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午後十時を迎えようとする二分前になって、ブランディーヌはそっと部屋を出た。
足音を立てずに廊下を歩くことは得意だ。この屋敷は廊下にも絨毯を敷いているので、簡単に靴音を消せる。
目立たない焦げ茶色の上着を羽織り、黒いブリーチズを履いて、白い絹のシャツもほとんど襞が付いていない物を選んだ。ギスランから貰った服はどれも派手なので、自前の服だ。まさか王都まで来てこの質素な服を着ることになるとは想像もしなかったが、なにかの折りに着るかもしれないからと荷物に入れておいたのが役に立った。まさかこんなに早く袖を通すことになるとは思わなかったが。
剣は使い慣れた愛用の物を腰に帯びている。
そっと部屋の扉を閉めると、隣の部屋の物音に耳を澄ます。
隣はギスランの部屋だ。
普段は夜遅くまで読書をしている彼だが、今日はダンスの練習でかなりくたびれた様子だった。騎士として剣術や武術などで鍛えているとはいえ、ダンスはまた使う筋肉が違う。夕方になってようやく練習が終わると、床に座り込まないのが精一杯といった感じで、肩で荒い息をしていた。最後にはなんとかギスランも教師から誉めて貰えるていどまで踊れるようにはなったので、詰め込みの練習に成果はあったが、体力は限界に達したようだ。
(あれだけ踊ったんだもの。今頃はギスランも本を広げたまま居眠りをしているわよね)
階段を照明もなしにゆっくりと下りる。壁に取り付けられた燭台には、蝋燭が灯っている部分もあるが、ほとんど暗い。足下も見えないような場所が多いが、一度でも歩いた場所なら手探りでも進むことができるのがブランディーヌの特技だ。
一階の廊下を進み、使用人用の廊下に続く扉を開け、そっと身を滑り込ませる。
使用人たちはまだ起きているのか、地下に続く階段からは明かりが漏れてきている。話し声らしきものも聞こえてきた。明日の準備をしているのか、今日最後の仕事を片付けているところだろう。この屋敷の使用人たちはオクタヴィアンが主だけあって、かなり教育が行き届いている。あまり感情を見せない使用人が多く、執事や従僕、侍女たちにいたるまで、皆が黙々と仕事をしている印象が強い。
ブランディーヌ付きの侍女となったカティアも、寡黙な少女だ。
彼女はブランディーヌが着替えなどを手伝わせないので、部屋の掃除をしたり、洗濯物を持ち出したり、洗い終えた衣類を持って帰ってきたりと、日常の身の回りの世話を細々としてくれるが、あまり話し掛けてくることはない。
ブランディーヌの部屋に置いてある剣は、怖がって近寄らない。
騎士団を出発する際、ブランディーヌは団長から新しい剣を一振り贈られたが、これを暇を見つけては磨いていると、カティアは真っ青な顔をして部屋の隅に飛び退くのだ。
(そういえば、昨日、剣を磨き終えたところでちょっと素振りをしたのがいけなかったのかしら)
部屋は広く天井も高いので、軽く振り回すていどなら家具を傷つけたりすることはない。
伯爵家には武器庫や運動室がないので、ブランディーヌは部屋で素振りをするくらいしかできないのだ。最初は吹き抜けになっている玄関広間でしようとしたのだが、執事がすっ飛んできて止められた。場所を庭に移そうとしたら、こちらも執事に反対された。
オーグ伯爵家は過去に騎士や軍人を輩出したことがない家柄なので、家の中で身体が動かせるような場所がないのだ。
領地内であれば、屋敷の中でも外でも好きなだけ剣を振っていられたのだが、都はなにかと不便だ。
王宮内であれば、護衛隊用の宿舎があり、鍛錬場もある、とギスランが教えてくれた。王宮に上がるまでの数日間は我慢しろということのようだが、剣は毎日握っていないと、腕が鈍る。仕方がないので、狭い部屋の中で剣を振っているのだが、侍女のカティアがその度に悲鳴を上げそうな顔をするので、困った。
そのカティアも、午後九時を過ぎると地下の使用人部屋に戻っていった。
最初、ブランディーヌは二階の部屋の窓から飛び降りようかと考えたが、どこで誰が見ているかもわからないので、止めておくことにした。屋敷の周囲には、背の高い木はほとんどなく、近所から屋敷の様子が丸見えなのだ。一階であれば、鉄柵や庭木があるので、あるていどは姿を隠すことができるが、二階まで隠れるような丈の木はほとんどない。
廊下を通って一階に下り、裏口からこっそりと外へ出た方が賢明であることは、この二日間でブランディーヌも学んだ。
一階の使用人廊下を通り、突き当たりの扉まで辿り着くと、取っ手を掴んで静かに動かす。扉は蝶番が音を立てることもなく、すんなりと開いた。まだ施錠の時刻ではなかったようだ。いつ頃に帰れるかわからないので、念のために部屋の窓の鍵は開けてきた。二階の露台までよじ登るくらいのことは、ブランディーヌには容易い。
裏口を出ると、扉を閉めた。
すぐ目の前には鉄柵があり、小さな門扉がある。こちらもまだ鍵は掛かっていなかった。
使用人たちの門限の時刻は知らないが、これならば真夜中まで鍵を閉められることもなさそうだ。
鉄柵には、野薔薇の蔓が絡んでいる。新月の星明りの下でも、薔薇の蔓の刺が柵を覆っているのがよく見えた。
門扉を潜ってこちらも元通りに閉めると、ブランディーヌはおとなしく相手を待つことにした。




