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「はい、卿」
元気よく答える俺を、男の子はうさんくさそうに見て、それからにやっとした。意地悪をする時の顔だ。
「ふうん。新入りでも、当然僕の顔は知っているだろう。何故さっきから、名前を呼ばない」
「そのようなことは失礼かと思いまして」
返す。しかし、男の子はにまにました。
「失礼だと思えば注意する。それよりも、奉公人風情が、きちんと入山者の名前を覚えていないほうが問題だ。そんなことはないだろう?」
サフェくんが震えだした。まあ、昨日名簿もらって、今日までに全部覚えるなんてできないわな。
でも俺はにっこり笑った。
「呼んでも宜しいのですか? セルグライ・フォグオンさま」
俺はにこにこして続ける。
「裾野でもその名の高い、フォグオン伯爵家のご子息の名前を呼んでも、無礼にならないのでしょうか。でしたら、セルグライさまと呼んでも? それとも、愛称のセティさまと」
「ぼ、僕を知っているのか」
男の子、セルグライ・フォグオンさまは、ちょっと動揺を見せた。
「当然です」小首を傾げる。「フォグオン領は有名な釘の産地でしょう? 存じ上げない訳がございません。フォグオン家のなかでもセルグライさまはとても優秀なかただとか」
俺がぺらぺらと、名簿から得た知識を披露すると、セルグライさまはどんどんにやにやしていく。鼻息も荒い。
「はは、そうか、うん、いい心がけだな、お前、ちゃんと仕事をしているじゃないか。お前ならセティと呼んでもいいぞ」
「ありがとうございます」
俺は手を叩いて喜ぶ。セティさまは頬をうっすら赤くし、にやにやしたまま、軽いあしどりで来た道を戻っていった。
と、振り返って云う。「ぬかるみのことは、シラース先生には黙っておいてやる。どのみち、僕が乾かした。気に病まなくていいぞ。お前達が雨を降らせたのじゃない」
歩み去るせなかに、ありがとうございまーす、と云っておいた。ちょっと手を振る。
セティさまが見えなくなったので、俺は収納空間からたらいをとりだした。「よし、ゆすごっか、サフェくん」
反応はない。見ると、サフェくんはへたり込んでいた。
「サフェくん?」
「ぼ、僕ああいうの、だめ。こわ、こわくて……」
「みんなが云ってたの、このことだろうね」
「え?」
「学生に気を付けろって。あと、我慢しろ、忍耐が大事だ、って、みんな云うから」
サフェくんはふらふらと立ち上がる。俺はたらいのせっけん液を捨て、新しくお湯を注いだ。「どうしよう。名前、覚えられないよ。マオ、どうやって覚えたの」




