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「有り難うございます」
荒い息を整えながら、ブランディーヌは礼を言った。剣は鞘に収め、椅子に腰を深く座り込む。
「いえ。それよりも、なにごとですか? あなたが警邏隊に追われているようだったから、思わず助けてしまいましたが、なにかあったんでしょうか」
馬車の中には、テオドールの他にはエルブロンネル伯爵家の者の姿はない。
「あなたの家に行ったんです。イローナ殿にお会いしたくて。でも、お屋敷の中はもぬけの殻だし、屋敷から出てみれば警邏隊が待ち構えているし」
「うち、ですか? 僕らは……あぁ、あの屋敷ですか」
怪訝な顔をしていたテオドールは、すぐに得心がいったという表情になった。
「あの通りの屋敷は、先月から父が人に貸しているんです。妹のことがあってから、あの屋敷で暮らしているとどうも近所の目が気になるものですから」
それならば、イローナを狙った暗殺者が現れるのもここではなくなる。
なのに、屋敷内は空だった。暗殺者はエルブロンネル伯爵家の人々がまだこの屋敷に住んでいると勘違いして、ここを襲ったのだろうか。
「貸しているって、どなたにですか?」
借り主がいるのであれば、ますます屋敷の中に人の姿がないことはおかしい。
エルブロンネル伯爵とその家族がいないからこそ、ブランディーヌはなにかあったに違いないと考えたのだが、まったく別の理由もありえる。
「あなた方は、王女殿下に屋敷を人に貸していることは話しましたか?」
「そういえば、話していませんでしいたね。でも、王女殿下からの手紙がきちんと新しい屋敷に届いているので、ご存じのはずですよ」
「いえ、殿下はご存じではありませんでした。そもそも、わたしがあちらのお屋敷を訪ねたのは、王女殿下がエルブロンネル伯爵邸の住所があそこからだとおっしゃったからです」
「あれ? そうなんですか。それなら、屋敷の門番が気を利かせて、使いの者に新しい屋敷の住所を教えたのかな」
その可能性は充分ある、とブランディーヌは考えた。
同時に、王女はエルブロンネル伯爵家が移り住んでいることを知らず、伯爵も世間に対して引っ越したことは告げていなかったのだと推測でした。
「それで、どなたにあのお屋敷を貸されているんですか」
屋敷を空にするなど、尋常ではない。
借り主の素性が気になった。
「カラント卿です。あぁ、宰相閣下と言った方がわかりやすいでしょうか」
「……宰相殿?」
なぜ宰相がエルブロンネル伯爵邸をわざわざ借り受けるのか、ブランディーヌには理解できなかった。
「実際にあの屋敷に住んでいるのは、宰相殿ではなく、彼のご子息のようですが。ご存じですか。宰相殿のご子息リュシアン殿は国王陛下のご落胤だという噂があるのを」
「――え?」
そんな話は初耳だ。
ギスランだって知らない話だろう。
「陛下のかつての愛妾が産んだ子供を、宰相殿が養子にされたんだそうです。かなり頭脳明晰な方で、いずれはオーグ伯爵と宰相の座を争うのではないかと噂されています」
「オクタヴィアンと?」
宰相の養子と、新興貴族である伯爵。
リュシアンには国王の息子であるという噂があり、オーグ伯爵はジュヌヴィエーヴ・アリナ王女の婿候補のひとりだ。目に見えない格差がある。
「そのリュシアン殿は、宮廷に出仕されているんですか?」
「えぇ、もちろんです」
「その方は、ルイ=ノエル王子様とは仲良かったですか」
「そうですねぇ。王子はあまりリュシアン殿のことを気に入っていらっしゃらないようでした。どちらかといえば、オーグ伯爵の方がよくお側にお呼びされていましたね」
「王子様は、リュシアン殿の噂をご存じだったんですか?」
「はっきりと王子の口からお伺いしたことはありませんが、ご存じだったと思いますよ。それに、王女殿下の婿候補にリュシアン殿の名前は以前からありませんでした。宰相閣下のご子息であれば、よほど問題児でもない限り、婿候補になりそうなものなのに」
確かに、宰相の息子であれば、身分的には王女の婿候補のひとりになってしかるべきなのに、まるで国王の庶子であるという噂を肯定するように、名前が外されているのはおかしい。
(同じように将来の宰相候補と囁かれながら、王女の婿候補と国王の庶子の噂がある宰相の息子。となると、オクタヴィアンの方が将来の宰相になれる可能性は高いわよね)
ガルデニア王国では、宰相位に就ける者は王族以外と決まっている。
リュシアンは宰相の息子ということになっているが、その血筋が噂どおりであれば、王族に名を連ねていないとはいえ、将来彼を宰相に推す者は少ないはずだ。
「もっとも、リュシアン殿が陛下のご落胤ではないかという噂は、この二、三年くらいに持ち上がったものではあります。それが王女殿下の婿候補が噂され始めた頃なんですが、なんでリュシアン殿の名前が候補者の中にないのだろうという話になって」
多分、宮廷内の噂はほぼ間違いないのだろう。
「リュシアン殿が宰相になれないのだとして、庶子の王子が王位に就けるものなのですか」
「法律では、王の子と認知されていれば、王位継承権があります。しかし、なぜそのようなことを気にされるのです」
テオドールは怪訝な顔をした。
「もしかしたら、リュシアン殿はご自身が宰相になれる可能性がまったくないことに気づき、でも王位であれば就けるかもしれないと考えられたのではないかと思ったのです」
「リュシアン殿が、次の王に?」
顔を歪め、テオドールはくすっと笑った。
「面白いことをおっしゃいますね。でも、もしリュシアン殿がそのようなことを考えておられるのであれば、今頃は宰相殿によって粛正されていることでしょう」
「そうなんですか?」
「えぇ。宰相殿がリュシアン殿を養子に迎えたのは、彼の母親が宰相殿の姉だからです。宰相殿がいまの地位に就けたのは、王の愛妾だった姉の影響が大きかったと言われていますが、彼の宰相としての辣腕ぶりはもちろん本物ですから、陛下だって愛妾の意のままに動いたわけではないでしょう。彼は、保身のために、リュシアン殿を息子として引き取り、妙な王位継承争いが起きないようにしたのです。陛下の弟気味たちですら、権力からは遠ざけられているのです」
「そういうものですか。わたしは田舎育ちなので、その辺りの仕組みはまったくわかっていませんでした」
「そういうものですよ」
テオドールは子供に言い聞かせるように柔らかく微笑む。
「でも、王の庶子は別にリュシアン殿だけではありません」




