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 まさかアリナ自身が現れることはないだろう。誰か使いの者を寄越すのだろうが、ブランディーヌが知らない顔である可能性が高い。アリナ付きの女官や護衛は今日になって顔を見ているし、しっかりと覚えてもいるが、どちらかといえばあの女官たちは王女の監視をしているような雰囲気があった。女官や護衛が王女のオーグ伯爵家訪問を容認しているのは、それが王女を王太子に擁立した派閥の人間だからだろう。

(オクタヴィアンは殿下の婿候補のひとりなんでしょうし、側近の女官たちも、殿下がオクタヴィアンと仲良くしておいても損はないって考えなんでしょうね)

 オーグ伯爵の叔母は現国王の愛妾だが、彼女は国王の子供を産んでいない。子供がいれば、オーグ伯爵家としては王太子擁立に関して別の動きを見せただろうが、現時点ではオクタヴィアンは王女を王太子として盛り立てていくことで身を立てることにしているのだろう。

(クルージェ夫人がもし今後陛下の子供を産むことになったとしても、オクタヴィアンはその子を王に推すことはないでしょうね。自分が王女の婿になって宮廷での地位を確立した方がずっとか確実だもの)

 まだ生まれてもいない子供に期待するよりは、王女側に付いた方が賢明であることくらい、ブランディーヌでも理解できた。

 だからこそ、自分やギスランを王女の護衛官にして、オーグ伯爵家の力を王女側に集中させたいのだろう。

 オクタヴィアンとギスランの叔母であるクルージェ夫人は、オーグ伯爵家とはそれほど懇意にはしていない。彼女の甥であることから、オーグ伯爵家が優遇されている部分もないわけではないだろうが、利点が大きいわけでもない。そもそも、愛妾という地位は、王の寵愛さえなくなってしまえば、その瞬間から権力を失う。王の愛などという曖昧かつ脆いものなどに、オクタヴィアンが頼るはずがない。

 ラペリーヌ伯爵令嬢であるブランディーヌは、父親が宮廷に出仕していないこともあり、いわばどこの派閥にも所属していない状況ではあるが、オーグ伯爵家と付き合いがある以上は、オーグ伯爵が推す王女派に組み込まれるのは自然の流れだろう。

(わたしって、やっぱりオクタヴィアンの支持者ってことになっているのかしら)

 枯れ木も山の賑わいとは言うが、貴族もそれなりに数が必要だ。ラペリーヌ伯爵家も建国以来、王家に仕えている貴族のひとつであることは変わりない。

(わたしが殿下の護衛隊隊長に就任するということは、ラペリーヌ伯爵家がいきなり宮廷で名を上げるってことかしら。曾お祖父様は、その当時の王様にお仕えしていたようだけれど、お祖父様は王宮でお勤めはしていらっしゃらなかったし、遊んでばかりいらしたものだから、結局都のお屋敷を売り払う羽目になってしまったようだし)

 ラペリーヌ伯爵家が没落したのは、ブランディーヌの祖父の放蕩が原因だ。

 ブランディーヌの父は祖父に似ず真面目な性格なので、伯爵家の財産を減らすことなく領地は維持できているが、財を増やす能力はないので、細々と暮らすのが精一杯というのが現状だった。

(将来、せめて都に家が買えるといいわね。護衛隊隊長のお給料ってどれくらいかしら。何年くらい働いたら、この辺りに家が買えるかしら。大きくなくてもいいから、お父様とお母様が都で過ごせるお屋敷が欲しいわね。使用人もそんなにたくさんは要らないけれど、お父様とお母様がお友達を招けるくらいの広さは欲しいわ)

 金勘定は苦手だが、両親のためにも頑張って働こうという意欲が沸いてきた。

「ラペリーヌ伯爵令嬢、ですか」

 暗闇の中から、手提げの箱形燭台に蝋燭を灯した男がぬっと現れた。

 身長はブランディーヌよりも少しだけ高いが、手足は細くひょろりとしており、腰に下げた剣も細身だ。皮の手袋をはめた手も細く、これなら万が一襲われたとしてもブランディーヌが簡単に打ちのめせるていどの男だと判断する。

「私はテオドール・ドリュ・ライと申します」

 かぶっていた帽子を取ると、テオドールは軽く頭を下げた。年齢は二十歳を過ぎたくらいだろうが、頬は痩けており、目は落ち窪んでいる。暗くてよくわからないが、目の下に隈もありそうだ。

 瀕死なんじゃないだろうか、とブランディーヌは心配になった。かなり顔色も悪そうな気がする。

 それでも足取りはしっかりしているので、すぐに倒れることはないように見えた。

「やんごとなき方のご命令により、あなたをお迎えに上がりました。ご同行願えますか。目立つといけませんので、馬車はあちらの通りに停めてあります」

 裏口は大通りから一本小路を入ったところにあるので、荷馬車くらいならば入れるが、大きな馬車が入るほどの隙間はない。

「わかりました」

 素直に頷くと、ブランディーヌはテオドールの後に続いた。

 彼がどのような人物かは知らないが、この時刻にこの場所へ現れ、しかもブランディーヌの素性を知っているということは、アリナが寄越した人物とみてほぼ間違いないだろう。

(違っていたときは違っていたときだわ。なにが起きるか知らないけれど、殿下に関係したなにかであることは間違いないでしょうね)

 面白いことが起きるのであれば、大歓迎だ。

 石畳の上を、ブランディーヌは靴音を立てないように歩く。

 テオドールの足音はするが、周囲からはひとり歩いているようにしか聞こえないはずだ。

 馬車は大通りの、オーグ伯爵邸から五十歩ほど離れたところに停めてあった。

 質素な貸し馬車のような物で、馬は二頭立てだ。御者は黒い外套に黒い帽子という黒ずくめで、まるで死神のような出で立ちをしている。

「どうぞ、お乗り下さい」

 箱馬車の扉を開け、テオドールがブランディーヌを誘導したときだった。

「どこへ行く?」

 背後から低い声が響いたかと思うと、腕が伸びてきて馬車の扉を掴んだ。

「……っ!」

 驚いたテオドールは、息を飲み、ただでさえ大きな眼球をさらに見開いた。

「――ギスラン、よくわかったわね」

 振り返らずとも、ブランディーヌには声だけでそれが誰であるかわかった。

 屋敷を出るときまで人の気配はしなかったが、大通り出て通行人の気配がある場所まで、どこかに身を隠していたのだろう。

「寝ているかと思ったわ」

「君が部屋を出たらすぐにわかるよう、部屋の扉の取っ手に糸を結んでおいた。扉が開くと糸がたわんで、俺の部屋の……」

「仕込んだ仕掛けの仕組みについては教えてくれなくてもいいわ」

 内側から扉を開けた際にはそのような仕掛けがされているとは気づかなかった。ギスランのことだから、かなり巧妙な仕掛けをしていたに違いない。

「わたしが出掛けるって、どうしてわかったの?」

 声を潜めて訊ねると、ギスランは当然だといわんばかりの顔をした。

「あの王女が舞踏室を出る前に君になにかを渡す仕草をしているのが見えた。あんなにこそこそと渡すくらいだから、秘密の話に決まっている。この屋敷の中で話せないような内容であれば、君を屋敷の外に呼び出すのが普通だ。でも、君は都の地理をまったくわかっていないし、乗合馬車の乗り方すら知らない。王女だってその辺りはわかっているだろうから、迎えを寄越すだろうと考えた」

「でも、わたしが窓から出て行くとは考えなかったの?」

「窓の方は俺が見張っていた。それに、君のことだから窓から出れば目立つと考えるはずだ」

 すべてお見通しというわけか、とブランディーヌは溜息を吐いた。

 どうもギスランには敵わない。

「それで、どこへ行くんだ?」

 ギスランはテオドールを睨み付けた。

「いや、それは、申し上げられない」

 ギスランの鋭い目つきに気圧された様子で、テオドールがおどおどと答えた。

「では、俺も同行する」

「それは駄目だ。私は彼女ひとりを連れてくるようにと命じられて……」

「乗せろ」

 素早く小刀を取り出すと、テオドールの首元に突き付けて脅した。

「ギスラン、あなたそういうことは下手なんだから、小刀なんか振り回すのはやめて」

 顔を顰め、ブランディーヌは忠告した。

「この至近距離であれば、さすがに俺でも仕留め損ねることはない」

「そうではなくて、あなたは急所を外すのが得意だから、斬るのはいいけれども血が出るだけで致命傷にならないし、相手を苦しめるだけの斬り方をするじゃないの」

 ブランディーヌもギスランも、人を斬ったことはある。

 騎士団は国境の警護が主な仕事であるため、関所の警備を定期的に担当する。その際、旅券や身分証を偽装して出入国しようとする者もいないわけではない。大抵の者は罰金を徴収するだけで帰すが、悪質な場合は捕らえて刑に処することもある。捕らえる際に斬り合いになることもあり、ブランディーヌは過去に二人を殺してしまった。

 一方のギスランは、剣で相手を傷つけることは傷つけたが、斬りどころが悪く、致命傷にはならなかった。そのまま捕らえたが、傷の手当てはしなかったので、捕らえられた者は出血多量で失神するまでの間、かなり苦しみ抜くことになった。わざとあのような斬り方をしたのだろうか、と騎士団内ではギスランの加虐趣味疑惑さえ持ち上がったほどだ。

「すぐ殺しては、相手から情報を引き出せない。この男が何者かは知らないが、軽く脅したていどでは素直に吐かないだろうから、軽く傷つけて……」

「一緒に乗って下さって結構ですっ!」

 単なる脅しではないと悟ったのか、テオドールは上擦った声ですぐさま降伏した。

「命を賭けても王女の命令を遂行しようという気は無いのか?」

 呆れた口調でぼやきつつも、ギスランは小刀を鞘に戻し、懐にしまった。

「そこまでの任務じゃないってことでしょう」

 先に馬車に乗り込んだブランディーヌは、固い椅子の上に腰を下ろし、告げる。

「確かに、王女のお遊びに付き合って命を賭けていたのでは、半年もせずに側近が全滅するだろうな」

 王女の忠実な側近になるつもりがないギスランは、飄々と答えた。

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