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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第2章 悪霊

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第7話 悪霊

 佐伯健吾は逃げるように歩いていた。


 本人は、まだ逃げているつもりではなかったと思う。早足で駅へ向かい、何度も後ろを振り返る。スマホを握った手に力が入っていた。通話は切れている。


 俺は、その後ろをついていった。


 足音はない。息もない。影もない。けれど佐伯は何かを感じていた。街灯の下を通るたびに肩を跳ねさせ、ガラス張りの店の前では、自分の背後を映り込みで確かめていた。


 見えてはいない。


 でも、気付いている。


 俺が近くにいることに。


 佐伯は大通りを避け、高架歩道へ上がった。夜の歩道橋は人が少ない。下には複数の線路が走っていて、遠くから電車の音が近付いては離れていく。


 風が吹いていた。


 佐伯は歩道の途中で立ち止まり、もう一度振り返った。


「誰だよ」


 小さな声だった。


 俺は答えない。


 答えられない。


「誰かいるのか」


 佐伯の声は震えていた。さっきまで陽菜の部屋の前で笑っていた男とは別人みたいだった。人を怯えさせる側にいた人間が、今度は自分の番になっている。


 俺はその顔を見ていた。


 怒りはあった。嫌悪もあった。だが、それより強かったのは、陽菜の泣き声の記憶だった。


 ドアの向こうで膝を抱え、声を殺して泣いていた。あの子は、俺がいないことを突きつけられていた。


 お父さんはもういない。


 佐伯はそう言った。


 その通りだった。俺はもういない。抱き締められない。声も届かない。父親として、何一つしてやれない。


 でも。


 佐伯を止めることだけは、できるかもしれない。


 佐伯はまたスマホを耳に当てた。誰かにかけ直そうとしている。指が震えて、画面を何度も押し間違えていた。


「出ろよ……」


 その声に、さっきまでの余裕はなかった。


 俺は手を伸ばした。


 ただ、伸ばした。


 肩に触れた。


「っ!?」


 佐伯が飛び上がるように振り返った。


 俺も固まった。


 触れた。


 確かに感触があった。布の下にある肉、骨、体温。生きている人間の身体だった。


 初めて、世界に触れた。


 佐伯は俺を見ていた。


 目が合っていた。


「な、なんだ……?」


 俺が見えている。


 その事実を、佐伯自身も理解できていないらしかった。人間ではないものを見ている。説明できないものに肩を掴まれている。その恐怖だけが、顔に出ていた。


「誰だ、お前」


 俺は答えなかった。


 答える必要もなかった。


 佐伯が一歩下がる。俺も一歩前へ出る。佐伯はさらに下がり、背中を手すりにぶつけた。


「待て」


 声が裏返っていた。


「待てって。何なんだよ」


 俺は止まらなかった。


「金か? 金なら――」


 違う。


「謝る。さっきの子のことなら謝るから」


 違う。


「もう近付かない。約束する」


 違う。


 その約束に何の意味がある。生きていたら、こいつはまたやる。陽菜に近付けなくても、別の誰かを探す。親切な顔をして、弱った人間の穴に入り込む。


 俺は佐伯の胸ぐらを掴んだ。


 布が握り潰れる感触があった。佐伯の身体が大きく揺れる。


「やめろ」


 佐伯が俺の腕を掴んだ。


 その手も触れた。


 俺はもう世界の外にいなかった。少なくとも、この瞬間だけは。


「やめろ!」


 佐伯は必死に抵抗した。腕を振りほどこうとし、足を踏ん張り、俺の指を引き剥がそうとする。だが離れない。


 俺は生きていた頃、特別に腕力が強かったわけではない。喧嘩も得意ではなかった。四十二歳の普通の男だった。


 それなのに、佐伯はまるで子供みたいに揺さぶられていた。


「助けてくれ!」


 佐伯が叫んだ。


「頼む! 誰か!」


 その声は、夜の高架に吸い込まれていった。


 俺は佐伯の顔を見ていた。


 許してほしい人間の顔だった。自分が何をしてきたかではなく、今ここで自分が助かることだけを考えている顔だった。


 俺は押した。


 佐伯の身体が手すりに乗り上げる。


「やめろ!」


 もう一度、押した。


 佐伯の足が浮いた。


 絶叫。


 夜空。


 線路。


 鈍い音。


 それで終わった。


 俺は手すりの前に立っていた。


 下を見た。


 線路脇の暗がりに、佐伯の身体が倒れている。変な向きに曲がっていた。動かない。血が、ゆっくり広がっていく。


 俺が殺した。


 事故じゃない。偶然でもない。誰かを守るために、とっさに身体が動いたわけでもない。


 俺が、自分の意思で押した。


 俺が、佐伯健吾を殺した。


 その事実を理解した瞬間、震えが来た。呼吸はない。汗もない。心臓も動いていない。それでも確かに震えていた。


 その時だった。


 線路脇で、何かが起き上がった。


 佐伯だった。


 倒れた肉体のそばに、半透明の佐伯が立っている。輪郭は揺らいでいたが、間違いなく佐伯健吾だった。


 佐伯は自分の死体を見た。血を見た。曲がった身体を見た。


 そして、俺を見た。


「お前……」


 初めて、本当の意味で目が合った。


「お前が殺した」


 俺は答えない。


 否定できるはずがなかった。


「お前が殺した!」


 佐伯は叫び、俺に向かって飛びかかってきた。


 俺は身構えた。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 死後のルールなんて何も知らない。佐伯がどういう状態なのかも分からない。もし、霊になった佐伯の方が強かったら。もし俺がここで消されたら。陽菜の近くに戻れなくなったら。


 何も分からなかった。


 それでも逃げなかった。


 佐伯が俺の胸元を掴む。俺も掴み返した。


 その瞬間、互いの身体が崩れ始めた。


「なっ……!?」


 佐伯が叫んだ。


 掴み合った部分から、砂のように削れていく。俺の腕の輪郭が薄くなる。佐伯の肩が崩れる。煙のようなものが夜気に散った。


 俺も削れている。


 だが佐伯の方が、明らかに早かった。


「なんだよこれ!」


 佐伯は逃げようとした。だが俺は離さなかった。離したら、こいつがどこへ行くか分からなかった。霊になって陽菜の前に現れるかもしれない。別の誰かに取り憑くかもしれない。


 そんなことを、許せるはずがなかった。


「離せ!」


 佐伯の腕が崩れる。


「やめろ!」


 肩が消える。


「助けろ!」


 胸の輪郭が保てなくなる。


 俺の腕も薄くなっていた。痛みはない。だが、自分が削れていることは分かった。それでも、佐伯とは比べ物にならない。


 なぜだ。


 俺は死んだばかりだ。霊のルールも知らない。何の修行もしていない。神にも仏にも会っていない。


 それなのに、佐伯は崩れていく。


 顔だけになった佐伯が、最後に叫んだ。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」


 その声も途中で千切れた。


 佐伯健吾は消えた。


 跡形もなく。


 死体は下に残っている。だが、さっきまで俺を掴んでいた佐伯は、もうどこにもいなかった。


 俺は高架の上に立っていた。


 腕は少し薄くなっている。だが、それだけだった。時間が経つにつれ、輪郭はゆっくり戻っていく。


 なぜ俺は、こんなに強い。


 その時、葬儀の日の男の子の声が浮かんだ。


 ありがとう。


 頭を下げていた夫婦。涙を流していた保護者たち。英雄です、と俺を呼んだ知らない男。


 証拠はない。


 けれど他に理由が思いつかなかった。


 もし、人の想いが力になるなら。


 もし、感謝が死者を強くするなら。


 俺はもう、生前の阿久津亮平とは違うものになっているのかもしれない。


 俺は人を殺した。


 魂まで消した。


 ニュースで同じ話を見れば、俺は「人間のすることじゃない」と吐き捨てただろう。今、その人間でないことをしたのは俺だった。


 でも、もし同じことがもう一度起きたら。


 陽菜に近付くやつが、また現れたら。


 俺はたぶん、同じことをする。


 迷わずに。


 陽菜を守るためなら。


 もしそれを悪霊と呼ぶなら。


 俺はもう、悪霊なんだろう。

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