちゃんは、僕のこと好き?
言いかけて、言葉にできなくて、口の中だけで問いかける。お姉ちゃんは当然聞こえないから、答えない。
「な、なんでもない…」
「そう言われると気になるわね」
「……なんでもない…」
「………ならいいけど」
ぽんぽんと頭に手が触れる。もし聞いて、「そんなわけない」って言われたら怖いんだ。僕、弱虫だから怖いんだ。
「あんまり重いものは食べれないかと思って、離乳食みたいなの作っちゃったけど、食べたいものとかある?」
お姉ちゃんがそう言いながら歩いて行った先は、大きなキッチンだった。ママやお母さんが良くいる場所だ。ご飯を作る場所。僕が苦手な場所。
「……」
食べたいものと言われても分からない。また黙ってしまった僕を、お姉ちゃんはどこかに座らせてくれた。僕には少し大きい木の椅子。目の前にちょうどいいテーブルと、もう一つ同じような木の椅子がある。
「ちょっと広いでしょ? 会社の人の分も作るから、大きめなの。虎徹がご飯食べる時に気にならないようにテーブルと椅子、ここに置いてるんだ。明には少し大きいかな?」
ポン、と頭に手が乗る。
「あっためるからちょっと待ってね」
お姉ちゃんはそう言って、少し離れたコンロに移動した。ジジジ、ボッ、シュー…
赤と青の炎が白い小さなお鍋の底にくっついて燃えている。お姉ちゃんの背中が燃える炎を隠す。カチャカチャと時々鍋をかき混ぜる手がくるくる動くのを見ているだけで、なんだか苦手だったはずのキッチンにいるのが平気になる。甘い匂いが広がってきた。
「昔、虎徹に作ってあげたことがあって。風邪の時に温かいものだったらこれが好きだったんだよね。明も好きだといいんだけど」
カチ、と音がして火が止まった。くるりと振り返ったお姉ちゃんの向こうで、白い鍋から白い煙が湧き出ている。
「食べたことある? パン粥」
「………」
首を振る。パンだけなら、食べたことある。あんまり好きじゃない。でも、僕が食べられるもの。食べてもいいもの。
「……好きじゃなかった?」
「ううんっ」
「そう…?」
コト、と僕の前に白い鍋が置かれた。あったかい煙が出ている。甘い匂いが顔にかかる。
「熱いからちょっと待って」
お姉ちゃんは小さいスプーンを持ってきて、小さい鍋から白いものを掬った。スプーンには車の絵がついているけど、少し剥げている。お姉ちゃんがスプーンに息を吹きかけると、白い煙がふわっと流れた。
「はい、あーん」
あーとお姉ちゃんが口を開ける。
「……?」
「あーってお口開けて?」
お姉ちゃんの真似をして、口を開ける。お姉ちゃんが持っていたスプーンを僕の口にそっと入れた。生ぬるい金属の感触が舌に触れた後、温かくて甘くて柔らかいものがぽとんと落ちる。
「熱くない?」
僕が頷くと、お姉ちゃんはにっこり笑った。ほとんど噛まなくても柔らかく口の中で溶けていく。
「食べれそう?」
ふにゃふにゃで甘くて、温かい。初めてなのに、嫌じゃない味がする。
「……もう一口食べてみる?」
お姉ちゃんが同じようにスプーンで掬って、ふうふうと息をかける。白い煙が揺れる。僕に向かって口開ける。僕が真似をして口を開ける。お姉ちゃんがスプーンを口に入れる。
「……どうして泣いてるの…?」
お姉ちゃんがそう言って、僕の頬に手を伸ばす。
「泣いてないよ…」
そう言っている僕の声が、詰まったような変な声になっている。鼻水が出ないようにずずっと吸い込む。
「熱かった?」
「ううん…」
「おいしくなかった?」
「ううん…」
お姉ちゃんの優しくて細くて長い指が僕の顔を包み込む。
「……明」
「お姉ちゃん」
「なに?」
お姉ちゃんが僕の顔を包んだままにっこり笑う。大丈夫だよって言うみたいに笑う。
「お願いがあるの」
「何でも言って」
する、と優しい指が僕の目を撫でる。滲んでいたお姉ちゃんの顔がはっきり見える。
「僕を捨てないで」
「え…?」
「いらなくなっても、捨てないで。いなくならないで。嫌いにならないで。いい子にするから。言うこと聞くから。なんでもするから、僕のこと、捨てないで、お願い」
「明?」
「………」
慌てて口を手で覆う。お願いなんて言っちゃダメなのに。首を振る。今のは違う。違う違う違う。
「明、落ち着いて」
「ごめんなさい」
「何に謝ってるの?」
「ダメなのに、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「明?」
お姉ちゃんが困った顔で僕を見ている。怒ってない。怒ってないけど、困ってる。ダメなことしちゃったんだ。どうしよう。謝らなきゃ。謝って、ごめんなさいって言って、それから、それから、それから、それから……
「明っ」
お姉ちゃんがぐらぐら曲がって見える。困った顔から焦った顔になったお姉ちゃんが手を伸ばすのが見える。ダメ。掴んじゃダメ。触っちゃダメ。僕がしていいことなんて何もない。ダメ、ダメ、ダメ。
今度は絶対に何も掴まないように、胸の前で両手をぎゅっと繋ぎ合わせた。
* * *
心桜の腕の中で、明は体をガチガチに固めて眠っているように動かない。胸の前できつく組まれた腕も、縮まるように丸まった膝も、固く閉じた目も動かない。
「どうしてそんなに怖いの?」
心桜が消えそうな声で呟くように声をかける。
「何がそんなに怖いの?」
そう言って、明の頭を優しく撫でる。アッシュブロンドの巻き毛が心桜の細い指に絡まる。
「怖くないのよ」
泣きそうな声にも、明は応えない。
「……心桜、ベッドに運んでやれ」
親父の声に、心桜がゆっくり顔を上げる。心桜の大きな声に飛び起きた俺と親父と佐伯が、囲むように心桜と明を見下ろしている。
「心桜、ほとんど寝てないだろ。一緒に寝てやりなさい」
「はい」
心桜が困ったような揺れた目で俺を見る。
「大人の話は、お前がもっと落ち着いてから話す。まずは一度寝ろ。な?」
心桜が頷いて立ち上がった。少しふらつきながらも、明をしっかりと抱えた手は揺るがない。
「お父」
心桜が親父を呼ぶ。
「調べてほしいことがあるんだけど」
心桜はそう言うと、親父に耳打ちする。親父は少し考えてから頷いた。
「追加で調べる…が、多分、お前の予想通りだと思う。残念だけどな」
「……うん」
心桜は頷くと、ゆっくり明を抱えて歩き出した。少し離れてから親父に声をかける。
「なんだって?」
「明の両親の話だ」
「ああ……」
チラリと佐伯に目を向ける。
「かなり複雑な家庭事情ってやつですよ。ウチがリサイクル回収で行った先の世帯主と連絡取ってますけど、そっちは男性。そこそこの会社の中間管理職ですね。今出張で帰るのが明日って言ってまして、それからすぐ迎えにウチに来るそうです……それだけでもどうかと思いますけどね。回収先の近所で聞き込みしてた奴に聞くと、半年前まで住んでたのは派手な外国人風の女の人だけで、最近地味なおばさんと小学校中学年くらいの男の子が引っ越してきたって話です。どうも合わないですよね」
いつものように整ってない寝ぐせの髪をかきながら、癖で胸ポケットのある場所に手をやって何もないことに気付いて手を止める。台所でタバコを吸おうとするな。
「ママとお母さんとお兄ちゃん」
「ん?」
「心桜が聞いたんだとさ。ママとお母さんとお兄ちゃんは完全に別の呼び方だよな」
「ああ、それは…」
親父が佐伯と同じように頭をかく。
「父親の方がな、単身赴任で元々こっちにいたらしい。で、その間に接待先のホテルでピアノを弾いてた外国人の女性に一目惚れしていい仲になってできたのがあの子。で、だ」
「単身赴任ってことは…」
佐伯の顔が苦々しく歪む。
「そういうことだ。結局本妻とは離婚できなくて、浮気相手とも別れ話がまとまらない。そうこうしてる内に浮気相手の方が子どもを置いて別の男と帰国。残った子どもをどうしようもなくて、一緒に住まわせていた。今のところ大きな問題はなかった。うまくいっているわけでもなかったけど、だとよ」
「うまくいくわけねえだろ、そいつ頭おかしいのか?」
思わず声が荒くなる。
「電話で話しただけだが、本当に気の弱い、優柔不断って言葉がピッタリ来そうな感じだったよ。完全に大人の都合に振り回されてるんだよな、あの子は…」
「んで?」
親父が苦い顔で答える。
「家にいた母親の、本妻の方だな、そっちには自分から説明する。これ以上変な事させないためにウチからは何も言わないでくれだとさ。家庭の事情に巻き込むような形になって申し訳ない。迷惑料は払うからって」
「金の問題じゃないだろ」
「当たり前だろ。だが、変に刺激して、こっちに殴り込みに来ても困るだろ。それこそ、『殺してやる』なんて言い出しかねないからな」
親父は腕を組んでいつも虎徹が座る小さな椅子に腰かけた。
「信じるべきか迷ってるけどな、『子どもは悪くない。僕は憎む気持ちなんてない。本人さえ良ければ連れて帰りたい。妻の方は僕が説得する』って言ってきてる」
「っざけん」
「龍さん、早朝です」
佐伯がシッと唇に人差し指を立てた。
「……ふざけんなよ。あんなことする家に戻っていいことなんてあるわけねえだろ」
「俺たちはそうとしか思えないけどな」
親父が深い深いため息をつく。
「段ボールに服と一緒に子ども詰め込んで、逃げ出せないように声も出せないように両手足縛り付けて、口にタオル突っ込んで、もう少しで死ぬような思いさせといて、しかもウチに回収させる時にはバレないように自分でトラックの荷台に積んで、この段ボールは開けないで処分してくれって言ったんだよな? そんなことしでかしたところに、戻せって言うのかよ」
「龍」
「親父も役所も、あいつを殺す気かよっ」
「龍っ」
親父の低く響く声に、ビリビリと家が震える。佐伯が小さく息を吐いた。
「……お二人とも、早朝です」
親父がじろりと俺に目を向ける。
「求められれば引き渡しはするけどな。バレないようにお前がつけ。多少無茶してもどうにかする。心桜が気にしてることが当たってれば、もっと厄介なことになる」
「なんだよ。まだなんかあるってのか」
「………心桜の勘は、いいのも悪いのもよく当たっちまうからな…」
親父はそれ以上は言う気はないみたいで、速くいなくなれと手をシッシッと振った。
* * *
ベッドが動いた気がして目を覚ますと、お姉がベッドに明を優しく寝かせてるところだった。明の体がガチガチに縮まっていて動かない。お姉は明の隣にピッタリ寄り添うように横になると、おいでと俺を手招きした。明を挟んで3人で並んで寝る。お姉が明と俺を一緒に抱えるように腕を伸ばした。
「虎ちゃん」
お姉が俺を呼んだ。懐かしい呼び方にくすぐったい気持ちになる。小学校に入ってからは、あんまり呼ばないようにしてくれていた。俺が恥ずかしがるのに気付いてくれたからだ。でも、きっと恥ずかしいだけで嫌じゃないことにも気づいてくれているはずだ。
「なに?」
「虎ちゃんは、明のことどう思う?」
お姉の細長い指が俺の頭を撫でる。くすぐったくて体を少し縮こまらせる。
「似てる人、知ってる」
「似てる人?」
「うん」
お姉の顔がふふ、と困ったように笑う。
「……お姉も知ってるなあ、その子」
「うん………同じくらい、痛いことあったのかな? ケガはないよって先生は言ってたけど」
お姉がまた俺の頭を撫でる。
「痛いのは見えるケガだけじゃないからね」
お姉の言葉に、うんと口の中で答える。
知ってる。もっと痛いことがあるの、知ってる。
「虎は、明にしてあげたいことある?」
「うーん…」
ギュッと固まったまま動かない明の背中に、お姉の真似をしてそっと腕を伸ばす。お姉がそれを見て明と一緒に俺を抱き締めた。
「優しい子ね。虎ちゃん、虎、虎徹」
俺の頭をお姉の細長い手が優しく撫でる。あったかくて優しい手に、目を閉じる。
「明、誰も明のこと嫌いじゃないよ。怖がらなくていいの。嫌われてないことは、怖いことじゃないんだよ。大丈夫だからね。明、お姉ちゃんたちはいなくならないからね」
お姉の優しい声に、眠くなってくる。俺に言ってるわけじゃないってわかっているのに。いつだって、お姉が優しく話してくれると、安心してしまう。どんなに怖くても、何があっても。
「泣いても、嫌だって言っても、怒ったりなんかしないよ。お姉ちゃんも、虎徹も、一緒にいるよ」
ちゅ、と音がする。お姉のおまじないだ。怖い夢を見ないように、っていつも寝る前にしてくれるやつ。
「虎ちゃんも、優しい、いい子。お姉の自慢の弟」
ぽんぽん、と頭にお姉の手が触れる。目を閉じたまま、うん、と頷く。ガチガチに固かった明の体が、少し柔らかくなった気がした。
* * *
首の後ろに小さな息がかかる。くすぐったくて目を覚ますと、甘くて優しい匂いがふわっと広がった。
「おねえちゃん…?」
思わず声が出る。慌てて口を塞ごうと思ったら、柔らかいものが頭に触れた。
「まだ寝てていいのよ…」
耳のすぐ近くで声がする。優しくて甘い声だ。
「具合悪くない?」
慌てて頷く。
「そう、良かった…」
ぼんやりとした声で、お姉ちゃんはそう言って僕の頭を抱き寄せた。お姉ちゃんの頬っぺたが僕のおでこにくっつく。柔らかくて甘い匂いがする。
「……虎徹ってば、ぴったりくっついてたのね」
お姉ちゃんがそう言って、僕から離れて体を起こす。ギシギシする体をひねると、僕の背中のすぐ横でこてつくんがすやすや寝ていた。
「暑くない?」
お姉ちゃんはそう言いながら僕の髪を撫でる。ぼんやりした頭で頷く。
「………夢で…」
話していいって言われていないのに、思わず話し出してしまった。お姉ちゃんは、続きを聞いてくれるみたいに僕の背中を優しく撫でた。
「夢で、お姉ちゃんに会ったよ」
「あら、嬉しい」
「………」
夢で、嘘みたいなこと言ってたよ。ほんとだったらすごく嬉しいこと、言ってたよ。
「夢の中のお姉ちゃんと同じこと、もう一回言おうか?」
お姉ちゃんはそう言って僕の髪を撫でる。くるくる指に絡ませながらニコッと笑う。
「……わかるの?」
「うん、多分ね。夢の中でもお姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
頭を撫でて、頬っぺたをつまむように撫でて、耳をくすぐるようにつまんで、最後に僕のおでこにちゅ、と唇を当てて、お姉ちゃんは言った。夢の中のお姉ちゃんと同じ言葉。
「明、お姉ちゃんたちはいなくならないからね」
優しくてあったかい手が僕の体を丸ごと包み込む。
「怖がらないで大丈夫。嫌いにならないよ」
体から力がすうっと抜けていく。いつも、怒られないように、嫌われないように、そればっかり考えてた。どんなに頑張ってもダメなことばかりだから、もっと、もっと、もっともっともっと頑張らないといけないんだと思ってた。そうじゃなきゃ、僕はみんなに捨てられちゃうって思ってた。
「お姉ちゃんね、明のこと大好きなの。会ったばっかりなのに、変だね。でもね、大好きだよ。ずっと大事にしたいって思っちゃうの、勝手にね。そう思わなきゃいけないってわけじゃないのにね。不思議だね」
「へんなの…」
「ね? おかしいね。なんでだろうね?」
ふふ、と笑うお姉ちゃんの息がかかる。くすぐったくて、甘くて、優しくて、嬉しい。嬉しいのに、涙がじわじわ溢れてくる。
「……明、明はいい子。優しくて、いい子。優しすぎるくらい。お姉ちゃんは怒ったりしないから、嫌いって言ったりしないから、頑張りすぎなくていいよ。明のしたいことをしていいんだよ。したくないことは嫌だって言っていいんだよ。泣いてもいいよ。怒っても、笑っても、何しても……危ないこととかは、ダメって言うかもしれないけど…それ以外は、何してもいいんだよ、明」
「……いいの?」
「うん」
「なんでも?」
「うん。じゃあ、まず…今、何したい? してほしい、でもいいけど…」
お姉ちゃんがにっこり笑いかける。
「……ぎゅってしても…いい?」
「もちろん。おいで」
お姉ちゃんがばっと両手を広げる。そっと手をお姉ちゃんに伸ばしてみる。本当に触っていいのかな? 今までみたいに、動けなかったからとか、ぶつかったみたいなものとか、そういうんじゃなくて、僕から触ってもいいなんて、本当かな。
「こわい?」
お姉ちゃんの声が優しく聞いてくる。ううん、と答える代わりにお姉ちゃんに手を伸ばした。柔らかい腕にちょんと指が当たる。思わずすぐ手を離してしまう。もう一度やろうと思っても、なかなか手が動かせない。お姉ちゃんが、「もう少しね」と残念そうに笑う。
「たった一日でお姉ちゃんたちが触っても大丈夫になったの、すごいね」
ふんわりと優しくお姉ちゃんの手が僕の頭に乗る。
「頑張ったね、明。えらいね、いい子……えらいって表現、合ってるかな…」
お姉ちゃんが何か言いながら、うーんと首を傾げる。その間も、僕の頭を、皆が嫌いだって、汚いって言ってた髪を、大事そうに撫でている。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「嬉しい時って………ごめんなさい以外になんて言うの?」
お姉ちゃんに言いたい言葉が、ごめんなさいじゃないことはわかる。僕にでもわかる。でも、なんて言ったらいいのかがわからない。言っていい言葉なんてわからない。
「……ありがとう、とか?」
ありがとう
口の中で言ってみる。初めての言葉で、なんだかくすぐったい。
「お姉ちゃん」
「はい」
お姉ちゃんがにっこり僕を見つめる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言うと、お姉ちゃんはまた僕をぎゅっと抱きしめた。
* * *
親父が何度も書類を読み直しては、眉間に手を当てて悩んでいる。ふと、顔を上げた親父と目が合った。
「龍、心桜呼んで来い。虎徹と明は連れてこないようにな」
大きなため息の後にそう言うと、また眉間に手を当てる。事務所の社長の席、いつも険しい顔で座っている場所でいつも以上に険しい顔だ。
「……長くなりそうか?」
「心桜次第だな…」
「って言っとく」
「ああ」
明のことなんだろう。くたびれたYシャツに疲労が見える。夜中みたいな朝から結局、親父は事務所でずっと何かをしていた。今日がたまたま日曜日で誰もいないのが、かえってよかったかもしれない。
「お嬢なら起きてますよ」
事務所のドアを開けると、待ってましたとばかりに佐伯が自宅側のドアを開けていた。土間一つでつながる事務所と自宅というのは便利なようで時々もう少し離れていた方が良いのでは、と思うこともある。
「聞いてたのか?」
「声が聞こえてくる程度ですよ。俺はもう影はやってませんからね」
影、という言葉に一瞬でイラつく。佐伯はわかっていたかのように「すみません」と頭を下げた。
「一緒にお嬢の所に行きます。お嬢がいない間はあいつじゃなくて俺が見ておきますんで」
「あいつは心桜以外にとんと興味も関心も持たねえからな」
「指導不足で申し訳ありません」
「……」
「お前のせいじゃねえ」
「お優しいですね、相変わらず」
「黙れ」
「はいはい」
「………朝、親父が言ってた件と関係あるのか?」
「そうですね」
後ろを歩きながら、佐伯がうーんと唸る。
「お嬢の勘が当たるのがいいんだか悪いんだかって感じなんですけど…」
「どういう勘だよ」
「……この後社長からお嬢に話すと思うんで、俺から先に言うのもちょっと…」
縁側を歩くと、緑の匂いがする。すっかり花の散った桜は青々とした葉を揺らしている。
「まあ、大抵当たらない方がいいようなことって言うのは、当たるもんってことと……当たらない方がいいようなことって言うのは、ろくでもないもんってことですよ」
佐伯の吐き捨てるような言い方が、聞かなくてもすべて物語っているかのようだった。
長くなってしまいました…




