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王宮内はまさしく迷路だ。
(建物の中に隠し通路があるなんて!)
ルイ=ノエルに案内されて南棟に向かった二人だが、途中で地下へと続く階段を降り、さらに地下通路を進むことになった。王族が万が一の際に王城から脱出するために作られた秘密の通路ということだが、すでに二百年近く経っているらしい。天井の煉瓦からは雨水が染み出し、空気は澱み、鼠の家族が辺りを駆け回っている。
真っ暗な中を、ルイ=ノエルが持つ蝋燭一本の明かりだけを頼りに進む。
三つの靴音が隧道内に響く。
ようやく上へと向かう階段を上ったかと思うと、今度は石の螺旋階段が続く。まるで塔を上っているようだ。
(お腹空いた)
昨夜から歩き回っているので、空腹が頂点に達している。
(このまま、この王子様を殿下に引き渡してしまって良いものなのかしら)
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、ルイ=ノエルの影が壁に映るのを長めながら、ブランディーヌは考えた。
(殿下のことだから、イローナ殿と会わせてあげようとするのでしょうけれど、会ったところで良い結果は生まれないような気がするのよね。王子様はイローナ殿がまだお好きなんでしょうけれど、イローナ殿はもう他の人との結婚が決まっているし、王子様だっていまや逃亡の身の上だし)
王子を離宮から連れ出した相手の正体がわからない辺りも不気味だ。
(陰謀? でもそれなら、もっと王宮内が騒がしくなっているでしょうね)
宮廷の事情に疎いブランディーヌには、それ以上の予測は不可能だった。
「着いたぞ」
蝋燭の炎を息で吹き消し、振り返ったルイ=ノエルが木の扉を開けながら告げる。
「南棟だ」
扉が開かれると、目の前には緋色の絨毯が敷き詰められた廊下が真っ直ぐに伸びていた。
廊下の両側には扉があり、各部屋がある。
天井には花園のように花々の絵が描かれており、壁紙の色は淡い紅色だ。
ブランディーヌが目を見開いて四方をぐるりと見回し息を飲む。天井の絵画の周囲を囲む額縁の彫刻も、よく見ると描かれたものだ。どれもが本物と見紛うほど精緻に描かれている。豪奢に見せるため、様々な工夫が凝らされているが、実はだまし絵のようになっている。
「こっちだ」
まだ天井に見惚れているブランディーヌに、ルイ=ノエルが声を掛ける。
渋々視線を戻してルイ=ノエルの後に続いた。
南棟は広いが、不思議なことにどの廊下にも警備兵はいない。この王宮内の不思議な点は、建物の周囲こそ警備が厳重だが、中はそれほどでもないのだ。
絨毯の廊下を歩き、さらに階段を降り、ようやく辿り着いたのは廊下の行き止まりとなっている扉だった。
その扉の前には、さすがに槍を手にし、剣を腰に帯びた二人の衛兵が立っている。
「王女に面会したい」
衛兵に近づくと、左側の者に向かってルイ=ノエルが居丈高に告げた。
「取り次いでくれ」
衛兵二人はじろりとルイ=ノエルを睨んだ。
(王子様と気づかれて逮捕されるか、怪しい人だと疑われて逮捕されるかどちらかじゃないかしら)
あまりにも偉そうなルイ=ノエルの態度にブランディーヌが心配する。
しかし、衛兵たちは三人を一睨みすると、すぐにひとりが槍を手にしたまま、部屋の中へと入っていった。
数秒後には、すぐ衛兵は戻ってきた。
「殿下はお会いになるそうだ」
不審者扱いすることもなく、すぐに扉は開かれた。
ブランディーヌはギスランと顔を見合わせる。ギスランもこの状況に怪訝そうな表情を浮かべている。
扉を抜けて中に入ると、中は居間になっていた。
窓際には小さな円卓があり、そこに一脚だけ置かれた椅子に座り、アリナが朝食をしている最中だ。
その背後では、女官がひとり、給仕に勤しんでいる。
砂糖をたっぷり混ぜバターをふんだんに使った甘いオムレツの匂いや、焼いたソーセージの香ばしい匂い。紅茶の馥郁な香りが部屋中に漂っている。
ますますブランディーヌの飢餓感は刺激され、胃が空腹を訴え嘆く音が微かに響いた。腹を押さえた彼女は、できるだけ目の前の料理は意識しないようにしようと心懸けたが、ますます気になるばかりだった。
来客の顔をちらっと横目で確認した女官は、得心顔で一礼すると居間から出て行った。
「あら、おはよう、ブランディーヌ。会いにきてくれたのね」
紅茶を飲んでいたアリナは目を細めて微笑んだ。
が、ギスランの姿に気づいた途端眉間に皺を寄せ、ルイ=ノエルの姿を認識した途端、カップをソーサーの上に叩き付ける勢いで落とした。
「ちょっと! なんでこの人がこんなところにいるの!?」
椅子から立ち上がると、つかつかとルイ=ノエルに近づき、手を伸ばす。
「生きているの? 嘘でしょう?」
ぺたぺたとルイ=ノエルの腕や胸に触っていたかと思うと、しまいに髪を引っ張り、頬を摘み、幽霊でも見たように顔を青ざめさせた。
「まるで死人扱いだな」
ギスランが呟くと、アリナは険しい表情を崩さずに口を開いた。
「今朝早く、離宮で火事があったのよ。火元は兄の部屋で、そこから一体の黒焦げの焼死体が出たっていうから、兄は死んだものだとばかり……」
うっと口元を押さえて、アリナは目を潤ませる。
「黒焦げの幽霊が出てきたらどうしようかと、そればかりを心配してさっきから食事も喉を通らなくて……」
「お前は私の死を悼む気持ちはないのか」
妹の態度に、ルイ=ノエルがぼやく。
「散々わたくしに迷惑を掛けて、文句のひとつも言う前に死んでしまったから、幽霊が出たときには一通りの説教をしようと思って言うべきことを書き留めていたのだけれど、幽霊が黒焦げの姿なら、さすがに直視することはできないだろうとか考えて」
「離宮で火事があったんですか?」
ルイ=ノエルが生きて現れたことはあまり歓迎されていないようだが、そこまで迷惑がられてもいないようだ。もっとも、状況はブランディーヌたちの知らないところで刻々と変わっているらしい。
「今朝早くにね。さきほど、わたくしのところにも連絡があったわ。離宮は半焼して、しかも兄は死んだという報告だったから、わたくし、イローナにどのように伝えようかとそればかり悩んでいたのよ」
「人為的な火事、ということか。焦臭いな」
腕組みをしてギスランが呟く。
「でも、ここにこうやってその本人が生きて現れたということは、あの火事は偽装だったのね! なにしにきたの? あ、わたくしの命を狙っても無駄よ!」
いまになってようやく、アリナはルイ=ノエルが現れた目的を考え始めた。
「わたくしを殺しても、シャルル叔父様やフィリップ叔父様がいらっしゃるんだから、誰も困らないのよ!」
さっとブランディーヌの背後に回ったアリナが、背中の陰から顔を出して主張する。
「私はお前を殺しにきたわけではない」
心外な、とルイ=ノエルは妹を睨んだ。
「イローナに会いに行くから、屋敷の場所を教えろ。ついでに、金もいくらかよこせ」
「……強盗みたい」
うわぁ、とブランディーヌは呻いた。
廃嫡されるとどんなに育ちが良くてもここまで荒むものなのか、と逆に感心してしまう。




