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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第2章 悪霊

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第9話 ありがとう

 園児の母親が帰ったあと、家の中には静けさが戻った。


 けれど、それは前と同じ静けさではなかった。玄関に残った花の匂い。陽菜が受け取った封筒。何度も頭を下げていた女性の声。そういうものが、部屋の中に薄く残っている。


 陽菜はリビングへ戻り、仏壇の前に座った。


 俺もその横にいた。


 遺影の中の俺は、相変わらず間抜けな顔で笑っている。その写真を見るたび、撮り直しを要求したくなる。陽菜にはきっと、「写真嫌いだった自業自得でしょ」と一秒で切られただろう。


 そんな会話も、もうできない。


「ずるいよね」


 陽菜がぽつりと言った。


 俺は顔を上げる。


「お父さん、みんなに感謝されてる」


 陽菜は遺影を見ていた。怒っているようにも、泣きそうにも見えた。


「英雄なんだって」


 小さく笑う。


 笑えてはいなかった。


「私は、全然嬉しくないのに」


 その言葉は、葬儀の日にも聞いた。けれど今日は少し違った。あの時よりも、陽菜の声には疲れが混じっていた。


「助かった子供がいるのは分かる。良かったとも思う。思わなきゃいけないのも、分かってる」


 陽菜は膝の上で手を握った。


「でも、お父さんに生きててほしかった」


 それでいい。


 俺は思った。


 お前は園児の親じゃない。俺の娘だ。俺が死んで喜べるわけがない。そう思う自分を、そんなに責めなくていい。


 もちろん、届かない。


「感謝されるたびに、私だけ嫌なやつみたいになる」


 陽菜は目を伏せた。


「良かったですねって言われるたびに、全然良くないって思う」


 その気持ちは、たぶん誰にも言えない。


 園児の親たちは悪くない。感謝するのは当然だ。自分の子供が助かったのだから、俺に手を合わせたくなる気持ちも分かる。


 でも、その感謝は陽菜の傷口に触れる。


 俺の死には意味があった。


 そう言われるほど、陽菜にとっては父親を失っただけの現実が、どこかへ押しやられていく。


「最低だよね」


 陽菜は言った。


 俺は何度でも否定したかった。


 違う。


 最低なんかじゃない。


 だが、俺の否定は空気にもならない。


◇


 スマホが鳴った。


 陽菜は一瞬、身体を固くした。佐伯の時の癖が、まだ残っている。画面を見る。知らない番号だった。


 少し迷ってから、陽菜は通話ボタンを押した。


「はい」


 警戒した声だった。


「あの、突然すみません」


 相手は女性だった。震えている声で、何度も謝っている。


「私も事故の日に助かった子の母親です。今日伺われた方とは別なんですけど、連絡先を聞いて……どうしても、お礼を言いたくて」


 陽菜の表情が固まった。


 まただ。


「本当にありがとうございました」


 電話の向こうで、深く頭を下げているのが分かる声だった。


「息子は、阿久津さん……お父様はヒーローだって言うんです」


 ヒーロー。


 その言葉に、俺は目を閉じた。


 違う。


 俺はヒーローなんかじゃない。信号が変わって、少し急いで、たまたまそこにいた。それだけだ。誰かを守ろうとした覚えなんてない。


 でも、電話の向こうの母親には関係ない。


「生きていてくれて、本当に良かった」


 その声を聞きながら、俺は自分の手を見た。


 指を開くと、五本の位置を迷わず感じ取れた。


 もう、気のせいではない。


 陽菜は何とか言葉を返した。


「……いえ」


 それ以上、何も言えなかった。


 電話が終わると、陽菜はスマホを膝の上に置いた。肩が少し震えている。


 五分もしないうちに、また着信があった。


 別の保護者だった。


 次の日には、手紙が届いた。便箋には丁寧な字で、事故の日から何度もお礼を言いたかったと書かれていた。子供が幼稚園に行くたびに、阿久津さんのことを思う、とも書かれていた。


 その翌日には、花が届いた。


 菓子折りも届いた。


 学校経由で預かったという封筒もあった。


 どれも同じだった。


 ありがとうございました。


 助かりました。


 息子が元気です。


 娘が笑っています。


 本当にありがとうございます。


 ありがとう。


 ありがとう。


 ありがとう。


 事故直後には少し意識を逸らすだけで崩れそうだった身体が、言葉を重ねられるたび、まとまりを取り戻した。


 その変化だけは、もう否定できなかった。


 それでも、陽菜を抱き締めることはできない。


 花瓶を動かすことも、手紙を隠すことも、電話を切ることもできない。陽菜が苦しそうに「ありがとうございます」と言うたびに、俺だけがこの場へ強く留められ、陽菜だけが傷ついていく。


 それが、ひどく歪んでいる気がした。


◇


 数日後、陽菜は学校へ行った。


 久しぶりの登校だった。朝、制服に着替えるまでに時間がかかった。玄関で靴を履いたまま、しばらく動けなかった。それでも家を出た。


 俺は後ろをついていった。


 校門に近付くと、何人かの生徒が陽菜を見た。すぐに目を逸らす子もいれば、友達同士で小さく何かを囁く子もいた。


 悪意ではない。


 たぶん、どう接していいか分からないだけだ。父親を事故で亡くした子。しかもその父親が園児を救ったらしい子。そういう肩書きだけが、陽菜より先に歩いている。


 教室に入る前、知らない女子生徒が陽菜に声をかけた。


「阿久津さん」


 陽菜は少し驚いて振り返る。


「お父さんのこと、ニュースで見た。すごいね」


 その子に悪気はなかったと思う。


 むしろ、励まそうとしていたのかもしれない。目は少し潤んでいて、声も優しかった。


「誇りに思っていいと思う」


 陽菜は何も言えなかった。


 しばらくして、小さく頭を下げる。


「……ありがとう」


 その言葉を聞いた瞬間、手首から先にわずかな重みが戻った。


 今度は、嫌だった。


 陽菜が無理に飲み込んだ言葉で、俺だけが形を得る。その構造が気持ち悪かった。


 教室に入った陽菜は、席に着くなり鞄を膝に抱えた。周りの生徒は気遣って、あまり話しかけない。けれどその沈黙さえ、陽菜には刺さっているようだった。


 普通にしてほしい。


 でも、普通にされたら、それはそれで傷つく。


 十五歳の娘が、そんな矛盾の中で小さくなっている。


 俺は教室の壁際に立っていた。


 何もできない。


 その言葉を、何度も使いたくなかった。何度考えても同じだからだ。


 他に言葉がなかった。


◇


 夜、陽菜は仏壇の前に座った。


 テーブルの上には、届いた手紙が数通置かれている。陽菜はそれを読まなかった。封筒の差出人だけを見て、仏壇の横に重ねた。


「お父さん」


 陽菜は遺影に向かって言った。


「みんな、お父さんにありがとうって言う」


 俺は黙っていた。


「私も言わなきゃいけないのかな」


 陽菜は膝を抱えた。


「ありがとうって」


 その言葉は、ひどく幼く聞こえた。


「でも、何にありがとうって言えばいいの」


 陽菜の目に涙が浮かぶ。


「私を一人にしてくれてありがとう、なんて言えないよ」


 俺は動けなかった。


 殺されたような気分だった。


 俺は陽菜を一人にした。したくてしたわけではない。それでも結果は同じだ。俺がいなくなったことで、陽菜は一人になった。


 しかも世間は、それを美談にしている。


 陽菜は涙を拭わなかった。


「お父さんが誰かを助けたのは、たぶん本当なんだよね」


 静かな声だった。


「でも、お父さんは帰ってこない」


 その通りだった。


 誰かの子供が生きている。陽菜の父親は死んだ。二つとも本当で、どちらか片方だけを選んで受け入れることはできない。


「ごめんね」


 陽菜は小さく言った。


「ありがとうって、まだ思えない」


 謝るな。


 俺はそう思った。


 ありがとうなんて言わなくていい。誇りに思わなくていい。英雄の娘になんかならなくていい。


 お前はただ、父親を失った娘でいていい。


 だが、俺はそれを伝えられない。


 その時、陽菜は手紙の束に目を向けた。少し迷って、一通だけ手に取る。封筒を開け、便箋を広げた。


 そこには、幼い子供の字があった。


『あくつさんへ。ぼくをたすけてくれてありがとう』


 陽菜の手が止まった。


 俺も、その字を見ていた。


 たどたどしい平仮名。ところどころ曲がった線。親が横で見ていたのだろう。最後に、小さな車の絵と、笑っている男の絵が描いてあった。


 たぶん俺なのだと思う。


 陽菜の涙が、便箋に落ちた。


「……よかったね」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 子供にか。


 俺にか。


 自分に言い聞かせたのか。


「生きてて、よかったね」


 その言葉で、俺は手を握った。


 指が掌へ食い込む感覚があった。


 陽菜には分からない。誰にも分からない。それでも、どこまでが俺で、どこからが空気なのか、もう迷わなかった。


 このまま、人の言葉で形を得ていくなら。


 俺はこれから、何になる。


 守護霊か。


 神様か。


 違う。


 そんなもののはずがない。


 俺は佐伯を殺した。魂まで消した。そんなものが神であってたまるか。


 だが、それでも陽菜を守れるなら。


 俺は、その力を捨てられない。


 遺影の中の俺は、何も知らない顔で笑っていた。生きていた頃の阿久津亮平が、今の俺を見たら何と言うだろう。


 たぶん、軽蔑する。


 それでも。


 陽菜を守るためなら、その軽蔑も受け入れるしかなかった。

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