第7話 悪霊
佐伯健吾は逃げるように歩いていた。
本人は、まだ逃げているつもりではなかったと思う。早足で駅へ向かい、何度も後ろを振り返る。スマホを握った手に力が入っていた。通話は切れている。
俺は、その後ろをついていった。
足音はない。息もない。影もない。けれど佐伯は何かを感じていた。街灯の下を通るたびに肩を跳ねさせ、ガラス張りの店の前では、自分の背後を映り込みで確かめていた。
見えてはいない。
でも、気付いている。
俺が近くにいることに。
佐伯は大通りを避け、高架歩道へ上がった。夜の歩道橋は人が少ない。下には複数の線路が走っていて、遠くから電車の音が近付いては離れていく。
風が吹いていた。
佐伯は歩道の途中で立ち止まり、もう一度振り返った。
「誰だよ」
小さな声だった。
俺は答えない。
答えられない。
「誰かいるのか」
佐伯の声は震えていた。さっきまで陽菜の部屋の前で笑っていた男とは別人みたいだった。人を怯えさせる側にいた人間が、今度は自分の番になっている。
俺はその顔を見ていた。
怒りはあった。嫌悪もあった。だが、それより強かったのは、陽菜の泣き声の記憶だった。
ドアの向こうで膝を抱え、声を殺して泣いていた。あの子は、俺がいないことを突きつけられていた。
お父さんはもういない。
佐伯はそう言った。
その通りだった。俺はもういない。抱き締められない。声も届かない。父親として、何一つしてやれない。
でも。
佐伯を止めることだけは、できるかもしれない。
佐伯はまたスマホを耳に当てた。誰かにかけ直そうとしている。指が震えて、画面を何度も押し間違えていた。
「出ろよ……」
その声に、さっきまでの余裕はなかった。
俺は手を伸ばした。
ただ、伸ばした。
肩に触れた。
「っ!?」
佐伯が飛び上がるように振り返った。
俺も固まった。
触れた。
確かに感触があった。布の下にある肉、骨、体温。生きている人間の身体だった。
初めて、世界に触れた。
佐伯は俺を見ていた。
目が合っていた。
「な、なんだ……?」
俺が見えている。
その事実を、佐伯自身も理解できていないらしかった。人間ではないものを見ている。説明できないものに肩を掴まれている。その恐怖だけが、顔に出ていた。
「誰だ、お前」
俺は答えなかった。
答える必要もなかった。
佐伯が一歩下がる。俺も一歩前へ出る。佐伯はさらに下がり、背中を手すりにぶつけた。
「待て」
声が裏返っていた。
「待てって。何なんだよ」
俺は止まらなかった。
「金か? 金なら――」
違う。
「謝る。さっきの子のことなら謝るから」
違う。
「もう近付かない。約束する」
違う。
その約束に何の意味がある。生きていたら、こいつはまたやる。陽菜に近付けなくても、別の誰かを探す。親切な顔をして、弱った人間の穴に入り込む。
俺は佐伯の胸ぐらを掴んだ。
布が握り潰れる感触があった。佐伯の身体が大きく揺れる。
「やめろ」
佐伯が俺の腕を掴んだ。
その手も触れた。
俺はもう世界の外にいなかった。少なくとも、この瞬間だけは。
「やめろ!」
佐伯は必死に抵抗した。腕を振りほどこうとし、足を踏ん張り、俺の指を引き剥がそうとする。だが離れない。
俺は生きていた頃、特別に腕力が強かったわけではない。喧嘩も得意ではなかった。四十二歳の普通の男だった。
それなのに、佐伯はまるで子供みたいに揺さぶられていた。
「助けてくれ!」
佐伯が叫んだ。
「頼む! 誰か!」
その声は、夜の高架に吸い込まれていった。
俺は佐伯の顔を見ていた。
許してほしい人間の顔だった。自分が何をしてきたかではなく、今ここで自分が助かることだけを考えている顔だった。
俺は押した。
佐伯の身体が手すりに乗り上げる。
「やめろ!」
もう一度、押した。
佐伯の足が浮いた。
絶叫。
夜空。
線路。
鈍い音。
それで終わった。
俺は手すりの前に立っていた。
下を見た。
線路脇の暗がりに、佐伯の身体が倒れている。変な向きに曲がっていた。動かない。血が、ゆっくり広がっていく。
俺が殺した。
事故じゃない。偶然でもない。誰かを守るために、とっさに身体が動いたわけでもない。
俺が、自分の意思で押した。
俺が、佐伯健吾を殺した。
その事実を理解した瞬間、震えが来た。呼吸はない。汗もない。心臓も動いていない。それでも確かに震えていた。
その時だった。
線路脇で、何かが起き上がった。
佐伯だった。
倒れた肉体のそばに、半透明の佐伯が立っている。輪郭は揺らいでいたが、間違いなく佐伯健吾だった。
佐伯は自分の死体を見た。血を見た。曲がった身体を見た。
そして、俺を見た。
「お前……」
初めて、本当の意味で目が合った。
「お前が殺した」
俺は答えない。
否定できるはずがなかった。
「お前が殺した!」
佐伯は叫び、俺に向かって飛びかかってきた。
俺は身構えた。
怖かった。
本当に怖かった。
死後のルールなんて何も知らない。佐伯がどういう状態なのかも分からない。もし、霊になった佐伯の方が強かったら。もし俺がここで消されたら。陽菜の近くに戻れなくなったら。
何も分からなかった。
それでも逃げなかった。
佐伯が俺の胸元を掴む。俺も掴み返した。
その瞬間、互いの身体が崩れ始めた。
「なっ……!?」
佐伯が叫んだ。
掴み合った部分から、砂のように削れていく。俺の腕の輪郭が薄くなる。佐伯の肩が崩れる。煙のようなものが夜気に散った。
俺も削れている。
だが佐伯の方が、明らかに早かった。
「なんだよこれ!」
佐伯は逃げようとした。だが俺は離さなかった。離したら、こいつがどこへ行くか分からなかった。霊になって陽菜の前に現れるかもしれない。別の誰かに取り憑くかもしれない。
そんなことを、許せるはずがなかった。
「離せ!」
佐伯の腕が崩れる。
「やめろ!」
肩が消える。
「助けろ!」
胸の輪郭が保てなくなる。
俺の腕も薄くなっていた。痛みはない。だが、自分が削れていることは分かった。それでも、佐伯とは比べ物にならない。
なぜだ。
俺は死んだばかりだ。霊のルールも知らない。何の修行もしていない。神にも仏にも会っていない。
それなのに、佐伯は崩れていく。
顔だけになった佐伯が、最後に叫んだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
その声も途中で千切れた。
佐伯健吾は消えた。
跡形もなく。
死体は下に残っている。だが、さっきまで俺を掴んでいた佐伯は、もうどこにもいなかった。
俺は高架の上に立っていた。
腕は少し薄くなっている。だが、それだけだった。時間が経つにつれ、輪郭はゆっくり戻っていく。
なぜ俺は、こんなに強い。
その時、葬儀の日の男の子の声が浮かんだ。
ありがとう。
頭を下げていた夫婦。涙を流していた保護者たち。英雄です、と俺を呼んだ知らない男。
証拠はない。
けれど他に理由が思いつかなかった。
もし、人の想いが力になるなら。
もし、感謝が死者を強くするなら。
俺はもう、生前の阿久津亮平とは違うものになっているのかもしれない。
俺は人を殺した。
魂まで消した。
ニュースで同じ話を見れば、俺は「人間のすることじゃない」と吐き捨てただろう。今、その人間でないことをしたのは俺だった。
でも、もし同じことがもう一度起きたら。
陽菜に近付くやつが、また現れたら。
俺はたぶん、同じことをする。
迷わずに。
陽菜を守るためなら。
もしそれを悪霊と呼ぶなら。
俺はもう、悪霊なんだろう。




