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扉をゆっくりと開け、中の様子を伺う。
勝手口は厨房に繋がっていたが、まだ午前中だというのに使用人の姿はまったくなかった。竈は使っていた気配があり、鍋の火は消えているが、まだ湯気が立ち上っている。洗われていない食器が洗い場に積まれている。
(まさか、もぬけの殻ってことはないわよね。エルブロンネル伯爵や使用人たちを全員この屋敷から連れ出すなんてこと、ちょっと考えられないし)
厨房を抜け、使用人用廊下を通り、そのまま玄関広間へと出た。
板間となっている玄関は、飾り気がない。肖像画が数枚飾られているが、オーグ伯爵邸のような華やかさはない。
(エルブロンネル伯爵にしてみれば、娘が王太子妃になれたかもしれないっていうのに、王子様が廃嫡されて、イローナ殿は三股かけられた可哀想な娘って世間に笑われて、とんだ迷惑を被っているのよね。だからまぁ、世間の好奇な目から逃れたいっていうのもあって家族全員で一時的に余所へ移ったってことも考えられないでもないけれど)
玄関広間で立ち止まると、周囲に耳を澄ませる。
どこかで人の気配はしないものかと探ってみるが、屋敷は静まり返っていた。
(昨日はイローナ殿やテオドール殿が王宮にいたんだから、今日になって早々にこの屋敷を引き払ったってことも考えにくいのだけど)
できるだけ厭な予感は頭から振り払おうとする。
まさか全員がこの屋敷の中で惨殺されているようなことはないはずだ、と自分に言い聞かせる。
(屋敷の中からは、血の臭いはしない。だから、大丈夫)
死んでいなければ問題ない、と考えることにした。
(首謀者が誰かなんて、いまは関係ないのよ。まずはイローナ殿を保護して、それからギスランに考えてもらえばいいのだから)
玄関広間から二階へと続く中央階段を上り、勝手に各部屋を確認して回るが、どこにも人の姿はなかった。本当にエルブロンネル伯爵邸は使用人も含め、忽然と人が消えている。
(これは困ったわね)
なにか手掛かりとなるようなものはないかと屋敷中をくまなく探すが、それらしき物は見当たらない。それどころか、さきほどまで生活をしていた人々が、一斉に姿を消したような感がある。
刺し掛けの刺繍、読みかけの本、火が付いたままの煙草、まだ温かい紅茶。
(いったん外に出て、ギスランに相談するしかないわね)
人の姿がないとなると、お手上げだった。
今度は内側から玄関の鍵を開け、扉を押した。
ギスランたちはどこかに隠れているのだろうか。今度はあの三人を探さなければならないのか、とブランディーヌがうんざりした気分になりつつ外へ一歩踏み出したときだった。
目の前に、信じられない光景があった。
「お前、何者だ」
黒い制服に身を包んだ男たちが十人ほど、開いた門扉から敷地内に踏み込み、剣を構えて立っている。
王都警邏隊の制服だ、とすぐにわかった。昨日の講義で見た絵の中にあった。
三十代半ばくらいの男が、ブランディーヌを睨み付ける。
「このようなところでなにをしている。エルブロンネル伯爵邸になんの用事だ」
(まさかこれもオクタヴィアンの筋書きどおりってわけ?)
うんざりした気分になりつつも、抜いたままだった剣を構え、ブランディーヌは相手を睨み返した。
「お前たちこそ、何者だ」
居丈高な口調で問い返すと、男たちがざわつく。
(どうせ、自分たちは誉れ高き王都警邏隊だとか奢っているんでしょう。普段からちやほやされている男って始末が悪いわよね)
パンテール騎士団で鍛えられているブランディーヌには、よく見知った反応だ。剣を持っている相手が女だと気づいているかどうかは知らないが、自分たちの力を過信しているに違いない。
(こいつらと遊んでいる暇はないわよね)
エルブロンネル伯爵邸の人々の行方の方が気になる。
「残念だが、伯爵殿とその家族はもうこの屋敷にはいない。数日前に、余所へ移った」
「へぇ。それはそれは有益な情報を有り難う」
王都警邏隊の隊士のひとりの話に、ブランディーヌは目を細めた。
(ずいぶんと早い行動ね。使用人も全員連れていったとなると、いくらそのまま逃げたにしてもかなりの大人数だろうに。でもそうすると、あの屋敷の状態はどういうことなのかしら。ほんの少し前まで、人が生活していた気配がするのに)
それに、ブランディーヌたちがこの屋敷に到着した際には、王都警邏隊の気配など微塵もなかった。
無駄に戦意を露わにしすぎている彼らが屋敷の周囲に潜んでいたのであれば、もっと早く気づいたはずだ。
(さきほど到着したばかりだとすると、屋敷の使用人のうちのひとりが異変を察して、王都警邏隊に助けを求めたのかしら)
辺りに視線を走らせてみるが、ギスランたちの姿はない。王都警邏隊に捕まったというわけではないのだろう。
(ギスランは剣の腕こそたいしたことはないけれど、逃げ足だけは速いものね。王都警邏隊が到着したと同時に、王子様とアリナ様を連れてどこかに隠れたに違いないわ)
となれば、ひとりで逃げれば良いのだから、問題はない。
捕まってみても良いのだが、この王都警邏隊が敵方とどのように繋がっているのかがわからない以上、危険なことをするべきではないだろう。
「じゃあ、わたしはもうここには用がないことだし、去ることにしよう」
玄関を出て、そのまま横一列に並んだ隊士をかわして鉄柵を飛び越えようとしたが、相手もそれなりに俊敏ではあった。
「待て!」
隊士のひとりが、ブランディーヌに追いき、剣を繰り出してきた。
(待てと言われて待つ奴はいないって)
腹の中で毒づきながら、隊士の剣を自分の剣で受け止め、そのまま薙ぎ払う。
まさか自分の剣が遣り過ごされるとは想像していなかったのか、隊士は一瞬呆然と動きを止める。
(自分より強い者がいないと思っているなんて、世間が狭いわね)
そのまま鉄柵に飛びつくと、軽やかに柵を跳び越えた。
(あ、でもどこに逃げたらいいのかしら)
大通りに出て走り出したものの、土地勘がないブランディーヌは真っ直ぐ走るのみだ。
後ろを、隊士たちが追い掛けてくる。
(オクタヴィアンの屋敷に逃げ込めばなんとかなるんでしょうけど、どこにあるのかわかんないし!)
全力疾走しながらも、周囲に目を走らせ、景色を確認する。
一昨日、馬車で通った際に見た風景はないものかと確認するが、どこにも見覚えがある物は見当たらない。
「お嬢さん! こっちです!」
真横を走っていた箱馬車が停まらないまま扉が開いたかと思うと、中からテオドールが顔を出し、手の伸ばしてきた。
「乗って下さい!」
真横を併走する馬車は、いつのまにか渋滞が緩和されている道路を疾走している。
「早く!」
急かすテオドールの声に導かれるようにして、ブランディーヌはその手を掴み、馬車に飛び乗った。
すぐに扉は閉められ、御者は馬に鞭をくれる。
馬車は速度を速めた。




