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「あれで満足か? オーグ伯爵」
扉を閉める音に首をすくめ、離れていく騒々しい靴音でブランディーヌが去ったことを確認した団長は、執務机の横にあるタペストリーに向かって低く唸るような声を投げかけた。
静かにゆっくりとタペストリーが持ち上がり、簡素な木の扉が開くと、陰から青年がひとり、姿を現した。彼は黙って頷くと、不敵な笑みを浮かべた。
輝く銀髪は肩に届かないていどの長さに切りそろえ、薄い空色の瞳は満足そうに細めている。肌は透き通るように白く、柔和な作り笑いを浮かべていても凄味のある美貌が際立っていた。
薔薇の芳醇な香りを漂わせた客人に、マルセルが不快感もあらわに睨み付けるような視線を向ける。背中できつく手を組んでいるのは、腰に下げた長剣の柄を握って斬り殺したい衝動を抑えるためだ。
「えぇ、ご協力感謝します」
軽く頭を下げると、さらりと音を立てて髪が頬に掛かる。
金糸銀糸で刺繍を施した紺色の上着に、宝石をあしらった釦。袖口や襟首には豪奢なレースがふんだんに使われており、艶麗な衣装だ。
頭のてっぺんから靴の先までひととおり値踏みをした副長は、自分の給料一年分でも買いそろえることはできない物ばかりだと判断した。
目の前の青年の王都での悪評は、パンテール騎士団の駐屯地である国境沿いのここまで届いている。前王太子であった第一王子を廃嫡が追い込まれたのは、彼の暗躍があったからだと噂されているが、ほぼ真実に違いない。現国王の愛妾の甥である彼は、父親から伯爵位を継ぐと同時に侍臣として宮廷で活躍し始めた。頭の回転が速く鋭く、性格は極めて冷酷、腹黒さでは敵う者がいないとまで言われている。
この男がブランディーヌを王女の護衛隊隊長として国王に推薦したその目的は、謎だ。
「彼女と一緒に弟が王都に戻ってきてくれると思うと、大変嬉しく思います」
感情のこもらない声でオーグ伯爵オクタヴィアン・クルージェ・アリディは答える。
「これで君も頻繁にこちらを訪れる理由がなくなるな」
団長の辛辣な皮肉に対し、オクタヴィアンは軽く眉を動かしただけで受け流した。
「えぇ。二ヶ月に一度は往復四日をかけて弟に会いにきていましたが、それも今日で終わりです。皆様には大変お世話になりました」
淡々と興味がない世間話でも語るような口調でオクタヴィアンは答える。
彼はギスランの様子を見にくるという理由で、二、三ヶ月に一度は国境である騎士団領の視察に訪れていた。宮廷内で蛇蝎のごとく嫌われ恐れられている伯爵の来訪は、武力においては向かうところ敵なしの騎士団にとっても緊張が強いられるものだった。なにしろ、家族想いの兄のふりをして休暇を取って現れるのだが、地方の収支から治安、風紀まで、監察官よりも厳しく調査し、国王に報告するのだ。後ろ暗いところがなくとも、戦々恐々となる。
地方領主や代官の中には、オクタヴィアンに賄賂を贈る者もいたが、彼らはことごとく不正を行った者として容赦なく粛正された。領地は没収され、王家の直轄領となったところも少なくない。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
優雅な仕草で一礼すると、オクタヴィアンは団長室から静かに出て行った。
「団長、自分は反対です」
客人の気配が完全に消え、正面玄関から走り出す馬車の音を確認してから、マルセルは口を開いた。
「ブランディーヌを王太子殿下の護衛官にするなど」
「仕方あるまい。国王陛下と王太子殿下のご希望だ」
「あの鬼畜伯爵が裏で糸を引いているに決まっています」
オクタヴィアンに比べれば、ギスランの皮肉など可愛いものだ。
「まさか彼女も自分が不幸にもあの兄弟に気に入られたがために、王太子殿下の護衛官に採用されたのだとは想像もしないでしょうね」
「オーグ伯爵が動いたのだから、それだけではないのだろう。彼も王太子殿下の婿候補のひとりだ。彼にしてみれば、身内を王太子殿下のお側に送り込むため、ブランディーヌを利用したのかもしれない」
「よろしいのですか」
姪が利用されていると知っていながら王都へ送り出すデュモンの考えが理解できず、マルセルは尋ねた。
「よろしいもなにも、本人が行くと決めたのだ。どうせこのままずっとあの二人をこの騎士団で預かっておくわけにもいかなかったのだから、良い機会と考えるべきだろう」
「そうですか」
眼鏡を押さえながらマルセルは溜息を吐いた。
「結局、伯爵は弟を王都へ連れ戻したかっただけなのでしょうか」
「あの様子だと、王宮でそれなりの役職に就かせたかったのだろう。いつまでもこの辺境の騎士団に置いておく気もないと以前言っていたことだし、最初から伯爵は時期を見てブランディーヌごとギスランをここから引き抜く気でいたに違いない」
氷の伯爵と陰で呼ばれるオクタヴィアンも、弟には甘い。
「あの二人が王宮内で権力を持つようになれば、この騎士団も少しは優遇されるようになるかもしれないぞ」
「それはどうでしょうね。ブランディーヌはともかく、ギスランは恩を仇で返してくれそうな男ですから。厄介ごとだけ、優先して回してくれるかもしれませんね」
渋い表情を浮かべ、マルセルは憂鬱そうに呟いた。




