第8話 偶然じゃない
佐伯健吾の死は、事故として処理された。
当然だった。
目撃者はいた。防犯カメラもあった。けれど、そこに俺は映っていない。映像に残っていたのは、佐伯が一人で高架歩道を歩き、何かに怯えたように後退り、手すりの向こうへ落ちていく姿だけだった。
誰かに突き落とされた痕跡はない。
争った相手もいない。
酒も飲んでいない。
夜道で足を滑らせた。
警察は、そう判断したらしい。
陽菜にも事情は聞かれた。
佐伯が家へ来たこと。書類を手伝ったこと。最後の夜に手首を掴まれ、部屋へ逃げたこと。
警察は高架の映像と照合した。陽菜は家にいた。映像に第三者は映っていない。佐伯の身体にも、誰かに押されたと断定できる痕跡はなかった。
不自然だった。
だが、立件はできなかった。
佐伯健吾の死は、大きなニュースにもならなかった。世の中には、もっと派手で、もっと分かりやすく恐ろしい事件が毎日起きている。高架から落ちて死んだ一人の男など、社会全体から見れば、その程度の出来事だった。
俺にとっては違った。
葬儀のあとから進んでいた手続きも、その頃ようやく形になった。
父方の叔母が、未成年後見人になった。県外に住み、仕事と家庭がある。口座と保険金を管理し、学校や役所の書類へ署名する。それが叔母にできることの中心だった。月に一度は家へ来ると約束した。
叔母は陽菜を引き取ろうとした。
陽菜は、この家を出たくないと言った。
結局、学校と市の福祉担当者が定期的に様子を確認し、叔母が金と書類を管理することを条件に、陽菜は家へ残った。
書類の上では、一人ではない。
夜の家では、やはり一人だった。
俺は三日間、陽菜のそばを離れなかった。
佐伯を殺した感触が、まだ手に残っている気がした。胸ぐらを掴んだ時の布のしわ。手すりの向こうへ押し出した時の抵抗。落ちていく佐伯の叫び声。
そして、死んだ後の佐伯が俺を掴んだ時の感触。
あの時、佐伯は消えた。
死体は残った。名前も戸籍も残る。事故として処理され、どこかの書類に記録される。
けれど、佐伯健吾自身はもうどこにもいない。
俺が消した。
肉体だけではない。
魂まで消した。
そのことが怖かった。
もっと怖かったのは、後悔していないことだった。
もし佐伯が生きていたら、陽菜はまだ怯えていた。玄関の物音に身体を固くして、スマホが鳴るたびに顔色を変えて、あの男がまた来るかもしれないと思いながら眠ることになっていた。
それが消えた。
俺が消した。
陽菜を怖がらせるものを、この世界から消した。
その事実に、胸の奥が冷える。
冷えているのに、どこかで安堵している。
俺はその安堵が、一番怖かった。
◇
陽菜は学校を休んでいた。
食欲はまだ戻らない。夜もよく眠れていない。朝になると制服を見て動けなくなり、そのままリビングに座り込む日もあった。
佐伯が死んでから、少しだけ変わった。
チャイムが鳴っても、以前ほど肩を震わせなくなった。スマホの通知音に、びくつかなくなった。玄関の鍵を何度も確認する癖も、少しずつ減っている。
本人は気付いていないだろう。
だが俺には分かった。
恐怖が一つ、消えていた。
夕方、陽菜は仏壇の前に座っていた。
最近はよくそこにいる。俺の遺影を見ているようで、本当は何を見ているのか分からない。俺はその横に立っていた。相変わらず、見えない。聞こえない。触れられない。
「お父さん」
呼ばれるたびに、今でも反応してしまう。
「変な話なんだけどさ」
陽菜は遺影を見つめたまま、膝の上で指を組んだ。
「私、助かった気がする」
俺は黙って聞いた。
「佐伯さんが、怖かったんだと思う」
言葉を選ぶように、陽菜はゆっくり話した。
「ずっと親切だったから、気付かなかった。気付かないふりしてたのかもしれない。でも、最後は……すごく怖かった」
陽菜の指に力が入る。
あの夜のことを思い出しているのだろう。手首を掴まれたこと。部屋に逃げ込んだこと。ドアの向こうから、佐伯の声がしたこと。
お父さんはもういないだろ。
俺の中で、その声がまた蘇る。
「なのに、その日に死んだ」
陽菜は小さく息を吐いた。
「変だよね。こんなこと考えるの」
そう言って、遺影を見上げる。
「でも、偶然かな」
俺は動きを止めた。
「本当に、偶然かな」
偶然じゃない。
俺が殺した。
言えるはずもない。言えたとしても、言っていいことではなかった。お前を助けるために殺した。だから安心しろ。そんな言葉で、陽菜が救われるとは思えない。
陽菜はしばらく遺影を見ていた。
「お父さんが、やったのかな」
俺は息を呑んだ。
いる。
俺だ。
俺がやった。
そう言いたかった。
けれど陽菜は、すぐに首を振った。
「ないよね」
小さく笑う。
「お父さんなら、返事してくれるもんね」
違う。
「夢でもいいから、怒りに来るよね」
違う。
「人が死んで良かったなんて思うなって、絶対言うよね」
食卓でそんな話が出れば、俺はきっと眉をしかめた。
どんな相手でも、人の死を喜ぶな。父親ぶって、正しいことを言ったはずだ。
だが今の俺は、佐伯が死んで良かったと思っている。
あいつが生きていてほしいとは、少しも思わない。
「でも」
陽菜の声が震えた。
「助かったんだよ」
涙が一粒、膝の上に落ちる。
「私、本当に助かった」
その言葉で、俺の中に張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。
許されたわけではない。
俺がしたことは、殺人だ。誰かに裁かれなくても、警察に捕まらなくても、それは変わらない。しかも、佐伯の魂まで消した。あいつはもう、どこにもいない。
それでも。
陽菜が助かった。
その事実だけが、俺をその場に立たせていた。
陽菜はしばらく黙ってから、小さく呟いた。
「ごめんなさい」
謝るな、と思った。
人が死んだことに安心してしまう自分を、陽菜は責めているのだろう。佐伯を怖いと思ったこと。死んでほっとしたこと。そんな感情を、悪いものだと思っている。
違う。
悪いのは佐伯だ。
だが、その言葉は届かない。
「もし、誰かが助けてくれたなら」
陽菜は遺影を見たまま言った。
「私、ありがとうって思っちゃう」
その声は、泣きそうだった。
「人が死んだのに」
陽菜は自分の手を見た。
「ありがとうって、思っちゃう」
俺は何も言えなかった。
その感情を、陽菜に持たせたのは俺だ。
俺が佐伯を殺したから、陽菜は助かった。
助かったから、陽菜は安心した。
安心したから、人の死に感謝しそうになっている。
俺は陽菜を守った。
同時に、陽菜の中に、持たなくていい罪悪感を増やした。
◇
その日の夕方、玄関のチャイムが鳴った。
陽菜は少しだけ肩を揺らしたが、前ほど怯えた顔ではなかった。インターホンの画面を確認し、しばらく迷ってから玄関へ向かう。
ドアの外にいたのは、見知らぬ女性だった。
三十代後半くらいだろうか。少し痩せていて、目元が赤い。何度も泣いた後の顔だった。
「突然すみません」
女性は深く頭を下げた。
「私、事故の日に助かった園児の母です」
陽菜が固まった。
俺も、同じように動けなくなった。
「どうしても、お礼が言いたくて」
女性の声は震えていた。
陽菜はすぐに言葉を返せなかった。葬儀の日にも似たようなことはあった。頭を下げられ、感謝され、父親を英雄と呼ばれた。そのたびに、陽菜は傷ついていた。
女性は、悪意なく頭を下げている。
「本当に、ありがとうございました」
その瞬間、俺の身体の奥で何かが灯った。
温かかった。
佐伯と戦った時とは違う。あの時は削れていく感覚だった。相手を壊し、自分も少しずつ削られる感覚。今は違う。散りかけていた身体の内側に、静かに芯が通っていく。
俺は思わず、手を握った。
気のせいかもしれない。
だが、指を曲げる感覚が、今までよりはっきりと返ってきた。
「息子は、まだ何が起こったのかは分かっておりません」
女性は涙を拭った。
「あの日、自分がどれだけ危なかったかは、全然分かっていないと思います。でも、私は分かります。もし、あの車が止めてくれていなかったら」
言葉が途切れる。
陽菜は黙って聞いていた。
「息子は、生きています」
女性はもう一度、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
今度は、その変化を見間違えなかった。
葬儀の日、園児の父親が頭を下げた時。男の子が「ありがとう」と言った時。佐伯と戦った時に感じた、圧倒的な力の差。
それらが、一本の線でつながり始めた。
人の想いが、力になるのか。
感謝が、死者を強くするのか。
証拠はない。だが、他に理由が思いつかなかった。
女性は何度も頭を下げて帰っていった。
ドアが閉まる。
陽菜は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。俺もその隣にいた。
父を返してほしい娘。
子供が助かったことを感謝する母親。
その二人が、同じ事故の前に立っている。
どちらも間違っていない。
だからこそ、陽菜は苦しむ。
◇
陽菜はリビングへ戻り、仏壇の前に座った。
遺影を見つめる。
「お父さん」
小さく呼ぶ。
俺はすぐ隣にいる。
「私、どう思えばいいんだろうね」
陽菜は答えを求めているわけではなかった。答えがないことを、もう分かっている顔だった。
俺にも答えはない。
誰かの子供が生きている。
陽菜の父親は死んだ。
佐伯健吾は死んだ。
陽菜は助かった。
全部、本当だ。
その全部を、きれいな言葉で一つにまとめることなんてできない。
「偶然なのかな」
陽菜はもう一度、そう言った。
佐伯の死。
自分が助かったこと。
園児の母親が来たこと。
そのたびに、俺の中で何かが変わっていくこと。
陽菜には知りようがない。
俺にも、まだ全体は見えていない。
ただ一つだけ、分かったことがある。
佐伯を殺した時の力も。
今、指を曲げた感覚がはっきり返ってきたことも。
偶然じゃない。
俺は死んだだけではなかった。
人を殺しても消えず。
感謝されるたびに強くなり。
それでも、娘の涙には触れられない。
何か別のものになり始めている。
その事実に、陽菜のすぐ隣で、俺は静かに寒気を覚えていた。




