第6話 ドアの向こう
最初の違和感は、小さなものばかりだった。
連絡の頻度。距離感。言葉の選び方。困った時に、ちょうどよく届くメッセージ。
佐伯健吾は、あまりにも都合が良かった。
陽菜が役所の書類で詰まれば、すぐに説明してくれる。保険会社とのやり取りで迷えば、何を確認すればいいか教えてくれる。学校の提出物で困れば、「こういう場合の方法がある」と言う。
親戚より近い。教師より具体的だ。役所より親身に見える。
だから陽菜も、少しずつ頼ってしまった。
それを責めることはできなかった。父親を失って、家に一人で、通帳の場所も保険の内容も分からない十五歳が、親切そうな大人の言葉に縋る。それは弱さではない。
ただ、佐伯はその弱さを見ていた。
助けるためではなく、入り込むために。
◇
その日、佐伯は夕方に家へ来た。
理由は進路希望調査票だった。保護者署名欄をどうするか。今後、未成年後見人の手続きがどうなるか。奨学金や学校面談で、どんな書類が必要になるか。
陽菜には分からないことばかりだった。
俺が生きていれば、たぶん俺も分からなかったと思う。学校へ電話し、役所へ聞き、面倒くさがりながら何とかしたはずだ。そういう面倒を引き受けるのが親だった。
その場所に、今は佐伯が座っている。
リビングのテーブルに書類を広げ、ペンで必要箇所に印をつけていく。説明は分かりやすかった。声も穏やかだった。陽菜は少し緊張しながらも、頷いて聞いている。
「ここは、今すぐ出さなくても大丈夫。学校に事情を伝えれば待ってくれると思う」
「はい」
「こっちは早めに確認した方がいいかな。親戚の方で、連絡が取れる人は?」
「父方の叔母さんは……一応」
「じゃあ、その人に一度相談してみよう」
まともな会話だった。
腹が立つほど、まともだった。
俺はリビングの隅に立っていた。目の前で危険なことが起きているわけではない。佐伯は陽菜に触れてもいない。怒鳴ってもいない。むしろ、助けているように見える。
だからこそ、怖かった。
日が沈み始め、窓の外が薄暗くなる。テーブルの書類が一通り片付くと、佐伯はペンを置いた。
「じゃあ、今日はここまでにするか」
陽菜は明らかに安心した顔をした。
「ありがとうございました」
「気にしなくていい」
佐伯は笑った。
いつもの笑顔だった。親切な大人の顔。頼れる年上の顔。
だが、俺には分かった。
目だけが笑っていなかった。
佐伯は立ち上がり、玄関へ向かった。陽菜も見送りのために立つ。そこで、佐伯がふいに振り返った。
「なあ」
声が変わっていた。
陽菜も気付いた。表情が固まる。
「俺さ、結構頑張ったと思わない?」
「……何がですか」
「全部だよ」
佐伯は一歩、陽菜に近付いた。
「相談乗って、手続き手伝って、学校の話も聞いて。親戚よりよっぽど役に立ってるだろ」
陽菜が後ろへ下がる。
「それは、感謝してます」
「感謝だけ?」
佐伯は笑った。
初めて見る笑い方だった。今までの柔らかい顔が、薄い膜みたいに剥がれていく。
「そろそろ良くない?」
陽菜は言葉を失った。
俺は動いた。
「離れろ」
当然、届かない。
「陽菜から離れろ」
佐伯はさらに近付く。陽菜はテーブルに背中をぶつけた。
「帰ってください」
震える声だった。
「帰ってください」
「なんで?」
佐伯は心底不思議そうに首を傾げた。
「俺しかいないだろ」
その言葉で、陽菜の顔色が変わった。
恐怖だった。
母親を失った時とも、俺の死を知らされた時とも違う。人間そのものへ向ける、もっと生々しい恐怖。
「誰が助けてくれるんだよ」
佐伯は優しい声に戻して言った。
「学校の先生? 親戚? 役所?」
陽菜は答えない。
「みんなその場だけだろ。ちゃんとお前のこと見てるの、俺だけじゃん」
「やめてください」
「やめるって何を?」
佐伯が手を伸ばした。
陽菜の手首を掴む。
「やめて!」
陽菜は反射的に振り払った。椅子が倒れる。書類が床に落ちる。陽菜はそのままリビングを飛び出し、階段を駆け上がった。
二階。
自室。
ドアが閉まる。鍵のかかる音がした。
佐伯は一瞬、立ち尽くした。それから、ゆっくり階段へ向かった。
俺はその前に立った。
意味がないことは分かっていた。それでも立たずにはいられなかった。佐伯の身体は俺の横を、何の抵抗もなく通り抜けていく。
陽菜の部屋の前で、佐伯は足を止めた。
「陽菜」
声はまだ穏やかだった。
「開けろ」
返事はない。
「怖がるなって。俺はお前の味方だろ」
ドン、とドアが鳴った。
陽菜の息を呑む気配が、部屋の中から聞こえた。
「なあ、何でそういう態度取るかな。俺、ずっと助けてきたよな」
ドン。
「手続きも見た。学校のことも聞いた。お前が泣き言言った時も、ちゃんと返した」
ドン。
「それで今さら、帰ってください?」
ドン。
陽菜は部屋の中で床に座り込んでいた。膝を抱え、口元を押さえている。泣いているのに、声を殺していた。声を出したら、ドアの向こうの男がもっと近付いてくると思っているのだろう。
俺はドアの前に立った。佐伯のすぐ横にいる。肩に手を伸ばす。すり抜ける。胸ぐらを掴もうとする。何も掴めない。
事故の日からずっとそうだった。
何もできない。
ただ見ているだけだ。
「陽菜」
佐伯の声が低くなった。
「お前、一人なんだぞ」
部屋の中で、陽菜の身体が震えた。
「お父さんはもういないだろ」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
怒りというより、もっと単純なものだった。考えるより先に、佐伯の顔を潰したいと思った。喉を掴んで黙らせたいと思った。この男が二度と陽菜の名前を呼べないようにしたいと思った。
ドアの蝶番が、かすかに軋んだ。
佐伯が動きを止める。
「……ん?」
俺も止まった。
今、何かが動いた。
俺が触れたわけではない。触れられるはずがない。それでも確かに、空気が重くなった。廊下の電灯が一度だけちらつく。
佐伯は周囲を見た。
「何だよ」
小さく呟く。
俺は佐伯を見ていた。
殺したい。
その感情だけが、異常なほど鮮明だった。
しばらくして、佐伯は舌打ちした。
「……チッ」
ドアを蹴る。
陽菜が小さく悲鳴を飲み込んだ。
「まあいい」
佐伯は静かな声で言った。
「今日は帰る」
陽菜は返事をしない。
「でも考えろよ」
足音が階段へ向かう。
「お前には、俺しかいないだろ」
玄関のドアが閉まった。
鍵がかかっていない。陽菜は部屋から出られないまま、床で泣いている。俺はしばらく動けなかった。
追うべきか。陽菜のそばに残るべきか。
答えは決まっていた。
今、陽菜に寄り添っても、俺には何もできない。声も届かない。肩も抱けない。涙も拭えない。
だが、佐伯には違うかもしれない。
あの瞬間、世界は少しだけ俺に近付いた。
愛では届かなかった。
けれど殺意なら、届くかもしれない。
◇
佐伯は夜道を歩きながら、スマホで誰かと話していた。
「どうだった?」
例の男の声が漏れる。
「もう落ちた」
佐伯は笑った。
「時間の問題」
「泣いてた?」
「ああ。父親死んだばっかだしな」
笑う。
「依存先なんか、俺しかいねえよ」
俺はその後ろに立っていた。
聞いていた。
陽菜の泣き声も、ドアを叩く音も、佐伯の笑い声も、全部。
佐伯が言った。
「お父さんはもういないんだから」
その一言で、俺の中に残っていた何かが完全に冷えた。
法も、倫理も、社会も、警察も、そんなものは遠くなった。
娘に近付くな。
それだけだった。
佐伯がふと足を止める。
振り返った。
俺を見えてはいない。だが、何かを感じた顔だった。
「……誰だ」
声が震えていた。
街灯が明滅する。風もないのに、道路脇の看板が小さく揺れた。佐伯は後ずさる。
「なんだよ」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、佐伯を見ていた。
もう、止めたいとは思っていなかった。
助けたいとも思っていなかった。
俺は初めて、はっきりと願った。
佐伯健吾を、この世界から消したい。




