2話
――寒い。
薄く目を開き、冷えた腕を摩る。そこで、異変に気が付いた。
私は薄明るい廊下に立ち尽くしていた。日中に着ていたドレスではなく、ネグリジェにカーディガンを羽織った姿で。
「……え?」
確かに自室のベッドで眠りについたはず。着替えた覚えも、目を覚ましてこんなところまで歩いてきた覚えもない。
内装からタウンハウスの中であることは確実だが、タウンハウスの間取りは覚えていなかったため、私室までどう戻ればいいのか分からない。
窓の外はうっすらと白んでいる。どうやら夜明けが近いようだ。
「お嬢様?」
どうしようと周囲を見渡したところで、声を掛けられ振り向く。そこには侍女らしき若い女性が魔法で灯るランプを片手に立っていた。ほっと息を吐き、事情を説明する。侍女は慣れたように頷くと、私を私室まで案内し、退室していった。彼女曰く、あの場所はタウンハウスの中でも使用人たちに割り当てられた居住区画だったらしい。
なぜそんな場所にいたのか。思い出そうとしても、何も浮かんでくるものはない。ため息をつき、ベッドに倒れこむ。まだ起床の時間ではない。不安でざわめく心を落ち着けるため、目を閉じた。
「ここがリアのためのアトリエよ」
「わあ……!」
開かれた扉の先の光景に、私は思わず歓声を上げた。顔料の独特な匂いはむしろ好ましく、丁寧に手入れされていることが伺える筆に手が伸びる。
早朝に眠りにつき、家族の配慮で朝食の時間に起こされることなく昼前に目を覚ました私は、母からアトリエを持っていたことを聞かされその部屋を訪れていた。
アトリエはタウンハウスの一階の日当たりの良い部屋だった。二階まで吹き抜けになっているその部屋は裏庭に面している。裏庭側の壁は一面がガラスになり、少し張り出していた。座り心地のよさそうな大きなソファとローテーブルが日向に置かれ、ソファの上には見るからに手触りの柔らかそうなブランケットが畳まれて置かれている。
日陰には真っ白なキャンバスとイーゼルがあり、その傍らには可動式のラックが置かれていた。引き出しの中には数えきれないほどの絵具が入った半透明の容器と、筆がある。
壁には私が描いたのだろう絵画が飾られており、その他にも数えきれないほどのキャンバスが壁一面に置かれた棚に収められていた。
「小さい頃からとても絵が好きでね。絵の腕前は国王陛下にお褒めの言葉をいただくほどなのよ」
国王陛下から褒められたという話の真偽はさておき、確かに絵の腕前はかなりのものな気がする。比較対象として想起できる絵がないため、おそらく、ということになるが。
部屋を一目見た瞬間から、居心地がいいなと思った。きっと私はここで多くの時間を過ごしていたはずだ。夢中になって絵を描いて、疲れたらソファでお茶を飲みながらぼうっと庭を眺め、時々眠るのである。
「これが一番新しいスケッチブックね」
母が差し出したスケッチブックを受け取る。ページをめくれば、描画用の厚めの紙の上に海原が描かれていた。ページの右下にはこれを描いたのであろう日付がサインされている。
「ここは……大公領でしょうか?」
「ええ。大公領にある城は海を一望できる高い崖の上にあってね。浮上してくるダンジョンを目視できるよう、その場所に建っているのだけれど、あなたは城壁の上から見える海の景色をとても気に入っていて、一日中城壁の上から眺めていることもあったわ」
困ったように、だが嬉しそうにそう話す母に、スケッチブックを見下ろした。次のページには夕日が沈みかけている海が、その次のページには荒れた海が、その次のページには――――遠くに見える、奇怪な形状の構造物を持つ島が描かれている。
「これは……」
「浮上してきたダンジョンね」
「これがダンジョン……」
その時、室内に控えていた母の侍女が母に何かを耳打ちする。母はそれを聞いて申し訳なさそうな顔で私を見た。
「ごめんなさい、今日はお茶会に招かれていてね。そろそろ準備をしなければならないの」
「そうだったのですか。時間をいただいてしまってごめんなさい」
「いいのよ。行ってくるわね」
母は私を抱きしめ、額にキスをしてアトリエを出ていく。母の態度や私のためのこのアトリエを見るに、私はとても大切にされていたのだろう。記憶がないことが殊更申し訳なくなる。せめて家族との記憶だけでも思い出したいと強く思った。
侍女に紅茶を持ってきてくれるように頼み、私はソファに腰掛ける。薄いレースのカーテンが日差しを遮り、まぶしすぎることはない。スケッチブックを膝に乗せ、次のページをめくる。
たくさんの船舶が停泊した港、色とりどりの天幕が張られた市場、日向で微睡む白猫、花の細密画、満月が浮かぶ星空。
実際に私が目にしたであろう美しい風景。思い出せないことが口惜しいと思いながらまたページをめくり、私は手を止める。
そこには、酷く不気味な何かが描かれていた。生物だろうか。手前に描かれた人影らしきものとの対比から、それが途方もなく巨大であることだけは見て取れた。遠目から絵を眺めてみて、それが蛇のように細長い形状をしていることがようやく分かる。
アイアンブルーの体表はぬめりを帯びているが硬質なようにも見え、顔――あるいは口のようにも見える部分には黒々とした触手のようなものが密集している。背からは顔にあるものと同種の、だがそれよりも長く大きい触手が生え、翼のように広がっていた。
「■■■■■■■■」
無意識に己の口からこぼれた言葉に、ハッと我に返る。今自分は何と言ったのだろう。この国の言葉だったかすら曖昧で、私は眉をひそめて化け物の絵を見下ろす。
――気持ち悪い。
記憶を失う前の己は、何を思ってこれを描いたのか。どこでこんなものを見たのか――あるいは、描くためのきっかけを得たのか。
深く思案にふけっていれば、侍女のレアが声をかけてくる。頼んでいた紅茶を持ってきてくれたようで、ローテーブルに可愛らしいティーセットが置かれる。
「ねえ、レア」
「はい、何でございましょう?」
「レアは、この絵について何か知ってる?」
ふと思い立ってそう尋ねてみれば、レアはスケッチブックを見て頷く。
「お嬢様は、夢で見たのだとおっしゃっていました」
「夢で?」
「はい。一番初めにそのような絵をお描きになられたのは、お嬢様がうんと小さい頃だったと記憶しております。おそらく2階にある棚に保管されていると思いますよ」
レアの視線を追い、私は螺旋階段の上を見上げる。このアトリエにはバルコニーのような二階部分があった。棚が並んでいるのが見えていたため、昔の絵が保管されているのかなと考えていたが、その通りだったらしい。
「探してみましょうか?」
「ええ、そうしようかしら」
「かしこまりました。お嬢様はこちらでお待ちくださいね」
せっかく淹れてもらったお茶をそのままにしてスケッチブックを探すのも忍びなく、私はレアの言葉に頷いた。しばらくレアが探し物をする音を聞きながら、ぼんやりと裏庭を眺める。青々とした葉を風に揺らす大樹が見え、その下にはガゼボがある。きっとあそこで母とお茶をしたこともあったのだろう。
そんなことを考えていれば、「ございましたよ」という声とともにレアが階段を下りてくる。その手には一冊の古びたスケッチブックがあった。
レアからそれを受け取り、パラパラとページをめくる。目的のものはすぐに見つかった。
拙い筆遣いで描かれた単眼と視線が交わった気がして、私は一瞬呼吸を止める。幼い頃に描いたものだから、先ほど見た蛇のようなものの絵より不鮮明で曖昧だ。赤茶けた色の影。大きさは比較するものが描かれていないため分からないが、きっと巨大なのだと感じる。何か体液のようなものが滴り落ちている気がするが、定かではない。ただ、ページ全体が黒く塗りつぶされている中で唯一白く塗られた赤い虹彩の単眼だけが、異様に目についた。
無意識にその絵を指先でなぞった瞬間、頭に鋭い痛みが走る。
――愛しい。愛おしくてたまらない。会いたい。この身のすべてを捧げ、何としてでも。
理解不能な感情と治まらない頭痛に、頭を押さえる。私の背中を撫でるレアは、焦ったように医者を呼んでいる。その声もどこか遠い。
視界に映る真っ赤な単眼に、嫌悪感と羨望と憎悪と愛情がこみ上げ、私は思わずスケッチブックを膝の上から叩き落した。
こめかみを伝う嫌な汗の感触に集中していれば、頭痛は治まる。自分のものとは思えない荒い呼吸を聞いているうちに、いつの間にか意識が途絶えていた。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。
私は悲鳴を上げていた。
――おとうさま、おかあさま、おにいさま!
家族を名前を呼ぶ。いつもならすぐに駆け寄ってきて抱きしめてくれるのに、ここには誰もいない。それが、途方もない心細さをもたらした。
押さえつけられた腕が痙攣したように引きつって、また涙がこぼれる。
吐き気を催すような不快な臭いにえづく。部屋中に充満し、既に肺の中を満たしているその臭いが消えることはない。口の端から唾液がこぼれる。
聞きなれない耳障りな言語が聞こえる。ぐわんぐわんと頭の中で反響していて、吐き気がさらに酷くなる。
いつの間にか自分の悲鳴は消え、聞こえる声と同じ言葉をひたすら唱えていた。
額に冷たい布が触れる感覚に、目を開けた。
ぼやけた視界に、唇を引き結んだ母の顔が映る。母も私が目を開けたことに気づき、安堵したような笑みを浮かべた。
「良かった……気分はどう?」
「頭が、痛い、です」
「熱があるせいね。薬を飲みましょう。起きられる?」
その言葉に頷き、ゆっくりと体を起こした。部屋は薄暗く、閉じられたカーテンの隙間から見えた外は真っ暗だ。数時間は意識を失っていたらしい。
吐き出した息が熱いのが分かる。顔は火照って熱い気がするのに、空気に触れた上半身は寒い。水の入ったグラスを受け取った手は小さく震えていた。
「ストレスと疲労のせいじゃないかとお医者様は言っていたわ。ごめんなさい、あなたのことを考えずに色々なことを伝えてしまって……」
「い、いいえ。教えてもらえない方が、ずっと不安だったと思うので……」
差し出された薬を水で流し込み、意気消沈した様子で謝る母を見て慌てて首を振る。
意識を失ったのはきっとあの絵を見たからであって、決して見知らぬ自分の影を追うことが負担になったのではない。
むしろ、己のことが何も分からず、何も教えてもらえない状態の方が、きっととても心細かったはずだ。
母は眉を下げて微笑み、ベッドに横になるように促す。
「……お母さま?」
見上げた母の顔は、深い悲しみと不安を湛えているように見えた。思わず母を呼べば、優しく頭を撫でてくれる。
「大丈夫よ。きっと大丈夫。だから、ゆっくりおやすみなさい」
それは私への言葉というより、母が自身に言い聞かせているようだった。




