ネクゼタリー・ティヴァイン
目をしばたたく。酷く気分が悪い。
ネクゼタリー・ティヴァインは、耳の奥にこびりつく泣き声を、頭から追い出そうとする。悲嘆、恐怖、感傷、そういうものがしみこんで、手にとれるならばそれらが滴りおちそうな、そういう泣き声だ。
手にとって、握りつぶしてしまえば。
目を瞑る。
「わたしがこわいですか」
尋ねてみるが返事はなかった。レティアニナ・ハイオスタージャはじっとしている。ネクゼタリーの両腕のなかで、じっと。
声はしないし、動きもしない。
苦労して目蓋をおしあげる。随分、疲れているようだ。眠りたい。
ぐっすりと、なんの心配も不安もない状態で。
いっそそのまま目が覚めなくてもいい。
レティアニナが生きているのか不安になった。彼は動かない。なんの抵抗も見せない。
「ハイオスタージャ卿?」
風が凪いだ。それで、彼は呼吸をしているとわかった。音が聴こえた。
彼はかすかに震えている。
今まで見てきた何人もの人間と同じだ。
何十人もの?
「あなたをおどかすつもりでは、なかったんですよ」
なにをいいわけしているのだろう。
ネクゼタリーはレティアニナを抱えなおす。やわらかくて小さくてあたたかい、すぐにでも死んでしまいそうないきものだ。少しでも力をかければ命を奪える。ほんの少しで。
ぞっとする。
「わたしはただ、あの愚かでばかでなにも考えていない弟に、あなたが毒されるのではないかと思って、不安なだけです。ひとが堕落するところは、見たくない」
レティアニナがひくっとしゃくりあげる。ネクゼタリーは彼の頭を優しく撫でる。憐れにも短い髪が指に絡み、琥珀の耳飾りがゆらゆらする。骨がもろそうな頭だ。すぐに折れてしまいそうな首だ。
そう苦労もせずに。
ネクゼタリーは兄も弟も、大切にしている。尊敬している。愛している。行の手伝いもする。できることなら、死ぬ以外はなんだってしてきた。
なんだって、なんだって、なんだって。
兄の願いも、弟達の望みも、なんだって、すべて、できることならばかなえた、なんだってこなした、なんだってだ。それが彼らの為だから。
彼らは主に愛されているから。
自分だけが祇畏士になれなかったこと、自分だけが主の恩寵を得られなかったことを、不幸だと思ってはいけない。
誰の所為でもないことだ。
父母はそうやってなぐさめてくれた。兄にも弟にも、国や神聖公への貢献でかなわない次男を、父母ははじと思わなかった。兄や弟と違い、主にきらわれている自分を、ゆるしてくれた。
ネクゼタリーはでも、適職を知ってからずっと考えている。頭のなかにこびりついている。魂がそれを忘れない。わたしのどこが、主の気に触ったのだろう? わたしのなにが、主を怒らせたのだろう?
どうしてわたしは主に見放されたのだろう?
サーダはそこまで間違ったことを云ってはいなかった。今度のことで、それがよくわかった。
サーダには、自分に少し似たものを感じていた。サーダはフォージに、恩寵魔法でかなわない。だから、ほんの少しだけ、サーダはフォージに嫉妬している。封印をつかえることも、羨ましがっている。ネクゼタリーにそういうことをもらす。
自分も恩寵魔法をつかえるのだからそれで充分なのに、人間というのはどこまでも欲深いものなのだ。
恩寵魔法をつかえない兄に、そういった愚痴をこぼすくらいには。
だから、サーダがフォージについてくどくどしく語ることを、ネクゼタリーは話半分で聴いていた。
フォージが真面目にしていない、とか。
フォージが自分の云うことをきかない、とか。
フォージが感じのいい青年を追いまわしている、とか。
ファズダあにさまのようにならないか心配している、とか。
それで、わたしになにができると云うんだろう。
祇畏士ではない。
恩寵魔法はつかえない。
善なる魂を持っていない。
それで? それで……祇畏士で、自分などよりももっとずっと主に愛されていて、神聖公に尽くせる者達へ、なにかものを申せるとでも云うのだろうか。
なにを云えると?
だが、結局のところわたしは。
違う。
わたしは間違ってなどいない。
サーダの話をもっと真面目に聴いていればよかった。フォージが堕落する前に。魔にそそのかされる前に。
そのように見える前に。
レティアニナは深く、息を吸う。
「フォージ卿を、悪くおっしゃらないでください」
声は掠れていた。ネクゼタリーは溜め息を吐く。なにもかもがうまくいかない。なにもかもが悪いほうへ、悪いほうへと転がっていく。わたしはただ、兄弟の為にやっているのに。
今に限ったことじゃない。
その為にすべてを犠牲にしてきた。
彼がわたしをまともに見ようとしないのはどうしてだろう?
わたしが主にきらわれた者だからか。
わたしは主へ尽くしてきた。
主がわたしに唾を吐きかけるような真似をしても、わたしは兄弟達を助けることで主へ尽くしてきた。
善なる魂を授けてくれなくても、祇畏士になれなくても。
「少し気が立っているようです」
笑うような声が出た。レティアニナは体の向きをかえ、こちらを見る。
とろりとした目だ。
ネクゼタリーは微笑んで、それをじっと見ている。微笑み続ける。
「言葉が悪かったですね。でも、弟があんなばかな真似をすると思っていなかったので、ああ……こんなに気分が悪いのは久し振りですよ」
「……治療を」
「いいえ」
レティアニナの手を掴む。
やわらかくて細い指の手だ。
労働とは縁遠い。
悪徳とも。
彼のような善良な人間が何故荒れ地へ送られたのか、誰が納得のいく説明をしてくれるだろうか。
「無駄に魔力をつかわないでください。あなたの体に障ります」
「でも……」
「そうやって、弟にも優しくするのですか」
どうして質問ばかりしてしまうのかわからない。「あなたは、心底、癒し手だ。だが、あれは、よくないことです」
このひとはわたしを憐れんでいる。
ネクゼタリーは彼の、レティアニナの憐れむような目を、欲しいと思った。
どうしてわたしにはなにも与えてくださらないのですか。
なにひとつ。
「ネクゼタリー卿」
「呼び捨ててください」ネクゼタリーはささやく。「あなたは荒れ地から生きて戻った。わたしと違って主に愛されている」
主はこのひとには多くのものを与えている。
主はわたしから奪い続けている。多くのものを。多くの大切なものを。多くの失いたくないものを。
レティアニナはぼんやりとした声を出す。
「そのようなことは……」
「わたしが荒れ地おくりになったら、きっとすぐに死んでしまいます。すぐに」
レティアニナが怯えたみたいに息を吸った。
「わたしは、ティヴァインでありながら、祇畏士ではない。わたし以外の兄弟は皆、祇畏士なのに。わたしだけ仲間外れにしてしまわれたんです、主は」
「ネクゼタリーさま」
「わたしをきらっていますか」
唐突な質問に、レティアニナはゆるく頭を振った。言葉は咽にひっかかる。「いいえ、ネクゼタリーさまをきらうなんて」
「わたしがどれだけ主を愛しているか、あなたならわかってくれますね?」
レティアニナはしばらく、かたまった。
それから、ネクゼタリーの両肩に、手をかける。
爪がくいこむ。
ネクゼタリーは笑みを深くする。
レティアニナは溜め息みたいにささやく。
「わかっています」
「そうでしょうとも」
「あなたが」
レティアニナは言葉を切って、呻いた。その目が潤む。「もうこれ以上は……ああ、おかわいそうなネクゼタリーさま……」
彼はそう云って、ネクゼタリーをそっと抱きしめる。このひとはどうしてこんなに優しいのだろう。どうしてわたしなんかを気にかけてくれるのだろう。どうしてわたしを?
主がわたしを見放された理由はわかっている。
わかっていると、ネクゼタリーは信じている。それは、わたしが主を信じてなどいない、愛してなどいないからだ。
わたしが主に尽くすのは、ただこわいからにすぎない。
わたしからすべてを奪おうとするあの方が、おそろしい。
だから従ったふりを、尽くすふりをしている。
主はわたしが唾棄すべき人間だとよくご存じなのだ。
うまれる前からわかっていらした。だからわたしになにも与えなかった。
善なる魂も、羽も、恩寵魔法も、それらしいものはなにひとつ。
わたしは主に必要とされていない。
レティアニナがすすり泣いていた。ネクゼタリーを憐れんで。
そんなふうにさせるつもりはない。
ただもう奪われたくない、なにも失いたくない、これ以上酷い気分になりたくないだけだ。
ただそれだけなのに、どうして主はわたしの忠誠心をためすようなことばかりするのだろう。
どうして主はわたしの心を休ませてくれないのだろう。
どうして主はわたしを苦しめるようとするのだろう。
どうして主はわたしを困らせるのだろう。
どうして主は……




