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テオドールがまったく別の名前の旅券を使って、デュソールの関所を潜り、国境を越えて出国したのはそれから二十日後のことだった。
普通に生活をするには支障は無いが、旅をするほどの体力は戻っていないのではないかとブランディーヌは反対したが、テオドールは出て行った。
彼がパンテール騎士団に残していったのは、彼がサンノール州独立運動家たちと交流している間に入手した火薬の製法だけだ。
団長命令で、パンテール騎士団では火薬研究班が組織され、秘密裏に火薬を使った武器の開発が行われている。
テオドールが騎士団を去った後、ブランディーヌはひさびさに里帰りをすることにした。
王都へ出発する前、王太子の護衛隊隊長に内定したという手紙は実家に送っていたが、その後デュソールに戻ってからはばたばたしているうちに、隊長にはなれなかったことを報告できずにいたのだ。
二年ぶりに帰郷したブランディーヌを、両親は熱烈に歓迎してくれた。
なぜかギスランも一緒にやってきて、オーグ伯爵領へは戻らず、ラペリーヌ伯爵家に滞在しているのが妙と言えば妙ではある。
のんびりと領内を散歩していると、すれ違う領民たちが嬉しそうに会釈をしてくれるのが嬉しくて、ブランディーヌはいつのまにか散歩が日課となった。
ただ、外出のたびに母親が女物の衣装を着せようとするのが、意味不明だ。
すでに季節は秋を迎えていた。
朱色の縞模様のドレスに、深緑色の肩掛け、茜色の日傘を持たされ、この日もブランディーヌはギスランとともに散歩に出掛けた。歩きにくいからという理由で、靴だけはふくらはぎまでの編み上げ靴だ。
「テオドール殿は、今頃どの辺りを旅しているのかしらね」
どこへ向かうかまでは聞いていないので、想像するしかない。
毎日のように地図を広げては、こちらだろうかあちらだろうかと考えてみるだけだ。
「もしかしたら野垂れ死んでいるかもしれないぞ」
「そんな不吉なことを言うのはやめて! 本当に死んでしまったらどうするの」
顔を顰め、ブランディーヌは抗議をした。
相変わらずギスランはオーグ伯爵領の屋敷には一度も顔を出していない。
昨日、珍しくオクタヴィアンが領地に戻ったという話を、屋敷に出入りしている農民から聞いたのだが、ギスランは会いに行こうとはしない。
領地が隣なので、いつでも会いに行ける距離ではあるが、面倒なのだろう。
「オクタヴィアンって、アリナ殿下とはどうなっているのかしら」
「さぁ」
訊ねられても興味がないのか、ギスランは目の前の放牧場の柵の中にいる牛の数を数えている。
さきほど牛飼いの少年が、柵を越えて逃げ出した牛を追いかけていたので、ブランディーヌが連れ戻す手伝いをしてあげたところだ。いつもは彼女が手伝おうとすると牛飼いは喜ぶのだが、今日は珍しく遠慮された。ドレスが汚れますから牛臭くなりますから、とやたらと強く固辞された。ドレスなんか着て散歩するものじゃない、とつくづく思う。
昨日も、丘で脱走中だった豚を確保して持ち主である農家まで連れ帰ってあげたのだが、真っ青になって平身低頭で謝られたものだ。
こういうとき、非力なギスランは本当に役に立たない。豚の一頭くらい抱えられないようでは、農作業もできないではないか、と非難したら、無言しか帰ってこなかった。動物とは相性が悪い彼は、騎士団の厩舎の掃除当番が当たっただけでも大変なことになるのだ。だが、動物には興味があるらしく、観察はしている。
「そろそろ彼も結婚した方がいいんじゃないかしら。跡継ぎの問題もあるでしょうし。もちろん、ギスランがいるから急いでいないのかもしれないけれど」
「俺は自分の息子を兄上の養子にするつもりはない」
「は? 息子? ちょっと待って」
慌ててブランディーヌは散歩の足を止めた。
風が吹き、ドレスの裾が草の上でひるがえる。歩きづらい、と文句を言うとなぜか母親から叱られるので、我慢しているが、正直言って毎日ドレスを着なければならないのであれば、さっさと騎士団に戻ろうかと考えていた。
「まさかあなた、どこかに息子がいるの!?」
「いや。まだいない。だがいずれ、結婚したら息子が生まれるかもしれないだろ」
「……仮定の話ね」
びっくりした、とブランディーヌは胸を撫で下ろした。
「一人目の子供は家を継ぎ、二人目の子供は騎士になり、三人目の子供は……なにになるんだろうな」
「結婚もしていないのに、そんな心配をしなくっても。というか、もしかして結婚の予定があるの?」
よくよく考えてみれば、ギスランだってもうすぐ二十二だ。オクタヴィアンだけでなく、彼も結婚を考える時期ではある。
「別にまだ予定は決めていないが、いつでもいい」
「いつでもいいって……」
「わざわざ婚約期間だのなんだのというまどろっこしいことをしなくても、すぐ結婚すればいいんじゃないか?」
「あのー、なんの話をしているのかわたしにはまったく理解できないんだけど」
「だから、結婚の話だ」
いやそれはわかっているけど、とブランディーヌは噛み合わない会話に戸惑った。
「君との」
「――――――――――はい?」
長い沈黙の後、ブランディーヌはギスランの額に手を当てた。熱は普段と変わらないようだが、言動がおかしい。脳になにか障害が起きているのだろうか。やはり医者を呼ぶべきだろうか。錯乱しているようだ。
「君、自分で爵位を継ぐとか言っているが、その次の代のことも考えているのか? 子供がいなければ、結局爵位は親戚の奴に持って行かれるだけなんだぞ」
「それはいずれ考えるけど、そうではなくなんであなたと」
「子供の件はいずれでもいいが、結婚の件は早々に決めた方がいいな」
「いやいやいや! その理屈はおかしいわよ!」
ぶんぶんと首を横に振り、ブランディーヌはなんとか反論をひねりだそうとした。
ここは頑張ってもっともらしい持論を展開しなければ、と必死に考えるが、混乱するばかりだ。
「兄上のところに養子をやる心配は必要ないだろう。どうせしかるべきときにしかるべき相手と結婚するさ」
「オクタヴィアンの心配はしていないけど、なんでわたしの結婚の話で、結婚相手がギスラン限定なわけ!?」
そういえば、とこのときになってブランディーヌはあることに気づいた。
間もなく結婚適齢期を迎える彼女だが、いまだかつて両親から結婚を心配する声を聞いていない。騎士団に入る前も、入った後も、現在にいたるまで、一度として「そんなに雄々しくては嫁の貰い手がないのでは」と不安がる気配もなかった。
領民たちも「うちのお嬢様は行き遅れるのでは」と心配する声も聞こえてこない。
普通なら「そろそろ家を継いでくれる婿を貰って欲しい。見合いでも」と言われそうなものだが、結婚のけの字も会話には出ていない。オクタヴィアンへの見合い話はラペリーヌ伯爵にもたくさん持ち込まれているのに、ブランディーヌへの見合い話がきたという話題はまったく聞かない。
「まさか、うちの両親も領地のみんなも、わたしはギスランと結婚するとばかり思っているわけ!? もしかしなくてもそう? そうなのね!」
ギスランはただの幼馴染み! と領内でいますぐ大声で触れ回りたかった。
かといって、別に他に結婚したい相手がいるわけでもない。
「俺は別に、君が爵位を継ぐのでいいと思う。いずれルイ=ノエル王子が法律を変えて女でも爵位が継げるようになれば、子供が娘ばかりでも跡取り問題を心配する必要もないしな」
「なにそれ! なんの話よ!」
噛み付かんばかりの勢いでブランディーヌは涙目になりながらも怒鳴った。
マルセルから、ギスランがラペリーヌ伯爵家を狙っているのではないかという話を聞かされたときはまともに取り合わなかったが、いまになってようやく意味がわかった。
「明日結婚しても、早過ぎることはないと思う」
真正面から見据えられ、ギスランに宣言されたブランディーヌは、混乱を極めた。
「早過ぎるに決まっているでしょうがっ!」
この小賢しい罠はいったいなんなんだ、と絶叫しそうになる。
国家転覆の陰謀よりも恐ろしい。
「豚も運べないような人とは結婚しないっ!」
「動物の世話は、君の仕事でもないと思うが」
「ラペリーヌ伯爵家ではできてあたりまえですっ!」
誰かまた国王か王太子か王女の暗殺を計画し、自分が王都で王女の護衛職に就けるよう仕組んでくれないものだろうか、と彼女は切に願った。
ガルデニア王国で貴族法が代り、女性でも爵位を継承できるようになったのは、ルイ国王の時代だ。
最初に女伯爵として宮廷に伺候したのは、ラペリーヌ伯爵ブランディーヌ・ダウーと記録されている。
騎士としても名を馳せた彼女は、ルイ国王妃の護衛隊隊長として勇名を轟かせた。
副官として、また夫として、公私ともに彼女を支えたギスランは、後に宰相となった兄ほどではないが、狡猾な人物として悪評を囁かれることが多かったらしい。
ブランディーヌが王宮に出仕するようになると同時に、ラペリーヌ伯爵家は王都に念願の屋敷を構えた。
その際、エルブロンネル伯爵家所有の屋敷を譲り受けた経緯については、ラペリーヌ伯爵家の史料にはまったく記されていない。




